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37 子うさぎの舞踏会 その4(*)

(*)暴力シーンがあります。苦手な方はご注意ください。


 ――緑が最上。無理でも青の瞳。そして髪の色は金色。


 何ひとつ母親はフェリシティには与えられなかった。それができていたら彼女の人生はきっと劇的に変わっていただろうに。可哀想で不幸せな女だ。

 でも一番不幸なのは、彼女が自分の幸せと娘の幸せの形が違うのだといつまで経っても気付かないことだろう。


 いい加減価値観の押し付けが鬱陶しい。


 普段は薬で眠らせているけれど、最近効きが悪くなってきた。目を覚ませば、もうやめてくれと静かに涙を流す。その清純そうな仕草を見ていると張り倒したくなる。自分の手が痛いのは嫌だから、全部あなたのせいだ。とフェリシティは微笑んでやる。


 不当に虐げられている母親を見ているのが嫌だった。……一番最初は多分そんなちいさな正義感だった。


 必死に頭を使い、他人に媚び、どれだけ自分の心と手を汚してきただろう。

 絶対に自分は地獄に落ちる。でも、やりたいようにやっているだけだから、決して後悔はしない。死んでからの事を恐れるより、今の幸せを掴むことを優先する。


「あなたの不幸もわたくしの不幸も全部全部あなたのせい。だけど、わたくしはあなたの望む優しい娘だから、あなたを恨んでなんかいないわ? いつもあなたはわたくしに言っていたわよね『優しい子に育ってね』って」


 そう告げて、自ら運んできた病人食を、傍らのちいさなテーブルの上に乗せる。壁際にはメイド服姿のエラが立っている。その顔には何の表情も浮かんでいない。

 半地下にある、療養室という名前のちいさな隔離部屋だ。窓もないから、ろうそくの明かりがなければ室内は真っ暗になる。


「はい、今日のお食事とお薬。ちゃんと食べて飲んでね? お兄さまはなけなしのお金を、あなたのために支払ったのよ? それに、お薬もちゃんと飲んでくれないと、役に立たなかったあなたの召使に、また罰を与えないといけなくなってしまうわね。エラでもう何人目かしら? あなたの命は、もうあなただけのものじゃないの。可哀想なお兄さまとエラのために。そして、心優しいあなたの娘の幸せのために、せいぜい長生きしてくださいな、大切な大切なおかあさま。さあお食事をどうぞ」


 エラは病人の身体を起こして、背中にクッションを入れる。枕元の椅子に腰かけると、ドロドロとしたかゆをスプーンですくって病人の口元に差し出した。


 覚悟を決めたように病人は口を開ける。やせ衰えた醜い女だとフェリシティは思う。美しかった頃の面影などどこにもない。金の髪は光沢を失い、緑の目から涙を零し続けている。

 これは彼女への罰なのだ。

 金の髪も緑の瞳も、妖精のようだと讃えられた美貌も何一つ娘に与えなかった罰。

 老男爵はいつもそう言って彼女の足をステッキで打った。老人の力だからそれ程威力はなかったにせよ、その場で座り込む程度には痛みを感じた筈だ。それに比べれば自分は本当に優しい娘だ。大人しく食事を摂り始めた女を見て、フェリシティは満足げに微笑み踵を返した。


 幼い頃から彼女はいつも泣いていた。「諦めなさい。弁えて多くを望まず、旦那さまに感謝をしてひっそりと生きていきなさい。それが私とあなたが幸せになる唯一の方法なの」と。


 意味がわからない。自分が産んだからと言って、自分の価値を押し付けるな。勝手に自分を重ねるな。気持ち悪い。

 幼い頃から、母親の願う『幸せ』がフェリシティには全く理解できなかった。だって母親は見るからに不幸だった。

 理解できなかったけれど、彼女がそんな事を言い続けるから、優しい娘は、そういう風に生きられる場所を彼女に用意してあげたのだ。


 ――だから、今彼女は自分が望んだ幸せの中にいるはずだ。


 療養室を出ると、扉の外で壁の凭れて床に座り込んでいる男にフェリシティは冷めきった目を向ける。ボロボロの服を着た、自分の無力さに打ちひしがれている憐れな男。兄というには年の離れているが父親というには若すぎる。


「よくわかったでしょう、所詮はきれいごとだったと。見捨てて良いのよ? あなたが見捨てれば誰も面倒はみないから、あの人どうなるかなんてわからないけれど。ああ、ちゃんとシーツの洗濯代は払って下さる? 清潔にしないと別の病気にかかってしまうわよ?」


