49 天使様たちの大迷走 その4
砂糖はすっぱり諦めました……すみません。
「では、リリアさまが紅茶淹れてくださいますか?」
「やです」
即答された。クッキーをもう一枚つまんで振り返って口元に持ってゆく。むすっとした顔をしつつも口を開くから、クッキーを放り込む。こうしていれば、きっとその内喉が渇くだろう。
「暑くないですか?」
窓の外に視線を移す。今日は薄曇りで涼しいが、季節はもう夏だ。背後で首を横にふる気配があった。
「夜になったら約束をひとつ果たしましょうか。昼間屋根に上がると、日差しが強いですからね。準備しておきますよ。だから今は離して下さい」
屋根、という言葉にぴくっとリリアが反応するのが背中に伝わるから、思わず笑ってしまう。リリアは高い所がとにかく好きなのだ。
「夕方からは晴れてくると思います。星が見えると良いですね」
たとえ星が見えなくても、ガス灯に照らさて浮かび上がる王都は見える。昼間の内にランタンを屋根に上げておいた方が良いだろう。園丁に梯子を借りておかなければならない。
「ロバートも次戻ってきたら船に乗せてくれると言ったんでしょう?」
先日、ヒューゴとワルツを踊るようにアーサーから命じられたリリアは当然嫌がった。しかし、相手は第二王子だ。逆らう人間を簡単に拘禁できる暴君だ。キースを人質に取られていたロバートとルークは、それぞれ『船に乗せる』と『屋根に上がらせる』という条件をリリアに提示し、無理やり彼女を承諾させた。……キースは泣いていた。
リリアは、本当に心の底から嫌だったらしい。どうしても納得がいかなかった彼女は、踊り終わった後、廊下で靴を脱ぎ捨て窓枠を乗り越え、外壁をよじ登ろうとしたのだ。ロバートと二人がかりで引きずりおろして、泣いて怒っているリリアを必死に宥めた。
自分達で叶えられる願いは全部叶えてやるから、全部言ってみろとロバートが言った途端、リリアは自棄になったように次々と願い事を口にした。
屋根に登りたい、船に乗りたい、汽車にも乗りたい。マストに登りたい、キリアに行きたい、オーガスタに会いたい、オルガとレーシャに会いに行きたい、お祭りに行きたい、舞踏会で踊って欲しい、海賊と互角に渡り合えるように強くなりたい、投げナイフが欲しい、黒い軍服が欲しい、とにかく何でもいいから強くなりたい。ついでに添い寝しろ。
前半はともかく後半はちょっとそれはどうだろうという内容だったが、「大丈夫だ全部ルークが叶える」とロバートが余計な事を言った。それでリリアの機嫌は直った。
しかし、その後、ふと我に返ったロバートが真顔で言ったのだ。
ちょっとなんかおかしくないか……? と。
『リリアさま、なんであんなに強さに拘るんだ? ……今度は何を目指し始めたんだ?』
ロバートの言う通り、確かに違和感はあった。
リリアは鏡の間でアレンを拳で殴ろうとしたし、先日は酔った勢いで求婚してきたヒューゴを反射的に蹴り飛ばそうとしていた。その際全く躊躇しなかった。
ユラルバルト家にスカラリーメイドとして潜入した時も、リリアは自信に満ちて落ち着き払っていた。底に鉄板が入った特注の靴は結構重い筈だが、難なく履きこなし、蹴りを入れた時も全く体がふらつかなかった。
何というか、非常に……攻撃的なのだ。防御ではなく攻撃に特化している気がする。やられるまえにやってやる、というような。
第二王子はあくまで教えるのは護身術だけだと言っていたし、指導に当たっているのはルークもよく知っている女性騎士だ。報告書も毎回きちんと上がってきている。
何か、何か引っかかる。第一、どうしてリリアがそこまで強くなりたがるのかがわからない。ヒューゴを蹴り飛ばしたいだけならもう十分の筈だ。どこを目指しているのか本当に謎……
「……リリアさま」
