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42 子うさぎの舞踏会 その9


 びぃぃぃぃん……という微かに空気が震えたような音がした。


 リリィの思考は一瞬にして現実に引き戻される。

 どこかで聞いたことがある音だ。それが数回繰り返される。まるで時刻を告げるかのように。


 きゃぁぁぁぁっ。


 ものすごい悲鳴が響き渡った。女性のものだ。ダンスホールからではない。なんだ? どこだ? 庭や建物を見渡すが、どこから聞こえたのは全くわからない。突然響き渡った悲鳴にダンスホールは騒然となる。


「……ああ、あまり期待してなかったけど、本当にうまくいったのか……彼女も相当運がないな」


 アーサーが少し驚いたような顔をして呟いた。


「今の内に撤収する。急げ」


 アーサーのその一言で、護衛騎士たちが慌しく動き始める。屋敷から遠い場所のランタンが消された。一度に全部消してしまうと余計な混乱を招く。同じ理由でテーブルと椅子はそのまま放置されるようだ。


 ランタンを持った護衛騎士に先導されて庭の奥へと進む。リリィの手を引くトマスは退避するための経路を予め教えられていたようで、足取りに迷いが全くない。

 せっかくの美しい庭を楽しむ余裕は全くなかった。次は昼間に……とは思うが、もう二度と訪れることはないだろう。ユラルバルト家からすれば絶対に来てほしくないに違いない。

 屋敷の脇の細い道を抜けると裏門に出た。門の前には馬車が待機している。ユラルバルト家の門番の姿はない。


 びぃぃぃぃぃん……


 またどこかで聞いたことがある音。館の中から連続で聞こえて来る。


「きゃあああああっ」


「うわぁぁぁっ」


 館の中から悲鳴が上がる。何かが倒れる音と、皿のようなものが割れる音。それに被さるように次々に上がる悲鳴。屋敷の中は恐慌状態のようだ。一体何が起きているのだろう。

 思わず足を止めて振り返ったリリィを、トマスが強引に馬車の中に押し込んだ。すぐさま自分も乗り込み、リリィと向かい合う位置に座ると扉を閉める。軍用のものらしく飾り気が全くないが、ガルトダット家の馬車よりずっと新しい。


「お兄さま、何が起こってるの?」


 馬車はまだ動き出す気配がない。んー? とトマスはとても楽しそうな笑顔を浮かべた。


「何も知らない人がいきなり見たら怖いだろうね。三階の幽霊」


 落ち着かない様子のリリィにそう告げると、トマスは閉められた窓のカーテンを少し捲るようにして外の様子を確認した。リリィはぽかんとした顔になる。


 ……今、兄は三階の幽霊と言わなかったか?


「……ひょっとして例の腕輪、持って来たの?」


 ロバートが手に取って眺めた後に鏡台の引き出しの中にしまわれた銀の腕輪。ならば、先程から聞こえてきているこの音は……


「まさか、ウォルターここに来てるの?」


 リリィの質問にトマスは曖昧に笑った。


「死神みたいな黒いローブ着て、あの異国の楽器鳴らしながら街屋敷の中を徘徊してる。幽霊出るか出ないかは、運次第とか言ってたけど、自信はあるみたいだったな。……何かすごいことになってるから、ちゃんと出たんだろうね」


 つまり呼び付けられているのだ。本業の方はどうしたのだろうか。

 楽器を抱えながら、喜々として屋敷内を歩き回っている男の姿が目に浮かぶ。彼は幽霊に出会った人間の反応についても研究していた。非常に良い反応を得られているようだ。またどこかで悲鳴が上がっている。


「……どんな嫌がらせよ」


 リリィは呆れ果てたというようにため息をついた。もうユラルバルト伯爵家の舞踏会はどうしようもないくらいに滅茶苦茶だ。あんな悲鳴が聞こえてきたら、招待客も逃げ帰る。


「ガルトダット伯爵家の人間は舞踏会に幽霊と死神を連れて来るって噂になるんだろうね。きっともう招待状来ないね」


 兄は非常に嬉しそうだった。今回トマスは何か仕事をしただろうか。……いや何もしていない。ただ面白がって見てただけ。


「……お兄さま、そんなに結婚したくないのね」


 リリィが思わずそう呟いた途端、乱暴に扉が開いた。ブランケットで芋虫のようにぐるぐる巻きにされ、口元にも布を巻かれた人物が、護衛騎士によって馬車の中に押し込まれた。


