55 天使様たちの大迷走 その10
さらに痩せ衰えた体には前回より多めに布が巻きつけられていた。
レモン色の美しいドレスを着せられ、頭には鬘が被せられたグレイスには、目付け役として派手な顔立ちの中年女性が付き添っていた。
グレイスは灰色の世界にいる。体は泥の沼に沈んでゆくように重たい。指一本動かすのも億劫だ。遠くで誰かが何かを言っている。グレイスの耳は音を拾っているけれどその言葉を理解できない。……もう、疲れてしまった。
「せいぜい『旦那さま』に可愛がってもらうことね。……諦めなさい? 弁えて多くを望まず、旦那さまに感謝をしてひっそりと生きて行くといいわ。それがおまえが幸せになる唯一の方法なのよ?」
顔を半分布で隠した女王様が、嘲笑を浮かべながらグレイスに何か言っている。声が近付いたり遠ざかったりしている。
あんなに恐ろしかった彼女を前にしても、グレイスの心は凍った湖の表面のようにさざ波ひとつ立たない。女王様はどことなく浮ついて上機嫌の様子だった。これから長年の想い人に会いに行くのだとでもいうように。
色のない世界を、グレイスは目付け役に腕を引っ張られるようにして歩いている……歩けているのだろうか自分は。それもよくわからない。
ドアの前には使用人姿のノーヴェが待ち構えていた。目を細くして微笑んで丁寧に一礼する。
「行ってらっしゃいませ」
余所行きの声だ。グレイスにちらりと向けられたのは、最後の検品をして商品を送り出すような目だったのか、或いは、断頭台に向かう者を憐れみながらも、その表情から何かを読み取ろうと興味深そうに覗き込んでいるような目なのか。
『……そういう顔をもできんだな』
彼がそう言った時、自分は一体どんな顔をしていたのだろう。
ドアの向こう側は寒々しい灰色のダンスホールだった。着飾った人々が集まって談笑している。幼い頃憧れた煌びやかな舞踏会は、花瓶に飾られまま放置され乾ききったバラのように黒ずんでいる。指で触れれば、たちまちばらばらに壊れてしまう。
壁には父の描いた絵が飾られていた。その絵も白黒だ。
今もきっと筆を動かし続けている。最後に見たのも絵を描いている背中だった。でも、きっとそれでよかった。そうでなかったらグレイスは父を置いて立ち去れなかった。
父は一体、いつの風景を描き続けていたのだろうか。
グレイスは、何も映していない瞳で、ぼんやりと……ただぼんやりとソファーに座って前を見ている。時折男性がグレイスの目の前に現れて顔を覗き込み、目付け役と言葉を交わす。
「まったく、冗談じゃないよ。あの菫色の目の異国人の女のせいで値が上がらない。さぁ、立つんだよ。背の高さを気にする男ってのも多いのさ」
目付け役がグレイスをひっぱり上げるようにして無理矢理立たせる。彼女に命じられるままに、ふらつきながら立ち上がる。数歩歩いては立ち止まることを繰り返す。男たちが親し気に目付け役に声をかけている。次々と違う男の顔がグレイスの前に現れては消える。「高すぎるな」と言われれば目付け役はもう用はないというように歩き出し、「私はもっと出せる」と言われれば足を止めて愛想よく会話を交わしている。
それももう自分には関係ない。どうでもいい。もう何も聞きたくない。外界の音が急速に遠ざかってゆく。
グレイスは音もなく色もない薄暗い回廊で、父の絵を見て回っている。
霧の川面に浮かぶ白鳥の群れ。水面に月を映す夜の湖。森の木漏れ日の中に咲く花。どの絵もいつかどこかで見たことがあるようで……はっきりと思い出せない。覚えているのはその景色そのものなのか、それともその絵を描いていた父の姿なのかもわからない。
だんだん絵を見ていることにも疲れてくる。視界はますます暗くなる。
きっと死者の国というのはこういう場所なのだろう。湿った土の中のような、暗くて静かで生暖かいところ。グレイスはもう棺の中にいる。これから埋葬されて闇の中に閉じ込められる。
突然、目付け役に腕を強く引かれてグレイスは大きくよろめく。
「そちらのお嬢さんですわ」
明るい声が一瞬だけ耳を掠めた。でもそれも流れ星のように一瞬輝いて消えてしまう。
再び遠くで音楽が鳴り始める。死者を弔う鐘の音のようだ。目付け役は遠くを睨みつけながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「今夜はもう無理だね。みーんなあの女に持っていかれちまった。大損害だよ」
再びソファーに座らされる。鐘が鳴り人が踊り、死者に花を手向けるかのように、目の前に知らない男の顔が現れては消える。
