25 「がんばって会いにおいで」 その21
どうしたら仲良くしてもらえるんだろう。
自分の何がいけないんだろう。
そんなことばかり考えていた気がする。
フェリシティとその母親が離れで暮らすようになって半年が経過した頃、エミリーとフェリシティは多少の会話を交わせるようにはなっていた。
「フェリシティお姉さま。ピアノの練習を一緒にしても良いですか?」
「ええ、いいわよ。一緒に練習しましょう」
恐る恐る話しかけて、返事をしてもらえるだけでその日一日嬉しかった。
機嫌の良い時のフェリシティはエミリーにも優しくしてくれるようになった。
「フェリシティお姉さま、新しい本をお兄さまが買ってきて下さいました。お読みになりますか?」
「あっちにいって。わたくし今忙しいの。食事の時まで話しかけないで頂戴」
だけど、次に話しかけた時には露骨に嫌そうな顔をされる。そうなるとエミリーはもうどうしていのかわからなくなる。
何がいけなかったんだろう。何が気に障ったのだろう。そればかり気になって何も手に付かなくなってしまう。
気に入られるように。好きになってもらえるように。そればかり考えるようになっていった。彼女の顔色を窺い、彼女の望むように振る舞った。強要された訳ではない。嫌われたくなくてそうした。
自分だけが冷たくされるのは耐えられなかった。
兄に頼まれて離れを訪ねると、フェリシティは真剣な表情で外国語の本を読んでいた。明るい窓際で椅子に座った母親が、黙々と縫物をしている。
「フェリシティお姉さま。お兄さまが人形劇に連れ行って下さるようですよ。一緒に行きませんか?」
ぎこちない笑みを浮かべながら遠慮がちにエミリーが声をかけると、
「行かないわ」
フェリシティはちらりと目を上げるが、そっけなく断った。
「お兄さまはフェリシティお姉さまに見せたいと……」
「だから行かないって言っているでしょう。ふたりで行ってらっしゃい。楽しんできてね」
不機嫌な声になったフェリシティは、本のページを捲りながら何の感情もこもらない声でそう返した。
「今回の演目はとても人気があるそうなのです。だから是非フェリシティお姉さまも一緒に……」
「エミリーたちは私を可哀想だと思っているのよね? 男爵家の屋敷に閉じ込められて自由がなかった私が可哀想だから、人形劇くらい見にいかせてやろうと思っているのよね。ご親切にありがとう」
口の端を無理矢理引き上げるような不自然な笑顔を作って、フェリシティはエミリーを睨みつけた。エミリーは大きく肩を震わせて怯えた顔つきになる。
「あ、兄も私もそういうつもりはないです。気に障ったなら謝ります」
「そういう言い方はやめてくれるかしら? まるでわたくしがあなたに意地悪をしているみたいじゃない」
視線に強い怒りが籠る。エミリーは畏縮して、数歩後ずさった。
「ご……ごめんなさい」
「もうあっちに行ってくれるかしら? わたくし大陸共通語の勉強をしているのよ。いいわよね、キリアで育ったあなたは大陸共通語なんて当たり前に話せるものね。羨ましい限りだわ。そんな余裕のあるあなたと違ってわたくしには遊んでいる暇はないの。一分一秒だって無駄にはできないの。今わたくしに必要なのは淑女としての教養なの。それを与えて頂けただけで十分感謝しているとお兄さまに伝えておいて」
「フェリシティ……エミリーさまがせっかく誘って下さっているのだから、行っていらっしゃい」
縫物をしていた母親が恐る恐る娘に声をかける。その途端、フェリシティは椅子を倒して立ち上がり、壁に向かって本を投げつけた。
「おかあさまは黙っていて! 指図しないでっ。わたくしはおかあさまのためにがんばっているの。わたくしを幸せにするために何もできないなら、せめて邪魔だけはしないでっ」
大声でわめいてフェリシティは部屋を飛び出してゆく。後には茫然と立ち尽くすエミリーと、耳を押さえて蒼白な顔でガタガタ震えているフェリシティの母親だけが取り残された……
顔にたかる羽虫のように鬱陶しかったことだろう。追い払っても追い払っても近付いてくる、頭が空っぽの無邪気な娘。だから利用するだけ利用して潰してしまおうと思ったのだろうか。
