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27 「がんばって会いにおいで」 その23


肩を揺らされて意識が浮上する。


「そろそろ起きて下さい」


 リリアの声がした。ゆっくり目を開ける。一瞬自分がどこにいるのかわからない。ぼんやりと目が動く範囲で周囲を見る。ここは……居間か。まだ夜だ。室内は薄暗い。ちいさなランプがテーブルの上に置かれている。


「今お水を用意します。起きて下さいね。ダメですよ、寝ないで下さい。寝るのは自室に戻って着替えてから。だからダメですって」


 もう一度目を閉じようとしたら、リリアに怒られた。駆け寄って来たリリアに強制的に体を起こされる。水で濡らして固く絞った布を渡されたので、目に当てた。


「んー寝るために起きるー」


 ぼやけていた意識が少しずつはっきりしてゆく。


「……私あのまま寝ちゃったのね」


 布を目に押し当てたまま仰向く。ソファーで寝たせいか体が少し痛い。


「ヒューゴお兄さまの前で倒れたそうです」


 顔の上の布を取られて、代わりに水の入ったコップを手渡された。ゆっくり飲み干して、ため息をつく。疲れていたし満腹だったせいだろう。久しぶりに気絶するように眠ってしまった。

 リリアはメイド服からドレスに着替えている。お手伝いは終わったという事だろう。


「まだ残っているお客様がいらっしゃるので、ちゃんとドレス着ないと。コルセットはジェシカさんが緩めて下さったので、締めなおしますよ。髪もまとめます」


「面倒くさいー」


 リリィは目を閉じて倒れ込むようにソファーの背に凭れかかった。その両手をリリアが掴んで引っ張り戻す。


「寝るために頑張って下さい。はい、ゆっくり立ってくださいね」


 無理矢理立ち上がらされた。そのまま背後に回ったリリアが容赦なくコルセットを締める。ぐえっと変な声が出そうになって、リリィは一気に覚醒した。


「これくらいで入るかな」


 リリアはそんな事を言いながら、背中のボタンが留まるか確認している。「入る」って言い方はちょっと嫌だとリリィは思った。


「なんか今日は食べ過ぎた気がする。苦しい」


 今飲んだ水が逆流しそうだ。いつもより確実に苦しい。焼き菓子も食べたし、夕食も豪華だった……


「絶対太った……」


 リリィはがっくりと肩を落とす。最近アレンの食事制限に付き合っていたため、ぽっこりお腹がだいぶすっきりしたと思ったのに。今日一日で元に戻ったらどうしよう。


「明日から少し運動しましょう」


「キースにも言われた。ダンスの練習しろって。ねえ、リリア、何で私踊れないんだろう? 昔踊れたよね……」


 後ろを振り返って、縋るような目でリリィが尋ねると、リリアがぽかんとした顔をした。


「……え? ええ? まだ踊れないんですか? トマスさまでもダメですか?」


 リリアが焦ったように尋ねる。


「うん。足がうまく動かない」


「……え、それは……私聞いてない。ええーっと……どうしよう。……昔は普通に踊れていましたよね?」


 確かに子供の頃ルークに教えてもらっていた時はそれなりに踊れていたのだ。だからステップも覚えている。


「それ、キースにも言われた。でも今は踊れないの。サボってたせいもあるんだけど、足が動かないのよね。みんなどんどん上達してゆくから焦る」


 リリアの顔が強張る。どうして踊れるリリアがそんな追い詰められた表情をするのだろう。


「例えばそうですね……カドリールとかは踊れますか?」


「うん。最初に動きが決まっているなら、その通りにちゃんと動ける」


「そうなるとワルツですね……トマスさまはリードが上手なので、抵抗せず素直に引っ張られておけば踊った風にはなる筈なんですけど……」


 つまり、リリィがトマスに従わなくて好き勝手な方向に行こうとするから、足を踏んだり蹴ったりという事故が起きていると……

 