ルークが呼びかけると、リリアは少しだけ体を離して、今度は左脇に引っ付く。このまま前に移動してくれると剥がしやすいのだが、そう簡単にはいかないだろう。
「どうしてリリアさまはそんなに強くなりたいのですか?」
ルークが尋ねると、リリアは少し恥ずかしそうに頬を染めた。どうしてその反応になるのかがわからない。
「海賊に勝たないといけないのです」
可愛らしくリリアは言った。
「そんな事しなくても船には乗れますからね?」
ルークの言葉に、ふるふるとリリアが首を横に振る。
「だってキリアルト家のおよめさんは海賊を倒せるくらい強くないといけないのです。だから、私はルークさまのおよめさんになるためにもっとがんばらないと」
その言葉に、さすがのルークも硬直した。しばらくその言葉を脳内で反芻し、すーっと窓の外に視線を流した。庭木の緑をぼんやりと眺めながら深く呼吸をする。心を落ち着けてから脇腹に張り付いているリリアを力任せに引き離すと、にっこりと笑って両肩に手を置く。
「……それ、誰がリリアさまに言ったのか。教えてくれますか?」
リリアは少し不思議そうな顔をしながらも、あっさりと白状した。
「レナードお兄さま」
……やはりあいつか。
ルークは笑みを深くした。リリアが軽く首を傾げている。
「……いつ?」
一応確認しておこうと、ルークはリリアに尋ねた。
はっとした顔をしてルークを見上げたリリアは慌てて目を伏せた。焦ったようにうろうろ視線を彷徨わせている。……これは、庭で芋虫になった時と同じ反応だ。
「ええと、クインさまの所に戻るのです。……はなして?」
上目遣いで首を傾げる様は大変あざとい。自分からひっついてきたくせに。今度は身をよじって肩に置かれた手を外そうとする。
「紅茶淹れますけど、飲みますか?」
ルークはがしっと細い肩を掴んだまま尋ねた。リリアは慌てて周囲を見回し、助けてくれそうな人が誰もいない事を確認すると、引きつった笑みを浮かべた。
「……厨房でお水をもらうから大丈夫なのです。そして、お仕事に戻るのです」
「どうして逃げるんでしょうね?」
ルークはとても優し気な笑顔を浮かべているつもりなのだが。リリアは叱られるのを怖がる子供のような顔をしている。
「リリアはルークお兄さまが大好きなのです」
「どうしてその台詞が今ここで出て来るんでしょうね?」
今回はそれで誤魔化されてあげるつもりはない。
リリアの眉間に皺が寄った。一生懸命何か言い訳を考えている。彼女は普段から本来の自分以外の姿を演じていることが多いから、その状態で嘘をつこうとすると混乱するのだ。
「……レナードと何があったんですか?」
あくまで穏やかな声音で尋ねる。
「な……んにも……ないですよ? ぜんぶ、ゆめ……」
リリアは一生懸命笑顔を浮かべてそう言った。落ち着きなく目が揺れている。非常にわかりやすく何かを隠している。
「自分で言ってて無理があるってわかってますよね? その内容によって、レナードをアーサー殿下に引き渡すか、オーガスタに引き渡すかが決まりますので、ちゃんとお話して下さい」
その言葉にリリアの顔からさあっと血の気が引いた。どうして今の一言でその反応が? と、ルークは訝しむ。
「オーガスタお姉さまに引き渡すのはダメです。レナードお兄さま、マストに縛り付けられて雷避けにされてしまいます!」
また懐かしい言葉を。ルークは内心ため息をついた。
リリアは追い詰められた表情で懇願するようにルークを見上げている。本気でレナードが雷避けにされると思っているのだ。
マストに縛り付けられるレナードと、その様子を楽し気に眺めながら、優雅に金色のスパークリングワインを飲んでいるオーガスタの姿がリリアの脳裏にははっきりと浮かんでいるに違いない。ルークにも容易に想像できる。
「オーガスタも本当にはやりませんよ。……多分」
レナードがリリアに何をしたかの内容によっては、やるかもしれない。『雷避けにしてやる』はキリアルト家の伝来の脅し文句のひとつだ。