 男は何も答えない。この世の不幸を一人で背負ったように項垂れている。バカみたいだとフェリシティは思う。自分で自分を不幸にしているだけではないか。誰にでも優しい顔をするからこういう目に遭うのだ。


「さて、明日の食事代と宿泊代をもらおうかしら? 貯えが底をついて来たならば、稼ぎに行ったらどう? お金がなければ病人を養うことだってできないのよ? わたくしはあなにいつ出て行ってもらっても構わない」


 フェリシティは慈悲深い笑みを浮かべて、男性の肩に手を置く。


「もういいのよ? 捨ててしまいなさい? 自分には無理でした。間違っていましたって謝罪してくれるなら許して差し上げるわ。この人はあなたの母親ではないのよ。見殺しにしたって誰もあなたを責めたりはしない。よくここまで面倒をみてくれたわね、ありがとう。感謝している。さあ、今すぐわたくしに謝罪して、この人を捨てて出て行きなさい? キリアで家族があなたの帰りをずっと待っているわ。でも、彼らも随分あなたのために危ない橋を渡ったわよねぇ。すべてが明るみに出てしまったら、あなたのせいで全員収監されてしまうんじゃないかしら」


 上機嫌でフェリシティは言葉を続ける。本当に気分がいい。だから男の顎に手を当てて、無理矢理顔を上げさせる。男の片頬は赤く腫れあがり、鼻や口から血が流れ出ている。

 フェリシティはそれを見ても汚いなと思うだけだ。もうずっと前から他人の痛みなどわからないし興味もない。ただ、今まで幸せに生きて来た人間が、底のない闇の中で苦しみもがく様子を見ていると、気持ちが少しだけすっきりする。


 いつも粘つくような不快感がフェリシティの胸の中にはある。平穏な日常を幸せそうに暮らしている人間を見るとイライラするのだ。うっかり考え事をして歩いていて、蜘蛛の巣に髪が絡まってしまった時のような……やり場のない怒りが常に胸の中でどす黒く渦巻いている。八つ当たりして発散しないければ、息ができなくなってしまう。


 生きるために必要なものは、他人から与えられないと自分のものにはならない。そのことを、男爵家でフェリシティは嫌と言う程思い知らされた。


 生まれた直後からフェリシティは男爵家でないがしろにされていた訳ではない。

 

 フェリシティが十歳になるころまで男爵家の家政婦長務めていた女はキリアの出身者だった。同郷出身の夫人が屋根裏部屋で家畜のように扱われているのを見るのは気分が悪かったのだろう。老男爵が何を言おうとも、きちんと食事は与え、最低限の身に回りの世話はするようにと使用人たちに命じていた。フェリシティにも子守や家庭教師がつけられていた。

 

 しかし、病気を理由に家政婦が退職してしまうと、フェリシティと母親への扱いは一気に雑になった。新しい家政婦は、商人の娘である男爵夫人に敬意を払う必要を全く感じていなかったたためだ。

 老男爵は後妻を特別な外出の時にのみ使う装飾品とでも思っていた。普段は屋根裏にしまっておいて、必要な時だけ取り出して着飾らせる。

 特別な色を持たずに生まれて来た娘は不用品と決めつけていた。家政婦が変わる前から老男爵は「若さという価値がある間に、友人の誰かにくれてやるつもりだ。だから教育など必要ない。余計な知恵がつけば、可愛げがなくなるだけだ」と言い続けていた。


 前家政婦はそれでも男爵家の名誉にも関わるからと、フェリシティに最低限のマナーを身に付けさせようとしたが、新しい家政婦はその必要すらないと判断し、家庭教師をあっさりと解雇した。

 

 他の使用人たちも、女性使用人の司令官たる家政婦と同様、母娘を自分達より下に扱うようになった。


 フェリシティの人生が最初からそうであったのなら、彼女は自分の置かれた立場に何の疑問も抱かなかったかもしれない。しかし、一応当主の娘として丁寧に扱われていた彼女は、ある日を境に、いきなり使用人たちから見下されるようになったことに我慢ならなかった。父親に似て自尊心が高いフェリシティは混乱し……それはすぐに怒りの感情に変わった。

 

