35 子うさぎの舞踏会 その2
……何でこうなったかな。とリリィは思った。多分それはヒューゴも同じだろう。
伯爵家のダンスホールでは軍服姿の楽団員が優雅なワルツを奏でていた。ドレス姿の若い女性三人が護衛騎士と踊っている。その中心でリリィとヒューゴが棒立ちになっていた。もうすぐ曲が終わる。踊る踊らない以前の問題が発生している。
「とりあえずヒューゴが手を差し出さないとリリィ動けないからさ、諦めてさっさと左手出そうねー」
壁に凭れて立っているトマスが疲れ切った顔でそう言った。曲の切れ間切れ間に、全く同じ言葉をかけている。
「ヒューゴお兄さま、諦めましょう。さっさと手出して」
仕方がなくリリィが右手を差し出すが、ヒューゴは怯えた顔で後ずさる。失礼極まりない。さすがにリリィの顔も引きつった。
「……もう五曲目だけど、いつまでこれ続くの?」
少し離れた場所で、ダンス講師に指導を受けながらエミリーとアレンが踊っている。美男美女でさすがに絵になる。エミリーの顔は怖いくらい真剣だ。その張りつめた緊張感に引きずられるようにしてアレンも集中している。まだ少しぎこちない感じはするが、練習し続ければ本番までには慣れるだろう。その隣のダニエルとジェシカは余裕があった。ダニエルが踊れるからだ。こちらは何の心配もない。
ヒューゴだって踊れるはずなのだ。若い独身貴族男性なのだから、社交の一環として舞踏会に参加することもあるだろう。絶対に一般教養として身に付けさせられている。要するに……踊れるけれど、リリィとは踊りたくないと、そういうことなのだ。
さすがにリリィもイライラしてきた。時間が勿体ない。リリィは曲が終わるのを待ってトマスに歩み寄ると、兄の左手首を掴んでフロアの中央に引っ張ってゆく。
「え……踊るの?」
「だってこのままヒューゴお兄さまと、ここで立ち尽くしててもしょうがないでしょう? 壁の花の恐怖が嫌と言う程実感できた。もう踊ってもらえるなら誰でもいい」
踊っている人々のど真ん中で、手も差し出してもらえず立ち尽くす。楽団の人たちと、周囲をくるくる回っている人たちの気の毒そうな視線が全身にぶすぶす突き刺さる。……辛い。
「……その境地かぁ」
音楽が始まる。トマスは一歩前進。自然に左足が後退する。ステップは完璧に覚えているから、合わせることだけ考える。五曲も突っ立っていれば余計な力も抜ける。ちらっと周囲を見渡すと、全員がほっとした顔をしている。
「……うん。ああ、ちゃんと踊れてる。リリィはやればできる子なんだよねぇ」
トマスはちょっと困ったように笑った。別人のように素直な妹の様子に戸惑っているようだ。つい先日までは一歩踏み出せば蹴られ、下がれば体がぶつかるという、ダンスをしているというより、『私たち喧嘩しています』状態だった。これだけ接近しているのだから、お互いが好き勝手に動けば押したり引いたりになり当然足はもつれる。そんなことはわかっているのに、どうしても心が反発した。
曲が終わる。一度も躓くことなく一曲最後まで踊り切ったのだ。
足を止めた時に、リリィは鈍い胸の痛みと共に思い出した。小さい頃は決してダンスは嫌いではなかったのだと。
絵本に登場する舞踏会の場面を何度も何度も読み返して、リリアと一緒にダンスのステップを一生懸命覚えた。王子様と一緒にきらびやかな舞踏会で踊ることを夢見ていた……
(そっか、アレンお兄さまと踊るのが夢で……それが叶わないとわかったから、私、ダンスの練習をサボるようになって……)
舞踏会への憧れが強すぎるのだとリリアは言った。本当にその通りだったのだ。
(……王子様と踊る夢は、まだ二人とも叶えられていないわね)
トマスの手を離しながら、自嘲するようにリリィは小さく笑って数歩下がった。
「お兄さまありがとう。……踊ってくれて」
リリィは安堵の微笑を浮かべて兄の前でお辞儀をした。ちゃんと最後まで自分は踊ることができた。今はそれがとても嬉しい。
「そうよね。踊ってもらえるだけありがたいのよね」
吹っ切れたような笑顔と共に続けられた言葉に、トマスは顔を引きつらせた。
「そこまで卑屈になる必要ないと思うんだけどな。……僕はこういう心境に至るであろうことまで計算に入れて、ヒューゴと踊るように命じた殿下が怖い」
