46 天使様たちの大迷走 その1
目覚めると知らない場所だった。それはとても怖い筈なのに、全く危機感を感じなかったのは、きっとそこがとても明るくて清潔で、部屋の至る所に綺麗な花が飾ってあったからだ。
体を起こし、明るい窓辺に飾られたオレンジ色のダリアをぼんやりと眺めながら……
――ここは天国なんだ。
グレイスはそう思った。
「グレイス、絵の具を取ってくれないか?」
記憶の底から父の声がする。今よりずっと若くて……まだ正気を保っていた頃の。
子爵位を継ぐことが決まっていた父は、それでも幼少期から貴族よりも画家になりたかったのだそうだ。先代が生きている間は許されなかったことがようやくできるのだと父は少年のように目を輝かせていた。
グレイスは絵を描く父の姿を見ているのが好きだった。庭に花が咲けばグレイスが花瓶に飾り、それを父が描く。
父は貴族向きの人間ではなかった。物腰は穏やかだが社交的ではなく、人の好き嫌いが激しい。子爵家は決して裕福とは言えず、使用人を雇い続けるのも苦しいような状況だった。それでもようやく絵を描ける環境を手に入れた父は、現実から目をそらして、自分の趣味に没頭してしまったのだ。同じ趣味の仲間や若い画家たちを屋敷に招いて語り合い、昼間は部屋に籠ってひたすら絵を描き続ける。領地の管理などは年老いた家令に任せっぱなしになっていた。
子爵家には跡取りとなる男子がいない。このままでは子爵家の爵位は父の弟の息子に譲られることになってしまう。家令は父に強く再婚を勧めたが、父は全く耳を貸さなかった。とにかく、絵だけを描いて生きていたかったのだ。
――父は娘を愛していたけれど、娘よりも自分の夢を愛していた。
子爵家の未来より、手持ちの絵の具がなくなりそうなことの方が余程気がかりだった。
そして、父はあっという間に彼の両親が残していた資産を、画材道具にすべてつぎ込んでしまった。
「何をなさるのですか旦那様っ」
「髪なんてすぐにまた伸びるさ。何の問題もないよ」
年嵩のメイドが必死に止めたにも関わらず、父は背中の中ほどまでの長さがあったグレイスの髪を耳の下で切ってしまった。全く悪気なく子供のような無邪気な瞳で。
その時グレイスは十三歳だった。
メイドは床に座り込み、両手で顔を覆って泣き出してしまった。
「もし奥様が生きておいででしたら、何とおっしゃったでしょう」
メイドが恨み節をぶつけたが、父の心には全く響かなかった。
自分だってずっとやりたいことを我慢させられてきたのだから、娘が何かを我慢するのは当たり前のことだ。父親は本気でそう思っていた。
この国では希少な淡い金色の髪は高く売れて、父は新しいキャンバスと絵の具を手に入れた
多分……その時から、父親にとって娘は絵の具を手に入れるための『道具』になってしまったのだ。
……いきなり視界がぐにゃりと歪んだ。一度目を瞑って再び開ける。グレイスは輪郭を失ったオレンジ色の花をぼんやりと眺めていた。
「え……?」
ボロボロと涙が零れ落ちる。頬に触れた指が濡れたことにグレイス自身が驚く。喉から先日声がせり上がって来て……奥歯を噛みしめ両手で口を塞いだ。膝を立てて抱えると、自分の体を守ろうとするかのように、ベッドの上で小さく丸くなる。
だから気付かなかった。音もなくドアが開いたことに。
「……ああ、目が覚めたのか。一人にしてすまなかったな。怖かっただろう」
優しい声が、心の傷口に染みて痛い。
『大丈夫。明日目が覚めたら全部元通りだ。全部夢だ』
諭すような声でそう言われて、これは都合のいい夢なのだと自分に言い聞かせた。
幸せな夢から目覚めれば……見知らぬ屋敷で父より年の離れた男性の妻になっている筈だった。
