45 子うさぎの舞踏会 その12
馬車がガルトダット伯爵家に到着したのは深夜一時過ぎだった。
リリィたちは、玄関ホールでイザベラに出迎えられた。その隣にはエミリーとジェシカの姿もある。背後にはダニエルとメイジーが控えていた。すでに舞踏会用のドレスから着替えていた二人は、リリィの姿を確認すると、安堵のあまりその場に座り込んで泣き出してしまった。リリィが想定にない行動ばかりしていたため、一足先にガルトダット伯爵家に戻ってからも、あれ以上の無茶をしていないか気が気でなかったのだそうだ。
「今日はもう遅いから寝ましょうね」
二人はイザベラの言葉に素直に頷いて、メイジーに支えられながら客間に戻って行った。
もう二十年近く人生の荒波に揉まれ続けている母は、一切の動揺を表に出さなかった。にこやかにリリィたちを出迎え、明らかに誘拐してきましたよという状態で護衛騎士に抱きかかえられているグレイスを見ても顔色ひとつ変えず、客間に運ぶようにと命じていた。
そのすぐ後に、カラムに連れられてアレンが伯爵家に戻って来た。
拘束されているという第二王子の言葉通り、アレンはロープでぐるぐる巻きにされていた。
「リリィさまご無事で良かったです。どこも怪我されていませんか? 怖い思いをなさいませんでしたか」
(目の前のこの状況が……怖い)
必死の形相でリリィに必死に駆け寄ろうとするアレンを、ロープの端を持ったカラムが据わった目をして止めていた。何なんだろうこれ。リリィは何とか引きつった笑顔を浮かべた。
「うん、無事だから、安心してね。どこも怪我してないし、怖い思いもしていない。アレンお兄さまも早く休んでね……」
「という訳で、リリィさまご無事です。確認しましたね。もう夜も遅いので今すぐ寝ますよ」
カラムからロープの端を受け取ったダニエルは、大階段ではなく使用人階段の方にアレンを引きずっていった。ユラルバルト伯爵家とは異なり、没落したガルトダット伯爵家は今夜も闇に沈んでいた。明かりも持たずにどんどんダニエルは真っ暗闇の中へと進んでゆく。アレンは最後の最後まで、物問いたげな表情でリリィを見つめていた。
「では、後はよろしくお願いいたします。キリアルトと、キース君とリリアさまは明日の朝こちらに戻りますので。昼頃また皆様をお迎えに上がります」
ダニエルとアレンの姿が完全に闇の中に消えるのを見届けてから、カラムは丁寧に一礼して玄関ホールから出て行った。
「詳しい話は明日聞きます。燃料費削減のために全員さっさと寝ましょう」
イザベラはあくまで普段通りにそう言った。
「リリィさま……」
冴え冴えとした夜空のような目でアレンがリリィを見下ろす。
「自分が何しようとしたかわかっています?」
「……アレンお兄さま。わかった。ちゃんとお話聞くから拘束しないでくれる?」
自分を抱き上げているアレンを見上げながら、リリィはもう何もかも諦めてそう言った。
騎士相手に結構がんばって逃げたな自分。
自分で自分を褒めみる。人生で初めて窓枠を乗り越えようとしてみた。リリアは昔からよくやっていたが、リリィは初挑戦だった。しかし、足かけようとした瞬間に「何やってるんですか!」と叫んだアレンに背中から抱きかかえられて窓枠から引き離された。
おかしいなここは一階だ。一階の居間の窓から外に出ようとしただけで、何でここまで怒るのだろうか。
そもそもアレンがずっと追いかけて来るから、追い詰められたリリィがこういう行動に出たのだ。
(本当に面倒くさいのが多いなぁ)
やっとヒューゴが片付いたと思うのに今度はアレンだ。
理由は何となくリリィにも察しがついている。アレンはちょっと傷ついたのだ。舞踏会の夜、グレイスの様子を確認しに行く際に、リリィが何の迷いもなく騎士のアレンではなくて宰相の孫を連れて行ったから。
でも他に選択肢はなかった。アレンではダメだったということではなく、ヒューゴでなければならなかった。ちゃんとそう説明して、ヒューゴを連れて行った筈だ。なのに、何故それがわからないのだこの男は!
はぁぁぁぁっ。とリリィは大仰にため息をついた。地面に足がつかないと落ち着かないから今すぐにおろしてほしい。
「おりるっ」
「逃げるからダメです」
「もう逃げないわよっ」
さすがにイラっとしてリリィの声が尖るが、すぐに奥歯を噛みしめて苛立ちを抑え込んだ。第二王子から責任もって面倒みろと言われている。ヒューゴが真摯にグレイスと向き合っているのだから、自分もがんばるべきだ。
わかっている……でも、鬱陶しいのだ!
