47 天使様たちの大迷走 その2
「……こっち」
夜も更けた頃、苦々しい顔をしたハウスメイドがグレイスを厨房に引きずり込むと、火が落とされた竈の前に椅子を置いて座らせた。まだ熱が残っていて厨房は暖かい。彼女は、真っ青な唇でガチガチと歯を鳴らしながら震えているグレイスの体をボロボロのブランケットで包み、温かいお湯の入ったカップを手渡した。
「あたしたちはあんたに生きててもらわらないと困るんだ」
彼女は従兄家族と共にやってきた使用人の内の一人で、グレイスを監視役だった。無口で不愛想でいつもグレイスを睨みつけてくるのだが、ひっくり返されたバケツの後始末を手伝ってくれるのも、グレイスがひどく折檻された時に傷の手当てをしてくれるのも彼女だった。
「きっとあんたはあたしを恨む。今夜凍死した方がマシだったって」
珍しく仕事以外の事で話しかけられたことに驚いて、グレイスがのろのろと顔を上げる。彼女は何の感情も浮かんでいない空っぽの瞳でグレイスを見つめていた。
「神様ってのが本当にいるならさ、一体どこを見てるんだろうね……」
微かな、本当に微かな声が耳に届いた。彼女は天井に向かって、ははっと力なく嘲るように笑う。そして、踵を返して後はもう何も言わずに去って行った。
翌朝、屋敷を訪れた小柄な異国人は、出迎えたグレイスの赤く腫れた頬を見た途端に眉を顰め、乱暴に彼女の腕を掴んで引きずるように歩き出した。
グレイスは彼に見覚えがあった。ボロボロの服を着て父に画材道具を届けにきていた、愛想のない無口な下男だ。でも今目の前にいる彼はまるで雰囲気が違う。着ているジャケットも体にぴったりと合った上質なものだった。
男は居間に辿り着いた途端にグレイスを床に放り投げた。
椅子で寛いでいた従兄は、床に倒れ伏したグレイスを見た途端に弾かれたように立ち上がる。異国人の男は、無言のまま従兄に歩み寄ると、いきなり襟首を掴んで背中を壁に叩きつけた。その衝撃で飾り棚が大きく揺れ、並べられていた皿が数枚床に落ちて割れ砕ける。派手な音が屋敷内に響き渡った。
「絶対に顔に傷をつけるなと言ったよなぁ、あぁ? 売り物にならなかったらどうしてくれるんだ。メイドとしてある程度使えるようになるまでは預けるとは言ったが、これは明らかに契約違反だなぁ」
異国人の男は脅しつけるようにそう言って、胸元から取り出したナイフで従兄の頬に赤い線を三本引いた。まるで猫のヒゲのように。
「すまない……でも、こいつがあまりにも使えなくて」
震えながら囁くような声で言い訳をする従兄を睨みつけると、反対側の頬にもナイフで赤い線を三本引く。ひっと息を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
「それでも、顔には絶対傷をつけるなと俺は言った筈だ」
グレイスの体は恐怖で固まってしまって、彼等から視線を逸らせない。浅い呼吸を繰り返しながら、従兄の頬に赤い線が引かれていくのをただ見ていることしかできなかった。
皿が割れた音に気付いて何事かと居間に駆け込んできた夫人と娘が、ドアの手前で声にならない悲鳴をあげた。男は血の付いたナイフを従兄のジャケットで拭うと、ゆっくりと母娘を振り返る。そして、片側の唇を吊り上げるようにして笑い、パチンと指を鳴らした。
遠くから野太い声が「はい、ただいま」と返事をした。
「あんたたちも、いい夢が見られただろう? そろそろ現実に戻る時間だ。恨むんだったら契約違反したあの男を恨むんだな。今魔法はとけた。奥様は海の向こうで農作業。お嬢さまは街屋敷で床磨きだ」
その言葉に、母と娘は一瞬にして顔色を失う。
「最初に説明したよな。契約違反するとどうなるのか。あんたらの代わりはいくらでもいるんだよ。……連れて行け」
「かしこまりました」
居間に現れたのは力仕事を任されている門番の男だった。彼は異国人の男に対して丁寧に頭を下げた後、部屋の外にいる母娘の腕を両手で掴んだ。
「ま……まって、まってくれ……」
従兄が顔をくしゃくしゃにしながら、喉の奥から掠れた声を絞り出す。でも彼の足は床に縫い付けられたかのように前に出ない。妻と娘は、必死の形相で手を伸ばして助けを求めている。
「あなた……あなたなんとか、なんとかして……」
「お父さま、お父さまたすけて……ねぇ、これはなに……どういうこと?」
門番は二人を引きずりながら玄関ホールに向かって歩き出す。縋るような視線は壁に遮られ、混乱しきった震え声がどんどん遠ざかっていった。それでも従兄はその場に力なく座り込んで震えるばかりだ。妻と娘を助けようと動く気配すらない。
グレイスは床に這いつくばったまま、茫然と一部始終を眺めていた。今、目の前で何が起きているのか、理解したくない……
「だから魔法がとけたんだよ。……お披露目が近いってのに、本当に余計な事しやがって」