けれど実際には窓から明るい光が入る居心地のいい部屋で、グレイスは柔らかい布地の白いワンピースを着せられて、清潔なベッドに寝かされていた。
……夢でないのなら、ここは天国なのだ。
「大丈夫か?」
躊躇いがちに尋ねられて、恐る恐るグレイスは顔を上げる。とても綺麗な青い瞳が、心配そうに自分を見つめていた。グレイスの願いを叶えてくれた、汚れなき天使様。
「……てんしさまっ。グレイスはおかあさまにお会いしたいです!」
グレイスは泣きながら夢中でその体に縋りついた。
「え……?」
茫然とした声が耳に届いた。
顔を洗う水を用意してもらい、次は服を着替るという段階になって、目を腫らしたグレイスに渡されたのは、男性用の服だった。
青い瞳の天使様は部屋から出て行ってしまって、代わりに部屋に入って来てグレイスの面倒をみてくれたのは、とても可愛らしい少女の姿をした天使様だった。
見るからに優しそうな雰囲気の彼女は、見たことのない袖の形のメイド服を着ていた。彼女はあの恐ろしい舞踏会からグレイスを救い出してくれたお姫様とよく似ていたけれど、声が違うのできっと別人なのだ。ここにいれば、あの勇敢なお姫さまにもまた会えるだろうか。ちゃんとお礼を言いたい。
「もしお嫌でければ、着てみていただけませんか」
グレイスは目をパチパチと瞬く。
「ドレスよりも今はこちらのお洋服の方がお似合いになると思うのです。きっと可愛らしいと思います」
メイド姿の天使様が柔らかく微笑む。
「あ……」
確かに男性用の服なら、この髪の長さのグレイスが着ても違和感はないだろう。
「着てみていただけますか?」
「……はい」
手伝ってもらって着替えると、動きやすくて想像以上に快適だ。鏡を見るとそこにはいつもの自分ではなく、淡い金の髪に青い目をした少年が立っていた。普段よりずっと幼く見える。服装ひとつで随分印象が変わるものだと驚く。くるっと一回りする。まるで自分が自分ではないみたいだ。そう思うだけで気持ちがふっと軽くなる。
「ほら、とても可愛らしいです!」
褒められて嬉しくてグレイスは頬を染める。
「ではせっかくなので、新しい姿のご自分に、新しい名前をプレゼントしてみませんか? 男の子で好きな名前はありますか?」
そう提案されて、グレイスはまた目を瞬いた。
(新しい姿に、新しい名前)
心の中で繰り返す。
男の子の姿の時はグレイスでなくてもいい。全部忘れてしまってもいい。そう言われた気がした。重いドレスを脱ぎ捨ててゆくように、気持ちも……体さえも、どんどん軽くなってゆく。
「あたらしい、なまえ」
男の子の名前と問われて、最初に思い付いたのは、昔大切にしていたクマのぬいぐるみにつけた名前だった。
「……クイン。あの……む……かし、持って……いた……クマのぬいぐるみの、なまえ……です」
「では、クインさまとお呼びすることを、お許しいただけますか?」
とても丁寧に尋ねられて、グレイスはまるで自分がとても高貴な人間にでもなったような気持になる。大切に大切に扱われている。傷だらけの心が柔らかく温かいもので包まれてゆく。それはとても心地いい。
「く……いん?」
口の中で新しい名前をそっと転がす。優しい目をしたメイド姿の天使様が、しっかりと頷いてくれた。
「私はクインさまのお世話を任されました、リリアと申します。どうぞよろしくお願いしますね」
リリアは数歩下がると、それは美しいお辞儀をした。さすが天使様! クインは思わず見とれてしまう。
「は……はい。あ……の……リリアさま、よろしく……おねがいします」
ぽーっとした顔でやっとそれだけ言ったクインに、「はい」と優しく返事をしてリリアはにっこりと微笑みかけてくれた。
