31 三階の怪談 その1
監禁という言葉で思い出した。
ヒューゴではなくて、リリアによってルークが伯爵家に閉じ込められていた頃の出来事を。
家令のジョージもだいぶ動けるようになってきたし、アレンの私邸から手伝いに来ているジャックもここでの仕事にだいぶ慣れた。リリアも落ち着いてきていた。
そろそろルークを執事役から解放しないとな……
そんな焦りに似た気持ちを、屋敷の人間たちは抱き始めていた。さすがのトマスも多少の危機感を覚えているようだった。
ルークのいる生活は非常に快適だった。このままずっと執事やっててくれないかな……などと誰もが心の底で思い始めていた。良くない兆候だった。
自分を律する気持ちが日に日に失われてゆく。
ルークが全部なんとかしてくれるだろう……みたいな。
これは絶対に良くない。
――このままだと確実に全員堕落する。
使用人棟の階段前ですれ違ったリリアが浮かれていた。……ということは被害者がいるなとキースは思った。ものすごい勢いで階段を駆け上がってゆくリリアをしばらく見送る。最上階までのぼるのを確認してキースは踵を返す。部屋の持ち主が鍵を貸したのなら、他人がどうこういう話でもないだろう。
使用人ホールに行くと、ルークが執事の恰好ではなく、フロックコートを着ていた。物憂げな表情だった。メイジーとなにか打ち合わせていた彼は、キースに気付くと振り返る。笑顔がなかった。
今日はこの後、もうだいぶ長いこと使われていない正餐室の状態を一度きちんと確認するつもりだと言っていた筈なのだが……予定を変更してどこかに出掛けなければならなくなったのだろうか。
「……何かあったんですか?」
「どうしても侍女をやるんだそうです」
ん? とキースは首を傾げた。リリィお嬢さまもイザベラさまもこれから外出予定だ。リリアは一体誰の侍女をやるつもりだろう?
メイジーに視線を移す。彼女はルークを目で指す。
だからルークはフロックコートなのかとキースは納得した。
「俺とトマスさまはフェレンドルト家に呼ばれてますし……イザベラさまとリリィお嬢さまたちはエミリーさまの乗馬服を買いに行くと言っていましたね。そうか、昼から全員出払うのか……」
リリアはルークを独り占めできるわけだ。浮かれる訳だ。
「侍女やるとか言いながらも、放置したら怒るだろうし、適度に構わないと拗ねますよ。だけどそんなに用事ないですよね。物を取って来るのとか、紅茶淹れるの頼むくらい? あ、それで階段駆け上がってたのか」
リリアはルークに自室から物をとってくるように頼まれたのだ。……つまり、これでもう、物を取って来てもらうは使えない。
「……どうしましょうね。外国語の勉強かピアノの練習にでも付き合いましょうか」
「令嬢扱いしたら確実に拗ねますよ。……メイジー侍女って何やるの?」
「基本的には夫人の身の回りのお世話ですね……」
「女装でもしてみます?」
とりあえず提案してみた。その場に沈黙が落ちた。優秀な使用人である彼らは誰一人表情を変えなかった。
「お嬢さまがやりたいのはそっち方面ではないと思います」
ややあってからメイジーがきっぱり言い切った。話をややこしくするなとその目が言っていた。
「ルークさまのお手伝いがしたいのでしょうね」
メイジーが少し考え込むように首を傾げた。具体的にリリアに何を手伝わせれば良いのかはメイジーにもわからないようだった。大抵のことはルークが一人でやったほうが早くて確実だからだ。
「……何がしたいんだろう、リリア」
「……滅多にないですからね。ルークさまを完全に独占できるということは」
確かにここ一ヶ月近くリリアはルークにひっついている。だが、執事のルークはそれなりに忙しいため、リリアと手を繋いでいようがしがみ付かれていようが、その状態で普通に仕事をこなしていた。リリアはそれこそ肩に止まった小鳥状態で放置されていることが多いのだ。
構ってもらえなくても大人しく我慢している様子だったのだが……
その時ぱたぱたと足音が聞こえて来る。
「ルークさまルークさま、はいどうぞ」
満面の笑顔でリリアが走って来ると、ルークに一冊の本を手渡す。
