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50 天使様たちの大迷走 その5



 クインの母はイザベラという名前のようだ。赤い髪の天使様がそう呼んでいた。


 『グレイス』は母の名前を覚えていない。幼い頃の記憶はおぼろげだ。 

 金の髪に青い目をした人だった。いつも優しく頭を撫ぜてくれた。空からずっと見守っていると言ってくれた。はっきりと覚えているのはそのくらい。


 手を伸ばせば触れられる場所で、イザベラは微笑んでくれている。スプーンを止めたクインに気付いて、記憶の中の母と同じ優しい声で「どうしたの?」と尋ねてくれる。


「何か、困ったことになったのね?」


 立ち上がったイザベラは悲し気に俯いたクインの近くまでくると、膝をついて顔を覗き込んだ。


「おかあさまみたいに……じょうずに……食べられない……です」


 クインは俯いて小さな声でやっとそれだけ言う。イザベラの食事のマナーは美しい。だから自分の食べる姿を見て呆れられてしまうのではと不安になったのだ。こんな風に落ち着いて座って食事をするのは本当に久しぶりで、どうしていいのかもうわからない。怖くて手が震えてしまうのだ。


「そう? じゃあ食べさせてあげましょうか?」


 え? とクインは驚いて目を上げた。赤い髪の天使様がイザベラが座っていた椅子をクインのすぐ隣まで運んでくる。立ち上がって椅子に座り直したイザベラは、クインの前にあった食事と食器を自分の方に移動させた。そして、スプーンで野菜のスープを掬うと、零れないように片手を添えながらクインの口元に差し出した。


「はい、お口を開けて?」


 おずおずと口を開くと、ゆっくりとスープが口の中に流し込まれた。


「美味しい?」


 クインは大きく何度も頷く。細かく刻んだ野菜が沢山入った温かいスープはびっくりするくらい美味しかった。クインの頬に赤みがさす。


「苦手なお野菜はあるのかしら?」


 尋ねられてクインは首を横に振った。


「えらいわね」


 褒められて、クインの頬はますます赤く染まる。スプーンを口元に差し出されて、躊躇いなく口を開ける。幸せで嬉しくてふわふわする。イザベラも楽しそうに目を細めてにこにこしている。


「上手に食べる事よりも、今は美味しく食べることの方が大事なの。こうしていると美味しく食べられる?」


「……はい。……でも……おかあさまが……食べられ……ませ……ん」


 クインが心配そうにそう言うと、イザベラはとても幸せそうに笑った。


「子供が美味しくご飯を食べている姿を見守るのは、親の楽しみなのよ。はい、あーんしてね」


 またスプーンが口元に運ばれる。クインは素直に口を開けた。


「キース、パンを取ってくれる?」


「イザベラさま、ご機嫌ですね」


 キースと呼ばれた赤い髪の天使様がイザベラの手元に小さな丸パンを乗せた皿を置く。


「かわいいわぁ……この感じ懐かしいわぁ……ねぇキース、これは神様がわたくしに下さったご褒美の時間なのよね。ここ数カ月間の心労はこのためだったのねー」


「あー、そう思うならそうなんじゃないですかねー」


 キースは困ったような顔になった。


 一口大に千切ったパンを差し出されてクインは口を開ける。パンもふわふわでとても美味しい。顔を輝かせたクインを見て、イザベラは笑みを深めた。


「パンが気に入ったのね?」


 クインは小さく頷いた。幸せすぎて頭がクラクラしてきている。


「楽しいなら良いですけどねー。追加のパン持ってきましょうか?」


「クイン、もう少し食べられるかしら?」


 クインはお腹に手をやって首を横に振った。多分ひとつでお腹が一杯になってしまう。


「無理に食べさせないようにってウォルターさんが言っていましたね。少し時間を置いてからの方が良いかもしれませんね」


「そうね、じゃあゆっくりここにある分を食べましょうね」


 もぐもぐと一生懸命パンを食べているクインを、イザベラは青い目を細めて見守ってくれている。


「……で、どうします?」


「ああ、ヒューゴ? 食事が終わったら、クインはヒューゴに会いたい? それとももう少しわたくしと一緒にいてくれる? 一緒に外国の綺麗な絵本を読みましょうか」


 イザベラの言葉にクインは顔を輝かせた。


「ちょっと、ちょっと待ってください、イザベラさま……」


 キースが焦ったような声を出すが、そわそわしているクインを見て慌てて口を噤んだ。


「……おかあさまと、絵本が……読みたい……です」


 頬を真っ赤に染めてキラキラとした目で見上げてくるクインを見て、イザベラは満足げに頷く。青い目の天使様にも会いたいけれど、クインは今は母親に甘えたいのだ。


「キース、後でリリィの所から本借りてきてくれる?」


「……いいですけど……いいのかなぁ…………うん、でもクインさまがいいなら、いっか」


 キースは少し迷ったように視線を彷徨わせたが、やがて自分自身に言い聞かせるように頷いた。





 

