63 天使様たちの憂鬱 その5
トマスはキースが淹れた心を落ち着かせる作用のあるお茶を飲んでから、慌しく王宮に向かった。泣き止んだリリアはクインの部屋に戻り、侵入者は縛り上げられ地下室に閉じ込められた。
おばあちゃんとコックは厨房に戻って夕食の野菜スープを作っている。厨房から追い出されたキースと騎士二人とリリィは、使用人ホールでダラダラしていた。テーブルの上には人数分のカップと、キースが第二王子からご褒美にもらった焼き菓子が置かれている。
使用人ホールならキースもダニエルも座ってのんびりお茶を飲むことができる。伯爵令嬢と元王族がここに一緒にいるのはおかしいのだが、他国の元王族が執事をやっているような家なので、細かい事を気にしてはいけない。
「ブレアさん結局何がしたかったんだろ?」
香りの良いお茶を飲みながら、キースはふと心に思い浮かんだ疑問を口にした。
「あの人、しばらくリリィさまとリリアさまの護衛から外れるからさ。代わりにつく俺を試したんだと思う。及第点は取れたと思いたい……」
はぁぁぁっと魂が抜けるような深いため息をついて、ダニエルもカップを口元に運ぶ。
「あとはまぁ、アレンさまがどう行動するかも見ときたかったんじゃないかな。合格点取れたと思う。今までだったら正義感だけで突っ込んでいってたけど、結構冷静だった……もっと早くやれるようになって欲しかった」
「ここは素直に成長を喜ぶ場面」
キースはいつかと同じ台詞を返しながら、次にウォルターが来たら、このお茶がどこで手に入るか聞いておこうと心に決める。香りが良くて飲みやすく、気持ちが落ち着く。あまり値段の高いものでないなら常備しておきたい。
「でもなんとなくさ……リリアさまだったから冷静でいられただけなんじゃないかって思うんだよな」
ダニエルは浮かない表情で視線を動かした。キースの隣に座っているリリィお嬢さまは、テーブルに頬杖をついて、投げやりな様子でぼんやりと宙を眺めている。目の前のお菓子に手をつけようともしていない。向き合う位置にアレンが姿勢よく座っていた。首が痛くなるからここに座れとリリィお嬢さまが場所を指定して命じたからだ。
「大丈夫ですか? やっぱり怖かったのではありませんか?」
その質問は五回目だ。
「これがねー今回も全然怖くなかったのよねー」
その答えも五回目だ。リリィお嬢さまの顔からだんだん生気がなくなっていっている。
「本当ですか?」
アレンが怖いくらい真剣な顔だ。それに対して「うんほんとー」と抑揚ない声で答えた側は……非常に鬱陶しそうだ。『いい加減一人にしてくれ』と顔にはっきり書いてある。
アレンはユラルバルト伯爵家の舞踏会の翌日からリリィお嬢さまにべったりひっついて離れない。護衛としてはきっとこれで正しい。でも彼はとにかくリリィお嬢さまを構いたがるのだ。十五分と黙っていられない。間違いなく愛玩動物を触りすぎて衰弱させるタイプだ。第二王子が鬱陶しがってアレンを遠ざけていた気持ちが改めてよくわかった……アレンはもう少し他人との距離の取り方を学ぶべきだ。
「ねえ、あの人、探偵さんだっけ? 玄関ホールに入った時点でもう足が竦んでいる感じだったの。恐怖で顔が引きつってた。『呪いのガルトダット家へようこそ』辺りで気を失いそうになってたわよ。うちが呪われてるのは社交界では有名だけど、これが国民の共通認識になるのって、どうなのよ?」
キースに向けられた目は、もうアレンの相手するのも限界だから助けろと言っていた。
アレンはリリィお嬢さまを構いたい。でも、リリィお嬢さまはそっとしておいてほしい。
その内アレンの顔も見たくないと言い出しそうな気がする。それはつまり第二王子とアレンの関係なのではなかろうか。
