56 天使様たちの大迷走 その11
――意識が浮上する。
何やら遠くでぼそぼそ喋っている声がしていた。ぼんやりとクインは目を開けて、声のする方に視線を向けた。
「入室禁止です。トマスさま今すぐ出て行って下さい。はい、出る」
別人かと思うような冷え切った声でリリアがそう言いながら、両手でドアノブを握りしめて、外開きのドアを閉めようとしていた。トマスが壁と扉の間に挟まれているように見えるのだが、一体何が起こっているのだろう。
「リリア―、ちょーっとだけ様子を見せてあげてくれないかなぁ。お兄さまからのお願い」
声をひそめながら必死でトマスが懇願するが、
「ウォルターお兄さまが誰も入れるなと言いました」
同じくひそひそ声のリリアは大変そっけない。
「じゃあ、使用人ってことにして」
「あんな何の役にも立たない使用人うちにはいません」
取り付く島もないというのはこういう事を言うのだろう。リリアの目は完全に据わっていた。どうやら、トマスが部屋に入ろうとするのをリリアが阻止しているという状況のようだ。クインは茫然と二人の攻防を眺めることしかできない。
「どうしても入りたいとおっしゃるのなら、どうぞ殴るなり蹴るなりお好きなように。勿論反撃はさせていただきます。この部屋に入りたいなら私を倒してからにして下さい」
リリアが物騒な事を言っている。彼女は体を張ってウォルターの『リリアとイザベラと使用人以外立ち入り禁止』の命令を守っているのだ。
「……いやだからなんでそうなるんだよ」
ドアの向こうから、呆れたようなキースの声がした。
「リーリーアー。たまにはお兄さまにも優しくして。……じゃあ、入れてくれなくていいから。せめてクインの様子が見られるように、ちょっとだけドア開けておいてくれないかなぁ」
トマスが大変悲しそうな目で妹を見つめているが、リリアは表情一つ変えない。力いっぱいドアノブを引っ張って、兄がそれ以上部屋に入って来られないように扉で挟んでいる。
「入室禁止っ。絶対安静っ」
リリアはクインのためにがんばってくれているのだろうけれど、あれはちょっとトマスが可哀想な気がする。
「リ……リア……さま」
クインが呼びかけると、リリアがピタリと静止した。ゆっくりと振り返った顔は、優しい笑顔だった。……でもドアノブは決して離さなかった。
「やかましかったですね。申し訳ございません。今すぐ排除いたします」
「その笑い方とか言い方とかがそっくりでいや」
トマスが顔色を悪くしてぼそっとそんな事を言った。誰に似ているのだろう。クインがここで会ったことのある人ではない気がする。
「トマス……おにいさま、いた……そう……で……す」
壁とドアの間でつぶされそうになっているトマスのベストは皺だらけだ。……いつからこの状態なのだろうか。
「大丈夫です。トマスさまは軟弱そうに見えてもちゃんと鍛えているので、それなりに頑丈にできてます」
大変素敵な笑顔でそう返された。もう何があっても絶対にドアノブから手を離す気がないということは、クインにもよくわかった。
「言い方、リリア言い方」
廊下からキースが窘めているが、リリアは全く気にする様子もない。
「ごめんねクイン起こしちゃったね。気分は悪くない? 頭痛がするとかはないかな?」
ドアと壁の隙間で潰されながらもトマスはクインを気遣ってくれた。クインよりもずっと辛そうな状況なのだが、彼は昼間と変わらない笑顔だ。
気分が悪くないかと問われて、クインは自分の体調を確認する。少し眠ったせいか、眠る前程の気だるさはないし、意識もはっきりとしている。
「だい……じょう……ぶ、で……す。あたま、も……いた……く、ない……です」
「相手にする必要ないですクインさま。起き上がってはダメですよ。薄着ですからね!」
リリアに言われてクインは気付いた。今は肌着の上に柔らかい白いワンピースを着ているだけだ。絶対に寝具の中から出てはいけない。
確かウォルターに会ったのが暗くなり始めた頃だった。どのくらい眠っていたのだろう。もう深夜なのだろうか。窓のカーテンは閉め切られている。ベッド脇のテーブルにはオイルランプが灯され、書きかけの手紙が開いたまま置いてあった。
「ドアを閉めたらお水を用意いたしますので、少々お待ち下さいね。もうちょっと、で……何とかっ」
リリアがドアノブから手を離すと、今度は両手でトマスを部屋の外に押し出そうとし始める。トマスはドア枠にしがみ付いて抵抗している。……何だろう、不思議な光景だ。二人とも大真面目なのだろうが……
――ちょっと面白い。
クインは思わずくすくすと笑ってしまった。驚いたようにリリアとトマスが動きを止める。先に我に返ったリリアが、トマスを突き飛ばすように廊下に追い出してすぐさまドアを閉めた。鍵までかけた。満足そうに笑って手をパンパンと払う。
