60 天使様たちの憂鬱 その2
遅くなってしまって大変申し訳ございません。
目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのかわからなくてクインは混乱した。上手く息ができなくて慌てて視線を彷徨わせる。苦しくて寝返りを打つと、ボタンの瞳と目が合った。……ベスだ。
――まだ大丈夫。
とくんと心臓が鳴った。とくんとくん……規則正しい音が耳の中で聞こえ始める。やがて呼吸が楽にできるようになる。
ここは現実が入って来られない切り離された場所だ。天使様たちがクインを守ってくれている。怖い人たちは誰も入って来られない……
自身に言い聞かせてから、リリアに教えてもらったように肘と左手で体を支え、ゆっくりと体を起こして室内を見渡した。
明るい窓辺でリリアが刺繍をしている。イザベラはベッド脇のテーブルで手紙を書いていた。二人はクインが体を起こしたことに気付くとすぐに手を止めて微笑みかけてくれる。それが嬉しくて泣きたくなった。
「ああ、目が覚めたのね。ちょっと待って、今片付けるわ」
「ご気分はいかがですか? すぐに飲み物をご用意いたしますね」
刺繍道具も書きかけの手紙もあっという間に片付けられてしまう。二人とも途中だった筈なのにクインのために何のためらいもなく……
ボロボロと自然に涙が零れ落ちた。リリアが慌てて駆け寄って来る。
「どこか痛みますか? 大丈夫ですか?」
クインは両手で顔を覆って首を横に振った。きちんと自分の気持ちを伝えなければならないのに、まだうまく言葉にできない。一生懸命顔を上げて笑おうとするのにうまく笑顔を作れない。嬉しくて悲しくて感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
何よりも誰よりも優先されている。一度すべてを失って『物』として扱われたからわかるのだ。目が合った時に微笑んでもらえるということは、決して当たり前の事ではないのだと。
「……うれしい……です」
それだけ言うのが今は精一杯だ。ここで泣くのは違うとわかっている。でも、感情を制御できない。
「わたくしたちも、クインがうれしいとうれしいわ」
ベッドの端に腰をかけたイザベラが手を伸ばしてクインの頭を撫ぜる。リリアはクインをブランケットでふんわりと包み込んだ。
「お水を持ってまいりますね。……あ、ベスが寒そうですよ?」
ベッドから落ちそうな位置でうつぶせになっていたベスをリリアが拾い上げて手渡してくれる。寒がりで寂しがり屋だと言った声を思い出しながら、クインはベスをブランケットの中に招き入れてお腹の上に座らせた。
イザベラとリリアがちいさな子供のようにクインを甘やかしてくれるから、クインは自分の年齢がわからなくなってしまっていた。『グレイス』は十六歳だったけれど……ぬいぐるみを抱えて座っているクインは一体何歳なのだろう。柔らかい布でリリアに顔を丁寧に拭いてもらいながら、ぼんやりとそんな事を考える。
背もたれのクッションに体を預け、リリアが用意してくれた水を飲んでいると、ドアの外が何やら騒がしくなった。
「何かあったのかしらね」
「そろそろトマスさま出掛けないと、間に合いませんよね」
イザベラとリリアが顔を見合わせる。リリアがドアに歩み寄り、ドアを半分程開けて廊下の様子を確認した。
「ほら行きますよトマスさま、いい加減ちゃんとして下さい。ヒューゴさまだって、拗ねてぶつぶつ言いながらもちゃんと朝から仕事行ったんですから」
聞こえてきたのはキースの声だ、少し怒っているようだ。
「お兄さま情けないことやってないで自分で歩いてっ」
次に聞こえて来たのは苛立ったリリィの声。
「いやだ行きたくない僕もリリィみたいに引きこもる」
そう返したトマスの声も明らかに不機嫌そうだ。クインは思わずビクッと肩を震わせて、手の中のコップを強く握りしめてしまう。
――言い争う声は……怖い。
不安が伝わったのか、イザベラがベッドに上がってクインに体を寄せると、そっと肩を抱きしめて腕や背中をさすってくれた。
「いくらなんでも、私、今のお兄さまと同じにされたくないわよっ」
「先の事を考えるのやめて、まず今日の予定こなして下さいねー」
「今日の予定がいや。来週の予定はもっといや。何もかもがいや」
「逃げるともっと面倒なことになりますって。はいはい、行きたくない気持ちはよくわかりますよー。でもお仕事ですからねー」
おざなりにそう返事をしているキースの声が近付いてくる。リリアは小さくため息をつくと、完全にドアを開け放ってベッドの近くまで戻ってきた。怯えた様子のクインに気遣わしそうな目を向ける。
「喧嘩をしている訳ではないのです。実際に見て頂いた方が安心できると思います。これからもこういうことはあると思うので……」
「そう、ね。実際に見てしまえば、『なんだこんなことか』って思うわね……」
