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51 天使様たちの大迷走 その6



「……あ、きたきた。ほらリリィ、入室許可取ってからね」


「ねーねー、入っていい?」


 廊下からうきうきとした声が聞こえてきた。自分に会えることを楽しみにしてくれているのだと伝わって来る。それだけでクインはこんなに嬉しい。もうずっと忘れていた感情が次々と蘇ってくるのがわかる。


「あの……どうぞ、お入りください」


「おはよう! もう体調は大丈夫? 困ってることはない?」


 待ちきれなかったというように駆け込んできたリリィは、トマスとリリアと同じ、栗色の髪に栗色の瞳の可愛らしい少女だ。ドレスを着てきちんと髪をまとめているからきっとクインより年上なのだろう。


「は……い、大丈夫、です」


「ごはん食べられた? 野菜スープしか出てこなくてびっくりしたでしょう?」


 リリィはリリアよりも無邪気で明るい快活な少女だった。ぱっと大輪の花が開いたような笑顔に目が惹きつけられる。

 普段だったら畏縮してしまうのに、カラっとした雰囲気に背中を押されるように、自然に言葉が出て来る。クインは頬を染めて一生懸命声を出した。


「スープも、パンも……とてもおいしかった、です」


「そっか、なら良かったわ!」


 リリィはまるで自分の事のように喜んでいる。裏表のないさっぱりとした性格のようだ。弾むような話し方が、耳にとても心地いい。

 リリィのように滑らかに喋りたいのに、どうして自分の口はこんなにうまく動かないのだろう。クインは歯がゆくなってぎゅっと手を握りしめた。


「あの……あの……ありがとう、ございまし……た」


 リリィをまっすぐに見つめて、頬を染めて一生懸命クインがお礼を言うと、リリィは嬉しそうに笑う。


「うん。無事でよかった! あのね、ずっとお部屋にいて退屈してない? なんかしたいことってある? 私もうすぐピアノの練習の時間なのよね。一緒に練習する? アレンお兄さまついてきちゃうけど」


「リリィ……ちょっと強引すぎると思うなぁ。ごめんね、妹はあんまり同世代の子と接したことがないから、距離の取り方がよくわかってないんだ」


 トマスが困ったような声でそう言うが、クインも同世代の人間と接したことなどほとんどない。だからどれが正解かはわからないけれど、リリィに話しかけられるのは決して不快ではない。明るくキラキラした方向へ手を引いてくれる気がする。もし許されるなら、もう少し彼女と一緒にいたい。話をしてみたいと思う。でもそれと同じくらい不安も感じる。


「ピアノはね、一階のダンスホールにあるの。一緒に弾く?」


 期待に満ちた目を向けられたクインは、顔を真っ赤にして口をパクパクとさせる。気持ちばかりが焦ってしまってうまく考えがまとまらない。


「いいよ、ゆっくりじっくり考えて? それで、心が決まったら、クインはどうしたいのか言ってごらん? 大丈夫、僕たちは君の願いを叶えるためにここにいるんだから」


 ゆったりとした口調でそう告げたトマスは、室内に足を踏み入れていない。ずっとドア付近に留まっている。それはクインが入室の許可を与えていないからなのだ。願いを叶えるという言葉を、彼は実践している。

 背筋をきちんと伸ばして穏やかに微笑むトマスは、先程とは打って変わって、包容力に溢れた頼りがいのある青年に見えた。ダラダラしていた時とはまるで別人のようだ。クインに向けられている眼差しは柔らかくて慈しみに満ちている。


「焦らなくてもいいし、怖がらなくてもいいよ。願いを口に出してごらん?」


 その言葉に背中を押されて、クインは両手を胸の前で握りしめて、リリィの目を見つめた。


「ピアノ……すき、です。一緒に……行きたい、です。……でも……上手に、弾けない……です。あと……外はすこし……こわい、です」


「うん、わかったわ!」とリリィはにっこり笑ってくれる。


「知らない場所が怖いのは当たり前だわ。だから少しずつ知っている場所にしていきましょう! それに、上手く弾くのは、音楽家にでも任せておけばいいわよ」


 目の前に左手が差し伸べられる。クインは何の躊躇いもなくその手を取って、そんな自分に驚いてしまった。ぐっと体が引っ張られる。「危ない!」という声が近くで上がった。上手く足が動かず傾いたクインの肩を慌てて誰かが支える。前につんのめった体はすぐさまイザベラに預けられた。

