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6 「がんばって会いにおいで」 その2


「転覆してしまえばよかったのに、つまらないこと」


 大通りに馬車を停めて、運河を見下ろしている。波に翻弄される木の葉のような小舟に、救命ボートがゆっくりと慎重に近づいてゆくのが見えた。ああ本当につまらないなと彼女は思う。命を奪うまでのつもりはなかったけれど、あまりにあっさり片が付いてしまった。


「あなたが気に入らないのはもう一人の方の筈だが?」


 彼女の向かい側に座るエメラルドグリーンの目をした男は、とても楽し気な様子で、救出されているお姫様を見つめている。非常にわかりやすい見た目の王族の男だ。まさに現国王の複製品といった風貌である。


「百合の名前を持つお姫様は、まだ使い道があるので、手を出さないでくれ」


「あら、お気に召しませんか? ちょっとした余興ですのよ? これで始末できるとは思っておりません。ふふふっ……お姫様が、溺れて死んでしまったかもしれないのに、随分楽しそうですこと?」


「命を握っているというのは、とても気分が良いものだ。ちいさな舟で流されるお姫様。ここで見ていると、指で弾いて船をひっくり返せそうだな。可哀想に。きっと溺れる姿も可哀想だったろう。確かに少し残念だ」


 愉悦に浸りながら馬車の窓ガラスを指で弾く。小舟をひっくり返そうとでもいうように、何度も……何度も。手袋を嵌めているからくぐもった音がする。機嫌良さげな男を一瞥して、女は嘲るように笑った。自分も大概だが、この男も歪んでいる。


「自らの手を使ってしまったら、意味がございません。仕掛けが正確に動いて結果を出すから、時間を支配できたような満足感があるのですよ? 結果だけを待てばよいのです」


「そこは同意できない。最後に見る姿が誰なのか思い知らせたいのだよ。時間を支配したいのなら……永遠に止めてしまえばいい。体は必要ない」


 ちいさな王女さまと同じ名前だというだけで、こんな厄介な男に目をつけられてしまったお姫様。

 ――『体はいらない』それが彼の口癖だ。


「おかわいそうですわね」


 あのお姫様はこれからきっと何もかも滅茶苦茶にされてしまう。……ああおかしい。レースを幾重にも重ねて顔を覆い隠しているベールの下で微笑む。

 素顔は晒さない。決して自分は美しくない。でも、絶世の美女であると相手に思い込ませるのは得意だ。声の美しさには自信がある。不必要な部分は隠せばいいのだ。相手は勝手に都合よく自分の理想を当て嵌めるのだから。


「……私は、心は要りませんわね」


 うっとりと彼女は呟く。ようやく見つけた理想の姿をした男性。でも彼は彼女の求める性格とは真逆の人だ。だから心は必要ない。どうやって壊そうか。


「あの方の大事なお姫様を、ちいさな王女さまと同じようにして差し上げたら、きっと私の理想に近付いて下さいますわね」


 王族の男が声を上げて笑う。人を食ったような、非常に不愉快な笑い声だ。これだから女は短絡的で知恵がないとでも言わんばかりの顔。父親を彷彿とさせて不快極まりない。「女は黙っていろ」二言目にはそれだった。あの男のせいで、母と自分がどれ程肩身の狭い思いをさせられたか。胃の辺りが冷たくなる。

 女の纏う気配が変わったことに気付いたのだろう。男はますます面白そうな顔つきになった。本当に性格が悪い。


「……最後に見るのが彼の姿だというのも案外幸せかもしれないぞ?」


 お姫様は無事に救助された。この先には軍が使っている船着き場がある。ボートの速度に合わせ、馬車がゆっくりと動き出す。


「今日はこちらにアーサー殿下がいらっしゃっているのですよ? 何でも押収品が大量に運ばれてくるとかで。残念ながら教会には届けられませんでしたね? その分私に回して下されば、今頃私はあなたのお望み通り、彼とキリアで幸せに暮らしておりましたのに、ねぇ?」


 男の顔からすべての表情が抜け落ちる。彼は非常にわかりやすい。これで第二王子と張り合おうというのだから、自分を知らないとは愚かなことだ。でも、この男に言わせれば、こちらは、世間知らずの自惚れた女。お互いがお互いを軽蔑し合っている。それを隠そうともしない。


