39 子うさぎの舞踏会 その6
アーサーが背後を振り返り、無言のままひとつ頷く。
リリアを伴って歩いて来たルークに、トマスとヒューゴが場所を譲った。
優し気な微笑を浮かべたルークが、リリアをエスコートしている。会場が大きくざわめいた。彼らはリルド侯爵の後継者を見るのは初めての筈だ。公になっていないから。
フェリシティが茫然と目を見開く。
ルークは軍服ではなくイブニングドレスコート姿だ。リリアはデビュタントを思わせる淡い淡いピンクのドレスを身に纏っている。裾に向かって大きく広がってゆくスカートの裾には、ぐるりとピンクのバラの花が飾り付けられていた。袖にも胸元にも腰の部分にも同じピンクのバラの花飾り。結い上げた髪には、咲き初めのちいさな白い薔薇の花を飾っている。
銀色の髪の優し気な青年と、彼に寄り添う甘い砂糖菓子のような可愛らしい少女。
ルークが落ち着いた声音でユラルバルト伯爵夫妻に何かを言い、リリアが愛らしい声でルークに続いて何やら言った。それは、この国の言葉ではなかった。
(はやっ)
二人が話しているのはルークの母国の言語だ。リリィは早すぎて聞き取れないが、リリアが名前を言っていたようなので自己紹介したのだろう。あとは時節の挨拶だろうか。そして二人は目を合わせて優雅に揃ってお辞儀をする。さすがに美しい。
ユラルバルト伯爵家の側に立つ人間は誰一人、リリアとルークの言葉を理解できないようだ。ぽかんとした顔をしている。
さらにルークが伯爵に何やら話しかけると。愛おしそうにリリアを見つめる。リリアは頬を染めて恥ずかしそうに俯いた。
……不意に何かに気付いたような顔をして、リリアはふっと顔を上げた。そして、微動だにせず立ち尽くしているフェリシティに向き直る。
リリアは一度目を伏せると、大変気の毒そうな顔つきになった。
胸の前で手を組み緩く首を振った後、何事かをフェリシティに告げる。『大変な目に遭われましたね。どうぞお気を落とされませんように』的な事を言ったのだろう。言葉はわからずともその表情が如実に語っている。それから相手を元気付けようとするかのようにふわっと笑って、フェリシティに向かって丁寧にお辞儀をした。
……相変わらず演技が上手い。もしかしたら、演技をしているという意識すらないのかもしれない。
同情からの慰め。そして、励まし。ここに至る一連の心の動きを、見事その表情と身振りで表現した。
顔を上げたリリアはルークを見上げて控えめに微笑む。また二人は交互に何事かを伯爵夫妻に告げると、目的は達したとばかりにさっさと壁際に去って行った。
全員が何となくその姿を目で追う。壁際で立ち止まったルークはリリアに話しかけながら、お辞儀をした時に少しずれてしまったバラの髪飾りを直してやっていた。リリアはきらきらとした目でルークを見上げて一生懸命に異国の言葉で語り掛けている。満面の笑顔だ。幸せそうで何よりだ。
そんなリリアが可愛くて仕方がないというように、ルークは甘く微笑む。
「……と、いう訳だ。私からも心からお悔やみ申し上げる」
……いや誰も死んでない。全員が茫然としているのを良い事に、しれっとアーサーがとんでもない事を言った。
「な……」
フェリシティはルークとリリアを見つめながら、真っ青な顔をして震えている。かなり混乱している様子だ。
会場内がざわつき始める。異国の言葉を話す『リルド侯爵家の後継者』が一体何者なのか結局誰にもわからない。まさか彼等の口から外国語が飛び出してくるなどとは予想していなかっただろうし、容赦なく早口だった。自己紹介を正確に聞き取れた者はいないようだ。
リリアとルークは壁際で二人の世界を作っている。ルークがリリアの二の腕をそっと支え持ち、二人は笑顔で見つめ合った。まるで愛の言葉を囁き合っているように見えるが……実際は普段通りにぎゅーっと腕に抱き着こうとしたリリアをルークがさりげなく押しとどめたに過ぎない。結構腕に力が入っているように見える。
(あー舞踏会直前までリリアとルークが引き離されていたのはこういうことかぁ)
思えば、リリィが運河を流れたあの日から、リリアもリリアで色々あった。