 イザベラに背中から抱きしめられたクインは、何が起きたのか自分ではよくわからず茫然としてしまう。


「ごめんなさい。私調子に乗ったわ。驚かせて本当にごめん。怖くなかった? 大丈夫?」


 リリィがクインの右手を両手で包み込むようにして謝罪する。クインは慌てて首を横に振った。違う、リリィは悪くない。クインの足がまだ上手く動かなかっただけなのだ。だからそんな悲しい顔をしないでほしい。クインは再び首を横に振ろうとしたが、「はい、二人とも、もうおしまい」そう言ったイザベラに頭を軽く押さえられ止められてしまった。ぎゅっと背中から抱きしめられる。


「次からはリリィも気をつけなさいね。…………で、アレンは何でそんな暗い顔をしているのかしら?」


「大変申し訳ございません。許可なく触ってしまいました……」


 まるで大怪我でもさせたかのような落ち込みように、室内に微妙な空気が流れ始める。心の底から自分の行動を悔いているようだ。でも。アレンはクインが転ばないように助けてくれただけで、誰かに責められるようなことは何ひとつしていない。


「……何で、お兄さまそんなに落ち込んでるの?」


 恐る恐るといった感じで、全員を代表してリリィがもう一度理由を尋ねた。アレンは気まずそうな顔で俯いている。


「相手が勝手に誤解して盛り上がるから、女性にうっかり触るな。もしどうしても回避できない状況に陥って触ってしまった場合は、『そんなつもりではない』と伝える意味で、誠心誠意謝罪しろと周囲から言い聞かせられているんですよ、アレンさま」


 キースの言葉に、「ああー」という声が室内のあちこちから上がった。


「今のは想定されている状況とは違うよね。これだとアレンの方が勘違いした人になってるんだけど、きっと理解できないんだろうなぁ。……とりあえず見当違いだから、落ち込む必要ないよ。今咄嗟にアレンが支えなかったらクインは転んで怪我をしてた。君の行動は騎士として間違ってはいない」


 静かな声でトマスがそう言った。キースとリリィとイザベラが重々しく頷く。だが、トマスのいう『勘違い』が何かはクインにもよくわからない……


「ここで落ち込んでると、女性はすべて自分を好きになると思い込んでいる、自意識過剰な色男ってことになるわよ、アレンお兄さま……」


 意味がわからないがそれは嫌だというように、アレンが顔を顰める。どうしてそうなるのだろうかとクインも首を傾げた。


「……クインさま、アレンさまはですね、急に触られてクインさまが嫌だったんじゃないかなーって思って落ち込んでるんですよ」


 キースがそう説明してくれて、ようやくクインにも状況が理解できた。


「だい……じょうぶ、です。……あの、あの、助けて……下さり、ありがとう……ござい……ます」


 クインが慌ててお礼を言うと、アレンは安堵したように顔を上げた。


「変に体を捻ったりしていませんか? 大丈夫ですか?」


 心配そうな顔を向けられた瞬間に、クインは狼狽えて、体を捻るようにしてイザベラの腕に縋りついてしまった。天使様たちは皆とても容姿が整っているけれど、その中でもアレンは女性の理想を形にしたような外見をしている。眩しくてまともに顔を合わせられない。まるで全身が心臓になってしまったようだ。


「あらあらあら」


 おかしそうなイザベラの声を聞きながら、どうしようどうしようとクインは涙目になってしまう。


「す、すみ……ま……せん。ごめんな……さい」


 先程傷付いたような顔をされたことを思い出して、申し訳なさでクインは小さくなった。確かにこの態度はあまりにも失礼だ。そう思って一生懸命顔を上げようとはするのだが、どうしても……無理。


「あ……の、気を使わせているのなら、すみません。その……無理はなさらないで下さい」


 アレンの方が申し訳なさそうな声をしていた。優しい人だというのは本当だった。


「大丈夫大丈夫その内見慣れるから。クインだけじゃないわ。アレンお兄さま見ると大体みんなそうなるの」


 クインが恐る恐る顔を上げると、リリィは「私も昔そうだったから」と悪戯っぽく笑う。自分だけではないのかと、クインはほっと息を吐いた。


「アレンもそういう反応には慣れているから、気にしなくて大丈夫よ」


 イザベラの言葉を聞いて、会う人会う人にこんな態度を取られたのでは大変だなとクインは思った。人と接するのが苦手になるのもわかるような気がする。

 その時にふと、クインはトマスの言った『想定された状況』と『勘違い』の言葉の意味に気付いた。

 はっと顔を上げて思わずトマスを見る。


「……あ、僕が言った言葉の意味がわかったんだ?」


 トマスがおかしそうにくすくすと笑った。


 アレンはクインがまともに顔を見られないくらい魅力的な外見の人だ。そんな人に触れられたら、女性は舞い上がってしまって、自分がアレンに好意を持たれたのだと信じ込んでしまう可能性がある。

