29 「みんなみんなフられてしまえっ」 その2
「……私はどうして伯爵家にいるんだろうな?」
ものすごく不思議そうな顔をしてヒューゴがトマスに尋ねた。
「……そこから?」
トマスの顔から一切の表情が消えた。キースがあーあという顔をした。
「最近あまり眠れていなかったから、記憶がはっきりしない」
ヒューゴはトマスをまっすぐに見て落ち着いた声音でそんな事を言っている。執務机に頬杖をついているトマスの背後にキースが控えている。ヒューゴはトマスと丁度向かい合う位置に立っていた。
リリィとエミリーとジェシカは、扉の隙間から執務室を覗いている。リリィの後ろでエミリーとジェシカが驚愕している。眉間に皺のないヒューゴは別人だ。
リリアは寂しそうな顔をして廊下の壁に凭れていた。あれは完全に拗ねている。謝るなら早めに謝れと思うが、誰に何に対して謝るのか整理がつかないのだろう。ヒューゴには絶対謝りたくないという気持ちはリリィにもよくわかる。
ルークは忙しすぎてリリアにばかり構ってもいられない。ダラダラしているトマスの横で書類を確認している。昼から仕事に行くらしい。
アレンとダニエルは何やら悲壮な顔をして出掛けて行った。ダニエルが「……無事に帰って来れますように」と祈っていた。騎士団に昨日から死神が出るのだそうだ。騎士というのも大変なお仕事のようだ。
「……まともな君が不気味」
「そうか。迷惑をかけたのか。それはすまなかったな」
憑き物が落ちたかのように、ヒューゴは穏やかに笑った。エミリーとジェシカの顔が引きつった。
「……ああいう人なのよ。だから、関わるとなんかものすごく自分が損した気分になるの」
リリィが長い長いため息と共に言った。リリアの様子をちらっと窺う。中の声は聞こえたのだろう。リリアの目は据わっていた。何があったかは今朝トマスから聞いた。酔った勢いで求婚してきたヒューゴを蹴り飛ばそうとして、リリアはルークに怒られた。
流石に拳と蹴りはダメだろう。普通の貴族の令嬢は平手打ちはするみたいだけれど。
ふと書類から目を上げたルークが歩いてきて、扉を開ける。きまり悪そうな顔をした少女三人を見た途端に、ヒューゴの顔が引きつった。うろうろと視線を彷徨わせて挙動不審になる。
「覗き見というのは淑女として……」
「おはようヒューゴお兄さま。よく眠れた?」
威厳を保とうと必死な様子のヒューゴは、リリィに話しかけられて虚を突かれたような顔になる。
「……ああ、おはよう。珍しいなリリィが私に話しかけるのは」
「……昨日迷惑をかけたからね。入ってもいい」
(迷惑もかけられたけどね)
そう心の中で続ける。
え? というようにヒューゴが固まる。露骨に動揺してトマスとキースに救いを求めるが、二人はそろって明後日の方向を向く。ルークはあっさり扉を開け放って少女たちを室内に招き入れる。リリアはヒューゴに対してまだ怒っているらしく、室内に入ろうとしない。
「あのね、この二人は私の大切なお友達なの。キリアから遊びに来てくれているの。昨日挨拶したけど覚えてる?」
ちらっとエミリーとジェシカを見て軽く頷く。二人は優雅にお辞儀した。ヒューゴが猛獣にでも出会ったように後ずさる。
「いや、申し訳ないが全く……」
声が震えている。女性恐怖症は悪化していた。トマスが頭を抱えている。キースは半笑いになって天井を見上げていた。「なんでこうなったかなー俺のせいかなー」とぼやいている。
一歩リリィが前に出ると一歩ヒューゴが下がる。
「異民族呼ばわりしたことも覚えてない?」
その一言で、ヒューゴの顔が青ざめた。トマスを見て頷かれ、キースを見て頷かれ、縋るような目をルークに向けて頷かれ、ヒューゴはこの世の終わりを見たような顔になった。
