32 三階の怪談 その2
子供の頃よく昼寝をしていたのと同じ場所に、園丁によって大きな敷物が敷かれていた。大木の木陰になるよく風が通る場所だ。木の幹に凭れかかってルークはリリアに持ってきてもらった本を読んでいる。その隣で、リリアはたくさん持って来たクッションを真剣な顔で積み上げていた。
いきなり寝ろと言われても、二人ともリリィのようにすぐには眠れない。
リリアはゆったりとしたワンピースを着て、髪はゆるい三つ編みにして水色のリボンを結んでいる。リリィに命じられたメイジーによって強制的に着替えさせたようだ。ルークも皺にならないように、上着とベストは脱いでシャツとズボンだけという少年の頃のような服装だから、時間が少し遡ったような気持になる。
積み上げていたクッションが崩れ落ちる。転がってゆくクッションを慌てて両手で捕まえてほっとした顔をするリリアを見て、思わず笑ってしまう。
「可愛いですね。あんまり違和感がない」
リリアは少しむっとした顔をしている。子ども扱いされることが不満なのだろう。きっと、彼女が社交界にデビューする少し前まで着ていた服だ。
「私は……この頃のあなたを知らないので」
風が吹く。リボンの端が誘うようにゆらゆらと揺れる。
手を伸ばして、水色のリボンの端を引っ張る。するりと解けたリボンを見て、リリアが驚いたように目を瞠る。
「こうしたかった少年の気持ちが、わかる気がしますね。……借りますよ」
本を膝に置いて栞代わりにリボンを挟む。ものすごく不機嫌そうな顔つきになったリリアの頭をそっと撫ぜた。
リリアが今よりずっとずっと幼かったころ、彼女に一目ぼれした少年がこうやって水色のリボンを奪い取って投げ捨てたことがあった。……リリアにとってはこの上なく嫌な記憶だから、これ以上の事は言わないけれど。
そういえば、最近様子を見に行けていないが大丈夫だろうか。トマスとキースがフェレンドルト家に呼ばれたという事は、あまり良い精神状態ではないのかもしれない。
本人も「いい加減自立する!」と言っていたし、無理はしていないと信じたい……
「……本当に幽霊を探すんですか?」
リリアが唐突に話題を変えた。その時の事を思い出したくないのだ。その後も色々あったようだし……ここまで拗れてしまうと本当にどうにもならない。
「リリアさまは一緒に来てはダメですよ」
それには答えずに、リリアはエプロンの上に残っていたクッションをぎゅっと抱きしめて目を伏せた。不貞腐れたような顔をして、別のクッションを枕にしてころんとその場で寝転がる。
「お手伝いするのです。おやすみなさいです」
どうやら一緒に幽霊探しをするつもりのようだ。困ったなと思う。リリアもキース程ではないにせよ怖がりだ。絶対に泣く。
ブランケットを広げてそっとかけてやってから、木に凭れなおして水色のリボンを頼りに本を開く。本のページに影が踊る
そのまま全体の半分程読んでしまった所で、何やら屋敷の方が騒がしくなった気がした。ページから目を上げる。再びリボンを栞代わりにして本を閉じると、散乱しているクッションを集めて一か所に纏める。
リリアは気持ちよさそうに眠っている。寝顔は子供の頃とあまり変わらない。侍女をやるのだと張り切っていたのに悪い事をしたなとは思うけれど、恐らく屋敷の人間は全員安堵しているだろうからどうか許して欲しい。そんな事を考えながら、首元までブランケットを引き上げてやる。
「……優雅だねぇ」
第一声が嫌味だ。
「他の皆さまは外出されていますよ」
「知ってる」
屋敷の外には護衛騎士が巡回している。こちらの行動などすべて筒抜けだ。
「レナードはどこにいる?」
「知りませんよ。ロバートに聞いて下さい」
ため息をついてそう答える。また厄介な名前が出て来たなと思う。
「二人の所には手紙が届いているんだろう?」
「正直今どんな姿かもわかりませんね。何ですか? とうとう犯罪に手を染めましたか?」
「どうしても生存を確認したいという方がいらっしゃってね」
「でしたら、私ではなくキリアルトの方へどうぞ」
空を見上げながらそっけなく答える。目が少し疲れた気がする。風が吹いて、敷物に落ちる影が大きく回る。十人以上いる。先程まで平和な昼下がりだったのに、レナードは一体何をやらかしたのか。
「……レナードお兄さまなら春先に見かけましたよ」
寝起き特有の籠ったような小さな声がする。はっとしてリリアの方を見ると、
「……ねごとです」
