62 天使様たちの憂鬱 その4
リリィとお嬢さまとリリアと捕らえた男全員まとめてブレアに押し付けて、キースは急いで厨房に向かう。洗い場の窓からダニエルとアレンが厳しい表情で裏の畑を監視していた。
コックとキッチンメイドのおばあちゃんたちには、使用人ホールに避難してもらっている。厨房には他に誰もいない。
「あっち片付いたけど、どんな感じ? できれば畑は荒らされたくないんだけど。野菜スープまでなくなったら明日から生きていけない」
「それはわかってる。ただ、裏の畑ぐちゃぐちゃにされないようにしようとすると、近くまでおびき寄せないといけない。三人いるからばらばらに動かれるとちょっと面倒だなと」
ガルトダット家の敷地はいかなる侵入者も拒む背の高い鉄柵でぐるりと取り囲まれている。
数週間前、ナトンによって鉄柵の一部が数本外れるように細工された。今回の侵入者たちはそれを利用して敷地内に入り込んできている。
彼らは『グレイス』を取り返すために伯爵家に忍び込んだ訳ではない。探偵はあくまで囮だ。彼らが手に入れたいのは、ガルトダット家の双子の娘……できれば長女の方。
「……なんでこんな無謀なことしようと思うかな」
「第三王子に命令されたのだろうね。失敗続きでもう後がない。命じられたらやるしかないんだろう」
少し離れた場所で油断なく外の様子に目を配りながら、アレンが静かな声で答える。
洗い場の窓から見える野菜畑の奥には、かなり古い時代に造られた石積みの塀が左右に伸びていた。二メートルくらいの高さが残っている場所もあるが、そこかしこで中途半端に崩れ落ち、半分の高さもない場所が大半だ。崩れた石が放置されていて足元が悪い上に、いつ崩落するかわからないため、絶対に近寄るなと伯爵家の子供たちは小さい頃から固く言い聞かせられていた。さすがにリリアも石塀には登らない。
崩れかけた石塀と奥の鉄柵の間には、人ひとりが余裕で通行できるくらいの隙間がある。そこに侵入者が三人潜んでいる。彼らの姿は外の道路からは姿は丸見えだろうが、草むしりでもしていれば通行人の目などいくらでも誤魔化せる。
「……準備もろくにできていない誘拐が成功する訳がない。俺たちは第三王子から不用品の後始末を押し付けられてるんだよ。『不法侵入及』び『伯爵令嬢誘拐未遂』及び『誘拐教唆』でユラルバルト伯爵家の関係者全員捕まえて牢にぶち込んで下さいと、そういうこと」
あー本当に気分悪い。と、ダニエルは眉間に皺を寄せて吐き捨てる。任務中は『私』と言っているのに『俺』になっているし、言葉遣いもかなり乱れている。穏やかな性格の彼がここまで怒りを露わにするのは大変珍しい。アレンも驚いた顔をしている。
「野薔薇のお姫様とユラルバルト伯爵家は、偽の結婚許可書を議会で承認させることができなかった時点で切り捨てられることが決まっていたんだと思う。リリィさまを運河に流したのは、アーサー殿下を挑発して、邪魔になったユラルバルト家を潰させるためだ。何もかもが計画通りに動いて、第三王子は笑いが止まらないってところか」
ふざけるな。そう口の中で低く掠れた声で言い放ち、ダニエルは怒りに輝く目で裏の畑を睨みつけた。握りしめた拳が震えている。
ダニエルはきっと……私邸にいるエミリーやジェシカのために怒っている。彼女たちの心を深く傷つけた者たちに対して激しい憤りを覚えているのだ。
「私、囮になりましょうか?」
背後から聞こえた可愛らしい声に、全員肩を震わせて恐る恐るといった感じで振り返る。
「……なんでついて来るんだよ。大人しくリリィお嬢さまの所に戻れ」
「ここでお互いに様子を探り合っているくらいなら、こちらから仕掛けた方が早くないですか?」
あっけらかんとそう言った妹を、信じられないものを見る目でキースは見つめた。
リリアはこうやってすぐに増長するのだ。確かにさっきは上手くいった。相手はまさか伯爵令嬢がいきなり蹴ってくるとは思わないだろうし、ドレスの裾が長いため足元の動きが見えなかったからだ。
第二王子はリリアに『殴る』よりは『蹴る』のを勧めたらしいが、それはあくまで社交の場を想定したからだろう。拳を振り上げるよりはドレスに隠れている足で蹴る方が当然目立たない。靴の固い部分を膝下か脛に当てることができれば、一瞬息を飲む程度には相手は痛い。その隙に振り切って逃げろということなのだ。
しかし、足を上げた時にバランスを崩したら蹴る以前に倒れてしまうし、蹴った反動で足を怪我したら身動きが取れなくなる。とりあえず蹴っとけ! という考え方は非常に危険だ。数回上手くいったからといって調子に乗れば絶対に痛い目にあう。
一度ヒューゴ蹴らせれば、満足してしばらく大人しくなるかな。