ヒューゴに酔った勢いで求婚され、蹴り飛ばそうとしてルークに叱られ、踊りたくもないのにワルツを踊らさた。……そしてヒューゴの代わりに仕事に行ったルークは帰って来なくなった。
二日ぶりにルークに会えたリリアの脳内はすっかりお花畑になっている。
しかも、リリアはルークと舞踏会に参加するのは初めてなのだ。幼い頃からの夢だった王子様との舞踏会。妹はもう嬉しくて嬉しくて仕方がなくてはしゃいでいる。きらきら目を輝かせてルークを見上げている様子など大変可愛らしい。
(……結局、全部ヒューゴお兄さまが原因なのよね)
リリアは『慎み』という言葉を完全に忘れ去っていた。
ヒューゴがどんな顔をして二人を見ているかはここからは見えないが、彼に今のリリアを批判する権利はない。絶対に……ない。
「ああ、やはりそこまで驚かれるなら別人だったのだろうな。証明できてよかった。この期に及んでやはり本人に騙されたなどと言い出されても困る」
くくっとアーサーが愉快そうに肩を震わせて笑っている。その言葉に、フェリシティははっとした顔になった。
彼女はルークを見て『誰だこれは』という反応を示した。つまり、彼女は本物のリルド侯爵の後継者を見たことがなかった。と、いうことになる。
「あの通り、彼が他の女性を自分の伴侶に求めることはない。彼が選んだ彼女こそが、彼だけのちいさな王女さまという事だ」
そこで、アーサーは思わせぶりに一旦言葉を切った。「それに」と続けた声は一段低い。そこに潜む不機嫌さに、ダンスホールに緊張が走った。
「今となればもう直接会ったことがある者は少ないと思うが。叔母上は顔の火傷を大変誇りに思っていらっしゃった。演劇などでは、ベールで隠すことによって『火傷』を表現しているようだがな。本物のちいさな王女さまはそのようなもので顔を隠すことなど絶対になさらなかったのだよ。リルド領の屋敷に孤児たちを招いたりなさるような時も、子供たちに顔の傷を触らせて、命の大切さを説いていらっしゃった」
アーサーに見据えられたフェリシティは、その視線の厳しさに気圧されたように、よろめきながら数歩下がった。
「……おまえは似ても似つかない偽物だ。我々はその娘にリリィ王女を重ねることを絶対に許さない」
静かな声音だったにも関わらず、誰もがそこに第二王子の激しい怒りを感じ取り、思わず息を詰めた。フェリシティは硬直し、伯爵夫人は今にも倒れそうになっている……
彼等は知らなかった訳ではないのかもしれない。しかし、よりわかりやすい『見た目』を重視ししてしまった。若い世代にはお芝居で見るちいさな王女さまの姿の方が馴染みがあり、それが本当の姿だと思い込んでいる。若年層に訴えかけるには、顔を隠すベールはうってつけの小道具だったのだろう。
それを、ちいさな王女様の身内から完全否定された。自ら慈善家を名乗る夫人にとっては致命的な失敗だった。
――アーサーにとってちいさな女王様は父親の従姉であり……それと同時に、母親の妹なのだ。
前国王は、兄から王位を引き継いでいる。兄王には『王家の色』を持つ息子がいなかったためだ。アーサーの母親は、二代前の国王の娘のフローラ王女。その妹がリリィ王女だ。おおきな王女さまとちいさな王女さま。ふたりはそう呼ばれて国民から親しまれていた。
「リリアが着ているのは、叔母上が昔着ていた薔薇のドレスを直したものだ。ピンクの薔薇の花は孤児たちが感謝の気持ちを込めてひとつずつ手作りしてくれたのだと、とても嬉しそうに話して下さった。何度も何度も袖を通していらっしゃったから、王宮に行けば今でも覚えている者が多いだろう。彼女にはとても良く似合っているとは思わないか? ……リリア」
名前を呼ばれたリリアがゆっくりとこちらを向く。
アーサーが異国語で彼女に語りかけると、リリアは微笑んで頷いた。
息をするのも躊躇われるような異様な緊張感の中、リリアは一歩前に進み出ると、会場内の人たちに向けて異国の言葉で挨拶をして……衆目の中とても美しくお辞儀をした。
……ドレスの裾が床に広がりまるでバラが咲いたように見える。
たっぷりと時間を取ってからゆっくりと彼女は立ち上がり、初々しく少し恥ずかしそうに微笑んだ。
思わずと言った感じで人々から感嘆のため息が漏れる。流石に完璧だ。アーサーは満足げに頷いた。