決まり悪そうにリリアはブランケットを額の上までひっぱり上げた。
「…………どこで?」
ルークはできるだけ優しく尋ねる。
「ねごとなのです」
ブランケットを体に巻き付けるようにして、リリアはルークの視線から逃げるように寝返りをうった。やましいことがあるに違いなかった。
「……ひとりで外出しましたね?」
どうせまた、使用人のふりをして、一人でふらっと市場にでも出かけたのだ。自己過信はあれほどやめろと言われているのにも関わらず。
そして、たまたまレナードはリリアを見かけて……そのまま放置できなかったのだろう。
「……おこられました。……ねごとです」
ブランケットの中からくぐもった声がした。口止めされていたようだ。
「……だろうね」
来訪者が呆れ声で言う。
「ということは時期的に本人の可能性が高いか。……で、君たち幽霊退治するんだって? 祓魔師紹介してあげようか?」
「遠慮しておきます」
「……ふぅん、じゃあ、レナードによろしく。あまり派手にやるなと伝えといて」
「……会ったら伝えておきますよ」
軍人である自分に接触してくるとも考えにくいのだが、素直にそう答えておく。
「ああそうだ。お仕事持ってきてあげたからね。来週までに片付けておいて」
そう言い残して、招かれざる団体客は去って行く。一人で自由に行動できないのも彼が不機嫌になる要因のひとつだ。
寝たふりをしているリリアは誰もいなくなってから狼狽し始めた。コロンと一回転して遠ざかる。追及されると困ることがあるようだ。
「リリアさま」
名前を呼んだだけで、ブランケットの芋虫がびくっと体を震わせた。
「レナード元気でしたか?」
「……ねごとです」
ブランケットの中から声がする。
「何があったんです?」
「……」
ころんともう半回転。敷物の端ぎりぎりで止まる。
「……それ以上ぐるぐる巻きになると窒息しますよ」
何やら芋虫がじたばたしている。ブランケットが体に巻き付いて動けないのだ。仕方がないので、立ち上がって抱え起こしブランケットを剥がしてやる。
じーっと見ていると真っ赤になってあわあわと慌てだし、突然すっと青ざめて項垂れ、ちらりとルークを上目遣いに見る。目が合った途端に視線を逸らした。この短い時間に脳内にて一連の出来事が再生されたようだった。
リリアは何かを決意したように小さく頷くと、クッションとブランケットを持って立ち上がる。ぎくしゃくと歩いて元の位置に戻ると、ころんと横になった。
「ぜんぶゆめ」
……いくらなんでも無理がある。
今宵もシーズン中の王都では、あちらこちらの屋敷で晩餐会やら舞踏会が開かれているのだが、没落したガルトダット伯爵家は今夜も闇の中に沈んでいた。燃料費削減のためである。
屋敷内の人間は夜さっさと寝て朝日と共に起きる、かつて昼夜逆転生活を送っていたリリィも今はきちんと夜寝ているから、基本夜九時も過ぎれば屋敷内は真っ暗闇だ。
「えー本当にやるんですか? やめといた方がよくないですか?」
ランタンを持ったルークに、キースが絶望的な顔をして言った。
「キース君は寝て下さいね。できればリリアさまも寝て欲しいです」
「目が冴えて眠れません」
ルークの腕にしがみ付いたリリアが震えながらそう答えた。
「呪われたりすると大変なのでやめません? 怒って襲ってきたりするかもしれませんよ。やめません?」
一緒に行くわけでもないキースが震えている。
「トマスさまの言う通り、今の内に確認しておいた方がいいんですよ。幽霊が出るということで、今は私室が二階に移ってますけど、この先またこの屋敷で晩餐会とか舞踏会とか開くことになるかもしれません。そうなると二階は客間として使いたいですから」
「それはわかるんですけど、やめません」
どうしてもキースはやめさせたいようだ。必死の形相をしている。
「しつこいねキース。寝ても良いってルーク言ってるのに」
「気になって怖くて眠れない。だから当主命令で止めて下さい、俺の安眠のために。明日も早いんですよ」
「……昔みたいに一緒に寝る? リリィも呼ぼうか?」
「蹴り飛ばされるからイヤだ」
優し気な顔でトマスが提案するが。真顔でキースは拒否した。すでに冗談も通じない程追い詰められている。
「リリアさまも寝て下さい」
「大丈夫です。怖くないのですっ」
リリアは目の端に涙を溜めながらも、気丈に言い放った。
「真っ青な顔で震えながら腕にしがみ付いてるよね」
「……気になって怖くて眠れないです」
リリアがぎゅうっと腕にしがみ付いているため、ルークは身動きが取れない。