そのヒューゴはいつの間にか壁際に移動していた。完全に他人事の様子である。誰かがあの男を何とかしなくてはならない。
「やっぱりキースじゃないと無理かなぁ」
そうトマスはぼやくと、心配そうな顔になって扉の方に顔を向ける。キースは黒い笑顔の第二王子によって無理矢理連れ去られたまま戻ってこない。
「大丈夫なんだろうか……泣いてないかなぁ」
「間違いなく泣いてるわね」
ドレスを着せようとする第二王子と、断固拒否するキースと、キースを守ろうとするルークと……
何となくそんな場面を想像してると、扉が開いた。
アーサーにエスコートされてダンスホールに入って来たのは女装したキースではなく、美しく着飾ったリリアだった。妹は大変可愛らしい笑顔を顔に貼り付けている。その姿を見た途端にトマスとリリィは顔を強張らせた。妹はどす黒い闇を背負っていた。昨日同じようなものをルークの背後に見た気がする。
再び扉が開いて、目を真っ赤にしたキースと、疲れ果てた顔をしたルークとロバートと、ちょっと困った顔をしたイザベラとメイジーが揃ってダンスホールに入って来た。きっと……色々あったのだ。最終的にイザベラがリリアを説き伏せたのだろう。その後には四人の護衛騎士が続いている。多分あれは逃亡防止策だ。
「リ……リリア……ものすごく怒ってない?」
「うわぁ……リリア相当機嫌悪いわね」
アーサーが立ち止まって腕を離した途端に、リリアは目を伏せて一息ついた。背中の闇をきれいさっぱり消し去って再び目を上げた時には、リリアは完璧な伯爵令嬢を演じていた。もうこうなると顔つきから性格まで完全に別人になる。
社交界におけるガルトダット家の長女リリィは、従順で大人しくて庇護欲を刺激するはかなげな少女だ。彼女はいつも、見る者が思わず手を差し伸べたくなるような、寂し気な微笑みを浮かべているのだという……
「キース、妹に泣いて縋ったな……」
「……ルークとロバート、何を条件に提示したのかしらね」
リリアはそのままの笑顔でヒューゴに歩み寄ると。茫然と立ち尽くしている従兄の前で美しくお辞儀をする。そして……まるでずっと待ち侘びていた人とようやく出会えたかのようにぱあっと嬉しそうな顔になった。ヒューゴが頬を染めておろおろし始める。第二王子が指揮者の元に近付くと何やら耳打ちする。楽団の指揮者が指揮棒を上げる。
リリアが優雅に右手を差し出すと。まるで何かに幻惑されたかのようにヒューゴは恐る恐る左手を伸ばした。先程のリリィと同じように、リリアがヒューゴをダンスホールの中央まで引っ張ってゆき、立ち止まって二人は向かい合う。音楽が始まる。そっと体を寄せたリリアの背中にヒューゴが手を添え、ぎこちなく足を踏み出す。
「あ……ちゃんと踊れてる踊れてる。でもリリア完全に自棄になってるよね」
「やっぱりリリアはすごいなぁ。姿勢がきれい。……でも、この後荒れるわね」
リリアは穏やかな微笑を浮かべてとても幸せそうな顔で踊っている。背中に透明な翅がある妖精のように軽やかにステップを踏んで、きらきらとした目でヒューゴを見上げている。ヒューゴは幻想の中にいるかのように、ぼんやりとした顔をしてリリアを見つめていた。
短い曲が終わる。リリアは再び丁寧に一礼する。笑顔を浮かべたまま何の未練もない様子で踵を返してすたすたと歩き出した。……早い。扉の前の護衛騎士たちが慌てて道を開ける。ダンスホールから出て行ったリリアの後を、ルークとロバートが焦ったように走って追いかけて行った。リリアの後ろ姿を目で追っていたイザベラが苦笑しているから、きっと妹はなにかとんでもない事をやっているのだ。
ぱたんと扉が閉まる。ダンスホールはしんっと静まり返っていた。
……妹はがんばった。ちゃんと責任を取った。これで、会う度に嫌いだ嫌いだと言っていたことも、昨夜蹴り飛ばそうとしたことも全部帳消しになるだろう。心から拍手を送る。
キースが安堵のあまり魂が抜けたようになっている。同じような状態でぼんやりと突っ立っているヒューゴを、トマスとリリィで回収しに向かう。
……リリアはルークとロバートが何とかするだろう。
「良かったねーヒューゴ、いい思い出ができたねー。夢叶ったねー」
トマスの言葉に、ヒューゴはまだ夢の中にいるような顔で頷いた。口元にちいさな笑みを浮かべて……幸せそうではあった。