ルークは自分の元に戻って来たリリアを大切そうにそっと腕の中に閉じ込めてしまう。……恐らく、勢いよく飛びついてこられることを警戒してさりげなく拘束したのだろう。リリアは頬を染めて目を閉じ、そっとルークの胸に寄りかかると幸せそうに微笑んだ。定位置におさまったので、落ち着いたらしい。放っておくとあのまま寝るかもしれない。
まるで美しい異国のお芝居を見ているようだ。自分たちは観客で、恋人たちがお互いの愛を確かめ合う場面を客席から眺めている……
ちらりとフェリシティの様子を窺うと、彼女は紙のように真っ白な顔をしていた。眉間に皺をよせ唇を噛みしめている。スカートを握りしめている手が小刻みに震えていた。
まぁそうなるだろうなとリリィは思った。
――フェリシティは今や哀れで惨めな詐欺の被害者だ。
こうなってしまえば、彼女が『ちいさな王女さまの遺志を継ぐ者として、リルド公爵の後継者に結婚相手として望まれた』などとは、もう誰も信じない。
ルークは彼女と言葉ひとつ交わすつもりはない。母国の言語も理解できない女性など自分は相手にしないのだと示した。
それだけなら、フェリシティは被害者として周囲の同情を集める側だった。
しかし、アーサーは彼女にその立場に留まることを許さなかった。
彼女には『ちいさな王女さま』名を引き継ぐ資格はない。生き方も考え方も何もかもが違う。二人は似ても似つかない。
――おまえは偽物だ。
アーサーにそう告げられた瞬間に、社交界におけるフェリシティの価値は完全に失われた。
ちいさな女王様の幻影をはぎ取られた彼女は、大勢いる貴族令嬢の内の一人にすぎない。
(本当に、余計な事を言ったわよね……)
伯爵夫人の一言があったせいで、フェリシティは支持者たちの面前で偽物だと宣告されてしまった。ユラルバルト伯爵夫人とフェリシティが今まで便利に利用していた『ちいさな王女さまの遺志を継ぐ』という大義名分は二度と使えない。今後の活動にも支障をきたすだろう。……何をしているのかはよく知らないけれど。
しかし、本当に彼女たちが『人のため』になるような事をしているならば、アーサーはここまで厳しい言葉を使わなかった筈だ。
「ハロルド邪魔したな。せっかくアレンを連れて来てみたが、必要なかったようだ。庭を散策させてもらうとしよう。アレン、キリアから来たお客人と踊ってくるといい。丁度次はワルツのようだ」
アーサーはそう言いながら、リリィに歩み寄る。そうしてそっとリリィの手を取って、甲に軽くキスを落とした。リリィは硬直した。
「私は喪中で踊れないから。君の従兄に私の大切なお姫様を託そう」
え? とリリィは耳を疑う。どよめきが起こった。その言葉が数回脳内で繰り返され、ようやくその意味を理解した途端に、ぼんっとリリィの顔が真っ赤になる。薄く微笑んでアーサーはリリィの横をすり抜ける。
「踊り終わったら庭においで」
同一人物から発せられたとは思えない程甘く優しい声だった。そのまま一度も振り返ることなく、アーサーは護衛騎士たちを伴い庭に出て行った。ルークとリリアがその後に続き、カラムはリリィの隣に残る。
何が起こったのか理解できていないリリィは真っ赤に染まった頬に思わず手を当てた。瞳を揺らして立ち尽くす。何が……何が今起こったのだろう。自分のものとは思えないくらい鼓動が早い。胸がむず痒いような不思議な感覚を覚えて、両手を組んでぎゅーっと心臓の辺りを押さえた。表に飛び出そうとする心臓を元の位置に留めようとするかのように。
「お嬢さま大丈夫ですか? ……本っ当に大人げないな」
リリィにだけかろうじて聞こえるくらいの小声で、カラムが呟いているのが微かに聞こえた。
誰かにじっと見られているような気がして、リリィはのろのろと顔を上げる。エメラルドグリーンの瞳がまっすぐにリリィに向けられていた。その粘つくような視線にリリィは怯えて思わず体を後ろに引く。
目の前に白い壁ができた。アレンがさりげなくリリィを第三王子の視線から隠したのだ。アレンの横にエミリーが立つ。第三王子は不快そうにアレンを一瞥すると、いきなり踵を返して去っていた。慌てて護衛がその後を追う。ユラルバルト夫妻がはっとして第三王子を追いかけようとした時――