 食事の後、イザベラと並んでソファーに座り、外国語の絵本を読んでもらっている。クインはずっと夢心地だ。目を合わせてにっこり微笑んでもらえると、心臓がドキドキして口から飛び出しそうになる。どうしようどうしよう。お腹もいっぱいで、幸せすぎて苦しい。

 控えめなノックの音がして、イザベラが目を上げる。「クインさま、よろしいですか?」と尋ねる声はキースだ。赤い髪の……少年のような目をした、軽やかな雰囲気の天使様。


「どうぞ……お入りください」


 だいぶその言葉にも慣れてきた気がする。ここはクインのために用意された部屋で、クインを守ってくれる場所で、怖いものは一切入って来られない。


「失礼します。イザベラさま、今日もお花が届きましたよー。どちらに飾りましょうか?」


「わぁ……」


 思わずクインは声を上げた。キースが抱えているのは深紅のダリアの花束だ。赤い髪と琥珀色の瞳に深紅の花がとてよく似合っている。


「クインが気に入ったのなら、このお部屋に飾りましょうね」


「じゃあ、花瓶取ってきますねー」


 テーブルの上にそっと花束を置いて、キースが部屋から出ようとした時だ。


「あー、キース丁度いい所に……疲れたから紅茶淹れてー」


 廊下から、間延びした声がした。


「あら、こちらとしても丁度いいわね。クイン、紹介したい人がいるのだけど、部屋に入れてもいいかしら?」


 イザベラの問い掛けにクインは小さく頷く。しかし、少し怯えた目をしたのはすぐに見抜かれて「大丈夫よ。会った事がある人だから」と宥められた。その言葉で、廊下にいるのは馬車の中で会った栗色の髪の男性なのだとクインは気付く。


「トマス、ちょっと部屋の入り口まで来てくれるかしら? 入室は認められません」


「……なんですかそれ。今疲れてるので、後で改めてちゃんと挨拶しますー」


「そのダラダラしている感じの方がいいのよ」


「意味がわからないんですけどー」


 そう言って入り口に姿を現したのは、やはり馬車で一緒だった青年だった。三つ揃えのスーツを着ている。あの時はいかにも貴族らしい洗練された雰囲気だったのに、今は疲れ果てた顔でだらーっとドア枠に凭れかかっていた。


「こんなんでごめんねー。もう大丈夫―? なんか困ってることなーい? あーその恰好可愛いね。良く似合ってる」


 気だるげに栗色の目を上げて、淡くクインに笑いかける。のんびりした優しい声が場の空気を穏やかなものに変えた。緊張にがちがちになっていたクインの体から力が抜ける。なんだかつられて気が抜けてしまったのだ。しかもさりげなく可愛いと褒められたと気付いて、クインの顔が真っ赤になる。


「あの……あの……」


「うん、あのねー、嫌じゃなかったらトマスお兄さまって呼んでくれたら嬉しいなぁ? そうしてくれたら、僕……もう少し仕事がんばれそうな気がする。……お願いお兄さまって呼んで。もう本当に辛い。もう頑張れない。なのに書類が減らない。僕がんばってるのに、なんで?」


 縋るような目を向けられて、クインは目を瞬いた。


「……クインさま、嫌じゃなかったら『お兄さま』って呼んであげて下さい。可哀想な人なんです。最近妹たちに相手にしてもらえなくて淋しくてしかたがないんですよ」


 花瓶を持って戻って来たキースが冷めた視線をトマスに向ける。


「可哀想ってひどい。でも確かに、最近リリィもリリアも以前にも増して僕に冷たい……」


 声がどんどん暗くなり、トマスは全身から哀愁を漂わせ始める。つまり、彼はリリアの兄なのだ。そう気付いた途端にクインの中でトマスに対する警戒心は跡形もなく消え去った。


「……最早憐みしか感じない」


 萎れた花のようになってしまったトマスに、キースが呆れ声でそう言った。


「いいの……ですか?」


「うん。そう呼んでくれると嬉しいなぁ。困ったことがあったら何でもお兄さまに言ってね。出来る限りのことはするからねー。僕もクインって呼んでもいーい?」


 トマスはのろのろと俯いていた顔を上げた。クインに向けられた笑顔はとても秀麗だ。天使様たちは皆顔立ちが整っていてドキドキする。

 でも、どうしてだろう。この人の前だと息が楽にできるような気がした。無理せずそのままでいいよと見守られている気がする。彼は何でも大らかに笑って許してくれそうなのだ。嫌われたくない、良い印象を持ってもらいたいという焦燥感が消えてゆく……安心して眠たくなってくる……


「……はい。トマス……おにい……さま……」


 トマスの纏う独特の雰囲気に流されるように、クインは思わずそう口に出していた。はっと気づいて一瞬ひやっとしたが、トマスはとても嬉しそうな顔をしていたので安堵の息を吐く。


