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5 「がんばって会いにおいで」


 ジョージが家令に復帰したことで、ルークがようやく執事役から解放された。

 ルークとアレンとダニエルは近衛師団本部。トマスとキースは挨拶回り。

 がらんとした伯爵家で、イザベラが言ったのだ。


「リリィ、ちょっとおじいさまのところまでおつかいに行って来てくれる?」


 ――その時は……まさか彼女の馬車が侯爵家にたどり着けないとは誰も思っていなかった。




 リリィは落ち着き払った様子で、メイジーと馬車に乗った。お守りの絵本はちゃんと持った。

 アレンとリルド侯爵家に行った後、リリィは少しずつだが外に出られるようになっていた。エミリーたちと一緒に馬車で王都の名所を巡ったし、百貨店にも連れて行ってもらった。

 久しぶりに見た外の景色は、記憶の中にあるものとは少し違っていた。リリィの視線が高くなったからかもしれない。毎回、トマスかアレンが必ず隣にいてくれたので、安心していられたというのもある。……なんだかじろじろ見られている気がしたが、主に女性からの視線だったのであまり怖くなかった。

 

「メイジー頼むわね。ナトンさんも本当にお願いしますね」


 行ってこいと命じたイザベラの方が、青い顔をしていた。リリィの隣に座るメイジーは固い表情で頷いた。斜め前に座ったナトンもこれから決闘に赴くような、緊張感漂う顔をしている。


 ここ最近、リリィが大柄な男性に慣れられるようにナトンは色々協力してくれている。お花をくれたり、お菓子をくれたり、絵本を読んでくれたりと……大迷走している。意外と良い声だったので、絵本の読み聞かせは何度かお願いしてみた。歌を歌ってもらう約束もした。彼は暇をみつけては歌の練習をしている。……結局過保護な大人がもう一人増えただけだった。


「おかあさま、やはりここは私が一緒に」


「私も一緒に……」


「ダメよリリア、エミリーさん。ここは耐えるのよ」


 不安げな表情でそう言ったリリアとエミリーを振り返って、イザベラは悲壮感漂う表情をしながらも、きっぱりと言い切った。

 ここでリリアとエミリーがついて行ってしまったら、普段のお出掛けになってしまう。

 今回は侯爵家に行く途中で、ロバートが経営しているお店に寄って、紅茶を買うのだ。ロバートはお店で待っていてくれているらしいので、そこで合流して一緒に侯爵家に行く。


「これはリリィのためなの。大丈夫よ、この子もだいぶ外には慣れて来たわ。行くのはロバートの店よ。リリィにもきっとできる。……けど、やっぱりアレンかルークがいる時の方が良いかしらねぇ。慣れてきた頃が一番危ないとも言うし……」


 イザベラもだんだん迷い始めている。「やっぱりリリアに行ってもらおうかしら」と、意味のわからないことを言い出している。これはリリィが外出に慣れるためのおつかいではなかったか。