「ついでに、酒に酔った勢いでリリアに結婚迫ったらしんだけど、それも覚えてない?」
ヒューゴの思考は完全に停止したようだった。固まったまま動かない。ぎしぎし音がしそうなくらい不自然に首を動かしてルークを見て、彼がひとつ頷くのを確認すると、そのまま床に崩れ落ちた。
「まだまだ色々やってるんだけど、聞く?」
一応尋ねてみる。これ以上追い詰めるのも可哀想かなとちらっと思ったが、まともな時にまとめて反省してもらった方が良いだろう。
「……リリィ、ヒューゴの女性恐怖症を悪化させるのやめて」
トマスが非常に面倒くさそうに助け舟を出した。
「とりあえずヒューゴさま、ソファーに座りましょうねー」
キースとルークがヒューゴを両側から支えて立ち上がらせると、そのままソファーに座らせる。
「……まずそちらのお嬢さん方には大変申し訳ない事を。すまなかった」
力ない声で、俯いたままヒューゴはそう言った。
「殴るなり蹴るなり好きに……」
反省と悲壮な覚悟を込めた言葉には違いなかったが、明らかに間違っていた。見つめられたエミリーとジェシカは、唖然として立ち尽くしていた。
「ちがうから。それおかしいから。かえって反省してないみたいに聞こえるから」
トマスが何でそうなるんだと言いたげな顔で、ヒューゴの言葉を止めた。
「……私、いきなり殴るように見えます?」
ショックを受けた顔でエミリーがヒューゴに尋ねた。それでようやく傷付けたと気付いたヒューゴは、慌てて首を横に振った。
「あ……違う。違うんだ申し訳ない。えっと、思わない……」
ガタガタ震えて目も合わせられないヒューゴを見て、いや、絶対に思ってるよな、とその場の全員が思った。……リリアはヒューゴに謝るべきかもしれない。
「ごめんね、ヒューゴがこうなのはまぁ色々理由があるんだけど……とにかく女性が怖いんだよ」
「ヒューゴさま、ちゃんと謝罪しましょう。お二人は絶対にそんな事はなさいませんよ」
ルークが諭すように言うと、
「わかってる! 言われなくてもちゃんとできる。異民族は黙ってろ!」
反射的に怒鳴った途端に、ヒューゴはやってしまった! というような顔になった。それでも意を決したようにエミリーたちに改めて向き直り……やっぱり怯える。「言われなくてもできる」とか宣言したのは誰だろう。
そしてヒューゴは結局ルークに救いを求める目を向けた。……今さっき「異民族は黙ってろ」とか暴言を吐いていたのは誰だろう。元に戻れば戻ったで面倒くさい人であることに変わりはない。
「……ルークは怒ってもいいと思うのよ」
「ルーク、昨日、ちゃんとヒューゴ叱るって約束したよね」
「そうですねぇ……まぁ、私に対しては良いですけど、他の人にはそういう態度は取らないように気を付けて下さいね」
ルークは穏やかな声音でのんびりとそんなことを言った。しばらく室内に沈黙が落ちた。
「ちょっと待て! それ叱ってないっ」
「いやルークさん、絶対それおかしいっ」
トマスとキースが猛然と抗議した。
「……特に私はヒューゴさまに文句はないので、文句がある方は直接本人にどうぞ。……書類翻訳しておきましたからね。日付違ってましたよ。気を付けて下さいね」
ルークはトマスの執務机の上に置いてあった書類を取って、ヒューゴに手渡す。ヒューゴはちょっと嬉しそうな顔になり……すぐさま眉間に皺を寄せて誤魔化した。
「またそうやって甘やかす!」
トマスの方には先程からずっと手に持っていた書類を差し出す。
「トマスさまは……ここ、間違ってますからね。あと、ここにサイン。で、手紙は代筆しておいたので、そっちもサインして早めに出しておいて下さい」
「おまえだって甘やかされてるじゃないかっ」
ヒューゴがトマスに食って掛かる。
「君程じゃないよねっ」
「……だからどっちもどっちなんですって」