「あちらは、あの積み荷の三倍以上の金をばら撒いた」


「……初耳ですわね」


「後からわかったことだ。数年がかりで継続的に。つまり最初から勝負になっていなかった。こちらは余計な出費をさせられただけ。向こうはあなたよりずっと上手だった訳だ」


「知恵が回る男は好きではありませんわね。でもまぁ。思考力を奪うなど簡単なことです」


 船着き場では第一連隊の騎士たちが走り回っている。王子様に抱きかかえられた小さなお姫様の姿が見える。 


「……早く消えて下さればよろしいのに」


 第二王子は嫌いだ。あのエメラルドグリーンの瞳がガラス玉のようになる様を見てみたいと心の底から願う。

 そうしたら部屋の隅に飾っておくのもいいかもしれない。





「……グレイスって誰でしょう?」


 運び込まれた箱馬車の中でリリィが放った第一声はそれだった。もうそれ以外の言葉が思い浮かばなかった。


「……誰だろう?」


 リリィと向かい合うように、アーサーが座っている。

 

「何があったか話せる?」


 促されたので、リリィは記憶を遡ってみる。何かが起きたというなら……ロバートの店の前からだろうか。


「……えっと、ロバートのお店に行ったら、強盗に入られてました。お店の前で御者のおじいちゃんとお話してたら、知らない人に馬車を乗っ取られてしまいました。馬車が停止したら、ものすごく弱そうな男の人が入って来て、メイジーに『グレイス、結婚しよう』って言いました……」


 確かそんな感じだった。うまく順序立てて話せているのかあまり自信がない。アーサーを見ると、大丈夫だよというように微笑んでくれる。


「……うん。ちゃん話せてるよ。そのまま続けられるかな?」


 リリィは頷いて、再び口を開く。


「その人が、馬車から引きずりおろされたら、今度はルークと同じ軍服を着た人が入ってきて『グレイス迎えに来たよ』て言いました。その騎士の人に抱えられて運河に降りて……小舟に乗せられたんです。そうしたら、その人運河に落ちました。そのまま舟で流れてたら、さっきの人が拾ってくれました……グレイスって誰でしょう?」


 アーサーはリリィの目をまっすぐに見つめながら、始終穏やかな表情で話を聞いている。リリィはまるで夢の話をしているような気分だ。


「あんまり怖い目にはあってないのですが……何が起きたのか私にもよくわかりません……」


 実際、茫然としている間にすべては進んで行ったので、恐怖感を抱く余裕はなかったのだ。リリィの思考は『グレイスって誰?』で、止まっていた。


「……ねぇ、リリィ。隣に座ってもいい?」


 リリィは何のためらいもなく頷く。第二王子は立ち上がってリリィの横に座る。目を合わせようとすると、リリィは体ごと少し横を向くことになる。船が揺れた時に水が入ったのだろう。リリィのドレスのスカートは濡れていて、アーサーの軍服の膝の部分を濡らしてしまっている。


「殿下、服が濡れてしまいます……」


「気にしなくて大丈夫。両手、出して?」


 素直にリリィは両手を差し出す。アーサーはそっとリリィの両手を握る。注意深くリリィの様子を確認しながら。


「リリィは僕のこと、好き?」


 リリィは当然のように頷く。アーサーのことは好きだ。こうしてちゃんとリリィの話を聞いてくれる。彼と話していると、とても安心する。


 アーサーの顔つきが厳しいものになる。リリィはその表情の意味がわからなくて首を傾げる。


「……困ったことになっているね。そういう性格なのかな。どうしようか」


 ぽつりと彼はそんなことを言う。リリィはぱちぱちと目を瞬かせる。


「……まぁ、ルークが来るのを待てば良いんだけどねぇ」


 そうか、もうすぐルークが来る。アーサーが呼んでくれたから。ほっと安堵してリリィは小さく微笑んだ。


「……そこではちゃんと笑えるんだね」


 不意に手を離される。びっくりして目を上げる。アーサーは両手をリリィの頬に当てて、思いきり摘まんで引っ張る。痛い。……ひどい。


「いたいです」


 リリィの目に涙が浮かぶ。


「……引っ張ってるから痛いよね。隠さないで、ここでちゃんと泣いておきなさい。……怖かったね?」


 優しくそう尋ねられた瞬間に、心臓がどきんと鳴った。指先からだんだん寒くなる。あれ? とリリィは思った。心臓が嫌な感じで走り出す。自然と涙が目に溢れる。足ががたがたと震え始めた。濡れたドレスの冷たさに気付く。


