65 天使様の逡巡 その1
――魔女の呪いで姿を変えられた王子様。
金の髪と青い目を持って生まれて来なければ、きっと何もかもが違っていた。
キースは廊下で立ち止まり、壁に飾られた絵を見上げる。
建国記念に描かれたとされる肖像画を複製したものだ。描かれているのは初代国王と王妃と宰相の三人。ある意味、すべての元凶がここにある。
この絵を自分の屋敷に飾ることが貴族の間で一時大流行したらしい。そのため、どこの屋敷にでも祖先の肖像画と一緒に並んでいる。登記所や議事堂でも見かけるから、公共施設には必ず飾られているものなのかもしれない。近年印刷された複製画が安価に出回っており、レストランや個人商店の店内でも目にすることが増えた。愛国心の表れなのか……商売繁盛のお守りなのかは微妙なところだ。
そんな訳で、王都で暮らす人々は、毎日どこかでこの絵を見ている。
ガルトダット家にあるものは、今ではその名を知らぬものがいない程有名な画家が、真面目に模写したものなのだそうだ。細部まで原画に忠実で非常に出来が良い。
黒い髪にエメラルドグリーンの目をしたふくよかな国王と緑色の目をした王妃は、穏やかで優し気な眼差しをこちらに向けている。まるで自らの子供を見守っているような表情だ。二人から少し離れた場所に、金の髪に青い目をした神経質そうな宰相が控えている。青い瞳は絵の前に立つ者を睨みつけて威嚇している。それこそ親の仇を見るような目だ。
それが彼の役割であり、そして、ヒューゴが目指すべき姿と言うことになる。
……でも、人間向き不向きと言うのはある。
ヒューゴが無理をしているのは誰が見ても明らかだ。周囲から畏怖の念を抱かれるような存在を目指しているらしいが、大迷走して周りに迷惑ばかりかけている。本人も自覚しているから、もう自分でもどうしていいのかわからなくて落ち込むという悪循環……
……ある意味、恐怖を与える存在であると言えなくもない。
本来のヒューゴは、争いごとを好まない繊細で優しい人だ。昨日まで蕾だった庭の花が咲いているのに気付いて嬉しそうに微笑むような少年だった。自分が誰かの手を引いて歩くより、誰かに手を引かれて歩くことを望むような。
――矯正せねばならない。母親はそう考えた。
フェレンドルト家に嫁いで、青い目の子供を生み立派な宰相となるよう育て上げること。それが小さい頃からずっと親に言い聞かされてきた彼女の存在意義だったから。
多分、ヒューゴの母親を追い詰めたのはトマスの存在だったのだと思う。当時のトマスはヒューゴより遥かに勉強がよくできた。没落しているにも関わらず、彼の立ち居振る舞いは子供たちの中でも群を抜いて洗練されていた。
ヒューゴとトマスの差は歴然としていた。それがどうしても……どうしても彼女には我慢ならなかった――
結局のところ、ルークの教え方が上手かったというだけのことだ。トマスも……サボり癖がつく前だったし。
ヒューゴを乗せた馬車は、道が混んでいるとか事故で通行できないとか誤魔化しながら、王都の観光地を巡っているらしい。時間が経てば経つほどヒューゴの精神状態は悪くなっていくような気がするが、ここは心の準備をする時間を与えられたことを素直に感謝すべきなのだろう。
前回リリィお嬢さまが運河を流れた時、慢性的な睡眠不足の上に心配しすぎておかしくなったヒューゴは被害者を怒るという理解不能な行動をとった。今回も彼は睡眠不足の様子だったから、何をしでかすか全く予想もつかない。そもそも、誰を一番心配しているのかもわからない。まず最初に誰に会うつもりなのだろう……
クインの部屋のドアの前には、ダニエルとブレアに手伝ってもらって家具を置いておいた。ヒューゴの部屋の前に毎回置かれるものは成人男性一人でもがんばればなんとか動かせる重さのものだが、今回のは違う。
リリアは用事があれば窓から外に出れば良いので特に不便はないと言っていた。……あの部屋は二階にあるのだがそこを気にしてはいけない。
アレンは探偵の尋問を任された。「美形が真摯に話を聞けば、相手は何かぽろっと口を滑らせるかもしれない」とかなんとかブレアが適当な事を言った。アレンは当然渋ったが、ブレアとダニエルが「お嬢さま方の安全のためです!」と笑顔の圧で押し切った。
今の状態のリリィお嬢さまとヒューゴを会わせるとどんな化学変化が起こるかわからない。まずはお嬢さまの心を落ち着かせておく必要があるのだ。夕食会の後のように喧嘩を始められると大変困る。止められる人間が今はいない。
