40 子うさぎの舞踏会 その7
ワルツが終わる。
人々が舞台鑑賞の余韻のようなものに浸っている内に、リリィたちは速足でダンスホールを後にする。
護衛騎士が庭へと続く扉を開けて待っていた。
主催者であるユラルバルト伯爵夫妻と娘、そしてフェリシティの姿は会場から消えていた。
部屋に戻りたかった気持ちは痛い程よくわかる。でも……舞踏会はまだ始まったばかりだ。主催者は最後まで招待客をもてなさなければならない。例え精神的にボロボロであっても。
きっとその内平然とした顔で戻って来るのだろう。
第二王子とその護衛騎士によって占拠された庭には、長テーブルが置かれ、ぐるりと椅子が並べられている。テーブルの上には一口で食べられるようなクッキーとレモネードが用意されていた。第二王子は間食をしないから、きっとすべてリリィのためのもの。
椅子に座ってレモネードを飲みながら、リリィは頬杖をついたぼんやりとしている。
夜風が心地いい。テーブル上の置かれたランプや護衛騎士が手に持つランタンに照らされた庭は幻想的な美しさだ。
庭から眺める舞踏会は、豪華な人形劇のようだった。美しく着飾った人形たちがポルカの早いリズムに合わせて陽気に飛び跳ねている。今はリリィが鑑賞する側だ。
リリアとルークと第二王子の姿はない。アレンとエミリーが会場内の視線を集めている間に、別の仕事をしに行ったのだとカラムが教えてくれた。……別の仕事とは何だろう。
エミリーとジェシカは、ダニエルと護衛騎士に守られながら、一足先に馬車でガルトダット伯爵家に戻った。
――舞踏会の夜に突然現れた正体不明の幻の美少女。
ふたりは謎だけを残して忽然と消え去るのだ。それは、排他的な貴族社会の反発からエミリーたちを守るためだ。
第二王子が用意した美しい『見せ物』ということにしておけば、彼女たちに攻撃的な視線が向かうことはない。
幻のように消え失せたお姫様に今宵何人の男性が恋をしたのだろう。
彼女が菫色の瞳だと気付いた者もきっといた筈だ。ガルトダット伯爵家の先代当主を狂わせ、歴史ある伯爵家を没落させたのは、菫色の瞳をした異国人の女優だった……
ユラルバルト伯爵家の娘のための舞踏会なのに、濃いピンクのドレスを着ていた娘の存在がエミリーのせいですっかり霞んでしまっている。
恨むなら第二王子の怒りを買ったフェリシティを恨んでいただきたい。
そのフェリシティは間違いなく第二王子から売られた喧嘩を買うつもりのようだ。
彼女は、自分を含めた世界を外側から眺めているような目をしていた。俯瞰している……というか、すべての人間を見下している。あの雰囲気には覚えがある。
『周りの人間すべてが馬鹿に見える』
そう言ってうっそりと笑った男と同じ目だ。ああいう考え方の人間は勝ち負けにも独自の判断基準を持ち込んでくる。
間違いなく彼女は自尊心が高い。素直に泣き寝入りしてくれる性格ではないだろう。やられたら倍以上にしてやり返さないと気が済まないに違いない。しかも、目的のためなら手段を選ばないらしいし……
正直二度と関わり合いたくない。……引きこもりで心が弱いリリィには勝てる気がしない。
(ああでも、お花畑なリリアなら勝てるかも……)
腕力なら確実に妹の方が上だろう。
そうだ。物理で勝てば良いのだ。あとは妹に任せよう。
そうなると、気になることはあとひとつだ。
「……ねえ、ヒューゴお兄さまは本当の本当に地毛なの?」
いたって真剣な面持ちでリリィはヒューゴに尋ねた。金色の髪の人はほとんど鬘愛用者だということが先程わかった。
アレンとトマスがやれやれという顔をしてリリィを見る。もう髪の毛の話はしたくないようだ。
「ねえねえ本物? 地毛ー?」
「……」
右隣に座るヒューゴの袖をくいくい引っ張る。ヒューゴはテーブルに頬杖をついてやさぐれた顔をしていた。リリィの方を見ようともしない。三日間ひっついてダンスを踊り続けていればお互い慣れる。もうこのくらいのことではヒューゴは怒らない。一切相手にしない方がリリィには効果があるのだと彼は学んだ。
リリィは諦めて、ダンスホールの方に視線を戻す。
軽快なポルカに合わせて人々が飛び跳ねている。伯爵家夫婦と娘はまだ戻ってきていない。フェリシティの姿もない。知り合いもいない。ならばと、先程見かけたレモン色の可愛らしいドレスを着ていた少女を探してみる。彼女はどんな相手と踊っているのだろうか。
「あれ……?」
リリィは呟いて立ち上がった。カタンと椅子が倒れる。近くにいるのはトマスとアレンとヒューゴだ。リリィは迷わずヒューゴの腕を引っ掴む。
「トマスお兄さまとアレンお兄さまは来ないで! 話がややこしくなる。今必要なのは宰相の孫!」
没落した貴族と元王族では役に立たない。リリィはヒューゴの腕を引っ張って走り出した。
「お……おい」
ヒューゴは驚いたようだが、リリィの切羽詰まった様子に気付いて何も言わずについて来てくれる。その後を護衛騎士二名が追いかけてきていた。
護衛騎士にドアを開けてもらってダンスホールに戻る。室内は熱気が籠っている。曲に合わせて走るように踊る人々。床を踏み鳴らす音。
リリィは大きく室内を見渡す。人々が踊る輪の向こう側で、扉が今にも閉まろうとしている。壁際を速足で歩くリリィの後をヒューゴと護衛騎士が追いかけて来る。扉に辿り着くと、リリィは護衛騎士を振り返る。扉の先に何があるのかはわからない。リリィの判断で勝手に開ける訳にはいかない。護衛騎士が扉を開けると、左右に伸びた廊下に出た。
(やっぱり!)