「さあ、行こう。部屋はちゃんと用意したからね。今度は飛び降りられないように、窓にはしっかり鉄格子をはめておいた。……ああ本当に楽しみだ」
結婚許可書にサインをした場にいた男の顔が、突然グレイスの鼻先に現れる。男は膝の上にあるグレイスの両手を握っていた。指先に針が刺さったような不快感がグレイスの意識を目覚めさせた。
「では二階のお部屋でお支払いをお願いいたしますよ。即金で払っていただけるのならば、今夜このまま持って帰っていただいても構いません。ただし一週間後には一度ご返却下さい」
目付け役が満面の笑みを浮かべて、愛想よくその男に話しかけている。
「さあ行くんだよ!」
彼女はそう言ってグレイスを立ち上がらせ、男の腕にしがみ付かせようとする。しかし、グレイスの腕には全く力が入らない。相手の肘から何度も手が滑り落ちる。
男はグレイスの背後に回り込むと、体で押すようにして強引に歩かせようとする。纏わりついてくる体温が気持ち悪くて、全身の毛が逆立つ。
「さあ一緒に行こうねぇ」
肩を撫でまわし耳の横で舌なめずりをしながら男が言う。不快感に目に涙が浮かぶ。グレイスの足は前に出ない。焦れた男はグレイスの背中から離れると、二の腕を掴んで強引に引きずり始める。駄々を捏ねる子供を無理矢理連れてゆくように。
「父親がどうなっても構わないって言うのかい? 親不孝な娘だね」
ひゅっと喉が鳴り呼吸が止まる。猫のヒゲのような赤い線を引かれた従兄の顔が一瞬脳裏に浮かんで消えた。彼はどこに消えたのだろう。奥さまとお嬢さまはいったいどこに連れていかれてしまったのだろうか。
「そう、それでいいんだよ」
従順に足を前に出しはじめたグレイスを見て目付け役は満足そうに頷いた。
「本当にどれ程待ち侘びたことか。ああそのドレスも青い瞳に良く似合っているねぇ。その清純そうな顔が恐怖と苦痛に歪むのを見るのがとても楽しみだよ」
そんな言葉は聞きたくない。この男の顔も見たくない。急速にまた意識が閉じてゆく。音が遠ざかり光が失われる。
「では、奥の階段をのぼって二階にお進み下さい」
ほくそ笑んでいるようなノーヴェの声がした。バタンと何かが締まる音と共に、静けさに包まれる。
ダンスホールより冷たい空気が顔に触れる。肌寒さに悪寒が走ると同時に、耐え難いまでの嫌悪感を体が思い出す。グレイスは反射的に男の手から腕を引き抜いていた。
――いやだ。この男とは行きたくない。
それはもう本能的なものとしか言いようがなかった。
今まで従順だったグレイスが、突然弱々しく抵抗し始めたことに男は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまた、にたぁっとしたいやらしい笑みを浮かべてみせた。鼻先が触れそうになるほど顔が近付いてくる。
「ああ、いい表情をするねぇ。目を潤ませて嫌がる顔がたまらないねぇ。さあもっと近くで見せておくれ」
手首を強く引き寄せられる。頬に生臭い息がかかる。グレイスは必死に顔を後ろに背けた。今まで動いているのかもわからなかった心臓が、どくんどくんと大きく脈打っている。血が流れ始める。体が少しだけ動くようになる。
気持ち悪い! 近寄らないで! 触らないで! 堅く目を閉じ、掴まれていない方の手で相手の肩を押して必死に押しやろうとするがびくともしない。背中に回った手が這い回る。あまりの気持ちの悪さに吐き気をおぼえた、その時……
喫茶室に向かおうとする招待客が出口を間違えたのか、背後でドアが開く音がした。邪魔が入ると思った男はグレイスから顔を離すと、手首を持って容赦なく廊下を引きずり始めた。
行きたくない。グレイスは必死に足を踏ん張ろうとするが、ずるっずるっと床を滑るように前へ前へと引っ張られていってしまう。
「何をしているっ」
雷が落ちたかのかと思った。視界も頭の中も真っ白になった。
「いかなる理由があっても、そのような暴力的な行為は認められない」
はっと我に返った時、グレイスは茫然と床に座り込んでいた。光が……今一瞬確かに光が見えた気がした。
「何事ですか?」
しかし、次に聞こえたのはノーヴェの声だ。闇がまた背後から迫って来る。
「彼女が酔客に絡まれていた。余程怖かったのだろう。恐らく目付け役が探しているだろうから、送り届けてやってくれ」
『送り届ける』という言葉を耳にしたグレイスは思わず悲鳴をあげる。
足早に歩み寄って来たノーヴェが一礼してグレイスの目をまっすぐに見つめる。わかっているなと言いたげな顔だ。おまえは商品なのだ。ここで従わなければ、おまえの父と老夫婦がどうなるのか思い出せと。