そんな考えが一瞬キースの頭をよぎった。でもそれをやったらやったで面倒なことになりそうだ。
「さっきのブレアさんの言葉覚えてるよな?」
でも、そのブレアがリリアをけしかけたに違いない。……本当に妹をどうしたいんだあの人。
「ちゃんと聞いてましたよ。安全な場所にいるなら大丈夫ですよね?」
「絶対やめて下さい。本当にお願いだからやめて下さい。リリアさまに何かあったらなんて考えたくもないっ」
先程怒りで我を忘れかけていたダニエルが、焦った顔で必死に懇願している。
「でも、あの人たち、今回は偵察だけで逃げ帰るかもしれませんよね。……私だってものすごく腹が立っているのです。エミリーさまたちは私にとっても大切なお友達です。絶対に許せない」
そう言ってリリアはまっすぐにダニエルの目を見据える。そこに込められた意思の強さにダニエルはたじろいだような表情になった。リリアは棚の上に置いてあった収穫用の籠を手に持つと、引き出しから園芸鋏を取り出して籠の中に入れる。
「近寄ったりはしません。危なくなったらすぐに逃げます」
そう言い残して何の躊躇いもなく裏口からさっさと外に出て行った。あまりに自然すぎて止める間もなかった。
アレンが慌てて追いかけようとするのを、ダニエルが腕を掴んで阻止した。
「……しばらく様子を見るしかないです。あくまで生け捕りが目的でしょうから、いきなり切りつけてくるようなことはない」
二人がすぐに飛び出せるように、リリアはわざと大きくドアを開け放ったまま出て行った。アレンがドアの陰に立ち、ダニエルが洗い場の窓から外の様子を監視する。
リリアはダンスのステップを踏むような足取りで楽しげに畑に入ってゆくと、一番手前のラディッシュが植えてある辺りで立ち止まった。全員が固唾を飲んで見守る中、スカートの裾が汚れるのも気にせずしゃがみ込む。
ドレスを着た伯爵令嬢が畑にしゃがみ込んでいる。……普通に考えて色々おかしい。
しばらくすると庭木の陰から人相の悪い男が姿を現した。服装は最下層の平民というところだろうか。汚れたシャツとズボンに、かぎ裂きだらけのベストを身に着けている。男はリリアに気付かれないように気配を殺しながら、少しずつ少しずつ畑に近付いて行こうとしている。
キースの心臓が嫌な音を立てた。耳の中で鼓動が聞こえ始める。
リリアはふと顔を上げてゆっくりと立ち上がる。汚れたスカートの裾を大きく振ってから風が吹いて来る方角を確かめるようにごく自然に視線を動かし……侵入者に気付くと大きく目を見開いて、すぐににっこり笑って優雅に一礼した。
予想外の反応に、男が驚愕の表情を浮かべて立ち止まる。
「お友達の方ですか? 園丁から聞いています。少しお待ち下さいね、今呼んでまいりますから」
リリアは人懐っこい笑顔を浮かべた。この世に自分に危害を加える人間がいるなどとは思いもしないとでもいうように。
「あ……ああ、園丁は友達なんだよ。約束の時間よりちょっと早く来すぎたかなぁ」
男は上ずった声でそう答えながら、媚びるような笑みを浮かべた。警戒しながらも一応話を合わせることにしたようだ。
「やはり、そうなのですね!」
その途端リリアは胸の前で両手を組んで満面の笑みを浮かべる。見知らぬ男性を興味津々といった感じで眺める様子など、まさに箱入り娘。世間から切り離された場所で大切に大切に育てられた、無邪気で無防備なお姫様そのものだ。
「他の方は遅れていらっしゃるのですか? カードゲームをなさるお約束なのですよね? 皆様お揃いなったら、わたくしがご案内いたしましょうか?」
リリアは弾むような声で、男にそう提案した。男はしばらく考えるような素振りを見せたが、突然口元を歪ませて背後を振り返った。
「……おい、お嬢さまに案内してもらえるらしいぞ」
男が背後の植え込みに声をかける。そこから同じように汚れた服を着た男二人が姿を現した。リリアは驚愕の表情を浮かべて数歩下がった。にやついていた侵入者の男たちの顔つきが厳しいものに変わる。リリアが逃げると思ったのだろう。
「……びっくりしました。みなさまお揃いだったのですね」
そう言って胸に手を当ててリリアは大きく息をついてみせた。男達があからさまに安堵の表情を浮かべる。……でも恐らく、これで彼らはリリアを完全に信じ切った。不自然な点など何ひとつない。リリアは世間知らずのお嬢さまを見事に演じ切っている。
「ではご案内いたしますね。こちらへどうぞ。畑に入ると靴が汚れてしまいますから、そちらから回っていただけますか?」
そう言って、リリアは自分の右手側を手で示した。男たちをぎりぎりまでおびき寄せるつもりだ。
動悸が激しくなる。頭がガンガンしてきた。我知らず外に飛び出そうとしたらしい。ダニエルが肩を掴んで引き戻し、懇願するような目をして首を横に振る。
