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53 天使様たちの大迷走 その8



 早めの夕食を、リリアとマナーを確認しながらゆっくり部屋で食べている時に、少しふらふらするなとは思ったのだ。夕食を食べ終えて立ち上がろうとした瞬間、不意に足から力が抜けてクインは再び椅子に座り込んでしまった……


 イザベラは夕方から出掛けていて、丁度屋敷にはいなかった。熱が出たのが母が出掛けた後で良かったとクインは思った。きっと心配させてしまったから。


「だから興奮させるなとあれ程言っておいただろうが」


 呼び付けられた医者だという男性は、部屋に入って来るなり静かな声でそう言った。

 背が高く体格の良い男性だった。医者にしては若いが、アレンやトマスより年上だ。茶色の髪はクインと同じくらい短い。彼は氷のような冷たい水色の瞳を怒りでぎらつかせていた。

 足元からゆらゆらと黒煙が立ち昇るっているのが見える気がした。


 クインのベッドの周囲を、悄然とした面持ちの天使様たちがぐるりと取り囲んでいる。トマスとリリィとリリア。そして、キースとアレンの姿もある。彼らは医者の様子に恐れ慄いて、体を小さくした。……リリアだけは平然としていた。


「こんなに周りに人がいたら余計に落ち着かん。リリア以外全員出ていけ!」


 医者は高圧的な態度で全員を蹴散らしにかかった。眼つきが鋭い男性が怒る姿は大変迫力がある。リリィが涙目になってリリアの背中に隠れ、クインも寝具の中でガタガタと体を震わせた。


「えー……だって心配で……」


 トマスが不満そうな声を出したが、医者にぎろりと睨みつけられて、その眼力に圧されたように体を引いた。


「……あっちもこっちも怪我人だらけで俺は大変忙しい。医者の命令には黙って従え。これ以上患者に気を遣わせるな。今すぐ何も言わずに出ていけ」


 地の底から這い上がってくるような声だった。リリアをその場に残し、皆逃げるように退出する。医者はドアが完全に閉まりきるまで監視すると、


「ったく」


 頭痛を堪えるように目を瞑り、大きく息をついた。


「ウォルターお兄さま、椅子はこちらでよろしいですか?」


 医者にそう尋ねたリリアの声は少し笑っていたから、クインは恐る恐るリリアに顔を向ける。大丈夫ですよというように彼女はクインを見て頷いた。


「ああ、助かる。……すまない、怖がらせてしまったね」


 リリアが用意した椅子に座って、クインの顔を覗き込んだ時には、彼の瞳からすっかり怒りは消え失せていた。今は良く晴れた日の青空のような穏やかな色だ。


「熱をみるよ?」


 柔らかな声がそう告げる。あまりの豹変ぶりにクインは混乱したまま頷いたが、すぐに気付いた。


 ……そうだ。クインを傷付けるような存在を天使様たちがこの部屋に入れる訳がないのだ。


 額にそっと手を乗せられる。冷たいなと思うのは自分の体が熱いからか。どこも痛くはないけれど、体が重くて自分の呼吸音がとても遠い。考えがうまくまとまらない。


「……それ程高い熱ではないね。大丈夫かい? あいつらを喜ばせようとちょっとがんばりすぎたんだね。……うん、君は本当によくがんばったね」


 ここにいると何をしてもみんなが褒めてくれる。そんなことをクインはぼんやりと思う。幸せだなと思うのに……もどかしい。上手く喋れないことが、そして自由に動けないことが。

 そんなクインの気持ちを正確に読み取ったのか、ウォルターと呼ばれていた医者は、困ったように微笑んだ。


「……焦らなくても大丈夫だよ。必ず元気になれる。でもそれには時間がかかるんだ。今は体を休ませる時だから……これをあげよう」


 そう言って彼は床に置いてあった黒いカバンから布製の人形を取り出した。ボタンの目がついたエプロンドレスを着た女の子だ。その人形をクインの顔の前で揺らす。


「……かわ……い……い」


 クインは目を輝かせた。まるっきり小さな子ども扱いなのだが、それがこれほど心地いいのはやはり少し疲れてしまったせいなのだ。ぬいぐるみはウォルターの手によって、クインの肩の上にそっと乗せられる。


