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52 天使様たちの大迷走 その7

遅くなってしまいました。申し訳ございません。


 重い扉を開くと、そこは広々としたダンスホールだった。椅子がいくつか置かれただけの、何もないがらんとした部屋という印象だが、アーチ型の窓や、壁から天井に向かっての化粧漆喰などは大変豪華で美しい。


 部屋の一番奥には手入れの行き届いたピアノが置いてあり、その隣の棚には楽譜や教本が詰め込まれていた。

 久しぶりに弾くピアノは記憶にあるより鍵盤が重くて、スケールを弾く指はもたついて上手く動かなかった。『グレイス』はピアノが好きで、よく祖父母の前で弾いていた。二人が生きていた頃は毎日練習していた……


 少しだけピアノを触らせてもらって、練習の邪魔にならないようにリリィと交代すると、彼女は「棚に私たちが子供の頃使っていた教本があるから、アレンお兄さまと探してみるといいわ」と教えてくれた。

 棚の前に、斜めに背もたれ付きの椅子を置いてもらって、クインは手の届く範囲で楽譜や教本を棚から取り出してはパラパラとめくってみたりしている。その様子を背後に立つアレンが見守っていた。


 リリィの奏でるピアノの音が耳に心地いい。彼女の性格を表しているかのように、優しくて軽やかな音だ。


「うーやっぱり弾けないー。もうやりたくないー」


 突然不協和音が響く。リリィが天井を仰いで呻いた。クインは教本をめくる手を止めてピアノの方に目をやった。


「勢いでいくのは無理ですよ。指使いを意識して何度も弾いて覚えさせないと」


 楽譜を押さえているリリアが冷静な声でリリィに告げている。


「何でピアノ弾けなきゃいけないんだろう。演奏聴きたいなら音楽家を招くべきよ」


「ピアノ弾いてる間は、喋らなくてすみますよ? 相手が『もう結構です』と言い出しにくいくらいの難曲を弾いていると、時間が潰せるし、こちらを見下してくるような方々は気まずそうに押し黙るし、色々便利です。だからピアノは弾けた方がいいです」


 リリアの言葉には実感が込められていた。リリィは呆気にとられたような顔をしている。


「私だってピアノは弾くより聴く方が好きです。練習嫌いでした。でもがんばったのでがんばりましょう」


 リリアがにっこり笑ってきっぱりと言い切った。


「どう……し……て、です……か? あん……な、に……おじょうず、なの……に」


 クインは思わずリリアにそう尋ねた。今リリィが弾けない弾けないと嘆いている曲を、先程リリアはさらっと弾いてきかせてくれたのだ。


「イヤというくらい練習しました。だからもうイヤです。でも毎日弾かないと指動かなくなるんですよね。使用人をやっている分にはピアノ弾けなくても何の問題もないのですが……」


 リリアは表情を曇らせてそう答える。そういえばリリィとリリアは姉妹の筈なのに、どうしてお姫様と使用人なのだろう。ふとそんな疑問が思い浮かんだ。

 ……果たしてそれは聞いても良い事なのだろうか。クインが二人の姿を見比べて迷っていると、


「ああ、私たちの服が違うことが気になるのね」


 クインの疑問を察したリリィが明るい声でそう言った。


「あのね、私たちは、自分のやりたいことをやっているのよ。私は今は淑女を目指して努力中だからドレス姿だし、リリアは使用人をやりたいからメイド姿なの。……だからここではクインもやりたいことをやればいいわ。お姫さまでも貴公子でも使用人でも音楽家でも、何でもいいの。クインだって何にでもなれるわよ?」


 びっくりしてクインは言葉を失ってしまう。そんな風に考えたこともなかった。『グレイス』は何かを選べる立場ではなかったから。


「そうですね。これからゆっくり考えてみてください。私はこうやって体を動かして誰かをお世話する方が好きなので、今はこの恰好をしております。でもドレスを着なくてはならない時もありますね」