「リリア、こちらにいらっしゃい」
メイジーを連れて様子を見に来たイザベラがリリアに優しく声をかけるが、リリアは首を横に振る。
「おかあさま。私は大丈夫なのです。ちゃんとお手伝いするのです」
リリアの中でお手伝いはまだ続いているようだった。決死の覚悟で言っているのはわかるが、単に屋敷の三階の様子を見に行こうとしているだけだ。
「……ルーク、諦めなさい。ランタン持って怯えるリリアを引きずって歩くのは無理よ」
イザベラがため息をついた。
「昼間ゆっくりさせていただいたので、まだ眠くないんですよね……」
「今改めて考えてみるとさ、ルークの前には多分出ないよ幽霊。行かせるならキースに行かせないと」
「何で、何でそんなこと言うんですかっ」
キースが泣きそうな顔でトマスに詰め寄った。
「……わたくしが幽霊でも、出るならルークの前よりキースの前にするわね」
イザベラがキースに歩み寄ると、自分より身長が高い少年の頭を撫ぜる。
「だから何でそんなこと言うんですかっ」
大人しく頭を撫ぜられながら、キースがイザベラを恨めしそうに見る。
「ルークが相手だと、出る甲斐がないもん。余裕すぎて」
「夜の王宮も結構色々出ますからね。結局いきなり切りかかってくるようなのは生身の人間です」
「もうやめてもうやめて。なんか出たらどうするんですかーっ」
イザベラに頭を撫ぜられているキースは幼児退行していた。
「二階は出ないから……あ」
トマスが手すりから大階段を見下ろす。階段の途中で白い煙のようなものが立ち昇った。
「もう日付変わるね」
「あらもうそんな時間なのね」
イザベラも大階段を見下ろして、今夜もご苦労様というような感じで幽霊を眺めた。
「幽霊時計代わりにするのやめません?」
「毎回ちゃんと出る時間守ってるんだから、大階段の幽霊は律儀だよね……」
トマスはそう言って欠伸をひとつした。
「あれって何代目でしたっけ?」
「……愛人の娘がどうこうじゃなかったかしら? ほら、叶わぬ恋に身を焦がして食事も喉を通らなくなってって……」
「え? 医者に恋して、毎日待ちわびてた使用人だって、聞きましたけど」
トマスとイザベラが顔を見合わせて首を傾げている。二人は同時にメイジーに意見を求めた。
「愛人の娘は食堂ですよね。医者に恋したというのは三階の廊下の窓ガラスでは? 色々ありすぎてわかりませんね」
「もう本当にやめて下さいよー」
怪談話を始めた三人から逃げたキースがランタンを持っているルークの背中に隠れた。
「とにかく一応三階見て来るんで、ふたりとも離れて下さい」
「いやです」
「無理。ここが一番安全だからっ」
リリアとキースは揃って首を横に振った。
「最早この二人、今夜一人で寝るのも無理なんじゃない?」
キースがルークの背中から顔だけ出すと、トマスを涙目で睨みつける。
「トマスさまがルークさんに余計な事提案するから悪いっ」
「あー僕のせいね。はいはい」
トマスは半笑いで頷いた。
「もー、キースうるさいっ」
キースの背後でドアが開いて、リリィが顔を出した。
「幽霊なんてほっときゃいいのよ。夜に散歩するだけなんだから」
目を擦りながら不機嫌そうな声でそう言って、再びドアをばたんと閉める。
抗議するかのように、どこかで何かが割れる音がした。バキバキっという音もし始める。散歩するだけではないぞと言いたいらしい。ルークが背後を振り返ると、キースは完全に表情を失くしていた。
その時、誰かが階段をのぼって来る足音が聞こえてきた。リリアがルークの腕から手を離して、今度は体にしがみ付く。背中にはキースが張り付いている。全く身動きが取れない。奥の使用人階段の方から三つの小さな火の玉がふわふわと揺れながら近付いてくる。
「……え? 皆さんこんな夜遅くに何をやってるんですか?」
ダニエルの声だ。暗くてまだ姿は見えない。
「ああ、戻ったんですね。予定より早かったですね」
「深夜だったので使用人棟の方から入りましたが、何かありました?」
「もういやだぁぁぁぁっ」
とうとうキースが叫んだ。
「だからうるさいってキース。私は眠いのよっ。私たちより幽霊の方が長くこの屋敷に住んでるのよっ。新参者に文句言われても向こうも困るでしょうよっ」
再び背後のドアが開いてリリィが怒鳴る。すぐにドアは派手な音を立てて閉まった。
「もうこんな愉快な感じになったら、絶対に出ないよルーク。エミリーさんたちにも迷惑だろうし……リリアとキースが落ち着くまで僕の部屋でトランプでもやろう」