「リーリーアー、あのねー、三十分くらい休憩しておいでー。今夜はお星様綺麗だって。キース以外は部屋には入らないって約束するから。お願い、たまにはお兄さまのいうこともきいてー」
控えめにドアを叩く音と共に、くぐもった声が聞こえてくる。
「一緒に紅茶飲んでくれなかったからいやです」
「……え? リリアそれで僕に対して怒ってるの? やたらと冷たいなと思ったのはそのせいなの? ごめん、お兄さまが悪かったら機嫌直してここ開けて。一緒にお茶でも何でも飲むから」
「紅茶噴かせようとしたからいやです」
「それ、もうだいぶ前だよね……まだ根に持ってるんだね……」
トマスが力なく呟いている声がドアの向こうから聞こえて来た。打ちひしがれている姿がクインにも容易に想像できた。最近ますます妹たちが冷たいとトマスが嘆いていたのはこういう事なのかとクインは納得した。
「あーリリア、……使用人棟の入り口で待ってるって。明日からは忙しいから今日しか無理だって」
またノックの音がして、次に聞こえて来たのはキースの声だった。
「嘘だもん」
リリアが眉間に皺を寄せてムッとした顔になった。
「絶対嘘じゃないと思うけどな……」
「本人をお仕事に復帰させれば済む話じゃないですかっ」
怒った声でリリアはドアの向こうのキースに言い返す。
「……それは……確かにそうなんだけどさぁ」
話の内容はクインには理解できないのだが、リリアは正論を返したのだろう。キースはそれきり押し黙った。がっくりと肩を落としているキースの姿も想像できた。
トマスもキースもリリアによって撃退された。三人とも大真面目のようだから面白がってはいけないのだろうけれど……ドアの向こうがどういう状態になっているのか見てみたいなと、クインは少し思ってしまった。
「……すみません。クインさま、起こしてしまいましたね。今お水を用意いたします。顔色はだいぶ良くなっているようですが、起き上がれますか?」
リリアはテーブルに歩み寄ると、広げたままになっていた手紙を手早く片付ける。クインは前回教えられたように体を横にしてゆっくりと起き上がった。リリアがクッションを集めて背もたれを作って凭れかからせてくれる。
「苦しくはないですか?」
優しくそう尋ねられて、クインは小さく頷いた。ブランケットでそっと体をくるまれる。これでもうトマスたちが入って来ても大丈夫だと思うのだが……リリアは絶対に入室を許さないだろう。
「リーリーアー。おーねーがーいー。あーけーてー。ドアの隙間からちらっとクインの様子を確認するだけだからーほんとおねがいー」
しばらく静かだったのだが、またドアの向こうからトマスの情けない声がし始めた。こんなにまで心配してくれているのだ、ちょっとくらいなら良いのではないだろうかとクインは思うのだが……
「今更です。うるさいです。これ以上やるならウォルターお兄さまに言いつけます」
水差しからコップに水を移しながら、ドアの方を見ようともしないでリリアはそう宣告した。
ウォルターの名前の威力は絶大だった。トマスとキースは諦めたようで、クインの部屋には静けさが戻る。ドアの方を気にしながらも、クインはコップを両手で受け取って、リリアに見守られながらゆっくりと水を飲んだ。ほうっと小さく息をつく。
そういえば何か怖い夢を見ていた気がするのだが……もう思い出せない。目覚めた途端に目に飛び込んできた光景が、あまりに衝撃的すぎたせいだ。
空になったコップをリリアに渡していると、今度は落ち着いたノックの音がした。
「リリア、開けてくれるかしら? わたくしだけしか入らないから」
イザベラの声だ。リリアはすぐさまドアに駆け寄って鍵を開けた。ドアの隙間から体を滑り込ませるようにして、白いナイトドレスの上にガウンを羽織ったイザベラが絵本を手に持って室内に入って来る。
「クイン、ヒューゴに会いたい? それともわたくしと一緒にいてくれる? 目が冴えてしまったかもしれないと思って童話の本を持って来たの。読んであげましょうね」
イザベラは優しく微笑んでクインに尋ねた。
「おかあさま……と、いっしょ……に、いた……い……です」
顔を輝かせてクインは即答した。青い目の天使様にも会いたいが、クインはやっぱり母に甘えたいのだ。
イザベラは満足げに頷いて枕元に置いてある椅子に腰を下ろす。
傍らには可愛らしいお人形が寝ていて、枕元には母が優しい笑顔を浮かべて座っている。嬉しくて幸せでまた胸がドキドキしてくる。
まるで悲しい記憶を消すために、幼い子供の頃からもう一度やり直させてもらっているよう……
「ちょっと待って下さいイザベラさま。言い方、言い方がですね……」
「なーぜーそこで張り合うのですか」
ドアの向こうにはまだトマスとキースが待機していた。頭を抱えて呻いているような声が聞こえてくる。
「トマス、わたくし三日間、付きっ切りでクインを看病することに決めたから。外出しないから。後はよろしく」