昨日はちゃんと付き合った。
いつもより遅めの朝食の席で挨拶を交わしたアレンは、拘束されていた時とは異なり落ち着きを取り戻しているように見えた。だが、彼はその後一日ずっとリリィから離れなかったのだ。
家庭教師と勉強している間は勉強部屋の外でずっと待機していた。自室で本を読んでいる間は扉の横に立っていた。……心休まる時間が全くなかった。
そして二日目。今朝も朝からずっと付き纏われている。リリィはそろそろ一人になりたい。
エミリーとジェシカは昨日の朝まで一緒だったが、朝食後にイザベラと一緒にアレンの私邸に向かったまま戻ってきていない。元々そちらの使用人だったメイジーやジャックたちも一緒に行ってしまった。
そうなると、ガルトダット伯爵家の使用人はお年寄りばかりになってしまうから、ルークが舞踏会の翌日から休みを取った。アレンも何故か一緒に休みを取った。
ルークとキースとリリアは厨房でおばあちゃんたちと一緒に昼食の準備をしている。トマスは執務室で仕事を片付けている。
ヒューゴは、まだ目を覚まさないグレイスにずっと付き添っていた。
それぞれ皆忙しくて、誰もリリィを助けてくれない。
「どうして逃げるんですか」
「人間一人になりたい時もあるわよね」
リリィは当たり前だろう! という感じでそう返したのだが、アレンは意味がわからないという顔をした。常に誰かに面倒をみてもらっていたアレンは、一人になりたいと思ったことがあまりないかもしれない。
「危険です」
アレンは真剣な眼差しでそう言い切った。やはり顔は整っている。王子様が真剣に心の底から心配してくれていると感激して、普通の女性なら頬を染めただろう。でも、リリィはもう見慣れた。
「屋敷内のどこに危険が潜んでいるのか是非とも教えてほしいわー」
「転びます。階段落ちます。壁に頭をぶつけます。窓乗り越えようとして転がり落ちます」
あなた落ちる前に止めたでしょう、とリリィは思ったが懸命にも口には出さなかった。早くおろしてほしいのでここは逆らうまいと決めた。
「要するに私が粗忽者だと言いたいのね」
「そうです」
あ……またイライラしてきた。
(責任持つ責任持つ責任持つ……)
心の中で呪文のように唱えて、心を静める努力をしてみる。
「ちゃんと見ていないと無茶をするじゃないですか」
「屋敷内でどのような無茶をするのか是非とも教えてほしいわー」
「ぼーっと考え事をしながら歩くでしょう? そして躓くでしょう? 窓乗り越えようとするでしょう?」
窓乗り越えようとしたのは人生初だ! 言い返そうと思ったがこれも何とか堪えた。
「そうね、確かに私、そういう所あるわよね。でも今まで特に大きな怪我もなく生きてきてるわよ。……わかったわよ。どうしたらアレンお兄さまは安心するのか教えて」
リリィは無理矢理笑顔を浮かべてみせた。
「ずっと側にいます」
「迷惑!」
リリィは断言した。冗談じゃない。
「迷惑でもそうします。目を離すとリリィさまはすぐに無茶をします。そして誰彼構わず喧嘩を売ります」
「ここは屋敷内なのよ。喧嘩売る相手もいないわよ!」
「今私に喧嘩売ってますよね」
はあぁ? とばかりにリリィは大きく目を見開いた。
「あのねぇ、今喧嘩売ってるのはアレンお兄さまよねっ」
貴族の令嬢らしからぬ口調になってしまった。ヒューゴに聞かれたら間違いなくお説教されてしまう。
(責任責任責任責任……)
リリィは視線を窓の外に逃がして、一度大きく深呼吸した。そして再びアレンに向き直り、できるだけ落ち着いた声を出す……努力はした。
「うん……気を付けるから。お願いだから監視しないで。そして今すぐおろしてっ」
努力はしたけれど、どんどん声は大きく、口調は強くなった。そうだこれは護衛ではなく監視だ!