「リリアはドレスを着て完璧なお姫様もできるわよ?」


 クインはリリアの優雅で美しいお辞儀を思い出す。リリアの所作はとても美しく洗練されている。彼女はドレスに着替えるだけでそのままお姫様として通用するだろう。


「私はお姫さまもできないけど、使用人もできないのよね。お掃除はちょっとはできるけど、お料理は苦手。野菜を大きく切るくらいなら何とか。でも刃物は怖いなぁ」


「リリィお嬢さまは私よりもずっと器用なので、すぐに何でもできるようになりますよ。……ちゃんと真面目に練習すれば、ですけどね」


 リリアは釘を刺すように一言付け加えた。


「そうなのですか?」


 意外そうにアレンが尋ねると、リリアが大きく頷いた。


「私は本当に不器用で、何をするにも人より時間がかかるのです。努力したと褒められることも多いのですが、自分ではあまりそうは思いません。覚えが悪いし、忘れやすいので、反復練習を欠かさないようにしているだけです。私の半分以下の時間でリリィお嬢さまは何でも習得されるので、本当にすごいなと思います」


「そこですごいと言えるリリアの方が、すごいと私は思うわ。立場逆だったら私絶対に拗ねるもん」


 リリィが照れたように頬を赤らめながら、ぶっきらぼうにそう言った。


「だって自慢のお姉さまですから」


 リリアの声は誇らしげだ。姉に向けられた彼女の笑顔は一点の曇りもない。


「それに、私が何度やっても出来ない事を、一度で成功させた時のリリィお嬢さまの気まずそうな顔が、結構面白かったのです。真っ赤な顔をして涙目で、ものすごく一生懸命言い訳を考えて下さって、でも結局何も思いつかなくて『リリアがんばってたから、今日のおやつは私の分も食べていいわよ』って困り切った顔でそんな事を言って下さったりして……」


 懐かしそうな顔をしてリリアがふふっと笑う。クインも思わず目を細めた。『おやつをあげる』と言われても、リリアはきっと独り占めにしたりはしなかっただろう。小さい頃の二人の姿を見てみたかったなと思う。


「それに、運動の面では完全に私の圧勝でした」


「うん、そっちは何しても勝てる気しない。……特に腕力」


 リリィが苦笑している。


「……腕力」


 アレンがぼんやりとした声で呟く。


「私は海賊をやっつけないといけないので、鍛えないと」


 熱を帯びた声でリリアがそう言った。海賊というのは、物語に出て来る船を襲う荒くれ者たちの事だろうか。

 怖い男たちが現れたら自分が箒で追い払うのだと宣言していたが、彼女は海賊にも立ち向かうつもりなのだ。……やっぱり天使様はすごい。


「……海賊、ですか。……海賊……」


 アレンが視線を窓の外に移動させて、どこか遠い場所に向かってそう言った。


「こんな感じで、リリアは何でもできるの。すごくがんばりやさんなの!」


 リリィも、妹を心の底から誇らしく思っている様子だった。

 顔を見合わせて微笑み合う姉妹を見て、クインの胸はあたたかくなる。


 思いを預けた分だけ返してくれる人は必ずいる。一方通行ばかりではない。

 母のように、祖父母のように、クインの『大好き』という気持ちを受け取って、同じ『大好き』という気持ちを返してくれる人が……きっといつかまた現れる。

 二人を見ていると、そう信じられる。


「さて、弾けそうな楽譜見つかった? もう一度ピアノ、練習してみる?」


「……あ……」


 ぼんやりとしていたクインは、その言葉で我に返った。


「疲れたから交代ね!」


 とはいえ、リリィが練習を始めて、十五分も経っていない気がする。気を使わせているのは明白で、クインは申し訳ない気分になって俯いた。


「で……も、わた……し、ばか……り……」


「いいのいいの。クインはピアノを弾くのが好きなんでしょう? 好きな人に弾いてもらった方がピアノだって嬉しいわよ。そのテーブルの上にある教本の中の曲なら弾けそう?」


「は……い」


 子供向けの教本は『グレイス』がかつて使っていたものと同じだった。それだけは棚の中に戻さずにテーブルの上にわけておいたのだ。

 アレンが座っているクインに手を差し出す。リリアが「顔を見るのが恥ずかしいなら、喉元を見れば良いですよ」と教えてくれたので、クインはもう視線のやり場に困ることはない。