キースは目を外に向けたまま壁に背中を凭れかけさせた。口の中がカラカラに干上がっている。多分今自分は酷い顔をしている。不安で気持ち悪くて吐きそうだ。
侵入者たちの目がぎらついている。自ら罠にかかった獲物を、どう料理してやろうかというように。……あの男たちを、今すぐこの世から消し去りたい。
リリアと男達の距離は直線距離で三メートルくらいだろうか。畑には草丈の高い野菜や、支柱などの障害物がある。獲物は逃げ出さないと楽観視した彼らは、言われるままに畑を迂回し始めた。リリアは上手く立ち回っている。男たちは油断しきっている……
そして……とうとう畑の中と外で侵入者とリリアは向かい合った。
もういい。逃げろ! そう叫び出しそうになる口を両手で塞ぐ。アレンが歯を食いしばって顔を顰めている。下手に動けばかえってリリアが危ない。
早く、早く終わってくれ。ただその言葉だけを祈るように繰り返す。胃がねじれるような感覚にしゃがみ込みたくなる。
「では参りましょうか」
リリアはその場に籠を置いたままにこやかに男たちに歩み寄る。あと一歩で男達の手が届くというギリギリの位置で彼女はふいに立ち止まると、両手に握っていた畑の土を男たちの顔めがけて投げつけた。「うわっ」という声。気持ちが緩み切っていた侵入者たちはまともに土を顔に被る。
彼らが顔を背けた隙にリリアは踵を返して逃走する。
すでにアレンとダニエルは駆け出していた。土が目に入り悲鳴をあげている男をアレンが殴り飛ばし、騎士二人に気付いて逃げ出した男達の足に向かってダニエルがナイフを投げる、ナイフは太ももを掠め、一人の男が派手に地面に倒れ込んだ。最後の一人は、石垣まで辿り着いたが、乗り越えようと足をかけた途端に崩れ落ちた石塀に巻き込まれるようにして、地面に尻餅をつく。……その顔に影がかかった。
駆け寄って来たリリアを抱き留めて、キースは安堵あまりその場に崩れ落ちそうになった。
……心配で、戻って来てくれたのだ。
石垣の陰から姿を現したトマスは、汚いものを見るような目で男を見下ろす。ドカッという音と共に苦悶の声が上がった。トマスが表情一つ変えることなく男の鳩尾を蹴り上げたのだ。
「ちょ……ちょっとトマスさま。やりすぎです。リリアさま見てますから」
慌てて駆け寄ったダニエルが、機械的に足を動かし続けるトマスを男から引き離す。
リリアという言葉に反応したトマスははっと顔を上げて、大きく周囲を見渡し、裏口の前でキースに抱きしめられているリリアと目が合った瞬間に走り出した。
「畑は進入禁止!」
最短距離でこちらに向かって来ようとしているトマスに向かってキースは叫ぶ。言われるままに畑を迂回して走って来たトマスは、無言のままキースごとリリアを腕にかき抱いた。泣いているかのような荒い呼吸音が聞こえてくる。
ガタガタと震えているトマスにきつく抱きしめられ、キースも今更ながらに足が震えがきた。鼻の奥がツンとして視界が滲むから、慌てて瞬きで涙を散らす。
もう本当に……こういうのはやめてほしい。二度とやらないでほしい。生きた心地がしなかった。それはトマスも同じだったろう。
安全な場所にいる。近寄らないと言ったのはどこのどいつだ。本当にいい加減にしろ! そう叫びたいのに言葉にならない。口を開いたらきっと泣いてしまう。
「……ごめんなさい。調子に乗りました」
さすがにリリアも猛省した様子で小さく呟いた。
「……誰の代わりでもないし……誰も代わりにはなれない。……怖い事や、イヤな事や、辛い事を、リリィの分まで引き受ける必要はないんだ。二人とも同じくらい怖がりなんだからっ」
リリアの頭に額を乗せて、途切れ途切れにトマスは言葉を吐き出す。血を吐くような苦し気な声がキースの胸にも突き刺さった。同じように妹の心に届いて欲しいと心の底から願う。
リリアは無意識に自分をリリィお嬢さまより下に置こうとする。今回だって、万が一にもリリィお嬢さまに危害が加えられることのないように、自分を生贄に差し出そうとしたようなものだ。
リリアはしばらく黙って俯いていたが、躊躇いがちにトマスのフロックコートの前立てを握った。
「…………こわかった」
幼い声でそう言って、ひくっとしゃくり上げる。コートが皺になるくらい握りしめてぽろぽろと泣き出した妹を見た瞬間に、キースの中で何かが決壊した。
「当たり前だっ。俺だってトマスさまだってものすごく怖かったんだよっ。ダニエルだってアレンさまだってそうだ。本当に、本当におまえはいい加減にしろっ」
リリアと同じようにトマスのフロックコートの前立てを握りしめ、絶対泣くものかとキースは固く目を瞑った。