「王宮に行けば、複数人の護衛に常に監視されますよ。耐えられるんですか?」
アレンがひどく冷めた表情と声でそう返してきた。ぐっとリリィは言葉につまった。
自由気ままな引きこもりだったリリィは一人が好きだ。だから、アレンに付き纏われて初めて知ったのだ。誰かにいつも見られているというのは、これ程までに気疲れするものなのかと。
常に護衛に守られているアーサーはどうして平気でいられるのだろう。慣れというものあるかもしれないが、王族の責務というものは、人並の精神力では果たせないものなのかもしれない。
アレンの言う通り、王宮に行けばリリィだって常に護衛に監視される立場になる。そう考えると確かに『茨の道』だ。「ダージャ領に行った方が絶対に楽だよ」という言葉が耳に蘇る。結局すべて見抜かれていた訳だ。
(こうやっていつも逃げ道を用意してもらって……)
……もういい。放っておいてほしい。本当にしばらく一人になりたい。落ち込んできた。
丁度喧嘩売られた訳だし。顔も見たくないような状態になればさすがにアレンもリリィから離れるに違いない。
「わかったわアレンお兄さま。私の部屋に行きましょう。そして、一緒に手紙を音読しましょう」
リリィはもう口の端が引きつっているだけの笑顔で提案した。
「お兄さまがキリアにいた頃に送ってきていた手紙が、私の部屋にちゃんと保管してあります。素敵な観光地に行ったお話とか、料理のおいしいレストランに行ったお話とか、非常に楽しそうなことばかりが書いてあります。明らかに同行者の気配があるにも関わらず、誰と行ったのかは微妙にぼかしてあったりします。毎月届いたから結構あります。さあ今から一緒に音読いたしましょう」
挑戦的な目を向けるリリィに対して、ひくっとアレンの顔が引きつった。そんなに喧嘩を買って欲しいなら買ってやろうではないか。抱き上げられたリリィと、抱き上げているアレンが至近距離で睨み合う。
「いいですよ。読みましょうか手紙」
「自分で歩くからとりあえず、おろして」
その途端アレンの眉間に深い皺が寄る。
「どうしてルークは良くて私だとダメなんですか」
恨みがましい声で言われた瞬間、ぶちっとリリィの中で何かが切れた。
「私はリリアじゃないから、さすがにルークも起きてる私を抱き上げたりはしないわよっ。子供の頃からそうよ。信じられないならトマスお兄さまやキースに確認すればいい。アレンお兄さま私たちの見分けついてなかったから気付いていなかっただけよ。声と態度と言葉遣いで私たちを判別してたからよね!」
一息に捲し立ててから、あ、さすがに最後の一言は余計だったかなとリリィはちらっと思った。……本当のことだけれど。
アレンの顔色が変わる。非常に珍しい事だが、彼の顔にはっきりとした怒りの表情が浮かんだ。
人と争うことを極端に厭うアレンは、どんなに不快な目にあったとしても曖昧な笑顔を浮かべて自分の抱く負の感情を誤魔化すことが多いのだが……
あ……何か思いきり踏み抜いたかもしれないとリリィは思ったが、これはお互い様だ。最初に喧嘩を売ったのはアレンだ。
「そうですね。リリィさま、わかりやすく態度悪かったですよね」
アレンの声が低くなった。眼つきが鋭くなる。
「忘れてくれるって言ったわよね」
ここで恐怖を感じたら負けだ。絶対負けるものか!
「今はっきり思い出しました」
その言葉にムカムカっとして、さらに何か言い返そうとした時、ノックの音がした。開け放たれたドアの向こう側の壁を呆れ顔のルークが叩いている。
「……昼食にしますよ。アレンさまついでなのでそのままリリィお嬢さま食堂まで運んで下さい。さっさと行きますよ」
「お腹空くとイライラしますよね。お昼ご飯にしましょう。今日のお昼ご飯も野菜のスープです! なのでアレンさましっかり食べても大丈夫ですよー」
「そうそう。全部空腹のせい空腹のせいー」
お盆を持ったメイド姿のリリアといつものお仕着せ姿のキースが、執事姿のルークの後に続いている。二人ともよくわからないが今にも歌い出しそうなくらい上機嫌だ。それにも腹が立つ。
おもしろくもない気分で三人を見送ると、トマスが居間に入って来た。
「君たち二人とも、今までずーっと他人と関わり合うのを避けてきたよね。振り上げた拳の下ろし方二人とも知らないよね? この後顔を合わせるのが気まずくなるようなことになる前にやめとこうね。どうせリリィは一人になりたくて、顔も見たくなくなるくらいにアレンを怒らせればいいやなんて安易に考えたんだけどさ、嫌われるという経験をリリィはしたことがないよね? どうしてその後、何事もなかったかのように関係が修復されると思うのかなぁ。あとアレンも、七歳も下の女の子と同じレベルで言い争いを始めるのはどうなんだろうね?」
真剣な顔をした兄は二人に向かって落ち着き払った声でそう言った。対人関係でずっと苦労してきた当主の言葉には重みがあった。
「……ねぇ、バカなの?」