レモン色のドレスを着た茶色い髪の少女が、リリィたちの左手側数メートル先、壮年の男性に無理矢理腕を掴まれて引きずられている。軽食が用意されている部屋へと向かっているのかもしれないが、あまりに強引だ。少女は暴れるなどあからさまな抵抗はしていないが、ふらつきながらも明らかに嫌がっている。
「何をしているっ」
リリィより先にヒューゴが威圧的に怒鳴りつけた。
「なっ」
驚いて振り返った男が何か言い訳する前に、ヒューゴが先に口を開いた。
「いかなる理由があっても、そのような暴力的な行為は認められない」
リリア引きずったあなたが言いますか、とリリィはちらっと思ったが、ここでそれを言ってはまずいだろうと口を噤んだ。男が少女から手を離した途端に、彼女は力尽きたようにその場に蹲ってしまった。
「少し酔いが回っていらっしゃるようだ。頭を冷やされよ」
狼藉を働いていた男の方も、さすがに宰相の孫と護衛騎士を相手にするつもりはないようだ。少女を置き去りにしてよたよたと走り出すと壁の向こう側に消えた。リリィの言る位置からは見えないのだが、奥に階段があるようだ。躓きながら駆け上る足音が聞こえて来る。
ヒューゴの声がダンスホールまで届いたのか、リリィたちが通って来た扉から、お仕着せを着た黒髪の使用人が顔を覗かせた。一目で異国の血を引いているとわかる、浅黒い肌をした小柄な男だ。リリィは彼に見覚えがあった。
「何事ですか?」
「彼女が酔客に絡まれていた。余程怖かったのだろう。恐らく目付け役が探しているだろうから、送り届けてやってくれ」
ヒューゴは非常におおまかに説明をする。その途端、彼女は声にならない悲鳴を上げてますます震え出してしまった。
リリィたちの横をすり抜け、使用人が茶色の髪の少女に近付くと一礼する。
「まずは二階のクロークルームまでご案内いたします。そちらには女性使用人が待機しておりますので、落ち着かれてから会場に戻りましょう。お客様方はどうぞダンスホールにお戻りください」
少女は一瞬体を大きく震わせたが、従順に頷いて立ち上がる。恐怖のためだろうか足元がふらふらして覚束ないし、顔を伏せてこちらを見ようともしない。……おかしい。狼藉を働いた男が二階にいるかもしれないのに、何故彼女は拒否しないのだろう。
隣に立つ護衛騎士をちらりと窺うと、難しい顔をしている。リリィの視線に気付くと小さくひとつ頷いてくれた。関わっても大丈夫という意味なのだと判断する。
「あ……あの、お名前を教えていただけますか? そして、もし他にお約束がないのでしたら、兄と一緒に軽食を食べてやっていただけませんか? あなたに乱暴を働いた男は二階にいるかもしれません。そのような場所に行かせる訳にはまいりませんわ」
そのままこちらに背を向けて立ち去ろうとする細い背中にリリィは慌てて声をかける。びくりと二人の肩が震えた。
こちらには宰相の孫がいる。没落もしていないし元もつかない正真正銘の高位貴族の跡取り息子だ。確実にこっちが高位。無視する訳にはいくまい。隣でヒューゴの眉間に深い皺が寄ったが、これは人助けだ。我慢していただく。
もう一度護衛騎士を見ると、しっかりと頷いてくれた。対応として間違ってはいないようだ。
少女は恐る恐るというように、泣きそうな目で振り返る。
「グ……グレイスと申します……あ、あ、の……ほ……んと、に?」
声が痛々しい程震えている。顔も真っ青だ。
不機嫌さを隠そうともしないヒューゴと一緒に軽食を食べに行くことを同意するくらいに、彼女は追い詰められている。
しかも名前がグレイスだ。リリィが運河を流れる原因となった女性。でも彼女は魔性の女という感じは一切しない。恐怖に震えているせいもあるが、大人しく気弱そうな少女に見える。
さりげなくヒューゴの背中を押すと、露骨に睨まれた。
「その顔のお兄さまと軽食に行く方がマシと思えるくらい追い詰められた状況って異常よ」
ヒューゴだけに聞こえるように早口で告げると、ヒューゴははっとした顔になった。彼の正義感は女性恐怖症に打ち勝った。大股に少女に歩み寄る。縋るような目をしてヒューゴを見上げた少女の瞳から一筋涙が零れ落ちる。さすがにこれは何かおかしいぞとヒューゴも気付いたようだった。眉間の皺がさらに深くなる。怖いからやめて欲しい。