「では、クインさま、何か、今困っていることはありませんか? なんでもお申し付けください」
「はい……あ……あの、リリアさま、て……天使様は? あ、あの、青い目をされた……」
思い切ってクインはリリアに尋ねる。そうしてから、頬を赤らめた。クインはどうしても天使様に会いたいのだ。
舞踏会の夜に、恐ろしい目をした男性から『グレイス』と救い出してくれた天使様。毅然とした態度も、凛とした声も、自分に向けられた冴え冴えとした青い瞳も何もかもが気高く美しかった。あんなに高潔な心を持つ存在にグレイスは今まで出会った事がない。
「青い目……ああ、ヒューゴお兄さまのことですね。そうですね、着替えも終わったので呼んで参りましょうか?」
そうだあの天使様はヒューゴという名前だった。馬車の中でそう呼ばれていたことを思い出す。クインは胸の中でそっとその名前を呟いた。とくんと心臓が鳴った。とくんとくん……心臓の音がどんどん大きく早くなってゆく。
「あ……でも、ごめい……わく……で……は」
どうしよう。天使様には会ってお礼を言いたいけれど、迷惑かもしれない。そう思っただけで顔が強張った。その途端にリリアがクインの前で両膝をつくと、急速に冷えてゆく指先を温めようとするかのように、そっと両手を握ってくれたのだ。
「大丈夫ですよ。彼はクインさまを守るためのここにいるのですから、迷惑だなどと思う訳がありません。クインさまが安心するなら一緒にいてもらいましょう?」
ふわりっと笑いかけられた途端に、固まった体から力が抜ける。天使様は嘘をつかない。だからそれは全部本当の事だ。
青い目の天使様が守ってくれるのならもう何も怖い事はない。やっとクインは安心して、その途端また涙が溢れ出してしまった。
『グレイス』は自分の身を守るためにずっと他人の顔色ばかりを窺って生きて来た。だから傷付けようとする気配には敏感に反応する。怖くて無意識に体が引いてしまうのだ。
でも、リリアにそっと手を取られた時は、綺麗な花束を手渡されたような気持ちになった。
怖がらせないようにと、クインの様子を注意深く確認しながらリリアは慎重に言葉を選んでいる。『大切にされている。尊重されている』そうクインが実感できるように、心を砕いてくれている。
――だから、リリアは怖くない。優しい優しい天使様だ。
リリアが柔らかい布でそっとクインの涙を拭う。その時、控えめなノックの音が響いた。
「このお部屋の主はクインさまです。どうなさいますか? 誰にも会いたくないのでしたらそのようにいたします。お会いになるのでしたら『入りなさい』と入室の許可をお与えください」
「……え……ええ?……」
クインは驚いてしどろもどろになる。そんな風に丁寧に扱ってもらえたのは生まれて初めてだ。困り切ってリリアを見ると、少し考えるような顔をしてから、「どうぞお入りください」というのはどうですか? と提案してくれた。それなら言えそうな気がする。クインはひとつ頷いて、
「えっと……どうぞ、おはいり……ください」
どきどきしながら入室の許可を与えた。これで良いのだろうかとリリアを見ると。にっこり感じよく微笑んで頷いてくれた。もうそれだけでクインは舞い上がってしまう。リリアは天使様だけあって、可愛らしくて所作が美しくてとても素敵なのだ。
「失礼いたします。……リリア、なんか、ちょっと困ったことになってるって、ヒューゴさまが……」
「赤い髪の……天使さま……」
ドアの陰から顔を覗かせたのは、赤い髪の中性的な顔立ちの天使様だった。男性使用人の姿をしている。彼もやはりとてもきれいで清らかな雰囲気を持っていた。クインは両手を胸の前で祈りの形に組んだ。
「て……んし……さ……ま?」
茫然と赤い髪の天使様は目を見開く。
「らしいですよ」