ブレアは隠れて見守るのがお仕事の人なので、リリィお嬢さまはようやく一人になれて、生き返ったような気持になっている事だろう。ヒューゴと一緒に王都巡りをしてくれている方々の犠牲の上に成り立っている貴重な時間だ。
……本当に大変なお仕事だ。心を落ち着けるお茶を用意せねばなるまい。減りが早いなと、キースは内心ため息をついた。
いざ! と思ってナイフを振り下ろそうとしたら止められた。
いつの間にやら真後ろに立っていた人物に、右手首を結構強い力で握られている。
「一応聞くけど、何をやっているのかな?」
それはどちらかといえばこっちの台詞な気がした。どうしてガルトダット伯爵家の厨房に王子様がいるのだろう。突然現れるのはいつものことではあるけれど。
ちらっと振り返って表情を窺うに……笑顔を浮かべているが、恐らく怒っていらっしゃる。第二王子の背後では、副官のカラムが口元を隠して笑っていた。
やはりフォークを突き刺したジャガイモを左手に持ち、右手に持ったナイフで皮をむこうとするのは良くなかったのだろうか。でも、手でジャガイモを持って皮をむくのは怖かったのだ。
「ジャガイモの皮をむいてみようかなと思い立ちました」
リリィは包み隠さず正直に答えた。
「怪我するからやめなさい」
ため息をつかれ、そのまま右手のナイフを奪い取られる。続いて左手のジャガイモが刺さったフォークもリリィの手から離れた。フォークが刺さったジャガイモとナイフが、調理台の上に並べて置かれた。
「どうしてこんなことをやろうと思ったの?」
アーサーは相変わらず感情の読めない笑顔だ。
「どうして……」
ようやく得られた一人時間なのに何だか小腹が空いて落ち着かず、食べ物をもらおうと厨房に来たのだ。夕食用のスープはすでに完成しており、コックたちはみんなで買い物にでも出かけたのか、誰もいなかった。
さすがに勝手にスープに手をつける気にはなれず、調理台の上にジャガイモが入った籠が置かれていたから、これを何とかすれば食べられるのではないかと……
「因みにジャガイモの皮をむいて、それからどう調理するつもりだったのか聞いても?」
どうする……どうするんだろう。リリィはちょっと考えてみるが何も思い浮かばない。茹でるとか焼くとか?
「……あ、皮をむかなくても丸ごとオーブンに放り込めば良かったんだ!」
オーブンの火は落としてあったが、まだ余熱は残っている。明るくリリィがそう言った途端に、カラムがとうとう声を出して笑い出した。
「……火が通るまでかなり時間かかるからね。誰か呼んで来ようとは思わなかったの?」
「その内誰か戻ってくるかなって……」
口のなかでもごもご言っているリリィを見つめながら、王子様は綺麗なエメラルドグリーンの目を細めた。
「食べ物とナイフで遊ぶのはやめようね」
「……はい」
素直にリリィは頷いた。真面目に考えたんだけどなと、ちらっと思ったがそれは口に出さないでおいた。いい方法だと思ったのに……これなら手を切らないし、怖くないし。
「よくぞここまで深くフォークを刺しましたね。生ですよね、ジャガイモ」
ひとしきり笑ったカラムが手を伸ばしてフォークを目の高さに持ち上げている。先が割れている部分はすべてジャガイモの中だ。なかなか大変だったのだ。
さりげなく右手を握って背中に隠そうとしたが、すぐに手首を掴まれ優しく開かれる。真っ赤になって熱を持っている手のひらを見て、王子様とその副官は呆れ顔になった。
「……固かったんですね」
「……抜けそうなのか?」
ジャガイモを手に持ってフォークを軽く捻って抜こうとしているカラムにアーサーが尋ねる。
「多分切った方がいいですねぇ。無理に抜こうとすると危ないです」
諦めたというように、カラムがジャガイモを下にして調理台の上に戻した。ちゃんと安定する形の芋を選んだので、フォークの柄はまっすぐに天井を指す。何とも言い難い微妙な空気が流れた。
「なるほど、ジャガイモ選ぶところから始めたんですね」
「一体いつからここで遊んでいたんだろうね」
「なんかアレンお兄さまの顔思い出したらイライラして……」
「それでフォーク、生のジャガイモにめり込ませたんですか……」
カラムが可哀想なものを見る目で、リリィとジャガイモを見比べた。
「……私、結構がんばったと思うんですよ」
リリィは王子様に一生懸命訴えた。がんばったのは、勿論ジャガイモにフォークを刺すことではない。