イザベラは青ざめたクインの顔を覗き込んで、「大丈夫よ。わたくしが一緒にいるから怖い事は何も起らないわ」と微笑んだ。
そうだ。……ここにはクインを傷付けるひとは誰もいない。まだ少し不安はあるが、自分にそう言い聞かせてクインは小さく頷いた。
「アレンだってお休みしてるじゃないかっ」
「私は屋敷内の警護を任されています。休みではなく任務中です」
諭すようなアレンの声だけが昨日と変わらず穏やかだ。
「……あ、ドア開いたってことはクイン起きてるんだ。……おはようクイン! 調子はどう? これから私たちトマスお兄さま馬車に詰め込むの」
たたっと駆け寄ってくる音と共に、リリィが顔を覗かせた。明るい笑顔に目が惹きつけられる。怒っているのかと思っていたのだが、全くそんな感じではない。クインはほっと安堵の息をついた。
「……あ、みんなイライラしてて声が怖かったわよね。びっくりさせてしまって本当にごめんなさい」
イザベラに寄り添われているクインの顔色が良くないことに気付いたリリィは、一瞬にして申し訳なさそうな顔になる。
……そうか、自分はびっくりしたのか。
リリィの言葉でそう納得すると、クインは何があんなに怖かったのかわからなくなった。
「えっと、はい。ちょっと……びっくり、しました。でも、もう、だいじょ……う……」
言葉の途中でクインは茫然と目を見開く。リリィの背後に現れた残りの三人が……思いがけない姿だったからだ。
フロックコートを着たトマスを、キースとアレン二人がかりで持ち上げて運んでいる。トマスの姿勢は丁度ベットで体を起こして座っているクインと全く同じだ。
足を持っているキースが立ち止まって「おはようございます」と笑顔で丁寧に挨拶し、背中から上半身を抱え上げているアレンも感じ良く微笑んで目礼した。
……これはどういう状況なのだろう。トマスは怪我でもしたのだろうか。
「おはよう……ございます」
意味がよくわからないながらも、クインは一生懸命声を出して挨拶を返した。
「おはようクイン。……あのね、お兄さまもお外に出たくない。でもみんなが仕事に行けと言う……ひどいよね」
少し低い位置からトマスが悲しそうな声でそう訴えかけてきた。
「え……えっと……」
クインは何と答えて良いのかわからず周囲に助けを求める。しかし、リリアは兄というよりは不審者を見るような眼差しをトマスに向けているし、イザベラは頭痛がしたのか、かたく目を閉じてこめかみを押さえている。
「お仕事ですから行きましょうね。……それしか存在価値ないですから」
クインに挨拶した時の笑顔を保ったままキースが言い放った。
「その台詞、君のお友達がアレンに対してよく言ってたよね。結構ひどいよね」
二人がかりで持ち上げられているトマスが暗い目をしてぼそっと呟く。
「逆の立場になると、そう言いたくもなる気持ちがよくわかりました……次に会った時には謝罪しようと思っています」
アレンは全身から哀愁を漂わせ始めた。胸の前で曲げたトマスの腕を、脇から入れた手で掴むようにして上半身を持ち上げている。きっと怪我人もこうやって搬送するのだ。しかし、トマスが怪我をしているような様子はない。……外に行きたくないとごねているトマスを、馬車に乗せるためにみんなで無理矢理運んでいるのだ。
「アレンお兄さま過去の自分を悔いるのは後にして。急いで馬車に放り込みましょう。もう時間がないわっ」
リリィが焦ったように捲し立てた。足を前にしてキースとアレンが再びトマスを運び始める。
「トマス……おにいさま……いって……らっしゃいませ……」
何か言わなければと思い、クインは思いついた言葉を口にした。するとぱあっと嬉しそうにトマスは笑ってくれたのだ。
「……うん、クインありがとね。お兄さまクインのためならがんばれそう」
しみじみと幸せを嚙みしめるような声を返しながら、トマスはあいている手を小さく振った。アレンが一瞬苛立ちを顔に出す。多分……重いのだと思う。
「あ……の、え……えっと」
行ってらっしゃいと言っただけで、『がんばれそう』と言ってもらえたのだ。ならば、もっと沢山の言葉をかければ、自力で歩こうと思ってもらえるかもしれない。クインは一生懸命言葉を探す。このままだとキースとアレンはトマスを抱えて階段をおりなければならない。それはかなりの重労働になる。
「トマス……おにいさま……あ、あの……ごじぶんで、あるかれた、ほうが……あの……」
「クインさまありがとうございます。そのお気持ちだけで充分うれしいです。……でも、優しい言葉をかけても、トマスさま付け上がるだけで、自力では絶対歩きません。残念ながらそういう人なんです」
クインの位置からはすでに、足を持っているキースの姿は見えない。クインはどういう顔をしていいのかわからないままトマスを見送った。
「クイン、元気になったら一緒にピアノの練習しましょうね。だから、今は何も考えずにゆっくり休んでね。……今見たことは全部忘れていいからね!」
リリィが晴れ渡った青空のような笑顔で手を振って……ゆっくりとドアは閉められた。