リリアがにっこりと笑う。
「申し訳ございません。ちょっと失礼します」
クインに向かって笑顔で丁寧にそう言ってから、赤い髪の天使様はがしっとリリアの肩を掴むと、そのまま背中を押して部屋の外に連れ出してしまった。
「すぐにヒューゴお兄さま呼んできますので、お待ちくださいねクインさま。お食事もお持ちします。野菜のスープですけど」
「大変申し訳ございません。少しの間リリアをお借りします。別の者がすぐに参りますのでー」
閉まるドアの向こうから優しい声がした後、どたどたと慌ただしく走り去って行く音が聞こえて来た。
クインの胸はずっとどきどきと高鳴っている。天使様たちはみんなクインにとても親切で……大切にしてくれる。温かい毛布にくるまっているような幸せな気持ちで満たされる。
リリアは青い瞳の天使様を呼んできてくれるようだ。「どうしよう……どうしよう」誰に言うともなく呟いて、クインは火照った頬に両手を当てた。天使様の姿を思い出すと何だか気恥ずかしくてクインは強く目を閉じた。
――結局、貴族としては上手だが、職業画家たちには遠く及ばない。父の絵は全く売れず、訪れる者もなくなった客間をどんどん占領していった。
グレイスの髪もそんなにすぐに伸びる筈がない。生活は困窮し、使用人は家令とその妻のメイドだけになってしまった。
屋敷は爵位を継ぐ予定の従兄が買い取った。変な借金を作られては困るからと、父の行動を監視し始めた。従兄が新しい使用人を雇い入れると、最後に残っていた家令夫婦は僅かな退職金を渡されて屋敷を追い出されてしまった。老夫婦は最後の最後までずっと、グレイスのことを心配していた。
屋敷には従兄夫婦とその娘が移り住み、グレイスと父親は屋根裏部屋に押し込まれた。
それでも父は、絵さえ描いていられるならそれでよかったのだ。その頃にはもうだいぶおかしくなっていた。食事もまともの摂らずに彼はいつも砂糖菓子のようなものを齧っていた。
「これを食べるとどんどん美しい景色が頭の中に浮かぶんだよ。お腹も空かないし、眠くもならない。まるで魔法の薬だ!」
興奮した表情で唾を飛ばしながら壁に向かってしゃべり続ける父を、グレイスはすべてを諦めた瞳で眺めていた。髪はようやく肩まで伸びていた。その頃には、グレイスは誰より早く起きてメイド服に着替え、這いつくばって床を磨き、炭で真っ黒になりながら暖炉の掃除をするのが当たり前になっていた。
従兄の娘は暇つぶしをするようにグレイスを執拗にいじめた。掃除をしていればバケツを蹴られ、ベッドメイクが完了した途端にシーツは丸められて床に投げ捨てられた。彼女は些細なグレイスの失敗を逐一両親に報告した。その度にグレイスは『奥様』から激しく罵られ鞭で打たれた。
その日も、スープの中に虫が入っていたと嘘をついて父親に泣いて訴えた『お嬢様』は、頬を真っ赤に腫らし、寒空の下に立つグレイスを暖房のきいた室内から眺めていた。彼女は非常に気分良さそうに笑っていた。
「ふふっ、元貴族のお嬢様が惨めな姿ね、みっともなーい」
グレイスは寒さに凍えながら、ああ星が綺麗だなと思った。
このままここで眠れば、母親の元に行けるのだろうか。自分の吐く白い息を凍える指先で追いかける……
ノックの音で我に返る。そういえばリリアに許可を与えるようにと言われたのを思い出した。天使様だろうか。そう思うと胸がどきどきして苦しくなった。
「えっと……どうぞ……お入り下さい」
クインがおずおずとそう言うと、ドアがゆっくりと開いた。そしてドアの中に入って来た人を見た途端、クインは大きく目を見開いた。
「おかあさまっ」
やっぱりここは天国なのだ。だってずっと前にお星さまになってしまった母親が会いに来てくれたのだから。先程お願いしたから天使様が呼んできてくれたのだとクインは思った。