「……ものすごく早かったですね。ありがとうございます」
ルークはにっこり笑ってリリアから本を受け取った。その『ものすごく早かった』は褒めていないと思うのだが、浮かれているリリアは気付いていない。もっと褒めてもっと褒めてというようにそわそわしている。妹の頭の中はお花畑になっていた。
「リリアさま」
「さまいらないです」
リリアがはにかんでそう返す。……口答えしている時点で侍女失格だろう。
これは思った以上に面倒くさいぞとキースは気付いた。例えばだ。今からルークがその本を読み始めたとする。恐らく十五分も経たずに自称侍女のリリアは拗ねる。適度に構い、適度に何かをお願いし、適度に褒めることが必要なのだ。
……あ、これ、関わるのやめよう。キースがちらりとメイジーを見ると、同じことを考えていたようで小さく頷く。ルークには申し訳ないが、キースはトマスの、メイジーはイザベラとリリィの外出に同行しなければならない。そのための準備で正直大変忙しい。ふたりは揃って一礼してさっさと使用人ホールから逃げ出した。
「リリアさま」
「さまいらないです。敬語もいらないです」
……話が進まない。
期待に満ちたきらきらした目で見上げてくるリリアからそっと視線を逸らす。もう少し時間が稼ぎたかった。あとは本当に紅茶を頼むくらいしかない。でもそれをやってしまうと、紅茶を飲むのをずっと監視されることになる上に、感想まで求められるに決まっている。きっと、美味しいですよの一言では許してもらえない。
「……ピアノ弾いてくれませんか?」
その間に対策を考えるからと提案してみた。
「いやです」
笑顔で返された。沈黙が落ちた。リリアには拒否権があるようだった。
「ピアノを弾くのは、お手伝いになりません」
心を癒すお手伝いをしてくれるつもりはないらしい。
「では、どういうお手伝いがしたいのですか?」
もうこれは本人のやりたいことを聞いた方が早い。ルークが尋ねるとリリアは可愛らしく首を傾げる。
「……お洋服の準備とか、お手紙を届けたりとか、お茶を用意したりとか?」
「キース君みたいなことがしたいんですね……」
しかし、先程着替えたばかりだし、届けるべき手紙もカードもない、お茶は最終手段に取っておきたい。
「……一緒に館内散歩しましょうか?」
「……」
リリアが首を横に振る。何となく寂し気な表情になっている。……あ、拗ねる。
「…………新聞を取って来て下さいますか? キース君に聞けばどこにあるか教えてくれます」
ぱああああっとリリアが笑顔になる。「待っていて下さいね」と言い置いて、彼女は走って行った。その後ろ姿を見送って、ルークは手の中の本に視線を落とした。まだ誰も出掛けていないのにこれでもう頼むことが何もない。あとお茶……は、やっぱり最後の手段に取っておきたい。
「ねぇルーク、アレンお兄さまっていつ戻って来るんだっけ?」
外出準備を整えたリリィが使用人ホールに顔を出す。
「予定では明後日には王都に戻ってきますよ……予定通りいった例がないですけどね。断り切れなくてあちこちで歓待を受けるので……」
「見た目が良いもんね。……ってことは太って戻って来るかもしれないんだ」
リリィは少しがっかりしたような顔をする。
「じゃあやめとく」
「……女性に追い回されて塞ぎ込んで戻って来ることが多いので、甘いものを何か用意しておくと喜びますよ」
「そっか。じゃあエミリーさんたちと一緒に選ぶわ!」
リリィの顔がぱっと輝いた。誰かと一緒に贈り物を選ぶということがしたくて仕方がないのだろう。送る相手や理由は何でもいいのだ。
「…………で、持て余してるのね。リリアを」
言い当てられたルークは、すっと視線を逃がした。
「お手伝いをして下さるそうなんですが、お願いすることないんですよね……」
「庭で昼寝でもしたら? 風が気持ちいわよ今日」
「……究極ですね」
「リリアはルークにひっついてる理由が欲しいだけよ。じゃあ、行ってくるわね。見送りはいらないわ。戻って来た時ルークがいないとリリア拗ねるからここで待機しといて」
リリィはそう言って使用人ホールから出ていった。「メイジー、忙しいところ悪いんだけどリリアを……」と呼びかける声が遠ざかってゆく。