 大きな手に躊躇わずに捕まって、クインはゆっくりと立ち上がった。アレンに体を支えてもらいながらもう一度ピアノの前に座る。


「アレン……お兄……さま、あり……がとう……ござい……ます」


 それでもドキドキする心臓を宥めながら、クインはアレンにお礼を言う。「お兄さまをつけて呼べば早く慣れるわよ」と教えてくれたのはリリィだ。


「気にしなくて大丈夫ですよ。頼ってもらえる方が安心です。一人で勝手に何かやられる方がひやひやしますから」


 そう言ってアレンがリリィを振り返る。少し言葉に棘があるような気がした。


「それ私に対する皮肉よね」


 そう返したリリィの言葉も何というのか挑発的だ。


「……まだやっているのですね」


 リリアが呆れたように言いながら、クインが開いたページを押さえてくれている。

 鍵盤に手を置くと背筋が伸びるような心地がした。子供の頃に弾いていた簡単な練習曲だ。たどたどしく指が鍵盤を押す。指が感じる重さまでもが懐かしい。穏やかな気持ちで楽譜を目で追ってゆく。

 やっぱり、クインはピアノを弾くのが好きだ。

 ここには調律されたピアノがあって、子爵家より沢山の楽譜がある。そしてピアノの音が綺麗に響く広いダンスホールがある。子供の頃に憧れた夢のような世界……


「そうですね。基本はしっかり身についていらっしゃいますね。ここの指が間違っていましたから、もう一度ここから弾いてみましょう」


 リリアの横に並び立って楽譜を指差しているのは、少し厳しそうな顔付きの年嵩の女性だった。白髪をきっちりと結い上げ、紺色の地味なドレスを着ている。


「うちの家庭教師のおばあちゃんなの。結構厳しいわよ。マナーなんかは特にね」


「……リリィさまはそちらにお座りになって、先程弾けなかった箇所の指をリリアさまと確認なさって下さい」


 すっと目を細めて、家庭教師はリリィに命じる。


「今日はピアノのレッスンの日じゃないわ」


 きまり悪そうな顔をして、リリィが口の中でもごもご言った。


「最近サボり気味でしたからね。ダンスは随分踊れるようになられたので、ピアノの方にも力を入れていただきます。リリアさまも毎日練習して下さい。上達するのには時間がかかりますが、下手になるのはあっという間ですよ」


 つんとすました顔をしながらも、温かみのある声で老婆は二人にそう言った。リリィとリリアを見つめる瞳は孫を見るように優しい。


「はぁい」


「はい……」


 リリィとリリアは揃って項垂れると、不貞腐れたように返事をした。表情も仕草もとても良く似ていて大変可愛らしい。厳しい表情を保っていた家庭教師が思わずと言った感じで笑い出してしまう。


「……では、クインさま、人差し指からですね。ここの指使いを間違ってしまうと、音が続きません。ゆっくりいきましょうね」


 クインに向けられた声もとても優しい。クインは意識して背筋を伸ばし、もう一度鍵盤に指を置く。腕の力を抜いて……目を閉じて一呼吸。


「……はい」


 きちんとしたピアノのレッスンを受けるなんて本当に何年振りだろう。心地良い緊張感が体を支配する。最初の音が鳴り響く。楽譜は少し前を見て、音が途切れないように指使いを常に確認する。


 ……また昔みたいに弾けるようになるだろうか。


 毎日練習してゆけば、いつかリリアが弾いてくれたような難しい曲も弾けるようになるだろうか。


『願いを口に出してごらん』


 トマスの言葉が頭の中で渦を巻く。あの時勇気を出して口に出したから、クインは今大好きなピアノの弾いている。


『クインもやりたいことをやればいいわ』


 今はまだ口には出せない。でも、もう少ししたら言えるだろうか。


 ――もう一度きちんとピアノが習いたい、と。


 思うだけで気持が大きくうねる。喉元まで出かかるけれどまだ声には出せない。

 願いを声に出した瞬間に、この幸せな世界が終わってしまうような気がするから……

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