「お久しぶりでございます。フェリシティお姉さま」
凛とした美しい声が会場内に響いた。夫妻は足を止めてエミリーを振り返る。
そうだ。相手が冷静になる前に次々と畳みかけろと命令されている。会場の人間を我に返らせてはいけない。まだ終わっていないのだ。
再び会場が静まり返る。男性の視線はエミリーに。女性の視線がアレンに集中する。エミリーは先程のリリアと同じようにゆっくりとお辞儀した。リリアには及ばずとも、フェリシティより数段丁寧で美しく洗練された所作だ。それは彼女のここ一ヶ月の努力の成果。
「お会いできてとてもうれしいです」
そう言って微笑んだエミリーは輝くように美しかった。クリーム色の美しいドレスも控えめに身に付けている宝石もすべてアーサーが用意した。かけられているお金の桁が違う。誰もがエミリーを高位貴族の娘であると思い込んでいるだろう。
「エミリー……」
フェリシティはただ名前を呼んだだけだった。彼女はこの場の空気を自分の味方につけるために、自分がどう動けばいいのか咄嗟に判断できなかった。今ここでエミリーを糾弾したとして、果たして何人が自分の言葉を信じるだろうか。恐らくそんなことをちらっと考えたに違いない。その一瞬の迷いが隙を生んだ。
「わたくしお姉さまにどうしてもお仕えしたいことがありまして、本日は両親にかわってこちらに参りました」
エミリーが晴れやかな笑顔をフェリシティに向けると、その場に跪いてその両手を優しく取って握りしめた。
「兄が……ようやく見つかったのです。お姉さまの婚約者だったわたくしの兄が。行方不明になってもう何年経つでしょうか。さすがに家の者も諦めかけておりましたが、無事とわかり両親もわたくしもとても安堵しております。どうしても直接お姉さまにこのことをお伝えしたくてこちらに参りました。……今日はわたくしにとって人生最良の日ですわ」
エミリーは一方的にそう話すとフェリシティの手を離して立ち上がり、また深々とお辞儀をして数歩下がる。入れ替わるようにジェシカとダニエルがフェリシティの前に立ち、優雅にお辞儀をした。
「フェリシティさまお久しぶりでございます。行方不明だった婚約者さまが無事に見つかったこと、心からお祝い申し上げます。本日はお招きありがとうございます」
短くそれだけ告げる。四人は揃って踵を返すと、そのままダンスホールの中心に向かって歩き出した。
二人の台詞は第二王子によって用意されたものだ。彼女たちはダンスの練習と平行して、何度も何度も与えられた台詞を練習していた。演技指導に当たったのは勿論リリアだ。特訓の甲斐あって全く不自然さはなかった。
これで、フェリシティには婚約者がおり、エミリーという名の少女はフェリシティの義妹となる筈の存在であると周囲の人間に印象付けることに成功した。
ここからエミリーを『松明で顔を焙った意地悪な従妹』に仕立て上げるのは非常に困難だ。
最後に残ったのはリリィとヒューゴとトマスだ。最低限の礼儀として三人は揃ってお辞儀だけすると、無言で踵を返して歩き出した。先程挨拶をしなくても良いと第二王子に言われたからだ。
……でも、きっとこれだけでは足りない。リリィはぐっとお腹に力を入れる。
用意された台本はここまでだ。普通の貴族令嬢だったら、ここまで惨めで屈辱的な状況に追い込まれたら、平然とした顔でこの場に留まり続けることはできないのではないだろうか。
リリィだったら、今すぐ部屋に逃げ帰って泣いて引きこもる。
でも、フェリシティは……彼女はまだ折れていない。彼女は多分『普通』ではない。お辞儀をした時にちらりと盗み見た水色のドレスの女性の瞳は、ものすごく強い光を宿していた。彼女は目の前に立つリリィとヒューゴを見ていなかった。恐らく頭の中で必死に計算している。このまま、敗者で終わるつもりはない。
彼女より先に動く必要がある。どうする。どうしたら……
フェリシティに背中を向けて数歩進んだ所で、リリィは足を止めて振り返った。
「……あの、髪が……その……頭の上のそれ……ズレておりますよ」
リリィの言葉にヒューゴがぎょっと目を剥いた。