 だからアレンは気安く女性に触れるべきではないし、もし触れてしまった場合は、相手に『そういうつもりではない』と伝える意味で、誠心誠意謝罪しろということなのだ。


 でも、今回クインはアレンの行動が、好意によるものではないときちんと理解している。

 そうなると……


 ――アレンの方が勝手に、クインが自分に好意を持ったと『勘違い』した……と、いうことになってしまう。


 『内緒だよ?』というようにトマスは口元に人差し指を当てて目を細めた。クインは小さく頷く。

 その様子を見ていたリリィも同じ様に人差し指を口元で立てる。成程、それでリリィは、『女性はすべて自分を好きになると思い込んでいる、自意識過剰な色男』だと言ったのか。ふふっと思わずクインも小さく笑ってしまった。

 

 室内の空気がより優しいものに変わる。周囲を見渡すと、天使様たちが皆、安心したように微笑んでいた。


「……キース、リリア見かけたらダンスホールで待ってるって伝えてくれる?」


 リリィが一際明るい声を出す。


「あのね、リリアはピアノが上手なの! あの子は何でもできるから本当にすごいの!」


 リリアの事を語る時、リリィの目は誇らしげにきらきらと輝いた。クインはその表情から目が離せなくなる。

 純粋に羨ましいなと思った。そんな風に自分も大好きな誰かの事を、幸せな笑顔で話せる人になりたい。いつかそういう存在に出会いたい……


「リリアが一緒の方が絶対に楽しいわ!」


 リリィの笑顔を見ていると、気持ちがどんどん明るくなってゆく。

 リリアがそっと寄り添ってくれる天使様なら、リリィはクインを暗い場所から連れ出してくれる天使様だ。

 クインはぽーっとした顔でリリィを見上げた。心臓に手を当てて自分の鼓動を確かめる。今は、楽しそうに嬉しそうに弾んでいるような心臓の音――


 ……リリィさまもすごい。


 きっと……きっとこれから楽しい事が待っている。クインの体はそう一生懸命訴えているようなのだ。


 もっと色々な話をしたい。リリィとリリアのように誰かを幸せにする笑顔を浮かべられるようになりたい。クインは一生懸命笑おうとする。唇の両端を引き上げただけの強張った顔は、すごく不細工だけど今はそれが精一杯だ。でも、イザベラは微笑んで優しく頭を撫ぜてくれた。


「階段が少し心配ね。アレン、おぶってあげて? 大丈夫よ、アレンは騎士だから、怪我した人を運ぶのもお仕事なの」


「しっかり背中に凭れかかって、手を首に回して下さい」


 アレンが両膝をついてクインに背中を向ける。イザベラに手伝ってもらって、アレンの背中に体重を預けて首にしがみついた。一度体を前に倒してから、まるで重さを感じていないようにすっとアレンは立ち上がる。イザベラの言う通り、確かに彼は騎士で怪我人を運ぶことに慣れているのだ。変に恥ずかしがる方がアレンに対して失礼なのだと気付いて、クインはしっかりと体を密着させた。

 驚くほど視線が高い。見える景色がまるで違う。昔父にこうやっておんぶされたことを思い出した。あの時と同じ広く温かい背中。記憶の底から浮かんでくるのはもう……穏やかだった日々の思い出ばかりだ。


「無理のない程度に、少しずつ食べる量を増やして下さい。……軽すぎます」


 痛みを堪えるような声だった。そんなに心配されるほど自分は痩せているのかとクインは愕然とする。

 