イザベラは高らかにそう宣言すると、「色んなお話をしましょうね」とクインの頭を撫ぜた。クインは限界まで大きく目を見開く。嬉しくて嬉しくて……熱が上がってしまうのではないかと思った。
「……え? それはすごく困るんですけど」
呆然としたトマスの声がドア越しに聞こえて来た。
「何でここまで妨害するのかなぁ……」
キースの声は悲し気だった。
「リリア、ここはわたくしがついているから大丈夫よ。この部屋には絶対に誰も入れないから心配しなくていいわ。わたくしも三日間ここでゆっくり過ごします」
「承知いたしました。では、よろしくお願いいたします」
リリアとイザベラは共犯者の顔で微笑み合った。リリアはすっと一歩下がると、スカートを持って優雅に一礼する。気品に満ち溢れた彼女はメイド服を着ていてもお姫様だ。
自分は覚えが悪い方なのだとリリアは言っていたから、きっとこのお辞儀も彼女は何度も何度も練習して身に着けたのだ。
愚図だ愚図だと言われ続けたクインも頑張れば、いつかこんな素敵なお辞儀ができるようになるだろうか。
また胸がドキドキしてくる、心臓がくすぐったいような不思議な感覚を今日一日だけで何度味わっただろう。
「はやく……元気に、なりたい……です」
強い憧れを込めた視線をリリアに向けながら、クインは思わず願いを口に出していた。
「そうね、それが一番大切な事ね。クインはちゃんとわかっているのよね」
「ふふっ。ベスと一緒に早く元気になりましょうね」
リリアがそう言って、寂しがり屋で寒がりのベスを、ブランケットで包まれたクインの胸元に差し入れてくれた。クインはそっとベスの頭を撫ぜる。
子供の頃、クインという名前のくまのぬいぐるみをとても大切にしていた。何をするのも一緒だった。
戻っても良いのだろうか。明日になれば楽しい事がたくさん待っているのだと無邪気に信じていた子供の頃に。
――『グレイス』の悲しい記憶の上に、クインとしての今を塗り重ねてしまっても良いだろうか。
「リリアが怖い」
キースが淹れた薄緑色のお茶を飲みながら、トマスが呟いた。
クインの部屋に入れてもらえなかった三人は居間に移動していた。イザベラまでが敵に回った。あの二人は……クインにヒューゴを会わせないつもりだ。
「……あ、これ香りも良いし、わりと飲みやすい」
もう一口お茶を飲んでカップを下ろすと。トマスはだらーっとソファーに凭れかかって目を閉じた。
トマスとテーブルを挟んで向かい合う位置で、ヒューゴが力なく項垂れていた。かなり落ち込んでいる。せっかく淹れたお茶にも手をつけようとしない。このままだと冷めてしまうからさっさと飲んでほしい。
夕方クインが倒れたと聞いたヒューゴはかなり狼狽した。「本当に大丈夫なのか」「本当はどこか悪いんじゃないか」と言いながらうろうろと部屋の中を歩き回るという大変鬱陶しい状態に陥った。
この調子で医者に喧嘩を売られると困るので、前回同様ドアの前に家具を置いて部屋に閉じ込めておいたのだ。廊下に置かれた家具を見て何かを察したらしいウォルターは、心を落ち着かせる作用のあるお茶なるものを置いていった。
それが今、ヒューゴの目の前で……どんどん冷めていっている。
「あっちの肩を持つ訳ではないですけど、やってることは間違ってないですよね。ヒューゴさまがいつも通り暴言吐いた時点で、我々全員の信頼は失われます。初対面の時のエミリーさまに対する態度も、褒められたものではなかったですし。……とりあえず、薬だと思ってそのお茶飲んで下さい」
キースは重たい口を開いてそう言った。のろのろとヒューゴがカップに手を伸ばすのを確認して、ふうっと息をつく。
ヒューゴが従妹以外の女性に関心を持つのは大変珍しい。外から眠っている姿を見せるくらいなら問題ないだろうと思い、夜になるのを待ってクインの部屋の前までヒューゴを連れて行ったら……リリアに追い返された。
クインと対面した際に、ヒューゴが何を口走るか誰にもわからない。彼はようやく笑えるようになったクインの心を深く傷付けてしまう可能性がある。
そうなったら取り返しがつかないし、ヒューゴも今度こそ自分を許せなくなるだろう。
お互いのために、会わせない方が、いいのかもしれない。……面倒くさいしこのまま帰ってくれないかな。
トマスとキースは顔を見合わせて、同じ考えであることを確信した。
「ヒューゴ一回帰ったら? 三日間は絶対会わせてもらえないよ。仕事はルークが何とかしてくれるみたいだからさ」
トマスが体を起こして、努めて明るい声を出した。キースも微笑を浮かべて頷いた。
「……三日経ったら会わせてもらえるのだろうか」
ヒューゴがカップを持って俯いたまま、とても静かな声でそう言った。トマスとキースの笑顔が引きつった。
「……そこに気付いたか」
トマスは心底残念そうな顔になり、キースは閉め切られたカーテンを見つめた。
「まぁ……リリア倒さない限り絶対に会わせてもらえないと思いますよ」