「急ぎましょう。馬が待ちくたびれているわよっ」
「あーもー、一人いないだけで、何もかもが回らないー」
「あーほんと行きたくないー」
「アレンお兄さま、途中でトマスお兄さまが逃げ出さないように、一緒に馬車乗って行って!」
「さりげなく私も一緒に追い出そうとしてますよねっ」
ドア越しに聞こえてくる声がどんどん遠ざかってゆく。全員またイライラし始めているが……理由が納得できるため、もう怖くない。
あの状態で階段をおりるのだろうか。大丈夫なのだろうか……
クインは落ち着かない気持ちになって思わずリリアとイザベラを見上げた。
「気にしないで下さいクインさま。ここではよくある光景です」
「……そうね、昔から当たり前のように持ち運ばれているわね」
イザベラは何故かじっーとリリアを見た。
「ええっと、ですね、昔はアレンさまがあんな……というかもうちょっと雑な感じで床を引きずられて馬車に詰め込まれていましたね!」
リリアは何かを誤魔化そうとするかのように、慌てた様子でそう言った。
クインは首を傾げた。どうしてそんな事になるのだろう。クインから見たアレンは、優しくて礼儀正しい男性だ。少し困った所があるようなことをキースは言っていたけれど、それと床を引きずられていたことには何か因果関係があるのだろうか。
……アレンが床を引きずられている姿がクインにはどうしても想像できない。
「アレンさまは、ちょーっとだらしない所があるんです。最近随分しっかりしてきたのですが……」
リリアがほろ苦い笑みを浮かべ、「太りやすい体質なので、ちょっと気を抜くと大変なことになってしまうんですよね」と付け加えた。
……そう言われても、クインにはだらしのないアレンも、ふっくらとしたアレンも全く想像できない。
リリアが手を差し出すから、クインは体温であたためられたコップを手渡した。頭の中が混乱していてうまく考えがまとまらない。
「……そうですよね、びっくりしましたよね。心を落ち着かせるために一度お休みになりますか?」
リリアが同情的な目をクインに向けた。
「騒がしかったから疲れたわよね……怖くはなかったわよね?」
イザベラの言葉にクインが素直に頷いた時だ。
「だから重いんだってっ。ふざけんなーっ! もう一人でどこへなりとも行ってしまえーっ」
どんっという重たい物が落ちる音と共に、キースの怒声が館内に響き渡る。しばらくすると、開け放たれた窓から誰かが庭を走り去ってゆく音が聞こえてきた。
怒鳴り声を聞いてもクインはもう怖くなかった。……やはり重かったのだ。
「……納屋に逃げましたね。トマスさま怪我してないと良いんですけど。ちょっと様子見てきます」
リリアが渋々といった感じで部屋を出て行った。
大切にされている。言葉だけでなく仕草や態度でとてもわかりやすく示してもらっている。
だからきっと、クインはここで安心して眠ることができるのだろう。
「脈を取るよ」
うとうとしているとウォルターの声が聞こえてきた。薄く目を開けて見た世界は薄暗くぼんやりとしている。眠って起きて軽く食事をしてまた眠るというのを繰り返しているから、時間の感覚があまりない。今は夜なのだろうか……
「いいよ、そのままで。……眠れるなら眠った方がいい」
包み込むような優しい声だった。心細くて泣いている幼い子供を慰めるような。その言葉が体をふわりと包み込んで、安心感をもたらしてくれる。
多分、少し似ているのだ……記憶にある父の声に。
そう思った途端に反射的に唇から言葉が零れ落ちていた。
「ごめん……なさい」
自分だけ逃げてごめんなさい。老夫婦に何かあったらどうしたらいいのだろう。一気に呼吸が苦しくなる。
その時、ふわりととてもいい匂いがした。スズランのようなスミレのような。その香りがクインの意識を一瞬にして惹きつけて、心を縛り付けようとした暗い闇を払いのけた。
「もうすこしだけ、忘れていようか……今は眠る時間だから」
落ち着き払った声で告げられた『今は眠る時間だから』という言葉が、魔法のようにクインの気持ちを落ち着かせた。懐かしいような香りが、浮かび上がって来た恐怖と悲しみを再び心の奥底に沈めてしまう。体から余計な力が抜けてゆく。
「いい……におい……です」
「そうだね。十年くらい前に流行した香水なんだ。君の幼い頃の記憶に繋がっているかもしれない」
だからどこか覚えがあるような気がするのだろうか。誰が纏っていたのだろう。母だろうか祖母だろうか。だんだん意識がぼんやりとしてゆく。どうしても声の主の顔が見たいと思うのに瞼が重くなる。手首に触れる指先を感じながらまた眠りに落ちてゆく。
「大丈夫、天使様たちはきっと君の願いを叶えてくれる。……だから、もう少しだけ彼等に時間を与えてやってほしい」
もうたくさんの願いを叶えてもらったと、そう言いたいのに、言葉にならない――
久々に、アップデートが終わらなくて何もできないという状態に陥りました……