「……一応見てきますから」
「何でそんな使命感に燃えるかな」
リリアの目を片手で覆ってから、すっとルークが三階を見上げる。トマスが黙ってキースに近寄ると、腕を回して目を塞いだ。「え? なに? 怖い……」と混乱気味に呟くキースをそのままずるずると自室の方に引きずってゆく。
「さー、トランプでもやろうねキース。何賭けようか?」
「わたくしたちは、もう遅いから寝ましょうね」
ルークがメイジーにランタンを手渡すと、リリアの目から手を離してイザベラの方に押しやる。イザベラはリリアが上階を見ないように肩を抱いて無理矢理歩き始めた。
ぱたんとぱたんと連続で扉の閉まる音がした後、ルークはアレンとダニエルを振り返った。
「……と、いう訳でお疲れさまでした」
「……さりげなくなかったことにしてますけど、あれは子供泣きますね」
軍服を着たままのダニエルが、階段を見上げながらため息をついた。
「……リリィさまは幽霊平気なんだな」
意外そうにアレンが呟く。
「リリィお嬢さまは最近まで夜型でしたし、生まれた時からこの屋敷に住んでいるので、もう当たり前になっているんでしょうね。ただ、あれは知らないと言っていましたね。何かのきっかけで十年前くらいから出るようになったみたいで」
「先代とか……?」
「先代はあの姿にはならないでしょう。一時期ウォルターが呪いの品みたいなものを収集していたんです。置き場所がないとか言ってその一部をこの屋敷にも持ち込んでいましたから、そのせいかなと思ってるんですけど……物が多すぎてどれが原因なのかわからないんですよね」
「本人呼んだらどうですか?」
「本業の方が忙しいんです。勝手に始末する訳にもいかないですし」
「見ていてあまり気持ちいいものではなかった。何とかした方がいいんじゃないか?」
何やら考え込んでいたアレンがふと目を上げてルークに提案する。
「……最近随分まともなこと言うようになりましたよね」
ダニエルが心底感心したように言った。褒められたのにアレンは悲し気な目になった。
「それにしても、早かったですね……?」
予定ではアレン達が戻ってくるのは明後日……日付が変わったから明日の筈だった。今夜の晩餐会と明日の夕方に予定されている『慈善のための演奏会』への参加はどうなったのだろうか。ダニエルに目で問うと、彼はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「各種のお誘いを『早く戻らないといけないので』の一言で全部断りましたからね。今夜の晩餐会も、太りたくないからってほとんど食べない上に食事終わってすぐ抜けました。失礼にあたらない程度には取り繕ってきましたけど、手紙くらいは書いておいた方が良いかもしれないです。なーんかトマスさまが余計なこと教えたみたいですよ。悲し気な笑顔を浮かべて全部有耶無耶にして逃げるようになりました。……断ることができるようになったのは良い事なんでしょうけど、どうなんだこれ」
ルークは頭痛を覚えてアレンを見る。アレンは悪びれる様子もない。何か悪い事をしただろうか? という様子だ。
「明日の演奏会、どうしたんですか?」
ああそれなら、とアレンは笑顔になった。
「一刻も早く王都に戻りたいからと夫人に言ったら、それならば別に構わないと……」
「相手の瞳を目をまっすぐに見て、大変物憂げな感じで言ってました。本人本気で早く帰りたいと思ってますからね。嘘がない分効果絶大でしたよ。夫人と周囲のお嬢さま方、真っ赤な顔で気絶しそうになってました。ま、いいんじゃないですか? そっちの感じでいくのも」
「ちゃんとお詫びの手紙は書いた」
「……そうですか」
手紙云々はトマスの入れ知恵だろう。こちらは何とか社交に慣れさせようとしているのに、逃げる手段から先に身に付けさせてどうする……
「手紙の内容は確認してあるので大丈夫です。殿下怒るだろうな……やだな、行きたくないな……幽霊なんかよりそっちのほうがずっと怖い。悪いのはトマスさまなんだけどな……」
ダニエルがため息をついている。短気で癇癪持ちの第二王子は、昼の時点で相当機嫌が悪そうだった。夜が明けたら劇的に機嫌が回復してるということは、まず、ない。
ついて行ってやりたいが、先程のリリアの様子からして、明日も多分ルークは外には出してもらえない……
ダニエルには申し訳ないが、自力で乗り切ってもらうしかないのだった。