 リリアは少し迷うような顔をした後、開き直ったように笑顔で言った。


「要するに、トマスさまには従いたくないと……」


「私って何様?」


 思わずリリィはため息をついた。


「……でも、それかなぁ」


 確かに、トマスに引っ張られると、つい反抗したくなる。そっちに行きたくない、みたいな感じで。


「だったら相手がトマスさまじゃなければ、何とかいけるんじゃないですか?」


「キースもダメだったけど?」


 一応キースもダンスは踊れる。でも好きではないらしく滅多に練習には付き合ってくれない。エミリーたちなら大丈夫なのだが、リリィとキースで踊ろうとすると、お互い牽制し合って二人とも一歩も踏み出せないでその場で固まってしまう。


「……成程、キースお兄さまにも従いたくないと」


 ウエスト部分のリボンを結んで整えながら、しみじみとリリアが言った。


「だから、私何様?」


 いたたまれないような気持になって、リリィは両手で顔を覆った。


「……冗談ですよ。単に恥ずかしいだけって気がしますよ。どうしていいのかわからなってしまうんじゃないですか?」


 子供の頃、アレンに対して可愛げのない態度を取ってしまっていたのと同じことだというのだろうか。確かに、トマスやキースと踊るのは、何だか妙に気恥ずかしいのだ。手が当たっている背中が痒くなる。


「あー……何となくそんな気がしてきた。うん。踊るのって恥ずかしい。だって近いもの。手握るし」


「相手にもよるんでしょうね」


 スカートの皺を伸ばしていたリリアが、「髪まとめるので座って下さいね」と言うので、先程まで寝ていたソファーに横向きに腰かける。その後ろにリリアが座った。

櫛で髪を丁寧に梳いてから、リリアは手早く髪を編んでゆく。部屋に戻るまでのことなので、あまり手をかけるつもりはないようだ。

 メイジーが来てから、こうやってリリアに身支度を手伝ってもらうことも随分減っていた。婚約者騒動の後はリリアはルークにべったりくっついていたし、リリィも自分のことで忙しかったので、こうして二人で話すのも久しぶりだ。


『これが来年には当たり前になるんですよ』


 キースの声が耳に蘇る。急に背中が冷えた気がした。リリアがボタンを留めてくれたはずなのに。


(来年には……リリアはここにいない?)

 

 こうしてリリアに髪を梳いてもらったり。お揃いのドレスを着たり、ああでもないこうでもないと言いながらも一緒の髪型にしてみたり、そういう事ができるのも、もうあと少しの間だけ……?

 あれ? とリリィは胸に手を当てる。背中の冷たさが全身に広がってゆく気がする。

 この感覚には覚えがあった。キースとマーガレットが屋敷にやって来る前。部屋で一人ぼっちで本を読んでいた頃。服を着ているのに、体の中を冷たい風が吹き抜けてゆくような気がしていた。あの時に感じていた寒さと同じ……


「……リリィお嬢様? 起きてます? 寝ないで下さいね」


 リリアの声にはっと我に返る。髪を引っ張られそうな気配を感じて「起きてる……起きてます」と慌てて返事をする。

 

「もう時間がないし、直接アーサー殿下に教えてもらいましょうか。王宮に行ったら勉強教えてもらえるって話でしたから、ダンスの練習も付き合って下さいますよ。……はい、できました」


 手が髪から離れたので、体ごとリリアを振り返る。リリアはリリィの頬に軽く手を当てて首を左右に動かし、出来上がりを確認するとちいさく頷いて手を下ろした。


「ガルトダット家の長女は足を怪我したことになってますから、後一週間くらいは時間が稼げます」


「……なにそれ」


「私、例の婚約者騒動の頃から全く使い物にならなかったので、足怪我して療養中ってことになっているんです。他にも色々と事情はあるんですけどね」


 リリアは少し困ったように笑って、リリィの前髪を櫛で整えた。


「そういえば、リリアはずっと家にいたわよね。怪我したことになってたのね」


 リリアがルークから離れられなくなっている間も、イザベラとトマスは忙しそうだった。今は社交シーズン中だ。連日お茶会やら晩餐会やら舞踏会やら何やらあちこちで行われている筈なのだ。


「はい。でもいつまでも怪我で誤魔化している訳にもいきません。……ワルツ一曲何とか踊り切れるようにはなって下さい。トマスさまやキースお兄さまが無理なら、もう直接アーサー殿下にお願いするしかないです。気持ちの問題だけならいけます。リリィお嬢さま、アーサー殿下の前だと、びっくりするくらい素直ですから」


 踊る? ……誰が? 誰と?