 リリィの隣に座らされたのは、淡い金の髪の少年……ではなく青い目をした女の子だった。

 レモン色のドレスを着ていた、グレイスと名乗った少女だ。

 やはりあの茶色の髪の毛は鬘だったのだ。せっかくの美しい髪は男の子のように短い。この色には見覚えがあった。ユラルバルト伯爵の髪の色。きっと伯爵の鬘は彼女の髪で作られていた。

 続いてヒューゴが馬車に乗り込み、扉が閉めれた途端に勢いよく馬車が走り出す。前に倒れそうになった少女を慌ててヒューゴが手を伸ばして支えた。


「リリィ、彼女は身動きが取れない。壁にぶつからないように支えてやってくれ」


 リリィは慌てて前のめりになっている少女の身体を支えると、自分の体に凭れかからせる。馬車はものすごい勢いで走っているが、ガルトダット伯爵家の馬車と違って静かでほとんど揺れない。


「……え、何でこの子ぐるぐる巻き?」


 トマスが焦ったような声を出す。


「誘拐だからだ! 彼女は抵抗できないように拘束されて無理矢理馬車に詰め込まれてユラルバルト家から誘拐された」


 自棄になったようにヒューゴが叫んだ。少女は涙目で首を横に振っている。

 トマスとリリィは顔を見合わせる。「犯罪者になるのは嫌だな」とお互いの顔に書いてあった。二人の意見は一致した。


「……え、ヒューゴおよめさん略奪したの? 確かに彼女金の髪で青い目だけどさ。ちょっと強引なんじゃない?」


 トマスが非常にわざとらしく目を見開いて、芝居がかった仕草でそう言った。


「……まぁ確かにヒューゴお兄さまのおよめさんを探しに行くって話だったものね」


 リリィは少しでも少女が楽なように、身じろいで体の位置や肩の位置を調整する。


「……泣いてるけど」


「……およめさんになるの、すごく嫌なんじゃない? かわいそう……」


 兄と妹は一斉にヒューゴに非難の目を向ける。


「ああそうだなかわいそうだな」


 不貞腐れたようにヒューゴがため息をついた途端、ふっとリリィの肩が軽くなる。横を見ると、少女がボロボロ泣きながら首を横に振っていた。何かよくわからないが、ヒューゴを責めないでと言っているようだ。


「それ、気分悪くなるから、やめた方がいいよ。ちょっと怖いかもしれないけど、少し我慢してね。大丈夫だよ。無理にヒューゴのおよめさんになれなんて言わないからね。危ないからちゃんとリリィに凭れていようね」 


 トマスが気の毒そうな目をして少女に告げる。


「ヒューゴお兄さま女性恐怖症だから、それ克服するまではとても結婚なんてできないから、心配しなくても大丈夫」


 リリィも労わるように彼女に告げると、背中に腕を回し抱きかかえるようにして、再びグレイスの頭を肩に寄りかからせる。少女は固く目を閉じ、震えながら泣き出してしまう。不安と安堵と恐怖が入り混じって混乱しているのだろう。リリィは昔妹によくしていたように、よしよしと頭を撫ぜてやる。嫌がられたら止めようと思ったが、少女は素直に体をリリィの肩に寄りかからせたままだ。

 そういえば、ルークとリリアはどこで何をしているのだろう……


「……少し眠るといい。全部悪い夢だ」


 ため息と共に力なくヒューゴが少女に告げる。彼女はヒューゴの声がする度に縋るような目をして彼を見つめている。


「……もう十分酷い事してる気がするけど。これ以上酷い事はしないって約束するわ。ユラルバルト伯爵家、何か今すごい騒ぎになってるから。きっとあそこにいるより安全よ。私たちは避難しているのよ!」


 リリィは強く主張しておいた。これは誘拐ではなく避難行動なのだ。どこからどう見ても誘拐にしか見えない気がしなくもないが。


「大丈夫。明日目が覚めたら全部元通りだ。全部夢だ」


 ヒューゴは眉間に深い皺を寄せながらも、ちいさな子供に言い聞かせるような優しい声で言った。どういう訳だかヒューゴに信頼感を抱いているらしい少女は素直に小さく頷いて目を閉じる。


「……いや、嘘はよくないよね。それって単に君の願望だよね」


 ぼそりとトマスが呟いた。


 リリィは少女の口元の布を外そうかどうしようか迷った末に、そのまま手を下ろした。小刻みに震える体をそっと抱きしめる。多分、彼女はこの状況に恐怖を抱いている訳ではないのだ。