「はい……」


 ちゃんと食べなくちゃ、そう決意を固める。


「じゃあ行きましょう!」


 一瞬沈んだ雰囲気を吹き飛ばすようにリリィが言った。部屋の外に出るのだと気付いてクインは少しだけ緊張する。それが背中越しに伝わったのだろう。


「大丈夫ですよ。この屋敷は安全です。あなたを害するような者は誰も立ち入れません。私だけでなく、ここにいる皆があなたを守りますから」


 耳に心地よい声がそう告げた。真摯な言葉はまっすぐにクインの心に届いた。

 リリアの言う通りだった。クインはこの場にいる全員に守られている。


 これからリリィが連れて行ってくれる扉の向こうにもきっと、優しくてあたたかい世界が広がっている。クインは素直にそう信じることができた――






「…………このままいくと、あっという間にヒューゴさまは忘れ去られてしまうのではないかと思うのですが」


 リリィたちを見送ってから、キースはぽつりと呟いた。


「……アレンがまともだったことにびっくりだよね。最終的にはちゃんと騎士だったね」


 トマスが茫然とそんな事を言っている横で、イザベラはすべての窓を大きく開け放ちながら昔を懐かしむ目をしていた。


「……かわいいわぁ、本当にかわいいわぁ。キースにもあんな頃があったのよね。わたくしのスカートをぎゅっと握って、お魚は上手に食べられないから食べさせて下さいって涙目で……」


「やめてくださいっ」


 イザベラの言葉をキースは顔を真っ赤にして遮った。


「うん。確かにちょっと似てる、キースの小さかった頃に。ところで、今更なんだけど、あの子何歳なんだろう……あの恰好だとかなり幼く見えるよね……」


「十六歳ですよ」


 掃除道具を持って部屋に入って来たルークから、キースは箒を受け取り壁に立てかける。イザベラは手早く羽根はたきをかけ始めた。クインが戻ってくる前に部屋を掃除して寝具を整えてしまわないといけない。


「……それより四歳くらいは若く見えるよね」


 キースと共にベッドから上掛けを外しながら、トマスが沈んだ声でそう言った。ガルトダット伯爵家当主は普通に掃除もできる。


「とてもリリアとひとつしか違わないようには……」


 キースの眉間にも深い皺が寄る。やせ衰えたクインは妹たちより一回り小さく見えた。アレンの『軽すぎます』という言葉が思い出される。

 傷だらけで怯えている小鳥のような子供。皆で大切に大切に守ってやらないときっと息絶えてしまう。

 時折クインの顔にはほんの微かな笑みが浮かぶ。でも、自分で意識して笑顔を浮かべようとするとうまくいかないようだった。与えられた優しさに応えようと一生懸命笑おうとしている姿は痛々しい。

 だから……

 彼女が小さく声を出して笑ってくれたときは本当にほっとしたのだ。そういう意味で、アレンは今回、大変役に立っていた。


「先程王宮から使いの人が来ましたよ。閣下がトマスさまにお会いになりたいそうで、明日の午後に時間を作るから来てほしいと」


 新しいリネンを持って部屋に戻って来たルークの言葉に、トマスが気まずそうに目を伏せた。


「おじいさま……小躍りしたって聞いたけどさ……」


「駆け落ちなんて言葉使うからですよ。……知りませんよ? 明日忙しいので立ち会えませんからね」


「生きてる内にひ孫の顔をとか言い出しかねないわよね……」


 ルークとイザベラから咎めるような目を向けられ、


「……どうしよう」


 シーツをはぎ取る手を止めて、トマスは青ざめた顔で呟いた。


「状況は確実に悪い方に向かってますよ」


 枕を叩きながらキースは投げやりにそう答える。面白がって無責任な事を言うからこういうことになるのだ。


「このままだとキースの言う通り、ヒューゴが忘れ去られるのも時間の問題だわ。一体何してるのよあの子」


 はたきをかけ終えたイザベラは、壁に立てかけてあった箒を手に取ると床を掃き始めた。

 ……食後に引き合わせるつもりだったのに、イザベラがクインに絵本読み聞かせるとか言い出したせいで、ヒューゴを登場させる機会を失った気がしなくもない。


「ヒューゴお兄さまは、部屋に鍵かけて閉じこもってます」


 リリアが水の入ったバケツを持って室内に入って来ると窓ガラスを拭き始める。


「リリア、リリィお嬢さまが呼んでる。ピアノ弾けって」


「窓ふき終わったら行きます。……ヒューゴお兄さま、何もしないつもりなら、どうしてここに居座り続けるのでしょう?」


 リリアは手を止めずにふくれっ面でそう答えた。何もしないならさっさと帰れと妹は言いたいのだ。確かにその通りではある……でも頼むからそれを絶対に本人の前では言わないでくれと全員思った。

 

「結局、ヒューゴはクインを目の前にした自分がどういう行動を取ってしまうのか、自分でわからないのが怖いのよね……」


「しかも天使様ですからねー。今回は絶対に失敗は許されないとでも思ってるんでしょうねぇ。後になればなるほど期待されるってわかってるのかなぁ」


 トマスの言葉に全員が手を止めため息をついた。

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