「目付け役に、許可をもらう必要があるだろう。このままダンスホールに戻る」
ヒューゴは居丈高にそう宣言した。さすが高位貴族。鼻持ちならない態度が良く似合う。彼はリリィが運河を流れた日と同じくらい凶悪な顔つきになっていた。
(目付け役の人、その顔見たら多分気絶する……)
リリィは声に出さずに呟いた。
ヒューゴが率先して少女に手を差し出し、ふらつく彼女をそのまま腕に捕まらせた。多分ひとりでは歩けないのだ。休ませてあげたいが、人目のある場所に早く移動した方がいい。騒ぎに気付いた伯爵家の使用人が増えると厄介だ。
「承知いたしましたお客様。ご案内いたします」
使用人は動揺を隠しきれていない。顔は取り繕っているが、やたらと瞬きをしている。『追い詰められると人って瞬きが増えるんだよな』と、周りが全員バカに見える男が言っていたのを思い出す。
使用人に先導されて、今しがた通って来た扉からダンスホールに戻る。
一礼した使用人はこちらの動向を窺うように扉の前から動かない。ヒューゴはグレイスに案内されて、ゆっくりと目付け役の元に向かっている。そちらには護衛騎士が一人付き添っていた。
リリィはじっと観察するように扉の前の使用人を見つめる。背後に護衛騎士がいるし、ここは人目もある。必要以上に恐れることはない。
「あの……何か?」
引きつった顔で使用人が尋ねるので、
「軽食が用意されている部屋はどこなのかしら? どんな食事が用意されているのかしら、お勧めは何かしら? どんなアイスクリームが用意されているのかしら? 今後の参考のために教えていただけますか?」
笑顔を浮かべてどんどん思いつく限りの質問をする。一瞬使用人の瞳に剣呑な光が浮かぶ。背後の騎士が緊張するのがわかった。
「……あれ?」
きょとんとしてリリィは首を傾げる。
「凄まれてもあんまり怖くないなぁ。あなたものすごく怖い人よね? でも、きっと怖すぎるのね。私にはわからないわ」
「……では、わからない内にお戻りください」
一瞬にしてすべての表情を消し去った男に慇懃無礼にそう返される。
「質問に答えてもらっていないわ。……伯爵家の使用人にしては、ドアの開け方が雑すぎるわよ。気を付けた方がいいと思う」
リリィはおっとりと笑ってみせた。男が苛立たし気に眉を顰める。早くこの場から立ち去りたがっているのがありありと見て取れる。
「喫茶室はそちらの扉を出て右側です。料理の内容やアイスクリームの種類は喫茶室の使用人にお尋ねください」
使用人はニヤっと笑って、開き直ったように雑に一礼すると、乱暴に扉を開けて去って行った。
「……ごめんなさい。あんまり引き留められなかった。あの人、私見たことがあるわ。エミリーさんの求婚者だって言ってた海賊たちの内の一人よね」
背後を振り返って残念そうに護衛騎士に告げる。一緒にダンスの練習をしていた人だからすでに顔なじみだ。
「……あれで十分ですよ。でも、あんまり無茶をすると殿下に怒られますよ」
「ちゃんと人目のあるところでやったわよ?」
ポルカが終わり、喉が渇いた人々が喫茶室に移動を始めている。それに紛れながら、目立たないように壁際ギリギリを足早に進んで庭に逃れる。熱気が籠るダンスホールから外に出ると、リリィはほっと一息ついた。
「本当に怖くなかったんですか?」
心配そうに尋ねられ、リリィは眉尻を下げて情けない顔になった。
「うん。本当にわかんなかったの。ほら、高すぎる音って聞こえないし、冷たすぎると何にも感じないわよね。そんな感じなのかも」
「殿下はその辺り、しっかり見極めてきますよ」
護衛騎士は困ったように笑った。
庭の長テーブルの脇でトマスと第二王子が立って待っているのが見えた。今度はアレンとカラムの姿が消えている。ランタンを持つ護衛騎士の横を通り抜けながら、テーブルの前に来ると、疲れた顔をしたトマスが椅子を引いて、リリィに座るように促した。
リリィの背後についてきていた護衛騎士がアーサーに何やら報告している。
一通り報告を受けたアーサーがリリィに向き直る。座っているリリィと立っているアーサーでは目線の高さが違う。この時点ですでに少し怖い。怯えた顔になったリリィに気付いたアーサーは手近な椅子に腰を下ろし、優しく微笑んだ。