 頭の中を整理するのに、少し時間を必要とした。リリアの話をまとめると、トマスやキースと踊るのが恥ずかしいなら、アーサーに教えてもらえば良いと、そう言っているように聞こえるのだが……


「……ちょっと待って。リリアがアーサー殿下と踊るのよね?」


 舞踏会に行くのはいつもリリアだ。今シーズンはそれでいいではないか。何を言っているんだろう? と思いながら目の前に立っているリリアを見上げる。


「私デビュー前の次女ですよ。当然長女のリリィお嬢さまが踊るんですよ」


 そっちこそ何を言っているんだろうという顔をして、リリアがそう答えた。

 二人で顔を見合わせ、同時に首を傾げる。何か……話が噛み合っていない気がする。

 しばらく沈黙が落ちた。リリィの頭の中は疑問符で埋め尽くされているが、恐らくリリアの頭の中も同じだ。


「……えっと、何で?」


 おずおずとリリィは尋ねた。


「お妃候補だからですよ。自分で言ったんですよね、アーサー殿下に結婚して下さいって」


「だってあれは来年社交界デビューしたら」


「しましたよね。今日、さっき」


 え? とリリィがさらに首を傾げると、え? とリリアは瞠目した。


「ちょっと待ってください、そこからなんですか?」


 泣きそうな顔になって、リリアが締まっているドアの向こうに向かって叫ぶ。つまりそこに誰かいるのだろう。


「ねぇ……リリア、廊下に誰かいる?」


「……えーと、気にしないで下さい」


リリアはちいさく息をついて、床に膝をつくと真顔になってリリィの両手を握った。


「リリィお嬢さま、お嬢さまは今日の夕食会、ガルトダット家長女として参加しました。だから、もう後戻りできません。明日にはガルトダット家の長女は五か国語を理解できるって噂が流れるんです。今日の夕食会にいた方全員が証人となります。私、さすがに五か国語は無理です。もう入れ替わるのは無理です。だからダンスは自力でなんとかしてください!」


「……へ?」


 リリィは思わず聞き返した。


「もうすぐシーズンは終わりますが、このまま足痛めてます設定で逃げ切るのは無理です。今日元気な姿を外の人間に見せてしまいましたから。だからまずはダンスを何とか踊れるようにしてください。一週間で」


 必死の形相のリリアが何か不思議な事を言っている。意味が……意味がよくわからない。


「……ちょっと待って、聞いてないんだけど」


 リリィは掴まれた手とリリアの顔を見比べながら、ようやくそれだけ言った。


「誰も聞いていません。ものすごく急な話です。だから『短気で癇癪持ち』って言われるんですアーサー殿下。今日の食事会も準備時間は実質三時間でした。トマスさまとヒューゴお兄さまなんて。直前まで何の説明もされてなかったらしいです。逃げられないようにって」


 リリアは握った両手にぎゅっと力を込めた。そういえば、運河を流れた後にこうしてアーサーに手を握ってもらったなとぼんやりと思う。それがとても遠い昔のことのような気がする。


「でも、リリィお嬢さまが、もし、やっぱり第二王子のお妃さまになるのが嫌だと思うなら、今すぐアレンさまと結婚して下さい。あとはサインして議会に提出するだけです」


 リリアは真顔でとんでもない事を言っている気がするが、脳がリリアの言葉を理解するのを拒否している。


「ちょっと待って、リリア。話が見えない」

 

「私もさっき聞いたばっかりですよ。……でも私もある日突然アレンさまと結婚するように言われたんで、こんなものです。……おかあさまとトマスさま、私の時に大騒ぎになったから、自分が説明するのが嫌だってさっさと寝ちゃったらしいんです。みんな私に押し付けたんです。ひどいです」