「何が怖かったか教えてくれる?」


「……うん」


 優しく促されて、リリィは大きく頷いた。ぽろぽろと涙が零れ始める。


「……一人で船に乗ってる時が一番怖かった。目の前で人が落ちて、舟がすごく揺れて……私、泳げないのに……」


 ぎゅっと両手で拳を作る。震える膝を押さえようとするのに、どうしても足の震えは止まらない。


「ひとりぼっちで、誰もいなくて。このまま転覆しても、誰も助けてくれないんだって思ったらっ、本当に、怖かっ……」


 それ以上はもう言葉にならない。リリィの頬から手を離して、アーサーは膝に置かれたリリィの手に触れる。大きな手が小さな拳をそっと包み込んで、優しく指を広げさせる。再びつながれる手。手袋越しなのにとても温かいものが流れ込んでくる。


「もう大丈夫だからね。怖いことはおしまい。もうすぐルークが迎えに来るから、みんなでおうちにお帰り? 後でソフィーにお菓子を届けさせる。今日は早めに休むこと。いいね?」


 涙に濡れる目を覗き込んで、アーサーが優しく語りかけてくれる。もう大丈夫。そう言われて強張っていた体から力が抜けた。


「もうだいじょうぶ? もうこわくない?」


 縋るような目をして尋ねる。


「うん。もう怖いことはおしまい。……ここまでよくがんばりました。ちゃんと会いに来てくれたね?」


 怖いことがたくさんあったけれど。大好きな王子様には会えた。だから怖い事ばかりではなかったのだとリリィは気がついた。そう思うと気持ちが少し楽になった。


「……うん」


「僕は、君に会えてとても嬉しい」


 リリィの王子様はそう言って笑ってくれるから、リリィも嬉しい。泣きながらでもちゃんと笑顔を浮かべたリリィを見て、アーサーはようやくほっとした顔をした。


「………………と、いう訳で、荷物全部下ろせたのかな君たち?」


 第二王子が開け放たれた馬車の扉の向こうに向かって言った。リリィはきょとんとして扉の方を見る。


「……訓練増やして欲しいの? 着衣で運河泳いでみる?」


 アーサーがそう言った途端、大勢が一斉に足り去る気配がした。


「……何? 僕ってそんなに信用ない訳?」


「……どうせ何もないので、安心して覗けるんですよ。手を出したら犯罪です」


 馬車の扉の前まで来た男性がおかしそうにそう言った。背の高い、暗い緑色の瞳をした男だ。年はルークやアレンより上だろう。馬車に座っているリリィより視線が上になる。少し怖い。びくっと体を固くしたリリィに気付いたアーサーは片手を離して、再び頬に触れる。


「……リリィ、何かして欲しいことある?」


 指先が先程摘まんだ場所を優しく撫ぜる。手袋が涙を吸って色が変わる。涙が止まるほど驚いた。


「純情なお嬢さん弄んでないで、喪に服しましょう」


 男がアーサーに呆れた目を向ける。その言葉で思い出した。アーサーが黒い服を着ているのは妃を亡くしたからだ。


「……あの、この度はお妃さまが」


「実在すらしてなかったので、気にしなくて大丈夫ですよ、お嬢さま。この方には側室もいません。大事なことなので最初に言っておきますね。現在寂しい独り身です。忙しすぎて恋人もいません。だから、安心して下さい」


 リリィの言葉を、馬車の外にいる男が遮った。その声はとても優しい。

 びっくりしてリリィは目を瞬いた。


「何故あっさり教えてしまうのだろう?」


 面白くもなさそうな顔をして、第二王子は男性を振り返る。


「この先、色んな人間から、あることないこと吹き込まれることになります。つまらない事で悩んだら可哀想じゃないですか。ああ、そうですねぇ、真面目にお付き合いされた人数は……」