そのリリアは新聞を取りに行っただけの筈なのに、先程使用人棟三階までの往復を頼んだ時より時間がかかっている。何かあったのだろうか。……気にかかる。でも、すれ違う訳にいかないのでここから動けない。身動きが取れない。
「ルークさまルークさま、新聞―」
「リリア館内走るなっ。本当にいい加減にしろっ、新聞返せ」
「キース、僕は後でいいから、落ち着けっ」
足音が増えている。誇らしげに新聞を胸に抱きしめたリリアを先頭にして、その後ろに明らかに怒った様子のキース。その後ろに困惑した顔のトマス……。この時点でルークは自分が失敗したことを悟った。
「おまえいい加減にしろよ。トマスさま読んでただろっ」
「だってトマスさまもういいって言いましたよ」
リリアは不思議そうな顔をしてキースにそう返した。
「おまえが横に立って圧力かけるからだっ。今すぐ返せ」
キースが新聞を取り返そうとするがリリアは離さない。キースの眉間に深い皺が寄る。二人で新聞の取り合いになっている。
「キース、いいから。ここで読むから。ちょっと出掛ける前に確認しておきたいことがあっただけだから。新聞破れるからやめて頼むから。僕は心穏やかに外出したい……」
「……リリアさま、まずトマスさまに渡してくれますか?」
どうやら、トマスが呼んでいた新聞をリリアが奪い取って持って来たようだ。
「さまいらないです」
「そこじゃないだろうがっ」
「キース落ち着けって。ここで兄妹喧嘩始めないで。ありがとうリリア。すぐ返すからちょっと待ってね」
トマスが微笑んでお礼を言うとリリアがそれは嬉しそうに笑った。トマスは手近な椅子を引くと、テーブルに新聞を広げる。
「だから、キース、僕穏やかな気持ちで出掛けたいんだって……」
トマスは新聞に目を落としたまま露骨に不機嫌そうなキースを宥めた。納得がいかないキースが何か言おうと口を開いた丁度その時に、メイジーが出入り口から顔を覗かせてリリアを手招いた。
「リリアさま、ちょっとこちらへ」
「ほらメイジー呼んでるから、リリア行っておいで」
トマスがあからさまに安堵した様子でそう言った。ちらっとリリアはルークを窺う。「行ってきてくださいね」とにっこりと笑って命令すると、はい、と笑顔で返事をしたリリアはメイジーの元に駆け寄っていった。
「だから走るなっ……あーもう……」
キースのお小言は完全に無視されている。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、残された三人はため息をつく。
「……新聞持ってこいって頼んでる時点で、完全にリリア持て余してるよね?」
ちらっと新聞から目をあげてトマスがルークに確認する。
「……お手伝いって何を頼めばいいんでしょうね。ピアノ弾いてくれと頼んだら拒否されました」
「……もうさ、寝かしつけたら?」
トマスはまっすぐにルークを見て、リリィと同じことを言った。
「そうしてくれれば、僕たちは余計な心配しなくて済むし、館内の他の人間に迷惑かけることもないし、ルークもゆっくり本読めるし、いいんじゃない? 僕さ、正餐室よりも先に三階を何とかしたほうがいいと思うんだよね。いつまでも三階使えないのも困るしさ……昼間寝といて、今現在どういう状況なのか、夜ちょっと確認してみてよ」
「……えー、アレに関わるんですか?」
当主の言葉に、あれほど怒っていたキースの顔色が真っ青になる。
「リリィとリリアは来年にはお嫁に行くだろうから、この屋敷を改装するにはいい機会だ。改装するにしても売り払うにしてもあの幽霊何とかしないといけないしさ。ルークが休みの内に、まだ出るのかどうかくらい確認しといてもらってもいいんじゃない?」
トマスは新聞を畳んでルークに手渡すと、立ち上がる。
「園丁に庭に敷物広げておくように頼んでおく。クッションとかブランケットとかは自分で用意してね。僕たちもそろそろ出る。見送りいらないからリリアのことよろしくね。……戻って来た時にルークいないと拗ねるからここで待機ね」
リリィと同じことを言って、トマスはキースと共に使用人ホールを出て行った。