本当に鬱陶しかった。想像していたより何倍も厄介だった。……あ、またイライラしてきた。リリィの顔がだんだん険しくなってゆくのに気付いた第二王子は、嘘くさい笑顔を消した。
「……ごめん。僕が責任取れって言ったせいだね。……よく我慢したね?」
優しく労いの言葉をかけられた途端に、ぽろっと一粒涙が落ちた。
「お腹が空いて悲しくなった訳じゃないよね……。だからね、茨の道だって言ったんだ。君はやっぱりダ……」
「お嬢さま、焼き菓子持って来ましたから、居間に移動しましょう」
カラムがアーサーの言葉を慌てて遮ったが、「ダージャ領に行った方が楽だよ」と続けられる筈だったに違いない。リリィは悲し気な表情を浮かべて、アーサーをまっすぐに見た。
「ダージャ領行くと、ずっと近くにアレンお兄さまいるんですよね? 私無理です」
まだ一週間も経過していないが、もうすでにリリィの精神は疲弊しきっていた。心の底から思うのだ。ルークは一体どういう育て方をしたのかと。
(……面倒くさくて何もやらせなかったんだろうな)
ルークは忙しい人だ。そして何でも自分でやった方が早い。彼はガルトダット伯爵家の子供たちがまっすぐに育つことの方に心血を注いだ。……そして、おざなりにされたアレンがああなった。
だが……恐らく、まずアレンを持て余したアーサーが、ルークに押し付けたところから話は始まっている。それが今度はリリィに押し付けられようとしている。冗談ではない。
「……間に合わなかったか」
ぼそっと第二王子が呟いた。
「でも、どうしても行ってもらわないといけない用事ができたんだよ。アレンから一緒に行こうって言われたよね?」
「行かない」
無理だ。絶対に、無理。ぎゅっと第二王子の袖を握ってふるふると首を横に振る。アーサーは弱り切った顔になった。
「……困ったな。ずっとじゃなくて、一ヶ月弱くらいでいいんだけどな?」
とても優しく微笑まれて顔を覗き込まれる。でも、騙されてはいけない。ここで頷いたら一生押し付けられる。
「無理」
即答して震えながらさらに首を横に振る。
「やめてあげて下さい、お嬢さま可哀想ですよ。ジャガイモここまでするまで追いつめられてるんですから。わかるでしょう? 自分だって経験したんですから」
「わかるよ? わかるんだけど……やっぱり少しでも安全なところにいて欲しいんだよ」
アーサーの表情が微かに愁いを帯びる。
「色々失いすぎましたね……」
重くなりすぎないように配慮した声だった。その言葉の意味が何となく今ならリリィにもわかる。
でも……申し訳ないが希望に沿うことはできない。目に力を込めて王子様を見つめつつ、リリィはもう一度しっかりと首を横に振った。アーサーは目を閉じてため息をつく。
「お嬢さま、このままだと衰弱しますよ。食欲がなくなり、毛が抜けて、部屋の隅から動かなくなります」
……それは人間の話だろうか。
「僕は留守がちだし、環境も一変するし、意地悪な人間もいるし、猛獣もいるし……あんまり構ってあげられないから心配なんだよね。ごはんは、ここよりは豪華かもしれない」
……だから、それは人間の話だろうか。
「……お嬢さまはちゃんとお部屋でお留守番できますね?」
カラムに優しく問われてリリィは頷いた。もうアレンと離れられるなら何でもいい。お留守番をしろと言われるならちゃんとする。
「ひとりになりたい……くらくてせまいところにいきたい……」
リリィは黒い軍服の胸元にまで視線を落としてぼんやりと呟いた。
「……うーん、一人はまだちょっと危ないからなぁ。でもかなりお疲れみたいだから、今度、落ち着いてゆっくり本が読めるところに連れて行ってあげるよ。……絶対にアレンが来ない所」
そう言ってアーサーは思わせぶりに目を眇めた。
「じゃあ、荷物引き取って帰るから。……平気そうで安心した。手、ちゃんと冷やしておくんだよ」
ささくれ立っている気持ちを宥めようとするかのように、優しく頬を撫ぜられる。驚いて顔を上げると額に一瞬だけ唇が触れた。
「君が怖い夢を見ないように。……よく頑張ったね?」
それだけ言って、王子様は踵を返してしまう。力の抜けた指先からするりと袖は逃げてしまった。何が起きたのかわからず立ち尽くしているリリィを一人残してカラムとアーサーは厨房を出てゆく。カラムが一度だけ振り返り、目を細めて楽し気に笑った。
小動物扱いは今に始まったことではないけれど、不意打ちでこういうことをされると心臓が爆発しそうになる。手のひらだけでなく全身が真っ赤に染まったリリィは、両手を口に当てて、声にならない奇声を上げたくなる衝動を必死に抑え込んだ。