……うん。どちらかが一方的に我慢を強いられるというのは、良くない。
「『ガルトダット伯爵家が、墓守の王族と死神と幽霊連れて来た』って新聞に書かれたのが大きかったですね……」
キースはこちらをお納めくださいとでも言うように、恭しく焼き菓子の皿をリリィお嬢さまの真正面に置いた。ダニエルが非常に気の毒そうな目を向けている。
「改めてすごいわねー。墓守と死神と幽霊って言葉の組み合わせー」
間延びした声でそう言って、のろのろと一口大のメレンゲ菓子を指でつまんで口の中に放り込む。甘いものはきっと疲れた心を癒してくれるはずだ。
「三つ集まったら相乗効果でとんでもないことになりました。これ以上ここの評判って、もう下がりようがないと思ってたんですけど、まだ下があったんですよ、びっくりですね!」
日を追うごとに、ガルトダット伯爵家の呪いはどんどん強力になっていっている。
関わった家は没落し老化は加速し持病は悪化し結婚話は破談になり夫婦仲は冷めきるらしい……
トマスやイザベラを見かけると貴族たちは、蒼白な顔つきで逃げる。もう陰口を叩くような者もいない……呪われたくないから。
……静かでとっても楽。もうずっとこのままでいい。
トマスとイザベラは今の状況が気に入っているらしいから、それが唯一の救いかもしれない。
リリィお嬢さまは自棄になったように甘いメレンゲ菓子を食べている。相当気疲れしているようだ。そろそろ止めようかなとキースが思った所で、アレンがさりげなく皿をダニエルの前に移動させた。一度アレンに恨みがましい目を向けてから、リリィお嬢さまはむくれて頬杖をついた。苛立ちを吐き出すようにため息をつく。
「……うちって大丈夫なの? 何か悪い事が起きたら全部『ガルトダット伯爵家のせい』とか言われるようになるのはちょっとさすがにまずくない? 武器持った民衆が押しかけて来るとかイヤよ私」
そう尋ねる声は重く沈んでいた。最悪の状況を想像している辺り、何もかもが嫌になりつつあるのだろうなと思う。ルークに頼んで、しばらくアレンと引き離してもらった方が良いかもしれない。
「短気な王子様が放置してるんだから、想定内なんでしょうね」
親しい人間は事態を静観しているし、今の所他家に悪い影響は出ていない。しかし、このまま放置すればリリィお嬢さまの懸念が現実となる可能性もあるし、呪いで国家転覆を目論んだなどという話の方にも発展しかねない。慎重に相手の出方を窺いつつ、何らかの手を打つ必要がある。
「……結局、今回のガルトダット家の呪いに関する噂って、うちを標的にしているようで、実はアーサー殿下とキリアルト家を貶めているのよね。第二王子と墓守の王族が、ガルトダット伯爵家の呪いを使って第三王子派の家を潰したと、そういう風に連想させるようになってるんだわ」
その言葉を聞いたダニエルが目を細めた。ガルトダット家の娘たちは温室育ちで世間知らずだが、頭の中が空っぽという訳ではないのだ。
「第三王子は、アーサー殿下とキリアルト家を貶めることによって、ちいさな王女さまの評判を落としたいんです。お二人はリル王女と縁が深いですからね」
「ちいさな王女さまからすると、ルークは孫で……アーサー殿下は姉のフローラ王女の息子だから、甥ってことになるのよね……?」
ちょっと遠い目をしたリリィお嬢さまが、ん? と眉を顰める。
「現国王陛下とフローラ様っていとこ同士の近親婚になりますからね……ややこしいんです。結局全員まとめて親戚って言ってしまえばそれまでなんですけどねー」
キースは手を伸ばしてクッキーを一枚取る。このままいくとどんどん話は重苦しい方向に進むだろう。
「結論から先に言うと、第三王子にとって、故人となっても国民に対して絶大な影響力を持っているリル王女は、非常に厄介な存在なんです。リル王女を海の向こうに追いやったの自分の母親だから」