小柄な異国人は大股でグレイスに歩み寄ると、容赦なく二の腕を掴んでひっぱり上げた。腕が引き抜かれるような痛みにグレイスは思わず悲鳴をあげた。
目を開こうとした途端に、しみるような強い痛みを感じて慌てて目を瞑る。
「……え、ちょっと待っ、ヒューゴお兄さまっ?」
焦ったような少女の声がまず耳に届いた。パタンと扉が閉まる音に重なるように、彼女は深いため息をつく。
「クインさま、大丈夫ですよ。夢です。夢を見たんです」
同じ声が今度は穏やかに優しく語り掛けてくる。
「……ゆ……め?」
浅い呼吸を繰り返しながら、掠れた声で呟く。恐怖のせいで鼓動が早い。全身が心臓になってしまったようだ。はっはっという自分の呼吸音が聞こえて来る。
「そう、夢です。目が覚めたから、もう怖い夢は壊れて消えてしまいました。続きを見ることもありません」
ゆっくりと言い聞かせるように告げる声は、優しく温かく、思いやりに満ちていた。恐怖でガチガチに固まっていた体から少しずつ力が抜けてゆく。
「ほん……と?」
声のするほうに顔を向ける。でも、目を開けるのが、とても怖い。
「瞼が腫れてしまっていますね。少し冷やしましょう。クインさま、怖いかもしれませんが、そのまま目を閉じていて下さいね」
その言葉で思い出した、自分は今クインで、この声は天使様の……リリアさまの声だ。
少し離れた場所から、水に濡らした布を絞る音がして、すぐに足音が近付いてくる。
「失礼します。濡れた布を目に当てます。痛いようなら言ってくださいね」
ゆっくりと瞼の上に濡れた布が乗せられた。冷たい感触が気持ちいい。布の上からそっと瞼に触れる。
「しみませんか?」
「はい……だいじょうぶ……です」
そのままじっとしていると、やがて体温と布の温度が同じになる。そろそろ目を開けられるかもしれない。布を額の方にずらすとすぐさま取り除かれた。ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。今度は痛みを感じない。白っぽい光の中で、リリアが心配そうにクインの顔を覗き込んでいた。
「……リリア……さ……ま」
慌てて体を起こそうとするが、力が入らない。
「体の右側を下にしてみてください。ゆっくりと」
言われた通りに、寝返りを打つように体の右側を下にする。
「左手をお腹の前あたりについて、右手の肘と左手で支えながら体を起こしてみましょうか。ゆっくり、ゆっくりです。お手伝いしますから」
左手でベッドを押しながら、体の下になっている右肘に少し力を入れる。「失礼します。体を支えますね」と一言断ってから、リリアが抱きかかえるようにしてクインの上半身を起してくれた。
「そのままベッドの端に腰をかけましょうね。腕に捕まって下さい。慌てないで、ゆっくりと移動ましょう」
「はい」
リリアの腕に捕まりながらお尻を滑らせて、足をベッドの外に出す。リリアは注意深く体を離し、クインが一人でちゃんと座れるのを確認すると、ブランケットでぐるっとクインの体を包み込んだ。傷付きやすい宝石を大切に守るかのように。
「今、お水をご用意いたしますね」
そうやって行動を起こす前に毎回説明をしてくれるのは、クインを不安にさせないための配慮なのだろう。リリアはベッド脇のテーブルに置いてあった水差しからコップに水を注ぐと、床に両膝をついてから、両手でクインの目の前に差し出した。
「持てそうですか? 無理そうならお手伝いします」
頷いてクインは両手でしっかりとコップを受け取る。すっかり目は覚めていた。体も自分の意思で動かせる。
「だいじょう……ぶ。もて……ます」
「では、ゆっくり少しずつ飲んでみてくださいね。一度にたくさん飲むと体がびっくりしてしまいます。無理に全部飲み干そうとはなさらないでください。飲み終わったらコップを私に渡してくださいね」
リリアに見守られながら、クインは時間をかけてコップ半分の水を飲み切った。喉の渇きが癒えると、気持ちも落ち着いてくる。まだ残っているのに申し訳ないなとは思いつつも、無理はしないようにと言われたので、クインは躊躇いながらも口もとからコップを下ろした。
「ふふっ、よくできました、ですね。……では、こちらでお預かりいたしますね」
リリアはコップを受け取りながら、栗色の目を細めてふわっと微笑む。天使様に褒められたのだと気付いた瞬間に、クインの頬に赤みがさした。胸の奥がくすぐったい。
リリアが嬉しそうに褒めてくれたのは、クインが『ちゃんと言いつけを守ったから』ではなくて、『無理をしなかったから』だ。
リリアは体を捻るようにしてテーブルの上にコップを置いてから、改めてクインに向き直った。
両膝をついている彼女は、ベッドの端に腰かけているクインを見上げている。リリアはまるで忠誠を誓う騎士のように、自分の心臓の上に手を当てて、強い意志を宿した真摯な瞳でまっすぐにクインを見つめた。