 耳元に小さな小さな声が聞こえてくる……


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……」


 聞いているリリィが泣きたくなるくらい辛そうな声だ。口元を布で覆われているから声に出せるのかもしれない。こんな悲しい言葉、全部布に吸わせてしまったほうがいい。


 しばらくすると声が途切れて……寝息に変わる。泣きながら眠ってしまったようだ。精神的に限界だったのだろう。


 リリィは目の前の二人に向かって頷いてみせた。

 柔らかい金色の髪がリリィの頬に触れる。彼女の髪はトマスやヒューゴより短い。これが、彼女の意志ではなく、ユラルバルト伯爵の見栄のためだけに切られたというのならば絶対に許せない。


「自分の意思では逃げられないんだ。……多分、ずっとまともに眠っていないし、食事も与えられていない。もう立って歩くのも辛いような状態だった。今夜嫁ぎ先が決まるとか何とか言っていたな」


 ヒューゴがカーテンが閉められた窓を睨みつけながら静かな声でそう告げた。握りしめた拳が小刻みに震えている。それが彼の内面の葛藤を表しているようだった。つまり本当に花嫁を略奪してきたということになるらしい。


「全部演技だという可能性もあるよね」


 トマスの声はひどく冷淡だ。ヒューゴが苦し気な表情になった。


「同じ事を殿下にも言われたな。だが、演技ではない可能性もある。……だから彼女の誘拐の主犯は私だ」


 キッパリとそう言い切ったヒューゴを見て、トマスは諦めたように息をつく。


「ふーん……その覚悟があるならいいよ。うちで預かってあげる。ただし、誘拐だと犯罪だから、駆け落ちってことにしてね。フェレンドルト家にはそう報告するから」


「愛の逃避行ね、素敵」


 リリィも棒読みでそう続けた。

 誘拐は犯罪だが、駆け落ちは……どうなんだろう? 

 でも、第二王子も知っているようだし、彼は責任を全部ガルトダット伯爵家に背負わせるようなことはしないに違いない。どこか適当な所になすり付けるだろう。


「かけおち……」


 舌を火傷したような顔になって、ヒューゴが項垂れた。それでも「やめる」とは言わないのだから、こうなった以上最後まで面倒をみるつもりなのだ。生真面目な人だから。


「……ヒューゴお兄さま、一応聞くけど、彼女の目付け役(シャペロン)って何も言わなかったの?」


「真っ青な顔をして、しばらく口をパクパクさせていたんだが、そのまま眠るように気絶した」


「ああやっぱり」


 悲鳴をあげなかったのは立派だとリリィは思う。宰相の孫が凶悪な顔で睨みつけてきたら、現実から逃げ出したくもなるだろう。


「そっちは放っておいてもいいと護衛騎士が言っていたし、彼女の方が余程体調が悪そうだったからそのままソファーで休ませていたんだ。そうしたらいきなりどこかから悲鳴が聞こえてきて、ダンスホールが騒然となった。一緒に庭に避難しようと言ったんだがな。一緒に行きたいけれど、どうしても行けないと泣くんだ。だから、強引に連れて来た」


「そうよね。これは避難行動なのよ!」


 リリィは先程より力強く宣言した。誘拐でも駆け落ちでもなく避難行動だ。犯罪ではない。ブランケットでぐるぐる巻きだけれど。 

 でも、きっと、ここまでしないと彼女は逃げ出せなかったのだ。あのユラルバルト伯爵家から。


「良かったね、およめさん見つかって。大丈夫だよ。多分いきなり殴ったり蹴ったりはしないと思うよこの子」


 トマスはどうしても駆け落ちにしたいらしかった。その方が面白いからだ。


「そうね……私も、そういう感じではないと思うわ」


 肩からずり落ちて来た少女の身体を抱き留めて、体の位置を戻してやる。

 相当疲れているのか、彼女は目を覚ます様子がない。

 見るからに大人しくて従順そうで……心に傷を負った少し陰のある女の子。


(あれ? それって……)


 しかも、ヒューゴは今回、引きずったのではなく、引きずられている所を助けた。

 言い方を変えれば、傷つけたのではなく守った。

 グレイスはヒューゴをとても頼りにしている様子だった。不安になるとその姿を目で探していた……

 彼女にとってヒューゴは、颯爽と現れて自分を悪漢の手から救い出してくれた王子様だったかもしれない。ヒューゴは何も言われずとも手を差し出していたし腕を貸していた。振る舞いは立派な貴公子だった。顔は相当怖かったけれど……きっと涙で眉間の皺が見えなかったのだ。  


 リリィとトマスは顔を見合わせる。


 その時ちょっと思ったのだ、冗談で「およめさんおよめさん」言っていたが、これはもしかしたら面倒なことになるんじゃなかろうかと。

 でも、さすがに予測できなかった……


 ――まさかリリアが彼女を使ってヒューゴに仕返しを始めるとまでは。


 トマスとリリィの妹は、根に持つ性格をしていた。

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