「つまり、オーガスタに見つかったら雷避けにさせるから、ここであった事は絶対に言わないでくれとでも頼まれた訳ですね」
おずおずとリリアは頷いた。……でも、それはリリアが狼狽する理由にはならない。
ルークがすうっと目を眇めると、次の言葉を警戒するようにリリアが表情を引き締める。
「……雷避けにされそうなことを、あいつはあなたにしましたか?」
「レナードお兄さまは、私たちが嫌がるようなことは絶対にしませんよ?」
リリアはまっすぐにルークの目を見返して、今度はそう言い切った。ああ嘘だな、とルークは瞬時に気付く。でも、こうなるともう無理だ。彼女は負けず嫌いで頑固だから。
ルークは小さく息をついてリリアを逃がしてやる。あまりやりすぎると本当に明日から仕事に行けなくなる。呆れられたとでも思ったのか、リリアがビクッと肩を震わせて怯えた目になった。
「お姫様、紅茶を淹れますからこちらにどうぞ」
ルークが近くにあった椅子を引く。リリアは少し迷うような顔をしたが、結局その場から動かない。ちらっとルークを見て。それでまた気まずそうに目を伏せる。そんな風に罪悪感を感じるなら素直に言ってしまえばいいのに。
……でも、彼女は絶対に口を割らない。リリアは昔から妙にレナードの肩を持つ時がある。
「……ねぇルークこれってさ」
書類を持って使用人ホールに顔を覗かせたトマスが、リリアから救いを求める目を向けられた途端に、面倒事の気配を感じたらしくそのままくるりと踵を返した。彼の危機察知能力の高さは、リリィの勘の良さに匹敵する。
「うん。やっぱり後でいいや。……なんでここだけ局地的に寒いかな」
「トマスさまトマスさま、ルークさまが紅茶淹れてくれるので飲みましょう。一緒にあたたまりましょう」
「……ごめんねリリア、お兄さまちょっと忙しいかなぁ。他の人にもしばらく使用にホールに近寄らないように言っておくから、自分でその人何とかしてね」
懇願するリリアに一瞬だけ申し訳なさそうな目を向けると、そそくさとトマスは去って行った。
リリアは涙目で兄が去っていた入り口付近を見つめている。まるでルークがいじめて泣かせているかのような状況になっていた。
どうして、こんな空気にならなければならないのだろう……一体トマスは何をしに来たのだろう。真面目に仕事しているのだと主張したかっただけの可能性も捨てきれない。
「こちらへどうぞ?」
左手を差し伸べれば、リリアは警戒しきった小動物のような目をする。
「餌だけもらって逃げようと企む子猫みたいですね」
「私は懐かないから可愛げがないらしいです」
ルークは目を伏せ小さく笑った。
「……ああ、無理矢理撫でられそうになって、引っかきましたか」
自分からすり寄って来る時以外はそう簡単には触らせてくれない。無理矢理触ろうとする相手は容赦なく引っ掻く。
基本的にリリアもリリィも相手を束縛するくせに自分が束縛されるのを嫌う。昨日からアレンがリリィを追い回していたが、相当嫌がられている筈だ。
「いい加減に自覚して他人のフリをするのは諦めろと言われたんです。私には貴婦人なんて絶対無理だから、護身術とかまどろっこしいことやってないで、海賊倒せるくらいまで鍛えろと言われました。そうすればキリアルト家の嫁にはなれるからと」
話の雲行きがどんどん怪しくなってきたなとルークは思った。
「数日間は王都にいるというので、練習相手になってもらっていました……黙っていてごめんなさい」
ちらっと上目づかいでリリアが謝罪する。
「何を教えてもらったんですか?」
「変な癖がつくとまずいからと大したことは教えてくれませんでしたよ。ただ、躊躇するのが一番危ないからと、まぁ……暴漢役? ナイフで怪我をさせてしまったのでそれは申し訳なかったのですが」