 おかしいな。とリリィは首を傾げた。リリアは母国語で話している筈なのに、何が言いたいのかさっぱりわからない。


「……という訳で選んで下さい」


 というわけで選ぶって何を選ぶんだろうなーと、ぼんやりと天井を仰いだ途端に、がしっとリリアに肩を掴まれた。


「気持ちはわかりますが、現実逃避しないで下さい」


 リリィは顔を正面に戻す。妹ににっこり笑いかけてみる。きっと何かの聞き間違いだろう。今日は色々あってとうとう幻聴が聞こえるようなって来たのかもしれない。リリアは最近ルークに話し方が似てきたなーとそんなことをぼんやりと考える。


「では言い方かえます。命がけの窮屈な生活送るか、観光地で美味しいもの食べながら悠々自適に暮らすかの二択です」


「誘導したい方向が非常にわかりやすい選択肢ねー」 


 乾いた笑いを浮かべながらリリィは思わず呟いた。


「他にもあります。聞くと後戻りできませんが聞きます?」


「……そう言われて聞きたいって答える人いないと思うわー」


「わかりました。では二択のままでいきましょう」


 リリアがどこかほっとした顔でそう言った。どうやら選択肢が増える話だったらしい。


「王宮にダンスの練習に行くか、ダージャ領に観光に行くかです」


 やっぱり妹が何を言っているのか全く理解できない。多分妹も自分が何を言っているのかあまりわかっていない。……寝よう。リリィはソファーに横たわった。


「保留」


 もうそれでいい。寝る。


「え、ちょっと待って下さい。リリィお嬢さま寝ないで。私もそんな感じでしたけど、せめてっせめて自室に戻って着替えてからにっ……て、ほら、絶対にこうなるって言ったじゃないですか。だから自室に戻ってからの方がいいって言ったのに」


 焦ったように叫んでいる妹の声が、急速に遠ざかる……






 本当に眠ってしまったのか寝たふりをしたのかはわからない。だが目を開ける気はなさそうだったので、ルークがリリィお嬢さまを部屋まで運んで行った。 


「私もあんな感じでしたけど……あまりに急なんですよ」


 居間の後片付けをしながら、暗い表情をしてリリアが呟いている。戸締りを確認していたキースはカーテンを整えながら妹を振り返った。


「リリアがさっさとルークさまと結婚しないからこんな面倒なことになったんだよ。……今思えばさ、アレンさまの私邸に行った時にあのままの勢いで告白しとけば良かったんだ。リリィお嬢さまが陛下に会う前だったらまだ何とかなった……」


「キースお兄さまが女装してアレンさまと結婚すれば、全部解決したと思うんですよね」


「……あの誘拐事件前に片付いていれば、少なくともアーサー殿下が出て来ることはなかったと思うんだよな……」


 リリアの世迷言はきれいに無視して、キースは室内を見回してソファーの位置を調整しながら、ため息をついた。


「リリィお嬢さま、アレンさまのこと好きだったんですけどね……」


「今はもう何の未練もないみたいだな。あんなフられ方すれば無理もないけどさ」


「ある意味立場が完全に逆転しましたからね……」


 リリアが物憂げにイザベラお気に入りのソファーを見つめている。「色々ありましたね」と、妹はぽつりと呟いた。

 この部屋でリリアはアレンと結婚するようにイザベラから命じられ……

 ロープでぐるぐる巻きにされたロバートがナイフ投げの的になり……

 怒り狂ったリリィお嬢さまが髪を逆立てながらリリアを尋問した。


「……時間って、どうしたって流れて行くんですね」


 寂し気な声に、キースも少し胸が締め付けられるような気がした。

 トマスがヒューゴに告げた通り、リリィお嬢さまとリリアは……来年の今頃、ここにいない。


「そうやってリリアが寂しがるから、ルークさん、ギリギリまで待ったんだろうな。急いで大人になったって窮屈なだけで、そんな楽しいことはないって言ってた……」


 しんみりした気持ちを振り払うように、キースは殊更明るく妹に告げた。


「保留ってさ、いつまでできるんだろうな」


「……明日までじゃないですかね。カラムさまが返事を持ち帰るよう言われているでしょうから」


「短気で癇癪持ちだからなー。そういえばダニエルが、今日死神を見たって言ってたな」


「黒着てると余計に怖いんですよね……」


 ふたりでドアの前に立ち、室内を見回して最終確認する。オイルランプを消し、蝋燭を持って廊下に出る。

 燃料を節約するために館内は真っ暗だ。蝋燭の明かりで廊下を照らしながら、昔のように妹の手を引いて歩く。ちいさな子供の頃に戻ったような不思議な気分だ。遊び疲れたマーガレットを無理矢理引っ張って部屋に戻る途中のような。