「怒ってはいないから、そんなに怯えなくてもいい。何故君が彼女に気付けたのか教えてくれる?」
アーサーはリリィに話を聞くために、わざわざ戻ってきたようだ。黒い軍服が少し汚れている気がする。一体舞踏会の裏で何が行われているのだろうか。わからないけれど、やはりもう少しあの男を会場に引き留められれば良かったなと何となく思う。
「たまたまです。ワルツを踊る直前に私が髪の毛の話をした時、反応したのは男性がほとんどでした。でも、少し離れた場所にいた目付け役らしき女性が、大慌てで自分の隣に立つ令嬢の頭を確認し始めたんです。彼女はこの国ではよくある淡い茶色の髪でした。しかも焦っているのは目付け役だけで本人は暗い表情のまま何の反応も示さなかった。今思えば、少し違和感があったから印象に残ったんでしょうね」
そのレモン色のドレスを着た令嬢とその目付け役のおかげで、あの時咄嗟にリリィは「そちらのお嬢さんですわ」という台詞を思いついたのだ。その時の彼女があまりに悲壮な顔をしていたから、もしかしたらダンスを踊る相手が見つけられないのかもしれないなと気にかかっていた。
今夜舞踏会に参加してみて、リリィは『壁の花』というのは女性にとって想像以上に辛い状況だということを理解した。楽し気に踊る人々の片隅で、誰にも相手にされず打ち捨てられた置物のようにただ座っている。自分は誰にも相手にされない何の価値もない存在だと突きつけられている。ただひたすらに男性から声をかけてもらえることを祈りながら待ち続ける……
舞踏会で踊る相手が見つからないということはつまり、結婚相手が見つからないということだ。
リリィはヒューゴのせいでダンスホールの真ん中で五曲立ち尽くすというのは経験したが……現実の舞踏会での『壁の花』の辛さはあれの比ではないだろう。
彼女は、ダンスの相手が無事見つかっただろうか。若くて可愛らしい少女だったからきっと大丈夫だとは思うけれど……
そう思って庭から見える範囲で会場内を探したところ、そのレモン色のドレスの少女が、年の離れた男に腕を引っぱられているのが見えたのだ。目付け役はソファーから立ち上がる様子もない。父親が娘を無理矢理連れて帰ろうとしているようにも見えたのだが、何となく嫌な感じがした。余計なお世話かなとも思ったのだが、わかりやすい高位貴族であるヒューゴを連れて様子を見に行くことにしたのだ。勘違いならすぐに戻るつもりだった。
「付いて行った二人が制止しなかったのだから、君はかなり上手く立ち回ったのだと思うけどね」
アーサーが小さく息をつく。やっぱりこれから怒られるのだと察したリリィは、肩を落として項垂れた。
「本当に怖いもの知らずだねぇ、君は。……運河流れたことすっかり忘れてるよね」
そんなことはない。リリィは怖がりだ。大柄で威圧的な男性は怖い。運河を流れた恐怖はもうすっかり忘れたけれど。
「何の準備もなく誰彼構わず喧嘩を売るのはやめなさい。危ないからね」
穏やかな声だが、リリィを見つめる目は真剣そのものだった。
「君は確かにとても頭の回転が速くて賢い。でも、温室育ちで、弱くて柔らかくて脆い所がある。反撃されたらひとたまりもない。あまり周りに心配をかけないこと」
……耳が痛い。全くもって確かにその通りだ。反論する余地もない。悄然としてリリィは俯いた。
「……ごめんなさい」
「アレンが君を追いかけるって言ってきかなかったみたいでね、向こうで拘束されてる。帰宅したら無事な姿見せてやって。……言っておくけど、かなり鬱陶しいことになっているからね。責任取って君が何とかすること。あれ見ればもう二度と無茶をする気は起きないとは思う。しばらくは付き纏われるから覚悟して」
非常に面倒くさそうな顔になってアーサーはそう言った。
かなり鬱陶しい事になっているアレンというのは、ひょっとしてあれだろうか。「兄上っ兄上っ」とアーサーを追いかけ回していた、あの情緒不安定状態に陥っているということだろうか。……何故? 一体何が原因で?
(さっぱりわからない……)
リリィは茫然とアーサーを見つめた。
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