レナードがリリア相手に不覚を取る筈がないのだが、それより、いきなり出て来たナイフの方が気になる。
「どこからナイフが出て来るのかどうしてもわかりません」
「折り畳みナイフをもらったのです!」
リリアが顔を輝かせる。よほど嬉しかったのだ。
「……出しましょう」
ルークはリリアの前に手を出す。しまったなという顔をしながら、リリアは手のひらに乗るくらいの長さの折り畳みナイフをエプロンのポケットから取り出した。一見しただけでは銀製の細長い小物入れのように見える。
「調理用ナイフとして使っています。没収しないで下さい」
「……油断も隙もない」
繊細な装飾を施された柄の部分に刃が収納されている。知らない人間には刃を取り出すことはできないし、携帯時に刃が飛び出ないように安全機構もしっかりしている。ルークもサイズ違いで何本か持っていた。レナードも同じく何本か持っているから、自分で使うには小さすぎるものをリリアに譲ったのだろう。
……リリアが欲しい欲しいと駄々を捏ねたに違いない。
果物ナイフとして使う分には問題ないだろうが……誰が研いだのだろうか。ギラギラと光る刃を光に透かしながらルークはため息をついた。
「おじいちゃんが研いでくれたのです! リンゴの皮がものすごく綺麗に剥けるのですよ!」
自慢げにリリアが言う。園丁が研いだらしいが、彼はリリアが屋外で持ち歩くことを想定していない。ルークは刃を戻してからナイフをリリアの手に戻す。
「外に携帯しないで下さいね。絶対気持ちが大きくなるので」
これだけは約束させなければならない。何が何でも。
「護身用ですよ?」
やはり携帯している。相変わらず自己過信が過ぎる。
「相手に奪われた時点で人生終わります」
「そう簡単には……」
そう言ってナイフをエプロンにしまおうとした腕を掴む。肘の少し手前辺りに狙いを定め、指先に力を込めた途端に予想外の痛みが走った筈だ。リリアははっきりと顔を顰めた。緩んだ手からナイフを奪い、さっさと胸元にしまう。
「結構簡単ですよ。……没収します」
悔しそうな顔をするリリアを見てため息をつく。確かに知識がない人間には刃を取り出せないし、気にしすぎだと言われればそうかもしれない。でも、これを持ち歩かせると、リリアは確実に増長する。
ガルトダット伯爵家の伯爵令嬢二人は、温室育ちのせいか怖いもの知らずなのだ。
レナードだってわかっている筈なのだ。だからわざと傷を負って血を流してみせたのだろう。彼女が絶対にナイフを人に向けないように。……ただ、あまり効果はなかった。
本当に、何故こんなものを渡したのだ、あの男!
「返して。ないと困るのです。せっかくおじいちゃんが研いでくれたのに」
メイド姿の伯爵令嬢が、ナイフを返せと胸に縋って泣いている。どういう状況だろうこれは。
「それを譲ってもらうの大変だったんですっ。レナードお兄さま意地悪言うし」
その言葉を聞いて、ようやくルークにも話がみえてきた。
負けず嫌いのリリアは、どうしても叶えたい願いのためなら、どんな無理難題でもやり遂げようとする。ロバートの船に乗るために、そして、リリィの身代わりになるために、彼女はこれまでずっと努力を怠らなかった。
どうせ大したことではない。それはわかっている。
リリアも平然としているし、『意地悪』の一言で片づけているのだから。
――でもレナードは、オーガスタに知られたらマストに縛り付けられて雷避けにされると思った訳だ。
非常に不愉快だ。一度固く目を閉じる。そうして、胸の中に渦巻く苛立ちを綺麗に隠してから、ルークできるだけ感じよく微笑みかけた。もう少しの間は王子様でいて欲しいと言われているので。
「リリアさま、レナードにしたのと同じ事を、今、ここで、私にできますか? そうしたらナイフ、返してあげます」
「…………今から紅茶を飲むのです」
たっぷり十秒は数えた後、リリアは可愛らしい笑顔でそう答えた。