58 墓守の元王族 その2
成長するにつれ、リリアは木や屋根にはのぼらなくなったが、今度は一人で屋敷を抜け出すようになった。その原因を作ったのは『いつまでも小さな子供の頃のようなことをされては困ります』というルークの言葉だった訳だが。……確かに子供はひとりでは外出しない
リリアの『だったらこうすればいいんでしょう?』的な不貞腐れ方は、一体誰に似たのだろう。
偽物の自分を演じるのに疲れてくると、リリアは使用人のふりをして、ふらっと一人で出掛けてしまう。気晴らしも必要だろうからと今までは目を瞑っていたが、こういう状況になればそうも言っていられない。
「墓守の元王族を表に引きずり出したいなら、ガルトダット家の双子のどちらかを人質に取ればいい。……現に私はユラルバルトの舞踏会に参加させられました。あの場にいた人間には、あれがどちらなのか自信をもって答えられる者は誰もいない筈ですが」
リリアは顔を顰めながら背中の下敷きになっている腕を抜こうともぞもぞと動かしている。本気で抵抗するつもりなら自由な足を動かすだろうから、誤魔化しているだけだ。いつもこうやって都合の悪いことを聞き流す。
「腕が痛いです」
「痛くないはずです」
その辺りは加減している。早く終わらせたい。『雷避け』という言葉がどんどん現実味を帯びてきている。手のひらの下の鼓動はだいぶ落ち着いてきていた。信頼されているのはわかるが、全く嬉しくない。どうして危害を加えている自分の方が追い詰められたような気持になるのかわからない。
「一人で外出しないでほしいというのは、もうずっとずっと前からお願いしていますよね」
人間は空を飛べないし、こうやって体格差のある相手に力で押さえつけられたり、複数人に取り囲まれたら抵抗できない。……それこそ二十四時間そばにいて守ってやれればいいけれど、それも現状難しい。
腕が抜けない事に焦れたリリアが、眉間に皺を寄せて大きく肩を捩る。ルークは今リリアに拘束から抜け出す練習をさせている訳ではない。……本当にどうしてくれようか。
ルークの纏う雰囲気が一変したことに気付いたリリアが、はっと顔を上げて、ちらっとルークを見上げ降参しますというように全身の力を抜いた。
それは天性の感覚なのだろう。彼女は人の感情の動きを察するのが上手い。他人の感情を自分のものにできるから、自分以外の誰かになりきることができる。
「ルークさまが一緒に行ってくれるならひとりで行かない」
ふいっと目を逸らして拗ねたように言う。だからそれは無理だと今さっき説明した。
「ダニエルが一緒に行きます」
「ルークさまじゃなきゃいやです」
「では、外に出ないで下さい」
自分でも驚くほど冷たい声が出る。……これは良くないなとは思う。こうやって感情的になるといつも失敗する。冷静にならなければと思うが、他の人間に対しては容易いのに、リリアに対する時はうまくいかない。彼女だけがルークの心をいつもぐちゃぐちゃに引っ掻き回す。普段忘れている怒りや憎しみや悲しみといったものを、彼女は言葉ひとつでいとも簡単に引きずり出すのだ。
「どうしてそんなに一人で外に出たいんですか。しかもどうやって毎回見つからないように外に出るんですか」
春先にレナードと会っていたなどという報告は受けていない。つまりリリアは誰にも気づかれずに外出していたことになる。それかレナードが誰にも気づかれずに屋敷内に侵入していたかのどちらかだ。実は鉄柵の土台に人ひとりくぐれる穴があるとか、柵の一部が外れるとか、こちらが把握していない抜け道があるのかもしれない。
「そんなことしてないもん」
そう言いながらリリアが痛みに顔を顰めている。ルークは無意識に押さえつけていた左手の力を抜く。どう考えてもこちらが不利だ。リリアはルークが自分を絶対に傷付けないと無防備に信じ切っているし、ルークがその信頼を裏切ることができないとわかっている。
「クインさまの安全のためです。ちゃんと本当のことをお話しして下さい。外に出るなと命令している訳ではないんです。ダニエルと一緒なら気晴らしに散歩に行くくらいなら構いません」
その途端リリアの顔が泣きそうに歪んだ。
「ルークさまじゃなきゃいやですっ」
深く傷付いたような顔で彼女は真っ向から睨みつけてくる。大きな瞳から涙が溢れて零れ落ちた。
……一瞬にして頭が冷えた。
何をやっているのだろうなと思う。そんな言葉を言わせたい訳ではないのに。