リリィは特定の誰かを見て言った訳ではないのに、ユラルバルト伯爵を含めその場にいた数人が頭に手をやる。ふーん、結構いるなとリリィは思った。やはり金の髪をしている人に鬘愛用者は多いようだ。天然で綺麗な金色の髪というのは、出にくいのかもしれない。フェレンドルト家も大変だなと思う。
リリィは何となく納得してにっこり笑うと、壁際の花瓶に向かって告げた。
「そちらのお嬢さんですわ。大変失礼いたしました。でも、つけ毛を落とす前に気付かれて良かったですわね。もう大丈夫ですわよ……他の皆様も」
ここは会場の隅の隅だ。ちゃんと声も抑えたし、勿論、誰か特定できるようなこともしていない。マナー違反には当たるまい……多分。
「……ご安心下さい。今度はズレてはおりませんわよ」
誰に言うともなく一言付け加えておく。
一瞬にして大多数の人間がユラルバルト伯爵の頭に注目する。無意識にそちらに目がいってしまったのだ。彼らはすぐさまはっと我に返り、気まずそうな顔をすると、そそくさとその場から逃げ出した。
そして……ユラルバルト伯爵一家とリリィたちの周囲にだけ招待客が誰もいない、という奇妙な状況ができあがった。
「あらあら、急に静かになってしまいました。不思議ですわね?」
リリィは、ほほほっと笑って歩き出す。ヒューゴの顔色が非常に悪い。つかず離れずの位置にカラムとトマスが付き添っているから、何も心配するようなことはないと思うのだが。……その二人は肩を震わせて笑っているけれど。
優美な音楽が流れ始める。
主催者一家はダンスホールの隅の隅で未だ茫然と立ち尽くしているが、会場内の人々はすでに噂話に夢中だ。話の種はこれでもかというくらいに提供されたのだ。舞踏会会場はすっかり元の賑わいを取り戻していた。
フェリシティも伯爵家夫妻も、場の空気を再び凍り付かせるような真似はしてこないだろう。今夜の舞踏会の主役はあくまで伯爵家の娘。この舞踏会には莫大なお金がかけられている。失敗する訳にはいかない。
「ヒューゴお兄さま、顔色よくないですわよ。音楽が始まっております」
「……リリィ……おま……おまえな……」
ヒューゴはリリィに向かって何か言おうとしているが、動揺のあまりそれ以上は言葉にならないようだ。
「はじまります」
澄ました顔でリリィはヒューゴを見た。せっかくあれほどワルツを練習したのだ。ここで踊らずにどうする。リリィは気合が入っていた。せめてこの一曲分だけでも、きらきらした初めての舞踏会気分を味わってやろうではないか! そう思うと口元に笑みが浮かぶ。
「お兄さま、笑って下さい。せっかくの舞踏会です。わたくし、引き立て役としての仕事を立派に果たしてみせるわ。大切なお友達のために最後までやり遂げます」
楽しそうなリリィを見て、ヒューゴは諦めたように肩を落とした。そうしてリリィに向かって手を差し出す。
「後でお説教はするからな!」
勿論覚悟の上だ。でも上手くいったのだから許して欲しい。
さて、最後の仕上げだ。
ダンスホールの中心で踊り始めたエミリーとアレンのダンスに華を添えるために、リリィとヒューゴ、ジェシカとダニエルが踊り始める。
噂話に夢中になっていた人々が、エミリーとアレンのダンスに目を奪われてゆく。自然に人垣ができあがる。彼らはうっとりとした顔をして、王子様とお姫様が踊るワルツを眺めている。
絢爛豪華な歌劇を観覧しているような気分なのだろう。
女性たちは、アレンとワルツを踊る自分の姿を夢想して胸を高鳴らせるだろう。
男性たちは、今夜のエミリーの美しさを一生忘れられないだろう。
それは美しい呪いのように、いつまでも心を痺れさせる毒のように……
王宮でのふたりの再会の場面を演出した時にも思ったが……お金が取れそうだ。
ターンをしながらちらりと周囲を確認する。フェリシティが自分を睨みつけているのに気付いて、リリィは軽く首を傾げた。
「……ねぇ、なんでリリアじゃなくて私を睨むんだろう?」
思わず素に戻ってヒューゴに尋ねる。従兄ちらりとリリィの視線の先を追ってため息をついた。
「……単純に言葉が通じる方を選んだんじゃないのか?」
成程。と、リリィは心の底から納得した。
確かに、八つ当たりしようにも言葉が通じないことには何ともならない。