「……あ!」
リリィお嬢さまが大きく目を見開き、そういうことか! と何度も頷いた。
「あの物語の中には、ちいさな王女さまを無理やり嫁がせた『意地悪なお姫様』が出てきますよね。ちいさな王女さまと護衛騎士を何度も引き裂く一番の嫌われ役。名前は出てきませんけど、その美しいけれど嫉妬深いお姫様が誰なのか、みーんなわかってます」
ダニエルがそう言って、目を伏せてお茶を一口飲んだ。
ちいさな王女さまの嫁ぎ先は、人種差別の激しい……内戦状態の国だった。リル王女は侍女ひとり連れてゆくことすら許されず、貿易船に乗せられて一人で海を渡ったのだ。
――我が国は内戦に一切干渉しない。その証として王女をひとり差し出すというのはいかがですか? 大丈夫。こうしておけば万が一戦争になったとしても我が国はギリギリまで軍を動かさずに済みますわ。ちいさな王女さまは心優しい御方です。自分のために母国に人間が傷つくことを決して望まれないでしょう。
物語の中で苦悩する『王様』にこう進言するのは『意地悪なお姫様』こと、現国王の妃であるルイーザだ。
実際、内戦が周辺諸国を巻き込む戦争となった時、前国王は同盟国の後方支援に徹した。軍部が提案した救出作戦には待ったがかけられ、結局王女さまとその二人の息子は、しびれを切らした元護衛騎士と義勇兵とキリアの貿易商人たちの手で救出されたのだ。
軍人たちの誇りは傷付けられた。軍部はルイーザ妃が大嫌いだ。
ちいさな王女さまの物語は、各方面に気を使った内容となっているので、その場面は特に『意地悪なお姫様』の非情っぷりが際立つよう演出されている。
ちいさな王女さまを救出する許可をと必死に嘆願する軍人たちを前にして、
――あれはもう他国の人間ですよ。おまえたちが命をかける価値などありません。
『意地悪なお姫様』は嘲り笑う。跪いた軍人たちは歯を食いしばり、血が滲むほど拳を握りしめて怒りを堪えるのだ。軍部に対する忖度と、ルイーザ妃に対する悪意が渾然一体となっていると言えよう。
ちいさな王女さまの物語を執筆したのは、リル王女の弟だ。彼は自分がエメラルドグリーンの瞳を持たずに生まれてきたことを嘆きながら、大聖堂で姉の無事をひたすら祈り続けていた。
長年に渡り姉を苦しめたルイーザ妃に対する憎悪を、弟は美しい物語に昇華させたのだと……表向きにはそういうことになっている。だが、キースが人づてに聞いた話では「自分はいい仕事した!」と悪魔のような顔で笑っていたそうだ……憎悪は決して昇華されていなかった。
確かに、物語を読んだ人のほとんどは『意地悪なお姫様』を嫌悪する。そして、それはルイーザ妃に向かう。
「『意地悪なお姫様』とその息子は、ちいさな王女さまがもてはやされ、自分たちが嫌われまくっている現状が相当気に喰わない訳です」
「でもそれって自業自得じゃない? ルイーザさまって黒い噂が耐えない方よね。他の妃全員謀殺し…………ごめん余計なこと言った」
リリィお嬢さまは顔を強張らせ、ちらっとアレンの顔を見て慌てて口をつぐんだ。アレンは大丈夫ですよ、というように淡く微笑む。
アレンの母親であるシンシアは、王妃フローラの護衛をしていた若くて美しい女性兵士だった。彼女が王妃を暗殺者から守って亡くなったことはあまりに有名だ。そして母親の面影を強く残す男子が残された……
嫉妬に狂ったルイーザ妃が差し向けたという噂は当時からあった。……でも何ひとつ証拠は出て来なかったのだ。
そしてその数年後、今度は王宮内でお茶に毒物が混入されるという事件が起きる。妃たちが集まったお茶会で、毒入りのお茶を飲んだ者の中で助かったのはひとり。
一命は取り留めたが視力をほとんど失ったルイーザ妃は、現在離宮で軟禁状態にある。公の場に姿を現すことはない。