クインは母親に駆け寄って恐る恐る両手を伸ばす。金の髪に青い目をしたクインの母親は、ワイン色の飾り気のないドレスを着ていた。その赤い色がじわっと滲んで、もうなにも見えない。クインはドンっと体をぶつけるようにして、目の前の人に必死に縋りついた。
「あらあらあら……」
少し困ったような声で母はそう言ったけれど、しっかりとクインを抱き留めてくれる。
「おかあさまっ、おかあさまぁ……」
「……そう……怖かったのね。もう大丈夫。大丈夫よ」
頭の上から優しい優しい声がする。小さい頃のように頭を撫ぜられた瞬間に、クインの中で何かが決壊した。喉の奥が熱い。悲鳴のような声と共に感情が吐き出されてゆく。
――怖かった。辛かった。ずっとずっとずっと悲しかった。
そう伝えたいのに言葉にならない。
泣き叫びながらずるずると崩れ落ちてゆくクインの痩せた体を支えながら、母は一緒に床に座り込んで、しっかりと抱きしめ直した。
母親の肩口に額を擦りつけて、クインは体の中が空っぽになるまで泣き叫び続けた。
どのくらい泣いていたのかはわからない。
声はガラガラで、溜まり込んでいた涙ももう出し尽くした。瞼も喉も痛い。ひっくひっくとしゃくりあげるように息をするのが精一杯だ。
母は黙って、クインの顔を柔らかい布で拭いたり、背中を撫ぜたりして、クインが泣き止むまでじっと待っていてくれた。
「お……かあ……さま。も……う、おいて……いかない……で」
空っぽになった体からどんどん力が抜けてゆく。目を開けるのも億劫だけれど、クインはぼんやりと顔を上げた。真っ赤に腫れた瞼に柔らかい布が当てられる。
「少し眠りましょうか。沢山泣いて疲れたのよね。……大丈夫。次に目が覚めた時にも、みんなあなたの側にいるわ」
その言葉にクインは素直に頷いて、安心しきって母に体を預ける。そして、優しく背中を撫ぜる手を感じながら眠りに落ちていった……
――事態は混迷していた。
ヒューゴが席を外していた僅かの隙にグレイスが目を覚ましてしまったことで、最初のボタンは掛け違った……
グレイスは自分がすでに死んでいて、天国にいるのだと思い込んでいるようだった。
泣き疲れて再び眠ってしまったグレイスは、責任においてヒューゴが見守っている。とはいえ、ヒューゴ一人では心許ないので、部屋の外でルークが待機することになった。
「どうするんです?」
ガルトダット伯爵家当主の執務室には重苦しい空気が流れていた。
今現在ガルトダット伯爵家にいる人間全員がこの場に集められていた。おじいちゃんおばあちゃんたちもさすがに困惑していた。何しろ、一足先に天国の住人にされてしまったのだ。
「どうしましょうね」
ソファーにトマスと向かい合って座っているイザベラが、難しい顔をしてため息をついた。
イザベラはつい先程アレンの私邸から戻って来たばかりだった。エミリーやメイジーたちはまだしばらく向こうで滞在することになっていた。
「全部リリアが悪い」
「……あの場ではあれが最善だと思ったんです」
責めるような視線をキースから向けられたリリアは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「彼女はきっと、人間が……怖いのだと思います。神様の使いは絶対に裏切らない。だから天使様なのでしょう。否定してしまったら恐怖で心を閉ざしてしまうのではないかと思ったんです。……でも、おかあさまのことは想定外でした」
そう、まさかグレイスが、イザベラを母親だと思い込んでしまうとは誰も想像していなかった。さすがにあの状況では誰も彼女の勘違いを指摘できなかった……