「この子はとても寂しがり屋なんだ。そしてとても寒がりだからベッドからは出られない。できるだけ一緒にいてあげてくれるかい?」


「は……い」


 すっかり幼児の頃に戻った気持ちになって、水色の瞳を見つめて素直にクインは頷いた。


「君が疲れるとその子も疲れてしまう。だから疲れたら一緒に眠ること。あと困ったことがあれば、リリアを頼るといい。イザベラさまとリリア以外は今は相手にする必要はないからね」


 ウォルターはそう言って目を細めると、背後に控えているリリアを振り返った。


「リリア、三日間だ。イザベラさまと使用人以外の入室は禁止。三日間それだけは徹底してもらいたいんだ。この子はリリアと一緒で、周囲の期待に応えようとがんばりすぎる。できるだけ穏やかに過ごせるように気を付けてやってくれ。残念ながら、リリィはなぁ、この子が元気な時は良いんだが、今はまだちょっと刺激が強すぎる」


「承知いたしました。お任せくださいウォルターお兄さま」


 リリアは微笑を浮かべて頷いた。ウォルターは立ち上がって再びクインの顔を覗き込む。


「その子はベスという名前なんだ。仲良くしてやってくれるかな。まずはゆっくり休むこと。大丈夫、ちゃんと休めば三日後にはベスも一緒に元気になっている。そうしたらリリィとも遊べるさ。……今日はよくがんばったね。もうおやすみ?」


 そう言って水色の瞳を細めると、カバンを持って部屋から出て行った。


 その背中をクインは思わず目で追ってしまう。不意に寂しくなってしまったのだ。体調が悪くて心が弱くなってるからだろうか。よくがんばったねと褒めてくれる大人の男の人の低い声がとても心地よかった。ドアが閉まる音を聞きながら、もう少し一緒にいて欲しかったなとついついそんな事を思ってしまった……


「……優しい……おいしゃ……さま……です」


 医者というのはもっと威張り散らして怖いものだと思っていた。

 クインは顔を横にして、ウォルターからもらった人形に視線を向ける。茶色い毛糸の髪に黒いボタンの目のお人形はにっこり笑ってクインを見ている。……きっとあの黒いカバンの中には、他にも小さい子供の患者にプレゼントするためのぬいぐるみが入っているのだろう。


「そうですね。お顔はちょっと怖いですけど、ウォルターお兄さまはとても優しいお医者さまなのですよ。子供たちはウォルターお兄さまが帰るというと泣いて寂しがるから、大変みたいです」


 リリアは内緒話をするように声を潜めた。


「わたし……も、さみし……く……なり……まし……た」


 クインが照れたようにそう白状すると、リリアは秘密を打ち明けるような目をする。


「……でも、お仕事をしていない時は、ウォルターお兄さまはちょっと雰囲気が違うのですよ? あれはお仕事用のお顔なのです」


「え……?」


 思わずクインはリリアに問いかけるような目を向けてしまう。


「ふふっ。次に会う時に、クインさまが『患者』でなければ、ウォルターお兄さまは別の姿を見せて下さいますよ。気になるのでしたら、三日間しっかり休んで元気になりましょう。……あ、怖い人ではないですからね。でも、きっとびっくりしてしまいます!」


 リリアはそう言って楽しそうに笑う。あの優しいお医者さまの本当の姿。とても気になる。そういえばトマスもダラダラしている時と、気を張っている時では全く別人のようだった。ウォルターは一体どんな男性なのだろう……


「ベスが寒がっていますね」


 リリアはベスを寝具の中にそっと潜り込ませた。そして先程ウォルターが座っていた椅子に座る。


「明日は一緒にベスに新しいお洋服を作ってあげましょうか。端切れをたくさん用意しておきますね。楽しみしていて下さい。花柄のワンピースなんかもきっと似合いますね。あとドレスも用意してあげましょう。レースの余りがまだあったと思います」


「は……い。たのしみ……です」


 クインは嬉しくなってそう返事をする。今ベスが着ているのは紺色のスカートと白いエプロンドレスだ。ワンピースにドレス。それから帽子も作ってあげたい。熱が下がればリリアと一緒に縫物くらいならしてもいいだろうか。針仕事には少し自信がある。

 早く元気になりたい。天使様たちに会えないのはとても寂しい……。だから、三日間しっかり体を休めよう。そしてその間に、もっと滑らかに喋れるように練習するのだ。

 