「おつかいはまだ少し早いと思います……リリィさまはまだお小さいので」


 ナトンが大きく頷いている。……何故だろう? と、リリィは思った。ナトンはおかしなことを言っているのに誰も否定してくれない。

 このままだと、外出自体が中止となりかねない。リリィはため息をついた。


「ロバートが心配するから、行くわ」


「……そうね。あんまり遅いとロバートが……心配しすぎておかしくなるわね。行ってきなさい」


 そうして馬車は、屋敷に残っていた者たち全員に見送られ、伯爵家を出たのだった。誰一人として上手く笑顔を浮かべられていなかった。


 馬が走り出した瞬間に、


「やっぱり無理かも……」


 と駆け出そうとしたイザベラを、「危ないですからっ」と使用人たちが数人がかりで慌てて止めた。




 大通りの中心部にある広場。高級店が軒を連ねる一角にロバートの経営する店はある。

 店内のショーケースには、海外で買い付けて来た化粧品や香水、一点もののアクセサリー、宝石など、女性が喜びそうな品が美しく並べられている。

 普段は次々とお客が訪れる人気店なのだが、今日は一日貸し切りである。

 三つ揃えのスーツを着たオーナーがうろうろ店内を歩き回っているため、従業員たちも落ち着かない。


「……だ、大丈夫ですよきっと……落ち着いて下さい」


「今日は……そんなに道も混み合ってない……みたいですから」


 美しく着飾った女性店員たちの声も震えている。


「昨日……一本向こうで脱輪事故があったよな……大丈夫か伯爵家の馬車」


「先週、三軒隣で立てこもり事件がありましたね……」


「騎士団の方が、強盗捕まえてたのっていつでしたっけ……」


「……何か胃が痛くなってきた。なんで一人で出すかな。まだ早いだろ。アレンさまかルークつけろよ」


 ロバートは髪をぐちゃぐちゃとかきまわしかけて、そういえばきちんと整えてあったと気付いて手を止める。リリィに買い物の練習をさせるために、それなりの恰好をしておいてくれとイザベラから頼まれているのだ。


「それではいつまで経ってもお嬢さま、独り立ちできませんよ……しなくて良い気がしますけど」


「そうです。それが許されるお立場なのですから、リリィさまは無理してお外に出る必要ないと思います。……私たちが何でもお届けしますからっ」


 御用聞きのために何度かガルトダット家を訪れたことがある二人の店員は、顔を見合わせって頷き合った。あの浮世離れしたところが可愛らしいのだ。もうずっとそのままで良いではないかと彼女たちは心の底から思った。


「ちょっと遅すぎないか。やっぱり馬車が脱輪……」


「立てこもり……」


「強盗……」


「……いい加減にして下さい。その流れ、もう十五分前から繰り返されてます」


 一人冷静な初老の店長が、額を押さえて呟いた。とはいえ、店長の心の中にも嵐は吹き荒れていた。不安というものは伝染するのである。そして、その不安が大きくなると――良からぬ何かを呼ぶものらしい。


 突然ドアが開く。全員弾かれたようにそちらを見る。フロックコート姿の紳士が店内に入って来た。


「大変申し訳ございません。本日は貸し切りとなっております」


「またのご来店をお待ちしております」


 さすが高級店の店員らしく、意識をさっと切り替えた二人がにこやかにそう告げた途端、


「全員その場に動くな」


 と紳士は大声を出した。その背後には男性が二人隠れていた。彼らは手にナイフを持っていた。


「……ほらだから言わんこっちゃない」


「……どうして、なんで?」


「……え? ええ? やっぱりこうなるの?」


 女性店員が体を寄せ合って震えているが、ナイフに怯えているのではない。店長はショーケースの前で力なくしゃがみ込んだ。


「うるさい静かに」


「てめーがうるせーんだよ。何で今日来るんだよ。しかもなんで今なんだよ。ふざけんなっ」


 強盗に駆け寄ったロバートが、すべての怒りを込めて、最初に入って来た紳士風の男を殴り飛ばした。男は背後にいた二人を巻き込んで床に倒れた。


 床に転がったナイフを拾い上げたロバートは、完全に悪役の顔をしていた。


「覚悟できてんだろうなぁ。あぁ?」


 ナイフをちらつかせる柄の悪い海賊がそこにいた。強盗たちの目には怯えが浮かんだ。ここは舶来品を取り扱う貴族たちの間で人気の店と聞いていた。

 ……騙された。と、彼らは思った。




 馬車がロバートの店の前に着くと、ルークと同じ軍服を着た騎士たちが店の前に数人立っているのが見えた。ナトンが馬車を降りて様子を見に行くことになり、騎士と一言二言何やら言葉を交わしてから店内に入ってゆく。

 しばらくするとナトンは扉から半分体を出し、年嵩の御者を手招いて何事かを伝える。


 御者が困惑した顔で馬車の扉を開けた。


「強盗が入ったらしいです。ロバートさんがその……怒りに任せてナイフで犯人たちの頭をまだらに刈ったらしくて……中で騎士の皆さんに怒られてます。ナトンさんが紅茶受け取って来てくれるそうなので、このまま出ましょう……って、え?」