「金の髪と青い目の組み合わせって、この国では珍しいですからね。彼女が母親を亡くしたのは随分幼い頃なのかもしれません。顔までは、はっきりとは覚えていなかったんでしょうねぇ……」
トマスはソファーに凭れかかりながら天井を眺めている。
「リリアの言う通りだと思うわよ……さすがに咄嗟に『私は天使じゃありません』っていう言葉は出ないわよ。実際キースも否定できなかったんでしょう?」
トマスの隣に座っているリリィがちらりとキースに目をやる。キースは気まずそうに目を逸らした。
「あんな純真な目を向けられるとさすがに無理。……うん。ごめんリリア」
素直に謝ったキースに向かって、リリアは静かに首を横に振る。かなり落ち込んでいる様子だ。
「リリアのことだから、彼女に対して嘘はついてないわよ」
リリィは「そうよね?」と妹に目で問いかける。
「……否定しなかっただけですが、さすがにこうなってしまったので後悔しています」
リリアはちいさな声でそう言って、さらに項垂れた。
「すべて演技だという可能性はないのですか?」
キースの隣に立っているアレンが、厳しい表情で近衛騎士らしい意見を述べる。
「……あれが演技だったら、わたくし人間不信に陥るわね」
イザベラが困ったように微笑んだ。グレイスは本当に壊れてしまうのではないかと心配になるくらいに泣き叫んでいたのだ。
辛かった悲しかった。ずっとずっと苦しかった。そんな感情が痛いくらい伝わって来た。
「演技ではありませんよ。その辺りは色々証言取れてますから。結構辛い目に遭ってきた子なので、リリアの言う通り、今は現実から目をそらしているのかもしれませんね」
「天国というのはさすがに色々無理がありますから、心のどこかではちゃんと理解されていると思います。ここは安全だと信頼して下されば、自然と受け入れて下さるのではないかなと思っていたのです。……ただ、本当におかあさまのことは想定外で、こうなると現実に戻りたくないって気持ちの方が強くなっているかもしれません……」
実感の籠ったリリアの言葉が、室内に重く響く。
現実に戻るという事は、イザベラが自分の母親ではないと認めるという事だ。もうグレイスは二度と母を失いたくはないだろう。
「あー」やら「うー」やら小さなうめき声があちこちで上がる。この屋敷の使用人たちは、心に傷を負って現実から逃げ続けた娘を長い間見守り続けて来たからわかるのだ。これは今までよりさらに難しいことになっているぞと……
「……しばらく見守りましょうね。わたくしたちにできることはそのくらいしかないわ。普段通りに過ごしましょう。でも彼女の言葉を否定はしないであげて? まぁ言い方は悪いのだけれど……リリアの時と同じようにお願い」
イザベラの言葉に、室内にいた全員が重々しく頷いた。リリアは居心地悪そうに視線を天井に逃がした。
「リリアの時にはルークがいたから何とかなったけど、今回、大丈夫なんですかね……言っちゃなんですが、だいぶ頼りない……」
「そこはほら、あなたとキースで何とか手助けしてあげて……」
「えー」「ええ―」
トマスとキースが揃って顔を顰める。関わり合いたくないとその顔にははっきりと書いてあった。
「だってあの人、自分の身一つ管理できないんですよー」
「……ルークのせいで、うちそんなのばっかだよ」
トマスの言葉を聞いた途端に、キースがムッと眉間に皺を寄せた。
「トマスさま、都合の悪い事は何でもルークさんのせいにしますよねっ」
「キースはいつでもルークの肩を持つよねっ」
トマスが不機嫌そうに言い返す。
「……そうよね。この子たちには無理よね。わたくしたちでがんばりましょう」
イザベラは早々に諦めた。おじいちゃんおばあちゃん全員が深く深く頷いた。