「クインさま、どんな夢を見たのかどうか私に教えて下さいませんか? 怖い夢は人に話してしまえば怖くなくなります。これから先、私がクインさまの悪夢を全部引き受けますから」
その仕草と言葉がとても凛々しくて、クインの顔が真っ赤に染まる。リリアさまはとても可愛らしいのに、今はなんだかとてもかっこいい。心臓が早鐘を打つ。
「お、おは……なし……です……か?」
「そうです。どうか私に話して下さいませんか?」
落ち着き払った声でリリアにそう返されて、クインは熱を持った頬を両手で押さえながら、考え込むような目になった。
もう何年もの間、『グレイス』の話を聞いてくれる人は誰もいなかった。
母が亡くなり、父が正気をうしない、家令夫婦がいなくなってしまった後、クインの言葉に耳を傾けてくれる人など誰一人いなかったのだ。
父は勝手に一人で喋っていた。……壁か或いはキャンバスに向かって。
使用人たちは『グレイス』に命令するだけだった。
従兄家族は『グレイス』に「かしこまりました」と「申し訳ございません」以外の言葉の使用を禁じた。
話すということ自体が、もう随分久しぶりで、どうしたらいいのかわからない。
「上手にできなくても良いのです。夢のお話なのですから。……そうですね、質問の方が答えやすいですね。ではまず、誰が出てきたのか教えて下さいますか?」
夢の事を思い出すのはまだ怖い。でもリリアが目の前で優しく微笑んでくれているから、クインは怯えながらも思い切って質問に答えた。
「あの……すごく怖い、異国人の男の……人が、いました」
誰かと一対一で話をするのが久しぶりだという事もあって、どうしてもクインはうまく喋れない。それでもリリアは嫌な顔ひとつしないで、クインの言葉をじっと待っている。
「その男が、何をしたのでしょうか?」
「旦那様の頬、に……ネコのヒゲみたい……な、赤い線を……ひきました」
「それは……聞いている限りだと、なんだか間抜けな感じですね」
困惑したように言われて気付いた。それは、クインが「ナイフで」という言葉を言い忘れたせいだ。男の顔に赤い色の絵の具か何かで猫のヒゲを描いたみたいになってしまっている。
あの時はすごく怖かったし、今でも思い出すと指先が震えてしまう程恐ろしいことには違いないのだけど、冷静に考えれば顔を傷付けられたのは自分ではないし、血が噴き出すほど深く切られていた訳でもない。傷も一生残るようなものではなかった。
落ち着いて考えてみれば、あれはつまり、商品としての『グレイス』の顔に傷をつけた罰だったのだ。
注意深くクインの様子を見ていたリリアが、「クインさま」と少し強い声で呼びかける。
「その怖い男はここにいは絶対に来られません。私たちが守ります。だから安心して下さいね」
そして、きっぱりと強い口調で言い切った。
「あ…………は……い」
反射的にクインは頷いていた。『そうであって欲しい』と願う気持ちと、『ここは天国なのだから、来られるはずもないのだ』と自らに言い聞かせようとする気持ちがぐるぐると胸の中で渦巻く。
もしかしたら、これは全部クインに都合の良い夢で、目が覚めたらまた寒々しい『グレイス』の日常が戻ってくるのかもしれない。
それでも今は信じたい。ここは優しさで満たされた天使様たちの世界なのだと。
「しんじ……ま……す」
リリアはそれは嬉しそうな顔になって。悪戯っぽく笑った。
「大丈夫ですよ、万が一その怖い男がここまで来たとしても、私が追い払うので何の心配もいらないのです!」
輝くような笑顔でリリアは高らかにそう宣言する。クインの目が驚きのあまり真ん丸になった。
「リリア……さまが……おい……はらうの……です……か?」
「そうですよ。埃みたいに箒でこの部屋から掃き出してしまうのですっ!」
そう答えたリリアは、自信に満ち溢れていて……それはそれは楽しそうだった。
……そうか、リリアは天使様なのだから、そういうことも簡単にできてしまうのかもしれない。
箒で大の男たちを部屋の外に掃き出しているリリアを想像した途端、クインも思わず少し笑ってしまった。心がぽっとあたたかくなる。不思議と今はもう何も怖くない。こんな穏やかで楽しい気持ちは、いつ以来だろう。夢で追体験した過去に怯える気持ちなど、きれいさっぱり消え失せてしまった。そう、リリアがいともたやすく消し去ってしまったのだ。
……リリアさまはすごい!
クインは尊敬の眼差しをリリアに向ける。
「もう怖くはありませんか?」
リリアからそう問われたクインは、しっかりと頷いた。今は胸がドキドキして……少し苦しい。あの青い瞳の天使様の事を思い出す時と同じように。
「なら、良かったです」
安堵の表情を浮かべたリリアは、心臓を押さえて不思議そうに首を傾げているクインを見つめた。
「……でも、この役割を果たすべきなのは、私じゃなかったと思うのです」
居心地悪そうにぼそりとリリアが呟いた言葉は、幸いにもクインの耳には届かなかった。