 前方の廊下がぼんやりと明るい。応接間のドアが開け放たれている。あそこで待っていてくれる人がいるのに、このままずっとあの光の元に辿り着けないんじゃないか、そんな夢に閉じ込めらているような気分になる。死神なんて言葉を思い出したせいだ。


「キースお兄さま、ちょっと怖がってますよね」


 リリアがぼそりと言う。キースはぎくりと肩を震わせた。


「昼間トマスさまが幽霊とか言うし、さっき死神なんて言葉使ったし……ここ出るし。深夜の大階段付近は嫌なんだよ」


「そういうことを考えはじめると出ます」


「やめて……」


 妹に怖がらせようとする意図はない。事実を述べているだけで。

 日付が変わる前後に、大階段の下から十段目辺りに時折現れる白い影……

 古い屋敷だ。そんな怪談話には事欠かない。


 手袋の中にいやな汗をかいてきている。もうすぐ大階段前だ。本格的に怖くなってきている。これはよくない兆候だ。


「階段の方、見なければいいんですよ」


「なんでか知らないけど目がいくの」


「納屋の方がよっぽど怖いと思うんですよね……」


 リリアが不思議そうにつぶやく。


「あそこ出ない。ここは出る」


 キースはきっぱりと断言した。……あ、予言してしまった。これは絶対に出る。そう思った途端に足が竦んだ。


「ここで立ち止まります?」


 リリアが立ち止まってしまった兄に呆れた目を向ける。


「……もうダメだ。ぜったいに出る」


「階段の方見なければいいんです。行きますよ」


 リリアが燭台を奪い取ると、先に立って歩き出そうとするが、キースの足は動かない。くいくいと妹が手を引っ張るが、動かないものは動かない。


「俺だって見たくないんだよ。でも目が行くの! 何でリリアは平気なんだよ」


「えー。だって、ここより三階の……」


「やめろっ絶対口に出すなっ」


 慌ててキースが制止する。


「あ……余計なこと思い出した」


「ばかっ。だから言っただろうが」


 リリアの顔が引きつる。つないだ手が小刻みに震えはじめた。恐怖は伝染するのだ。

 その時、背後でパキっとどこかの柱が軋んだような音がした。二人の身体が大きく震える。あ、これもう無理だ。とキースは思った。


「ルークさん。無理っ」


 恥も外聞も投げ捨てて、数メートル先の応接間に向かってキースは叫んだ。



 

 声に気付いたルークとロバートが、二人を迎えに来た。リリアはルークの背中にしがみついている。三階の怪談は絶対に思い出してはいけない。これはもうダメだと判断したルークによって、大階段と廊下のランプに火が灯された。


 応接間の窓はすべて開け放たれ、清浄な空気に満たされている。ルークが強制的に換気したようだ。キースがヒューゴを放り込んだ時にテーブルの上に並べられていた大量の酒瓶も姿を消していた。

 ヒューゴが真っ赤な顔をして、テーブルに肘を付いている。夕食会に参加していた男性貴族とカラムは顔色ひとつ変えずにロバートが持って来た蒸留酒を飲んでいた。茶色の瞳の男性についてはイザベラの幼馴染としか説明されていない。だが、席順に騙されてはいけない。イザベラの幼馴染なら王族に近い人間に決まっている。