 いきなり馬車が走り出す。メイジーが慌てて御者を馬車の中に引っ張り込んだ。安全のために御者は扉を閉めた。


「……え?」


「……へ?」


 リリィとメイジーと御者は顔を見合わせた。御者台を確認すると、ひょろりとした知らない男が馬車を走らせていた。非常によろしくない状況であることは間違いなかった。


 そのまま馬車は直進し、少し行ってから右折しようとして突然ガクンっと大きく跳ねた。一瞬体が宙に浮いた感覚。メイジーが慌ててリリィを抱きしめる。あまりに展開が早すぎて不安に陥る暇もない。そのまま速度が緩くなり停止する。体感的にはそんなに長い距離を走った感じではない。

 ほっと息をついたのもつかの間、扉が開いて、男が乱入してくる。


 入って来たのは、そんなに強そうでもない……というか、どちらかと言えば、荒事には全く慣れていない様子の青年だった。三人よりもよほど蒼白な顔をした彼は、震える手をメイジーとリリアの前に差し出した。


「迎えに来たよ。結婚しよう」


 青年はボロボロ泣きながらそう言った。


「……へ?」


「……は?」


「さあ、馬車を降りて。怖いよね。……僕もすごく怖い。あ、僕さっき眼鏡落としちゃってよく見えないんだけど……言われた通りちゃんと舟は用意したから」


 リリィとメイジーと御者は呆けた顔で固まった。あまり危機感を感じなかった。何しろ相手は吹けば飛ぶような弱々しい青年だったので。しかも目があまり見えていないらしい。


 ……人違いです。馬車から間違ってます。全員が思った。


 そして、青年はリリィではなくメイジーの手を取った。


「……へ?」


 そのまま恭しく、メイジーをエスコートして馬車を降りようとする。メイジーはリリィを抱きかかえているため椅子から動かない。


「グレイス一緒に逃げよう」


「……人違いです」

 

 毅然とメイジーは言い放った。


「ええ?」


 茫然とした声を出したのは、青年の方だった。その時、いきなり誰かが青年の襟首を掴んで馬車から引きずりおろした。


「おまえっ 俺の馬車にぶつかっただろう」


 地面に尻もちをついて痛みにのたうち回っている青年を、数人の男が取り囲んでいるのが見える。


「ここに傷がついてんだよ。どうしてくれるんだ」


(……どういう状況?)


 リリィとメイジーと御者は顔を見合わせた。


「お迎えに参りました。怖い思いをされましたね」


 開いたままの扉から、また違う男性の声がした。今度はなんだっ! と全員が体を固くした。


 馬車に乗り込んできたのはルークと同じ軍服を着た騎士らしき男性だった。条件反射的に、馬車の中の人間が気を抜いたのがいけなかった。

 彼はメイジーからそっとリリィを奪い取ると、そのまま抱き上げて馬車を降りてしまった。


「……へ?」


「……え?」


 さっきからそれしか言っていない気がするのだが、もうそれ以外に言葉が出て来ない。


「約束通り、舟を用意したよ。さあ、グレイス一緒に行こう」


 朗らかに明るく騎士はそう宣言した。彼もまた先程の男と同類のようだった。騎士はリリィを抱き上げたまま走り出した。


(グレイスって誰?)