 明日が来るのが楽しみだなんていつ以来だろう。


 元気になればリリィや他の天使様にも会えるし、ウォルターの本当の姿も見られる。ピアノの練習だってできる。楽しい事がたくさん待っているのだ。

 それに……


 ――今日は会えなかった青い目の天使様にも、会えるかもしれない。


 クインは椅子に座るリリアをじっと見つめる。そうすると彼女はにっこり微笑んでくれるからクインはほっとする。言葉にしなくても、リリアはただ『少し不安になってしまっただけ』というクインの気持ちをわかってくれる。クインは満ち足りた気持ちでゆっくりと目を閉じた。


 沈黙が心地いい。相手にこれ程までに気遣ってもらっているのに、自分勝手にぼんんやり物思いにふけることを許されている。なんて贅沢な時間だろう。


 ……そうだ。母が生きていた頃は、こんな穏やかな時間が当たり前に存在していた。






『おかあさまは、もうすぐお星様になるのよ。でも、悲しまなくて大丈夫。わたくしはいつもグレイスのことをお空から見守っているわ。グレイスが幸せになれるよう祈っている。辛いことがあってもどうかそれだけは信じて正しく生きてね。そうすれば、きっと白い翼をもった天使様が、明るい光がさす場所に導いて下さるわ』


 ベッド端に腰かけている幼いグレイスに、母は優しい声で毎日そう言い聞かせ続けた。

 グレイスの母親はこの国では珍しい、淡い金色の髪に青い瞳を持っていたが、肩に目立つ大きな痣があった。それが不吉だと高位の貴族たちに厭われ、格下の子爵家に嫁ぐことになったのだ。


 子供の頃からあまり体が丈夫でなかったせいもあり、母は強い信仰心を持っていた。彼女はいつも静かに天に向かって感謝の祈りを捧げていた。


「元気で怪我なく生きていられることこそが奇跡なの。わたくしの祈りはちゃんと神様に届いているわ。グレイスがわたくしの目の前で今日も元気で楽しそうに笑ってくれているのだから」


 娘の健康と幸せを祈る母の横で、ちいさな少女も胸の前で手を組んで目を閉じた。


「おかあさまが元気になりますように。グレイスのそばにずっといてくださいますように」


 祖父母も父も、母をとても大切にしていたように思う。母の部屋にはいつも花が飾られていた。祖父母に父に絵を描く事を禁じていたけれど、スケッチブックに母の姿を素描することにだけは目を瞑っていた。


 きっとそれは……母がもう長くは生きられないと知っていたからだ。子爵家の経済状況を慮って、母は医者にかかることを拒んでいた。いくら薬で引き延ばそうとしても、自分の寿命はあと数年だからと。

 まだ幼いグレイスは、いずれ母親の姿を忘れてしまう。だからせめて絵姿を残してやりたいと祖父母は考えていたのだろう。


 母が天国に召された日からグレイスは星空を見上げるようになった。神様に感謝の祈りを捧げ、問いかけ続けた。例え星が出ていなくても毎日欠かさずに。

 

 ――今日も私は正しく生きられましたでしょうか? いつか、明るい光がさす場所で、母にもう一度会えますか?


 夜空には数多の星が瞬いている。その中で、母はずっとグレイスを見守り続け、娘のために祈ってくれていた。だから、どんな劣悪な環境の中であっても、グレイスは大きな病気もせず、後遺症が残るような怪我もせずにこれまで生きてこられた。


 でも……


 一度も疑わなかったかと聞かれればグレイスは「いいえ」と答える。現実はあまりに過酷だった。


 グレイスが母の言葉を信じて守り続けたのは、もし否定してしまったら、この命を終えた後でさえ、母に会えない気がしたからだ。

 母のように強い信仰心があった訳ではない。もう一度母に会いたかった。ただ、それだけ。


 ――グレイスの祈りはちゃんと届いた。


 青い目の天使様に導かれて、グレイスは、光り輝く世界に辿り着いた。

 でも、光が強ければ影も濃くなる。今が幸せだからこそ不安になる。


『いい夢が見られただろう? そろそろ現実に戻る時間だ』


 ほら、遠くで誰かが夢の終わりを告げている……

次から回想になるので……暗くなります。

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