そう言って冷笑した兄は……本気で苛立っていた。というより最早苛立ちを通り越して殺気立っていた。アレンとリリィはトマスの放つ冷気に当てられ硬直した。
「トマスさまもお腹すいてるんですよ。やりたくもないお仕事真面目に片付けてましたからねー。はいはいみんなでお昼ご飯にしますよー」
食堂の方からキースの声がした。
確かに昼食を取ったらイライラは解消された。
「本当にちゃんとしまってあるんですね」
キリアから届いていた手紙は布張りの箱に入れて保管してあった。箱はロバートのお土産だ。鳥を図案化した大きな模様と派手な色遣いはいかにも舶来品といった趣だ。箱ごとテーブルに持って行き、蓋を開ける。
「……言っておくけど、本当に私しか読んでないわよ。リリアには見せてない」
リリィは一番上の封筒から中身を取り出して開く。そして少しだけ目を通してすぐにテーブルの上に伏せて置くと、ため息をついた。
「ごめん。……アレンお兄さまやめよう。さすがに悪趣味だわ。これ、全部返す」
伏せた手紙と、布張りの箱をアレンの前に押しやると。リリィは席を立った。ぎっしり本が詰まった本棚から一冊の本を手に持って戻って来ると、栞の挟んであるページを開いて読み始める。
「大人しく本を読んでるから、この部屋にいたければいればいいわよ」
手紙を手に取り、目で読んでいたアレンが、ため息をついて掠れた声で言った。
「……ひどい内容ですね」
「そうでもないわよ。旅行記みたいで、結構楽しく読んだ」
リリィは本から目を上げることもなくそう返す。それは本心だ。
書かれているのはキリアでのアレンの休日の様子だ。海を見に行った話にゴンドラに乗った話。お祭りに行った話もあった。あれが美味しかった。これが珍しかった。そんなきらきらとした思い出が綴られていた。きっとこの人は心の底からこの時間を楽しんでいたのだろうな。こうして手紙に書くために思い返しながらもきっと微笑んでいるのだろうなと、そんな風に感じた。
同じ時間の中で同じ景色を見ている人が、羨ましいと思っていた……
「まるで子供の日記だ」
自嘲気味に笑って、アレンは読んでいた手紙を折って封筒に戻した。毎月毎月律儀に届いていた手紙。これを読んでいた日々が、もうずっと昔のことのような気がするのはどうしてなのだろうか。
「返すけど、勝手に処分しないとだけは約束して。きっと、何十年後には宝物になるわ。箱はロバートにもらったものだから中身移し替えたら返してね。リリアとお揃いなのよ。あの子はルークからの手紙を入れてる。そっちもついでに隠してみたら、ルークに本気で怒られたなぁ……」
ふふっと笑って本に栞を挟んで閉じると、頬杖をついて窓の外に目をやる。
「怖かったでしょう」
「うん……泣いて謝った。でも今ならわかる。あれは冗談でも絶対やってはいけないことだった。きっと私、羨ましかったのよね、リリアが」
もう一度照れたように笑って、リリィは本を持って立ち上がると本棚に向かう。
「アレンお兄さま私が本読んでたら暇よね。チェスでもやる? カードでもいいけど。ああ、でも、トランプはお兄さまの所か」
「……リリィさまはお強いので、私では相手になりませんよ」
アレンはそう言って苦笑した。
「チェスのほうはもうだいぶやってないから鈍ってるわよ。どこやったかなぁ……奥の方にしまい込んじゃったかも。リリアに聞けばわかるかなぁ。もうやらないと思ってルークの部屋に持ってったかなぁ、うーん全く記憶にない」
本を抱きしめながら記憶を探る。最後にチェスの駒に触ったのはいつだっただろう。レナードがチェスにはまり込んでいた時には練習相手になっていたから、リリィも結構強かったと思う。目隠しをしてチェスを指していたレナードに対してそこそこの勝負には持っていけていたから。
「……そんなに気を使わなくても」
アレンが困ったような声でそう言った。
「だって、アレンお兄さま私といても退屈でしょう?」
基本的に今生きている世界が全く違う二人には共通の話題というものがない。過去の話はどちらかの心の傷を刺激する。リリィはお互い黙っていても全く気にならない人間なのだが、アレンはきっと違うだろう。『一人になりたい』というリリィの感覚があまり理解できないようだったから。
「リリィさまは、私と一緒にいると退屈ですか?」
アレンの声が急に緊張したように固くなった。その言葉に驚いてアレンを見ると、彼は強張った顔をしてリリィをまっすぐに見つめている。
「そんな風に思ったことないわよ。どうしたのアレンお兄さま?」
「……トマスさまのおっしゃる通り、私たちは、もう少し他人との関わり方を学ぶ必要があるのだと思います」
そして、落ち着きなく目をうろうろと泳がせ、何度か口ごもった後、アレンは意を決したように言ったのだ。
「……なので、シーズンが終わったら、しばらくの間、私と一緒にダージャ領で暮らしてみませんか?」
「…………呪われに行けと?」
思わずリリィは真顔で問い返した。二人は無言で見つめ合った。