「お、お嬢さまっ?」


 メイジーの叫び声が背後から聞こえた。


 目の前には運河へと降りる狭い階段がある。さすが騎士だけあって、男はリリィを抱きかかえたまま、階段を危なげなく駆け下りた。


 慌しく船から荷を下ろしている人夫たちの間を縫って。彼は船着き場に繋いであった小舟に駆け寄ると、宝物を扱うようにリリィをそっと座らせた。自らも乗り込みロープを外して岸から離れようとするが、隣に停泊している船が進路を塞いでいてうまくいかない。

 男は身を乗り出して邪魔な船を手で押している。


 そこでやっとリリィにも喋る余裕が生まれた。


「……あの、人違いです」


 声が違うことに驚いた騎士が振り返り……そこで初めて彼は、膝をついて座っているリリィの顔を見た。驚愕した顔で硬直した騎士は……そのままドボンと水に落ちた。


 リリィの乗った小舟は大きく揺れるがなんとか転覆を免れる。


「おい、誰か落ちたみたいだぞ!」


 音に気付いた人夫たちが騒ぎ始める。そちらに気を取られて、彼らはゆっくり流れてゆく小舟に気付かない。


「……あの船流されてないか?」


 誰かが指を指したころには、リリィの乗る小舟は岸を離れていた。


「お嬢さまっ」


「おじょうさまーっ」


 メイジーと御者が階段を駆け下りて来るのが見える。


「誰かっ誰か、そこの流されてる小さな船を止めて下さいっ」


 メイジーが大声で叫んでいる。


 何が起こっているんだろう。あまりに次から次にいろんな事が起きすぎて、リリィの思考は完全に停止している。景色が後ろに流れる。つまり舟は流されている。


(だからグレイスって……誰?)


「おーい。そこの船の人ー、大丈夫かー?」


 背後から声がして、リリィは恐る恐る首だけで振り返る。少し離れた場所を運航している積み荷を乗せた大きな船の上から、人の良さそうな男性が手を振っていた。リリィを見た瞬間、男性は顔色を変えた。


「え? ええ……貴族のお嬢様が……なんで、運河を流れて……?」


 何故こうなっているのか、リリィが一番聞きたかった。

 不用意に近付くと波で転覆しかねないので、船員たち数名が、救命用の手漕ぎボートを使ってリリィのもとにやってきた。そうして今にも転覆しそうな小さな舟からリリィは無事救出されたのであった。


「おーい! もう大丈夫だー。この先に軍が使ってる船着き場がある。そこでおろすと伝えてくれー」


 手漕ぎボートに乗っていた男の一人が、岸に向かって大声で叫んでいた。


 しばらくボートはそのまま運河を進む。船着き場周辺を軍服姿の男たちが走り回っているのが見えた。


「お! 丁度いい所に」


 彼らの姿を見つけた途端に、ボートを漕いでいた男が喜色に溢れた声を出した。


「騎士様―っ この貴族のお嬢さま、どうも誘拐されたらしくて、運河を一人で流れてたんです。迎えの人が追いつくまで預かってもらえますかね」


 男は大声で軍服の一団に声をかける。


「誘拐?」


 不穏な言葉に、振り返った男たちが、放心状態で座り込んでいるリリィの姿を見て大きく目を見開いた。


「え? 誘拐……誘拐って誘拐? 運河を流れて……て……あれ?」


「え? ええ? リリアさま? じゃなくてリリィさまか? どっち?」


「ああ、お知り合いですかー」


 それなら話が早いと、男は安堵した様子で、船着き場にボートを寄せた。


 一番体格の良い男が、リリィを子供のようにひょいっと持ち上げると、岸におろす。リリィはぺたんとその場に座り込んでしまう。ああっドレスがっ、と男たちが情けない声を上げた。


「リリィ?」


 聞いたことがある声がして、ぼんやりと座り込んでいたリリィはのろのろと顔を上げる。駆け寄って来た黒い軍服を着た騎士が、リリィを抱き上げる。綺麗なエメラルドグリーンの瞳が目の前にあった。


「彼女はとりあえず馬車に運ぶ。君、彼らから事情を聞いておいて。誰か本部行ってルークを連れて来てくれ。他の者は荷おろしを急ぐように」


 アーサーは部下たちに指示を飛ばしながら、焦った様子で歩き出す。数人が従った。


「怪我はしていらっしゃいませんが、私が見つけた時には小舟で運河を流れていらっしゃって……」


 男が説明する声がどんどん遠ざかる。リリィは未だに自分の身に何が起きているのかよくわかっていなかった。

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