『諦めなさい? 弁えて多くを望まず、旦那さまに感謝をしてひっそりと生きて行くといいわ。それがおまえが幸せになる唯一の方法なのよ?』
甘く囁くような声が耳に蘇った。その言葉が致死量の毒となってグレイスの心を痺れさせてゆく。グレイスは絶望に打ち震える。……もう逃げられない。女王様とノーヴェは獲物を決して逃さないだろう。グレイスの瞳から急速に光が失われてゆくのを見て、ノーヴェは満足げに笑う。
「まずは二階のクロークルームまでご案内いたします。そちらには女性使用人が待機しておりますので、落ち着かれてから会場に戻りましょう。お客様方はどうぞダンスホールにお戻りください」
グレイスは大きく体を震わせた。でもそれが最後だった。瞳に僅かに残っていた最後の光が消え失せる。甘く苦い毒におかされたグレイスは、従順に頷いてふらふらと立ち上がる。今度は自らの足で深い闇に向かって歩き始める……
「あ……あの、お名前を教えて下さいますか」
その声が耳に届いた時、自然と足が止まっていた。心がその言葉の意味を理解したのは、足が動かなくなった後だった。
名前……もうずっと誰も呼ぶことなかった名前。いつからか、「おい」とか「この愚図」とか、「おまえ」とか、「あんた」としか呼ばれなくなっていた。
「……そして、もし他にお約束がないのでしたら、兄と一緒に軽食を食べてやっていただけませんか? あなたに乱暴を働いた男は二階にいるかもしれません。そのような場所に行かせる訳にはまいりませんわ」
誰かがグレイスを引き止めようとしてくれていた。今……自分のすぐ後ろに、名前を呼んで手を差し伸べてようとしてくれている人がいるのだ。
「そのような場所に行かせる訳にはまいりませんわ」という言葉が、ぐわんぐわんと心の中に反響した。そうだ。この先に待ち受けているのは闇だけだ。このまま進んでしまえば取り返しがつかない。
『諦めなさい? 弁えて多くを望まず、旦那さまに感謝をしてひっそりと生きて行くといいわ。それがおまえが幸せになる唯一の方法なのよ?』
再び甘い毒が心を痺れさせようとする。
でも……
――そんなのは嘘だ。そんなのはでたらめだ。
強く……強くグレイスの心は反発した。それはグレイスの信じてきた幸せの形とは全く違う。
『元気で怪我無く生きていられることこそが奇跡なの。わたくしの祈りはちゃんと神様に届いているわ。グレイスがわたくしの目の前で今日も元気で楽しそうに笑ってくれているのだから』
記憶の奥底から浮かんできたのは、懐かしい母の声だった。
『どうかそれだけは信じて正しく生きてね』
たったひとつの願い。母がグレイスに残した願い事はひとつだけ。
その願いを叶えることができるのはグレイスだけなのに、自分を守れるのは自分だけなのに、今、グレイスは自らの足で闇に向かって進んでいた。こっちは違う!
グレイスは重たい体を必死に動かして振り返る。
色のない世界の中で、童話の挿絵に出て来るようなドレスを着た可愛らしいお姫様が、必死の形相でグレイスに声をかけてくれていた。真摯な瞳でまっすぐにグレイスを見ていた。
彼女は、間違った方向に進んでゆくグレイスを何とか引き留めようとしてくれていた。
「グ……グレイスと申します……あ、あ、の……ほ……んと、に?」
久しぶりに自分の声を聞いた気がする。まだ声は出るのだと驚いた。心は諦めても、体はまだ諦めてはいなかったのだ。痛みや不快感という感覚で、必死に心を目覚めさせようとしていた。
そして――
刺すような視線を感じてグレイスは目を上げる。
お姫様の傍らに立っていた背の高い男性が、グレイスをまっすぐに睨みつけていた。
『……きっと白い翼をもった天使様が、明るい光がさす場所に導いて下さるわ』
彼はとても厳しい顔をしていた。高潔な魂を持つ存在が、グレイスに憤怒に燃える目を向けている。先程の雷のような眩しい閃光は、彼が放った怒りの声だったのだ。
最初にグレイスの視界に戻った色は青だった。気高く一点の濁りもない澄んだ色。
灰色だった世界が一瞬で塗り替えられ、グレイスは思わず息を飲んだ。光が……溢れている。
……ああ、天使様だ。
グレイスはそう思った。清浄な空気を身に纏った男性の背中には、白い翼が見える気がした。
彼はきっと正しく生きられなかったグレイスに断罪を下すためにこの場に現れたのだ。
ごめんなさい。天使様に向かって、グレイスは心の中で懺悔する。
正しい道を選ばずに、自ら闇に堕ちてゆこうとしました……と。