ぼそりとキースが呟いた。
「キースの方が甘やかされてる。ルークは僕には冷たい」
キースがやれやれというように首を横に振る。リリィは少し考え込んだ。基本的にルークは身内にとことん甘い。その中でも誰が一番甘やかされているかと言えば……
「一番甘やかされて、好き放題やっているのはリリアよね」
キースとヒューゴとトマスから一斉に何を言っているんだという目を向けられて、リリィはむっと眉を寄せた。
「確実に一番甘やかされているのはリリィおまえだ」
ヒューゴに断言された瞬間、反射的にリリィは反撃していた。
「やっぱりヒューゴお兄さまのルークに対する態度って、良くないと思うのよね」
喧嘩の買い方は昨日学んだ。恐怖を感じる前に言い返す。すると、ヒューゴは怒るのではなく心の底から不思議そうな顔をした。
「おまえだって呼び捨てにして使用人扱いしているだろう?」
「ヒューゴお兄さまのあの態度が許されるなら、私だってこのままでいいはずだわ」
「おまえたちが許されるなら私も許されるだろう」
どちらも自分の正当性を主張した。「だからどっちもどっち……」キースがため息をついた。
「全員そのままでいいですけど……。ああでもそうですね、『異民族』って言葉はそろそろ封印して下さい。私以外の相手に反射的に出るようでは困ります。侍女長には私から謝罪して、迷惑をかけた方々には謝罪の手紙を出しておきましたけど、今後こういうことはないようにして下さい。……はい、ちゃんと叱りましたよ。これで良いですね?」
ええーっという不満そうな顔でトマスとキースがルークを見た。ルークは目を伏せて苦笑して、そして扉の方を一瞥して顔を顰める。扉の外に立っているリリアが何かしたのだろうか。そう思って確認しようとした時、
「……申し訳なかった。許してもらえるだろうか」
殊勝な態度でヒューゴがエミリーとジェシカに謝罪した。
「……あ、はい」
「はい、謝罪は受け入れます」
エミリーとジェシカの言葉を聞いて、ヒューゴはとても驚いたような顔をした。信じられないものを見る目でふたりを見ている。エミリーとジェシカの顔が引きつった。失礼極まりない。
「だから、女性すべてが逆上して平手打ちしてきたりしないって」
トマスが面白くもなさそうにそう言った。
「あとリリアにも謝罪を……」
悄然とした様子でヒューゴがそう言ったが、トマスは無理だねと冷たく言い放った。
「許してくれないと思うよ。そりゃ怒るよ。君がやったことは、爵位が欲しくて求婚してくる男たちと変わらない。僕やキースに対しても失礼だ」
深い深いため息をついてから兄は顔を上げた。とても真剣な表情だ。
「もう二度とこういうことがないように言っておくけど。僕は君のことは兄だと思っている。無理やり家族になろうとしなくても、僕らは君を見捨てない……いや、流石に昨夜は僕も見捨てた。でもキースがちゃんと寝るまで面倒みてた。ルークも怒ってない。リリアは怒ってるな。リリィは寝れば全部忘れるけど」
「お兄さま支離滅裂になってる」
「まぁとりあえず、君が何やらかそうと、どうなろうとルークとキースは君を見捨てないよ。だから安心してさっさと嫁もらえ」
面倒くさくなった兄はそう結論付けた。ヒューゴの眉間に皺が寄った。
「いやだ。おまえこそさっさと嫁をもらって伯爵家立て直せ。いつまでもルークに養ってもらってるってどうなんだ」
「そこで喧嘩はじめないで下さいね」
ルークは勝手に机の引き出しを開けて、書類と帳簿を取り出している。
「君だって自立する自立するって言いながら結局迷惑かけてるじゃないかっ」
「努力もしないおまえに言われたくない」
「……だから、喧嘩しないで下さいね。そんなに慌てて自立しなくても大丈夫ですよ」
「ほらっ、ルークもこう言ってる」
勝ち誇ったようにヒューゴがそう言った。