 ――あの日


 いつまで待っても食事が運ばれてこないことに苛立ったフェリシティは、廊下にいた使用人に声をかけたのだ。彼女が無視してそのまま立ち去ろうとしたので、近くにあった燭台を彼女に向かって蹴り倒してそのまま逃げた。ちらりと振り返ると、カーテンに燃え移った炎が伸び上がってゆくのが見えた。引きつった顔をする使用人を見て心の底からすっきりした。炎が天井に向かって駆け上がってゆく光景は大層美しかった。


 カーテンと窓枠、そして天井の一部を燃やしただけで火は消し止められた。


 もともと粗忽な所がある使用人だったようで、彼女がいくらフェリシティの仕業だと声高に叫んでも誰も信じようとしなかった。何の証拠もないのに、当主の娘が放火犯だと決めつけるようなことは言えなかったというのもあるだろう。

 そして、当主は……自分の娘が館に火を放ったという醜聞が広がるくらいなら、使用人の失火する方がましだと判断した。

 フェリシティの罪は不運な使用人がすべて被ってくれた。その後彼女がどうなったかなんて知らないし興味もない。他人のことなんてどうでもいい。踏み台になってくれて有難かったなという程度だ。


 あの火事が原因で、フェリシティと母親は屋敷を追い出されることになった。理由は単純だ。母の実家が屋敷の修繕費を融資することを拒んだためだ。母の生家は、『祝福持ち』の娘を得る事ができなかった男爵家も、産めなかった自分の娘のこともすでに見限っていた。当然だろう。商売人として何のうまみもない。


 もし、フェリシティの目が緑色だったら、きっと何もかもが違っていた。


 母方の祖父母のことも恨んではいない。だが少しばかり仕返しはさせてもらった。キリアで長く豪商と言われていた一族は、長年に渡って禁輸品を取り扱っていたことが発覚して投獄された。従業員たちは全員解雇された。


 いい見せしめになっただろう。明日は我が身だと()()は恐れ戦いたかもしれない。


「ふふっ……ふふふふっ……」


 フェリシティは男の顔を覗き込んだまま機嫌良さげに笑う。


 祖父母が拒絶してくれたから、あの家に辿り着くことができたのだ。住んでいたのは、見た途端に吐き気がした程、幸せそうな人々。

 見るからに不幸な母娘に同情して、受け入れてしまった優しくてバカな人たち。


 楽し気に笑っていたフェリシティは、一瞬にしてすべての表情を消し去った。


「……でも、あなた、わたくしに言ったわよね。彼等より、この人とわたくしの方が大切だと。本当の家族はわたくしたちなのだと。それは嘘ではないのよね?」


 一転して冷たく凍り付いた声で、低く脅しつけるように告げてやると、びくっと大げさに男の肩が震える。顔を苦痛に歪ませながらも彼は小さく頷いた。男がガタガタと震えはじめるから、今度は優しく穏やかに言い聞かせる。


「あなたは何も悪くない。一生懸命わたくしたちのために働いてくれているわ。あなたのおかげであの人はまだ生きていられるの。……でも、お金がもうないんでしょう? だったらまた船に乗ればいい。あなたが船に乗っている間はちゃんと面倒をみてあげる。今までだってそうしてきた。あなたがお仕事に行っている間は、使用人がこの人を介護してくれる。清潔な服に清潔なシーツ。病人食も用意されて、体だって清めてもらえる。お医者さまにだって診てもらえるわ。ねぇ?」


 こんなに優しくしてやっているのに、男の体の震えは止まらない。フェリシティは困惑したように微笑む。


「……そんな顔しないで? わたくし怒っている訳ではないのよ? ずっと側についてお世話をしていたら働けないのだから、誰かにお金を払って頼むしかないでしょう? その点エラなら大丈夫よね。昔からよく知っているもの。でもあの子だってずっとただ働きしていたら空腹で倒れてしまうわよ? 彼女、昨日から水の一滴ももらってないわ。ああやって喉の渇きと空腹に耐えながら病人の介護をしてくれている。本当に優しい娘よね?」


 フェリシティは男の頬から手を離し、怯える男の顔を覗き込んだ。甘やかされて不幸を知らずに育った柔らかな心は脆い、面白いくらい簡単にボロボロに傷付けられる。


「あなたは自分の父親が病人の母を見捨て仕事に逃げたと言ったけれど、大丈夫、あなたは違うわ。この人のためにお仕事に行くのだもの。逃げる訳ではないの。だってあなたは絶対に逃げたりしないもの。父親とは違うんですものね。……さあ、出港は三日後よ。ちゃんと準備をしておいてね、船長?」 