「ヒューゴさま、寝るなら部屋戻って寝て下さい」


 食事会に参加していたヒューゴの部下が、ヒューゴの肩を揺らしている。彼はそれ程飲んでいないらしく、意識ははっきりしているようだ。


「ハリスさん……なんかすみません」


 キースは大変申し訳ない気持ちになる。確かに当主命令ではあったが、最終的に面倒くさくなって放り込み、そのまま放置したのはキースだ。文官の青年はゆるく首を振る。


「深夜に突然王宮帰るとか言い出しかねないですからね。お酒の力を借りてでも、一度しっかり休ませた方がいいんです」


「大して飲んでないぞ。ワイン一本くらい。それでここまで酔えるって羨ましいよな。しっかし、なんで未婚の男が、娘を嫁に出す父親みたいになってるんだろうな……」


 水代わりにアルコールを飲んでいる船乗りは心底不思議そうな顔をしている。


「従妹の結婚も理由のひとつなんでしょうけど、いよいよ自分の結婚が現実味を帯びてきて憂鬱になってるんじゃないかって、トマスさまが言ってましたよ。……ヒューゴさま、現実の女性と向かい合うのが怖くて仕方がないみたいなんですよ」


 ちらっとキースがルークの背中にしがみ付いているリリア一瞥する。大人しそうなリリアが豹変する様を目の当たりにしたヒューゴの心は深い傷を負ったと思う。害虫を見るような目を向けられ踏まれそうになったのだ。

 でも、現実の女性が必ずそういう二面性を持っている訳ではない。リリアのような女性の方が少数派だろう……そうであってほしい。


「ヒューゴさま、歩けます?」


 キースが尋ねると。「……歩ける」と、ヒューゴが顔を伏せたまま答えた。比較的声はしっかりしている。換気の効果だろうか。


「じゃあ、部屋に戻って休んで下さい。明日は一日起きて来なくて良いです」


「さりげなくひどいなキース」


「そろそろまともな状態に戻って欲しいんですよ。もうなんか元の人格思い出せなくなってきた……」


 キースが悲しそうに言うと、傍らに立つ部下の青年も同じ表情になった。


「そうですよね、私も思い出せないんですよ。最初お会いした時は、よくできた方だな、この人の下で働けるのは幸せだななんて思ったんですけどね……ははは」


「一度きちんと休めば戻ると思いますよ」


 ルークが二人を慰め、ドアを開けるために移動しようとしたときだ。ふとヒューゴが目を上げて、リリアに気付いた。ばっちりと二人の目があった。その途端ヒューゴが立ち上がり、リリアが警戒して顔を強張らせる。

 いきなりヒューゴがリリアの前で跪いた。その場にいた全員が、ものすごく嫌な予感がして手を止める。


「リリア、私と結婚して……」


「ダメですっ」

 

 ルークが鋭い声をあげて、二人に駆け寄り、ヒューゴの肩に蹴りを入れようとしたリリアを、間一髪引き離す。体勢を崩して後ろに倒れ込んだリリアをそのまま抱きしめ拘束する。