きっとヒューゴもリリィと同じだったのだ。舞踏会でリリアと踊ることをずっと夢見ていた。でも、それはもう決して叶わないと諦めていた。
では、夢が叶ったのなら頑張ってもらおうではないか。リリィは腰に手を当ててヒューゴの前に立つ。
「ヒューゴお兄さま、ちゃんと踊れたわね。さあもう大丈夫よ練習しましょう。お兄さまいつも私に言ってるわよね。ちゃんと淑女らしくしろって。勿論お兄さま、私が淑女になる手助けしてくれるのよね!」
え? とばかりに、夢の世界から現実に戻って来たヒューゴが目を剥く。
「……リリィやる気だね」
「改めてリリアを見てわかった。いくら足を怪我しているという言い訳が使えたとしても、今の私の状態では完全に別人だわ。やっぱりリリアはすごい。三日間でやれることはやる。私のせいで同行者に恥をかかせるわけにはいかないでしょう。リリアは私のためにがんばってくれたんだから」
「……うん。がんばってね。……本当に手のひらの上でころころころころとよく転がるなうちの妹……」
ぼそぼそとトマスが口の中で呟いているが、そんなことはどうでもいい。いくらでも転がされてやろうではないか。
「ヒューゴお兄さま、リリアと踊れたなら私とも踊れるわよね?」
強気で迫ると露骨に怯えられた。これではダメなのだ。ならば先程のリリアのように、しおらしい少女を装うしかないだろう。
リリィはヒューゴに向かって一歩踏み出すと。俯いて胸の前で手を組んだ。できるだけ可愛らしい声を出してみる。
「それとも……リリアとは踊れても、私は無理?」
(可愛らしく、あざとく……さっきのリリアになりきる!)
ちらっと上目使いでヒューゴを見ると、何故か真っ赤になって硬直している。あれ? とリリィは首を傾げた。アレンの時も思ったが、意外と自分がやっても効果があるようだ。
何となく視線を感じて周囲を見渡す。慌てて護衛騎士たちが目を逸らしたが、ドレス姿の女性の一人が「もう一押し! あともう一押しです!」と声に出さずに唇で伝えているのに気付いた。リリィは目で頷くと。もう一歩ヒューゴとの距離を詰め。できるだけ儚げな雰囲気が出るように気をつけながら、青い瞳をまっすぐに見つめた。
「……やっぱり、私じゃ、ダメ?」
寂し気に微笑んで、傷付いたというようにすっと目を伏せてみる。
何故か周囲の騎士たちの落ち着きがなくなり、さかんに咳払いし始める。ちらっと上目づかいで様子を窺うと、ヒューゴは真っ赤な顔のまま顔を背けて口元に手を当てていた。リリアの時より狼狽しているのは何故だろう。
(なんで?)
意味がわからずにリリィはきょとんとした顔になる。「あーうん。まーそうなるよねー。うちの妹たちってかわいいよねー」と、トマスが抑揚のない声でそう言った。
「ヒューゴさぁ、リリアとは踊ったのに、リリィと踊らないって、兄としてどうなんだろう? そういうのって良くないんじゃないのー?」
トマスが肩を落として長いため息をついた。何かを憂いているようだった。「こっちは純真無垢な温室培養だし、あっちは謎めいた雰囲気で無自覚に翻弄するし、ほんっと困るよねー」などとぶつぶつ言っている。
「ヒューゴさま、リリィお嬢さまがせっかくやる気出したんだから、さっさと手出しましょうねー」
現実に戻って来たキースが歩み寄って来ると、ヒューゴの左手を無理矢理ひっぱり上げた。
「はい、リリィお嬢さま、右手出して下さいねー」
言われた通りに右手を出すと、キースがリリィの手首を引っ張ってヒューゴの左手を握らせる。なすがままに突っ立っているヒューゴの右手をリリィの背中に回すと、最後にリリィの左手をヒューゴの腕の付け根にひっぱり上げた。
「こんな感じですかねー?」
キースがダンス講師の男性を振り返った。講師は大股で歩み寄って来ると、「そうですね。左手の位置が……」と言いながら、リリィとヒューゴの腕や手の高さや位置を調整してゆく。
「ヒューゴさま、左が不自然に上がっております」
講師の声で、ヒューゴは我に返ったらしい。真面目な人だ。すぐに言われた通りに左肩を下げる。
「お二人とも肩に力が入りすぎです。息を吸って吐いて」
言われた通りに深呼吸して力を抜く。講師は二人を頭のてっぺんから爪先まで眺めると、出来栄えに満足したように頷いて、後ろに下がった。
「では、再開しましょう。音楽を!」