「うん、ありがとうね。もうちょっとがんばれそう……嬉しいなぁ」


 照れたように笑いながら、トマスは姿勢を正した。そうするとやはり彼は素敵な貴公子だ。にこにこと笑いかけられて、つられるようにクインの頬も緩む。ちゃんと笑えるんだと気付いたクインは頬に両手を当てた。嬉しいと言ってもらえたことが、とても嬉しい。


「クインのことはお兄さまがちゃんと守るからね」


 トマスの優しい笑顔が涙で滲む。クインは慌てて瞬きで誤魔化した。自分はこんなに泣き虫だっただろうか。委縮していた心が解放されて、少しの刺激でも大きく大きく揺れる。その度に涙が出るから本当に困ってしまう。


 ここでは誰もクインを騙そうとしないし、悪意を向けようとしない。天使様たちは何か一言クインが言葉を口にすると、大きな優しさを返してくれる。

 

 ――ほら、やっぱりここは天国なのだ。


「あと紹介しておかないといけないのはリリィとアレンね。トマス呼んできてくれる?」


「庭にいますよ。リリィは落ち着かないみたいで、アレンと二人であちこちうろうろしてますねぇ」


 トマスがそう言って、窓の外を目で指す。イザベラに連れられて二人で窓に近寄り庭を見下ろすと、リリアとよく似た少女が、ラウンジスーツを着た黒髪の青年と歩いているのが見えた。


「リリィ」


 声に気付いた少女が上を向いた。傍らの黒髪の青年が一礼する。

 少女は、見ているだけで元気をもらえるような明るい笑顔を浮かべてクインに向かって大きく手を振った。

 

 彼女だ! クインをあの恐ろしい舞踏会から助け出してくれた勇敢なお姫様だ。

 

 あの時、疲れ果てた体は自分のものではないかのように重たくて、一人で歩くこともできないような状態だった。目に映るもの、耳に届く音は何の意味もなさず、呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。

 どろどろとした灰色の闇が体に纏わりついてくる。『グレイス』を底なし沼に沈めようとするかのように。

 そこに、突然雷が落ちたのだ。

 視界が一瞬真っ白になった。そのあまりに鮮烈な光に茫然とした『グレイス』に、自分という存在を思い出させてくれたのは、「お名前を教えていただけますか?」という彼女の一言だった。


「もう起き上がっても大丈夫? 待ってて、今からそっちに行くから。アレンお兄さまも一緒でいい?」


「あ……はい」


 少女の傍らに立つ黒髪の青年は一際整った容姿をしていて……クインは少し怖くてイザベラの腕にしがみついてしまった。その途端彼は少し傷付いたような顔をしたから。クインは動揺しておろおろしてしまう。

 リリィが走り出したのに気付いて、アレンと呼ばれた男性は「急に走ると危ないですっ」と声を上げて、慌てて後を追った。


「大丈夫よ」


 優しく頭を撫ぜられて、眉尻を下げてクインはイザベラを見上げた。


「怖いという気持ちも自分を守るために大切よ? でも、アレンは怖くないから大丈夫。アレンは騎士なの。クインのこともちゃんと守ってくれるわ。でもあまり人と話すのが得意ではないのよね」


「……予防線を張りましたね」


 入り口付近に立つトマスがぼそりとそんな事を言った。予防線とは何だろう。クインは首を傾げる。


「人と接するのに苦手意識があるの。ああいう外見だから苦労してきたのよね。上手く会話できないと思うけど、許してあげてね?」


「騎士……様、なの……ですか?」


「うん、騎士。うん、騎士?」


 背後のトマスが訝し気な声を出した。


「疑問形にするのやめません?」


 キースが深紅のダリアの花瓶を抱えて持ってくると、窓辺に置かれていたオレンジ色のダリアの隣に並べた。お互いに引き立て合い花の色が鮮やかになった気がする。目が覚めた時に少し寂し気に見えたオレンジ色が今は生き生きと輝いて見えるから不思議だ。


「他の騎士の皆さんに何となく申し訳ないような気がしてさ。確かに実力では騎士できるけどねぇ……」


「そうね、まだまだ騎士としては頼りないわね。でもここ最近努力していると思うわよ?」


「お二人とも結構ひどいこと言ってる自覚あります? クインさま不安そうですよ。……違うんですよ。優しい人なんです。ただ、ちょーっと、何言っているのかわからない時があるんですよね」


 キースは多分安心させようとしてそう言った。しかし、クインはより混乱した。何を言っているのかわからないというのは、一体どういう事だろう。クインも喋るのはあまり上手ではない。自分と同じ様に考えていることを上手に言葉にできないのだろうか……


「うーん、説明が難しいんですよ。『何で今それ言うの?』とか『どうして今それやるの?』って事が多い……って感じかなぁ。すごく良い外見もらったのに、どうして中身こうなっちゃったんだろうって思うと悲しくなってくるというのか……」


「いや、キースが一番ひどいよね」


 トマスが真面目な声でそう言った。

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