三年間もの長きに渡って国王は喪服に身を包んでいた。王妃と二人の妃が亡くなったためだ。当然ルイーザ妃を疑う声が上がったが、やはり証拠となるようなものは何一つとして見つからなかった。
ルイーザ妃はまさしく、美しいが嫉妬深い『意地悪なお姫様』だ。自分が世界の中心でなければ気が済まない。今は、国母となることを熱望しているという。
だが、国民は彼女が大嫌い。
「リリィさまが第三王子なら、この現状どう打破しますか?」
気まずい雰囲気を変えようと、ダニエルが明るい声で尋ねた。
「……醜聞をばら撒いて、ちいさな王女さまのイメージを悪い方に持ってゆくわね」
その答えを聞いたダニエルが満足げに頷く。
「『意地悪なお姫様』が取った手段はまさにそれでした。物語が出版された直後に、『リル王女と護衛騎士は昔から愛人関係にあった』とか『リル王女が嫁いだ後も頻繁に会っていた』とか、まぁ色々でっち上げて噂を流したんです。でも、これは全く広まらなかった。イザベラさまと同年代から上の方々って、現役の騎士だったライリーさまに憧れて追いかけ回していた世代ですからね。娘時代の憧れの人を汚されるのは我慢ならなかったみたいなんですよね……。それからしばらくは大人しかったらしいです。この物語は一時的な流行で終わると思っていたのでしょう」
目を閉じて深く考え込む表情になったリリィお嬢さまが、何かに気付いてふっと目を上げた。
「でも、物語は消えるどころかどんどん広がって行った。このままでは息子の王位継承争いに影響が出る。ルイーザ妃は何とかしなければならないと焦ったでしょうね。……そういう流れがあって、ガルトダット伯爵家の愛人騒動が大げさに騒ぎ立てられた訳ね」
「そういうことです。愛人囲った話なんて社交界では珍しくも何ともない。確かにこちらの先代も脇が甘かったですけどね。向こうにとって計算外だったのは、ガルトダット伯爵が公衆の面前で事故死したことでしょう。誰が見てもあれは事故だった。あの愛人騒動でガルトダット伯爵家は没落しましたが、リルド侯爵やリル王女さまの名前に致命的な傷をつけることはできなかった」
リリィお嬢さまの顔色が悪くなる。相手が何を目論んでいたのか薄々気付いたのだ。
「リルド侯爵が不肖の息子を始末した。あちらはそう社交界にばら撒く準備を進めていました……この話はやめましょう。すでに終わった事です」
全員が黙り込み、心を落ち着けるお茶に手を伸ばす。すでにだいぶ冷めていた。
「リリィさまのおっしゃった通り、ちいさな王女さまの物語の方は、一時の流行では終わらず山を越え海を越え世界中に広がり続け、いつの間にやら『意地悪なお姫様』は世界中の嫌われ者です。『意地悪なお姫様』の息子である病弱な王子様も、はっきり言って一番人気がない。例え王位を勝ち取っても苦労するでしょう」
それまで黙っていたアレンが重い口を開いた。
「では、リリィさま、第三王子が国民の人気を得るためにはどうしたらいいと思いますか?」
「ちいさな王女さまの評判を落として物語の価値を失わせる」
リリィお嬢さまはカップを置きながら、半分瞼を閉じた。
「もっと簡単な方法があるんですよ。物語を逆に利用するんです。ちいさな王女さまを彷彿とさせる女性を傍らに置いておけばいい」
意味がわからないというように首を傾げたリリィお嬢さまから目を逸らし、アレンは窓の外を睨みつけた。そこに憎むべき誰かがいるとでもいうように。
「フェリシティがちいさな王女さまの遺志を受け継ぐ存在だと、ユラルバルト伯爵家は社交界でさかんに宣伝していました。そして、彼女の傍らには第三王子が物語の護衛騎士のように寄りそ……」
「いやそれ無理があるから」
リリィお嬢さまがきっぱりと強い口調で遮った。