一緒に外を散歩することもできない。舞踏会で一緒に踊りたいという願いを叶えてやることもできない。……ずっと閉じ込めている。どうしたって、こちらの分が悪い。
いつも二人の見ている場所は少しだけ違う。『ずっと一緒にいる』という言葉の意味さえ異なっている。
住んでいる世界が全く違うのだから、話が噛み合わないのは当たり前で、そこは話し合って埋めていかなければならないのに、相手の話を聞かずに自分の気持ちを押し付けようとして空回る。
ちいさく息をついて、リリアを解放する。体を起こしてやると、強がっていてもやはり多少は怖かったのだろう、危害を加えていた人間にしがみ付いて震え出してしまった。そっと抱きしめて背中をさする。
恋い慕う瞳はいつも自分だけに向けられている。でもそれは、ただただ空気のように側にいて欲しいという、幼い子供の頃と変わらない純粋で無垢な願い事だ。
それを叶えるなら『兄』という存在でいる方が正しいのだろう。
変わらない事を求められているのはわかるし、幸せな結婚生活なるものが全く想像できないというのも理解は出来る。彼女は少女らしい潔癖さで自分の体に流れる血を嫌悪している。
心のどこかで自分は幸せになる権利はないと思っている。
――ぜんぶじぶんのせい。
どんなに言葉を尽くしても、彼女を貶めるためだけに放たれた悪意に勝てない。
ルークの言葉の方が、結果的にいつも嘘になる。
『ルークさまは嘘つきです』
本当に、彼女の言う通りだ。
必ず守ると言ったのに。
彼女を傷付ける者は決して部屋には入れないと言ったのに。
すべての悪夢を引き受けると言ったのに。
その全部が嘘になった。
「ずっと一緒にいてくれるって、ルークさま言ったのに。一緒にお星さまになる時までずっとずっと一緒にいてくれるって約束したのに」
その言葉さえも嘘にしてしまった。
「……私はいつも寂しい。いつもいつもさみしいです」
腕の中から小さな呟きが聞こえてくる。涙の痕が残る頬に触れると、リリアはおずおずと顔を上げて、ルークの手の上に自分の手を重ねて目を閉じて頬をすり寄せた。
今腕の中にいるのは、ルークを王子様と呼んだちいさな女の子だ。
呪いをかけられてずっと眠っていたお姫様――
無邪気に駆け回るマーガレットを追いかけている間、世界はきらきらと光り輝いて、まるで違うもののように見えた。彼女が笑顔で近付くと馬は警戒して迷惑そうな顔をするし、木に登ると自分を取り巻く空気が変わる。屋根の上にのぼると空が近く感じられる。おじいちゃんおばあちゃんたちの視線は呆れつつもとても優しい。
彼女はいつも、ルークが立っている所より少し青空に近い場所で待っている。姿が見えると嬉しそうに笑う。
……そんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
胸が塞ぐような息苦しさを感じて、視線を上空に逃がす。あの日レナードと競い合うように探した星座が上空に輝いている。
「すこしだけ未来の話をしましょうか」
失われた信頼を取り戻すためには、時間をかけてひとつひとつ、願いを叶えてゆくしかないのかもしれない。
「リルド領に行ったら、毎朝散歩に出掛けましょう。自然豊かで空気が綺麗だと言えば聞こえが良いですけど、本当に山の上の方にある何もない場所です。途中から馬車が使えないので、行くにも帰るにもとにかく大変です。病気療養に来る人以外は誰も訪ねて来ません。他の貴族のお姫さま達にとっては、娯楽の何もない、それこそ墓場みたいな場所です。絶対に退屈ですぐに逃げ出してしまう。……あなた以外は」
不思議そうに首を傾げた彼女の目を覗き込む。もう片方の手を反対側の頬に沿えると怯えたような目をするから、宥めるように親指で涙の痕をなぞる。
「また水色の花冠を作ってくれますか? おじいさまとおばあさまが種を撒いた、広い広い花畑があるんです。そこで一緒にお昼寝をするのもいいですね。きっとあなたは気に入る」
それはほんの少しだけ先の話。きっとその時も同じ星座が夜空に上がっている。空気が澄み切っているから、ここよりずっと沢山の星が見えるだろう。
彼女が少しでも結婚というものに夢を抱けるように……少しでも不安を取り除けるように。
今度は嘘にしない。必ず叶えると誓う。
「私はどちらかと言えば、海で海賊を追いかけ回して倒すより、山の上の花畑で本でも読みながら穏やかに過ごしたいです……選ぶのはあなたですが」