「どうしてルークはいつもヒューゴばっかり甘やかすのかなっ」
「……トマスさまもそんなに急いで自立しようとしなくても大丈夫ですよ」
書類と帳簿を見比べながら、仕方がなさそうにルークはそう言った。
とはいえ、兄に自立する気は全くないだろうなとリリィは思う。リルド領に行って全員でルークに養ってもらおうとか言っていた。
「ぼくだってまだ結婚したくないっ」
話がおかしな方向に向かった。
「……好きにすればいいと思いますよ」
「だったら私だって結婚しなくてもい筈だっ」
「……そうですね。まだ早いと思いますよ」
エミリーとジェシカが呆れ果てた顔になっている。キースは窓の外の青空を眺めていた。最早子供の喧嘩だ。いい年した男二人が結婚したくないと駄々を捏ねている。
「……ねぇ、ルークの中でヒューゴお兄さまって何歳で止まってるの?」
まだ早いという言葉に引っかかって尋ねてみる。ルークは曖昧に笑って誤魔化した。多分言ったらヒューゴが立ち直れないと判断したのだろう。
ヒューゴが初対面でルークを叩いた時が十二歳くらいの筈だ。
(その辺りで止まっているとすれば……色々納得がいくわね)
十二歳の少年が異民族だ何だと会う度に突っかかって来ても、微笑ましいだけに違いない。
「まぁ……アレンさまよりはお二人とも大人ですよ」
「ねぇ、二人ってヒューゴと誰?」
トマスが非常に不服そうに言った瞬間、「自覚はあるんだ」という声がして、室内の空気が凍った。確かに扉は開け放たれていたが、全く気配がなかった。
「……相変わらず、何というのか平和だねぇ」
ドアの脇に第二王子が気だるげに凭れかかっている。リリアが困ったような顔をしてドアの陰から顔を覗かせていた。ルークは書類から目も上げない。
「勝手に入って来られると困るんですけどね。使用人用の入り口使いましたね?」
「表から入るのが面倒でね。ああ、全員そのままでいいよ。カラム引き取りに来ただけだから。すぐに戻る」
疲れているのだろか。いつもより声に力がない気がする。
「……昼まで休暇もらったと言っていましたが?」
「表立って動くと相手も動くから面倒くさい。でも、ここで君たちの会話聞いてたらなんかどうでもよくなってきたな。……キース、紅茶淹れてくれる?」
エメラルドグリーンの瞳を細めて微笑む。
「太りますよ?」
ルークの指摘に対して、アーサーは軽く肩を竦めた。
「ソフィー以外誰も近寄ってこないから、昨日の夜から何も食べてない」
何だろう……退廃的な雰囲気だ。言葉も態度もどこか投げやりで近寄り難い。
「ダニエルが死神を見たって言ってましたよ」
キースの言葉にアーサーは目を伏せてふっと酷薄な笑みを浮かべる。
「まだ誰も死んでないな。勝手に処刑したらまずいだろうさすがにね」
「護衛は?」
「今は王宮にいることになってる」
そんな会話が繰り広げられている横で、リリアが口をパクパクさせて何か伝えようとしているのに気付く。ん? とリリィは首を傾げた。エミリーとジェシカも一緒になってリリアの唇の形を凝視している。
「け? じゃない違うの? め?」
「さん。ですね。次は、に?」
「お・よ・め・さん・に・して? しろ?」
エミリーがリリアの唇の動きに合わせて声を出す。
「て、ですね」
ジェシカが訂正すると、リリアはうんうんと嬉しそうに頷く。
「ああ、リリィおはよう。昨日はよく眠れ……」
「えっと、何? リリア。 およめさんにして下さい? と、言う? 言え? 今すぐ?」
すっとリリアが誘導するように顔を動かす。三人の少女たちに視線を向けられた第二王子は、軽く首を傾げて困ったように笑った。
「……ごめん、今すぐにはちょっと無理かな」
その言葉にリリィは硬直した。何だかよくわからない内にフられたらしかった。