「惜しいな。もう少しスピードが必要か。止めるのがキリアルトじゃなければ、いけたんだろうがな」


 蒸留酒を一口飲んでから、カラムがうっすらと笑った。


「はなしてっ」


「相手は酔っ払いです。大怪我をさせてしまいます」


 暴れるリリアを取り押さえているルークの声は極めて冷静だ。リリアが絶え間なく肘や足で攻撃しているのだが平然としている。キースには到底真似ができない。


「……これは蹴られても仕方ないだろ」


 ロバートがこめかみを押さえながら、呆れ果てた声でそう言った。


「そうだね。そちらのお嬢さんにはその権利はあると思うよ。私が許可する。やらせてあげなさい」


 イザベラの幼馴染という男性が、真顔で恐ろしい事を言った。やはり宰相の孫を蹴っていいと命じることができる立場の方のようだ。


「いいって」


 リリアがルークを見上げて訴える。


「絶対ダメです」


 ルークが厳しい顔をして冷淡に言い切った途端に、リリアの顔が大きく歪んだ。


「ヒューゴお兄さまだいっきらい!」


 癇癪を起した子供のように、泣きながら叫ぶ。あれは絶対ルークに怒られたことに対する八つ当たりだ。


「はい、気が済みましたね。行きましょう」


 リリアはそのままずるずるルークに引きずられて廊下に連れ出される。部屋にいる全員がドアまで二人を見送った。


「すんでないっ。はなしてっ」


 リリアの叫び声が急速に遠ざかる。肩にでも担がれたのだろう。


「……こうなった責任の一端は、俺とトマスさまにもありますよね……途中で面倒くさがらずにさっさと寝かしつけとけば良かったんですよね」


 自分自身に言い聞かせるつもりでキースは天井に向かってそう言った。


「……やっぱりフられてしまった」


 ヒューゴは自嘲気味に笑っている。「最低だな」というカラムの声に合わせて、全員がゴミを見るような視線を向けた。


「お酒の力を借りて、自己完結しようとしないで下さい。迷惑です」


 キースが全員を代表してきっぱりと言った。


「……こっちは明日には覚えていないだろうが、リリアさま一生許さないだろうな」


 ロバートが酒瓶を手元に引き寄せながらぼやく。


「……そんなんばっかですよもう。閣下に頼んで、またしばらく出入り禁止にしてもらいます」


 どんよりと落ち込んでいるヒューゴの前にキースはしゃがみ込む。

 慈悲深い笑みを浮かべ、青い目をまっすぐ見つめながら、キースは言い聞かせるようにゆっくりとヒューゴに語り掛けた。あくまで優し気な声で。


「ヒューゴさま、いい加減現実見ましょうか。この世界のどこ探しても、ヒューゴさまが好きな『リリア』という少女はいません。幻想です。女優が演じる物語の中の登場人物です。この伯爵家にいるリリアは野生動物です。別物です。ヒューゴさまを張り倒して踏みつぶし、今も蹴り飛ばそうとしたのが本性です。あなたは騙されたんです。リリアの九割は嘘でできてます。あなたが恋をした従順で大人しい少女はこの世に存在しません。いるのは負けず嫌いで暴力的で扱いにくい暴れ馬です。あなたの手には負えません。詐欺師に騙されたのだと思って諦めて新しい恋を見つけましょう。因みにリリィお嬢さまに恋をするのもお勧めしません。あれも詐欺師です。ある意味リリアより厄介です。今なら引き返せますから引き返しましょう。あなたの運命の人は他にいます」


「……悪徳商法に騙されてる被害者の目を覚まさせようとしているかのようだな」


 カラムがそんな感想を述べた。確かにそれに近いものはあるよなとキースも思う。ヒューゴはリリアに騙されたのだ。ある意味被害者だ。


「いや、暗示かけて別の商品に目を向けさせようとする悪徳商人だろあれ」


 ロバートが余計な事を言っているが気にしない。ヒューゴは真面目な人間だ。思い込みの激しさはリリィお嬢さまとリリア並だ。……多分いける。


「どうせ明日には全部忘れているんだと思いますが、これだけは覚えておいて欲しいので、もう一度言います。いいですか、よく聞いて下さいね。リリアなんて名前の少女はこの世に存在しません。あれは人間の皮を被った野生動物です。自分より強いと判断した相手にしか服従しません。それでもどうしてもリリアが良いというのなら、拳でルークさんを倒して、自分の方が強いと証明しなければなりません。他の分野では意味がありません。あくまで求められるのは戦闘力です。なので明日から鍛えましょう。それが無理なら諦めましょう。あなたの運命の人はちゃんと別にいるのです。可愛くて大人しくて優しくて絶対暴力ふるわないお嬢さんが、もうすぐヒューゴさまの前に現れます。なので、安心して寝て下さい。はい行きましょうね」


 ヒューゴの部下の青年と協力して、両脇から腕を掴んでヒューゴを無理矢理立ち上がらせ、そのまま連行する。


「じゃあ、責任においてこの人片付けたら俺もう寝るんで、火の始末と戸締りだけはお願いします」


 出入り口のドアの前で一度振り返り、ロバートに声をかける。

 ……もう寝よう。起きていると碌なことがないということがわかった。結局早く寝たもの勝ちなのだ。リリアのことはルークが何とかするだろう。

 生きている人間の方がよっぽど厄介だ。ランプで明るく照らされた大階段をのぼりながら、キースはしみじみとそう思った。


 ――黒い服を着た死神が遠くで笑っている気がした。

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