「……山にいるのは山賊ですか? 山賊は強いですか?」
不安そうにリリアが尋ねた。……想定内の質問だ。これはリリアが暴力的だということではなくて、『キリアルト家の嫁は強くなければならない』などと吹き込んだレナードが悪い。キリアルト家の女性たちを思い浮かべれば誰もが納得するだろうが、そんな決まりはない。
きっと『資格』の話だとリリアは思い込んでいる。それで彼女の気持ちが楽になるならそれでもいい。
でも、ロバートとレナードの言葉にリリアの心が誘導されているというのは、大変気に入らない。
――リリアが海より山を選んでくれて本当に良かった。
一瞬心の表面に浮上してきた黒い何かをきれいに隠して、ルークは出来るだけ感じの良い笑みを浮かべてみせた。
「リルド領に山賊はいないですね……何もないので」
「では、私は……何をしていれば良いのでしょう?」
本当に彼女は自分の未来のことが何も思い浮かばないのだ。どこに向かっていいのかわからなくて、迷子のように立ち尽くしている。
「リルド領で、お洋服を選んだり、お手紙を届けたり、お茶を淹れたりというような、お手伝いをして下さいますか? 他にもやることは色々あって、今より忙しいかもしれませんね」
リリアは目を瞬いて。それから――頬を真っ赤に染めて嬉しそうに笑った。目がきらきらと輝き出す。
「ルークさまのお手伝いをするのです!」
幸せそうな顔を見るだけで、心は満たされる。
でも、その一方で、心の奥深くに封じ込めた闇も濃くなってゆく。
彼女の願いを叶えるために、邪魔なものをどんどん排除していかなければならない。レナードをさっさと捕獲して、オーガスタに気が済むまで雷避けとして使ってもらってから、第二王子経由でクラーラに引き渡す。議会制圧にでも何にでも利用すればいいのだ。
ふたりの幸せな結婚生活のためには、結局あの国が一番邪魔だ。全部捨て去った筈なのに、あの国の亡霊は気付けばいつも近くに潜んでいる。
「…………と、いう訳で、どうやって外に出たのか、そろそろ教えてくれますよね? クインさまの安全のために」
リリアの機嫌が直った所で屋根から降りたいのだが。これだけは何が何でも今夜中に白状させなければならない。
「社交界にデビューしてからは、さすがに一人で外に出たりはしていないのです。おじいちゃんたちにお願いして、みんなで一緒にお出掛けしてました。おじいちゃんたちがお友達とコーヒーを飲んでいる間、レナードと会っていただけです。デビュー前までは確かに一人で出掛けていたし、レナードのことも聞かれなかったから黙っていたというのは卑怯だったと反省しています。でも、信じてくれなかったルークさまもひどいのです」
ぷうっと頬を膨らませてリリアは恨めしそうにそう答えた。つまり警備に穴はなかった、外壁に損傷もなかった。孫を溺愛し、お願いされたら断れない身内が協力していた。しかも彼等は、レナードに会っていることをルークが知っているものだと思い込んでいた……後で確認しておくが多分そんな所に違いない。
そんなのばっかりだなと、ルークは思う。忙しいというのは良くない。心に余裕がないからこういうすれ違いが頻発するのだ。……さっさと色々終わらせよう。雑になるが仕方がない。
「すみま……」
誠心誠意謝罪しなければならない。そう思って口にしたのに声は途中で封じられる。唇を柔らかい小鳥の羽根が掠めたようだった。あいさつ程度の軽い触れ合いだけど、彼女はたとえ家族に対してでも、簡単にこんなことはしない。
心臓が大きく跳ねる。心の中があたたかいもので満たれてゆく。攻撃的な思考は一気に消え失せた。
「……お願いごとは何ですか? お姫様?」
やれやれと思いながら、真っ赤な顔で俯いて震えている少女に尋ねる。ナイフを返せとか、きっとそういう事だろうけれど。甘やかして、どんな願いも叶えてやりたくなるから困る。
「……白い花冠を私にも作って下さいね。お花畑、楽しみですね」
額をルークの胸に当てて、俯いたまま小さな声でそう告げる。
その時ようやく気付いた。幸せな結婚生活というものを全く想像できなかったのは、自分も同じだったのだと。
取り戻すことだけに必死になっていた。手に入れる事だけを考えていた。
ちゃんと話さなければいけなかったのだ……二人の未来のことを。それがたとえ夢物語でも構わなかった。
――またすべてが嘘になってしまうことを、ずっと恐れていた。