 にっこり笑ってから、男は何かを思い出そうとするかのようにわざとらしく天を仰いで、指を折り始める。ひとり、ふたり、さんにん……


「運河泳ぎたい?」


 アーサーが一際低い声で脅すように言うと、彼はぱっと指を広げた。


「まぁ……この人こう見えて三十歳超えてますからね。しかも王子様ですからね。それなりには? でも今は誰も。そこは副官の私が保証します」


 男はリリィに向かってにっこりと笑いかける。敵意は感じられない。リリィは少し安心する。


「あのねぇ……」


「……若く見えてても中年男性です。お嬢さまにはどう考えたってアレンさまの方がお似合いですよ?」


 何故そこでアレンが出てくるのだろうかと思ったが、そういえば彼はリリィの婚約者だった。……忘れていた。でも彼にはフられているから、ここでお似合いだと言われても、もうどうにもならない。

 それに、リリィが今必死になって追いかけているのは、目の前の王子様だ。そして、その王子様はリリィよりずっと大人の男性で、リリィは恋愛対象であるかどうかも疑わしい。


「……私ではダメでしょうか?」


 リリィは再び目を潤ませて、アーサーを見上げた。


「やっぱりもっと出るところが出て引っ込むところが引っ込んでないとダメですか? 貴婦人としてもまだまだなのはわかってるんです。でもリリアに負けないようにがんばります。もう少し大人になるまで待ってくれますか?」


 第二王子が大きく目を見開いて固まった。


「純粋な気持ちを利用しましたね。最低ですね」


 男は第二王子に向かって真顔でそう言った。


「今、弄んでるのは確実に君だよね」


 アーサーが力なく笑って言い返す。


「お嬢さま、本当に良いんですか? この人何考えてるかわかりませんよ。騙されてますよ?」


「……騙されててもいいです」


 リリィは自嘲するように、寂し気に笑った。そんなこと最初からリリィはわかっている。彼の気持ちが自分に向いていない事なんて、話していればわかるし、都合よくリリィを操ろうとしているのも知っている。

 でも……それでも、この人が向けてくれる優しさはいつも本物だ。


「本っ当に最低ですね」


 心の底から軽蔑するという目で、男は第二王子を見る。すっと目を逸らしたアーサーを見て、おや? という顔をして「……ああ、さすがに罪悪感はあるんですね」と呟いた。そして、彼は満面の笑顔をリリィに向けた。


「お嬢さま、大丈夫ですよ。結構いい線いってます。やっぱりこういうひねくれた相手には、素直に力業が一番ですね。このまま迫っていけば、来年までには確実に落ちます。倫理の問題は時間が解決します……あと三年くらいか?」


「……君、本当に運河泳ぐ?」


「……私でも大丈夫ですか?」


 まだ少し怖いので、恐る恐るといった感じでリリィはその男性の顔を見る。彼は大丈夫ですよとにこやかに頷いてくれた。


「妹のソフィーも私も応援しますからね」


「……あ」


 ソフィーの名前を聞いた途端に、緊張感が抜けたリリィが嬉しそうにふわりと笑った。強く手を引かれて驚いて第二王子に向き直ると、彼は感情の見えない不思議な笑顔を浮かべていた。


「……僕の気持ち弄んで楽しい?」


「……弄ばれてくれるんですか? 好きになってくれますか?」


 勢い込んでリリィが尋ねると、第二王子は目を伏せて、深いため息をついた。


「その台詞、絶対に他の男に言ってはダメだよ。……さて、そろそろルークが着くころだ。アイザックのせいで変な空気になったし、外で待とうか」


「なんだおしまいですか。……ああ、キリアルトならもう着いてますよ。でも、お二人が何かいい感じだったので、お嬢さまのお連れの方探しに行ってもらいました」


「……どうして今まで黙ってたのかな?」


 さすがにイラっとした様子でアーサーが尋ねた。


「大変面白かったもので。いい年した男が若い女の子と手を繋いでる様が」

 

 悪びれる様子もなく、男は目を細めて笑った。明朗な性格はソフィーに似ている。


「大丈夫です。()()()()()()みれば、アレンさまよりお似合いです。でも中身は違うので、せいぜい葛藤して下さい、大変面白いので」

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