 そう言って男の顎から手を離した。男はそのまま力なく項垂れる。

 階段の前に立っていた、人相の悪い男たちがニヤニヤと笑いながら大股に歩み寄って来る。樽のように太った男と、顔中に傷がある背の高い男。そして、真ん中に立っているのは、小柄で浅黒い肌をした異国の血を引く若い男だ。狡猾そうな鋭い目つきの男は、片手に自分の身長くらいの長い棒を持っている。彼らは力仕事を任されている伯爵家の下級使用人たちだ。


「ご苦労様。まだ使い道があるから、こっちはこの程度でいいわ。あっちは好きなだけどうぞ? 幽霊屋敷での借りを好きなだけ返しておきなさい。終わったら樽に詰めて船着き場にでも捨てておいてくれるかしら」


 そう言って、フェリシティは一番前にいた小柄な男に向かって、コイン数枚を投げて寄越した。男は危なげなく受け取ると金額を確認し口笛を吹いた。


「……かしこまりました、お嬢さま。随分とお優しい事で」


 皮肉気に男は笑うと、三人は一礼して踵を返して去って行く。男たちが階段を登る音が廊下に複雑に反響しはじめる。突然、まるで細かな石を数個ぶちまけたような甲高い音が響き渡った。


「おい待て、ウノ。そいつは俺の金だ。触るんじゃねぇ」 


 直後に怒声が響き渡った。硬貨が一定のリズムで転がり落ちてゆく音。そして何やら言い争う声に大きなものが壁にぶつかったような音。


「ちがうな、落ちてた金は拾ったヤツのもんだ」


「ふざけんなっ」


 フェリシティは顔を顰める。階段の方からコインが数枚転がってきていた。その後を追って、男が二人階段から転げ落ちて来る。二人は立ち上がると、その場で殴り合いの喧嘩を始めた。


「何をやっているの!」


 フェリシティが怒声を放つが、彼らはその声も聞こえていないようだ。太った男が相手の襟首を掴み、廊下の壁に叩きつけた。苦悶の声が上がり、男はそのままずるずると床に座り込む。フェリシティは面白くもなさそうに顔を顰める。この程度の暴力行為はもう見慣れてしまって、何の面白みも感じない。


「セーロやめろ! お嬢さまの前でやめとけっ」


 階段を駆け下りて来た小柄な男が、太った男に向かって叫ぶ。


「おれの金だっ。ノーヴェ、こいつおれの金を横から掠め取りやがった」


 セーロに駆け寄ったノーヴェが、背後から棒を使って拘束して引き離そうとする。


「おれのだ。おれの金だ」


 血走った目でセーロは呟いて、ぐったりとしているウノに向かって手を伸ばす。あまりに体格差があるため暴れる大人を子供が体を張って止めているように見える。


「わかった、わーったから、ほれ、やるよ」


 ノーヴェはセーロの目前で手をひらめかせる。親指と人差し指で挟まれていた硬貨を宙に放り投げると、一枚だった銀貨は二枚に増えて、床に落ちると硬質な音を立てた。セーロはしゃがみ込むと、床を転がる硬貨を拾う。階段から転がり落ちて来ていたものもすべて拾い集めると、満足そうに笑った。


「おれの金だ」


「ああそうだよおまえの金だ。だから責任持ってウノを引きずって歩きな」


 セーロが男が硬貨をズボンのポケットに入れると、再び甲高い音が響き硬貨が床で跳ねた。慌てて拾い集める男のズボンを確認して、棒を持った若い男は呆れ顔になった。


「おい、お前ポケットに穴が開いてんぞ。ここ来る間にポケットの中身全部どっかにぶちまけて来たんじゃねーのか?」


 その言葉に、セーロは血相変えて立ち上がると、床を舐めるに見回して、硬貨が転がっていないか廊下を隅々まで確認しはじめた。下を向いたまま階段の方に歩いて行く。一段一段確認するように階段をのぼる足音が聞こえてくる。しばらくして地上へと繋がる扉が開いて……閉じた。


「邪魔だからウノを片付けておきなさい。セーロも回収しておいて。あんな調子で屋敷内をうろうろされるのは困る」


「へいへい。承知いたしましたよお嬢さま」


 慇懃無礼にそう言って、ノーヴェは目を糸のように細くしてニィっと笑った。

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