「この伯爵家に来て、王都の貴族社会というものに触れて、ようやくわかりました。何故あれほどフェリシティが自分の母親や私を見る度に苛ついていたのか」
伯爵家に来て、社交界に出るための淑女教育というものを受けてみてわかった。
「今思えば、出会った頃の彼女の動作は雑でしたし、マナーも身に付いているとは言えなかった。ただ貴族の娘の真似事をしていただけだったんです」
「男爵家はその娘のためにお金を使う気が全くなかったんだろうな。そして母親は商人の娘で社交界には顔がきかない」
ロバートが頬杖をついて窓の外に視線を流す。
「人目をひく美女でもない。教養もマナーも身に付けさせてもらっていない。社交界に母親の知り合いもいないから何の後ろ盾もない。貴族の娘としては絶望的な状況だな」
ロバートの言う通りだろう。フェリシティは社交界というものにとても強い憧れを抱いていた。本来自分が手にするはずだったものを取り戻すために、必死に知恵を絞っていた。
しかし、母親の方は貴族社会に何の未練もない様子だった。心に深い傷を負った、内向的な大人しい人だった。このままキリアでひっそり生きていければそれで良いと思っていたに違いない。
そんな弱々しい母親の姿に、フェリシティは強い苛立ちと憤りを感じているようだった。自分の娘にすら怯える母親を睨みつけながらも、その視線は母親を通り越して、自分たちを切り捨てた父親に向けられていた。
彼女の心の奥底には常に怒りがあった。貴族の父親に対する強い憎しみがあった。
「貴族の血を引いているということが、彼女の誇りでした。どんな手を使ってでも貴族社会に戻るつもりだったのでしょう」
エミリーは目を伏せて、小さく笑う。彼女はそのために、なんでも利用した。
「フェリシティは父に頼み込んで王都のマナーに精通した家庭教師をつけてもらいました。そして、積極的に慈善活動に参加するようになったんです。頻繁に孤児院や救貧院を訪ねて行き、教会にも足しげく通った。……そんなことを続けている内に、慈善家の夫人たちと知り合い、仲良くなったんです。彼女はフェリシティの境遇にとても同情して、必ず力になると約束してくれたそうです。そうして手に入れた人脈を辿って、とうとう慈善家の夫人たちを取りまとめる伯爵夫人にまで辿り着いた。その方は我が家にも何度か訪ねて来て……両親は高位貴族の知り合いができたととても喜んでいました。両親が本格的に上流貴族の真似事とかをしはじめたのはその頃ですね」
その頃から少しずつ何かがおかしくなっていった。
エミリーの両親は、伯爵夫人に勧められるまま、店の事は息子に任せて社交や慈善に専念するようになったのだ。夫人に紹介で郊外に屋敷を買い、キリアに余暇を楽しみにやってくる貴族たちを招いて晩餐会やダンスパーティーを開くようになった。
フェリシティの母親は伯爵夫人の屋敷で暮らすことになり、いつの間にか姿を消していた。別れの挨拶すらなかった。
子供が主体となるパーティにはエミリーも参加させられた。そういう場では、エミリーはまさにフェリシティの操り人形となり、彼女に命じられるままに行動しなければならなかった。好きでもない少年の気を引くように強要されることもあった。同じ年頃の令嬢たちは、フェリシティと一緒になって、聞こえよがしにエミリーの悪口を言った。
泣いて両親に訴えても、フェリシティが社交界デビューするまでの辛抱だと優しく諭された。
「新しい屋敷の中ではフェリシティはまるで女王様のように振る舞っていました。伯爵夫人という後ろ盾を得た彼女に誰も逆らえなかった。全員彼女の言いなりになっていた」
屋敷のどこにもエミリーの居場所はなかった。
「私はどんどん変わってゆく両親を見るのがとても嫌でした。フェリシティに取られたような気がしたのかもしれませんね。両親が慣れない社交に四苦八苦しているのを良い事に、家庭教師から逃げて遊びまわっていました。フェリシティは相変わらず、優しかったり冷たかったりで、私はもう疲れ果てていたんだと思います。何も考えたくなかった。買い物をしたり観劇に出掛けたり自由気ままに過ごしました。みんな呆れていましたけど、子供の頃から一緒にいたエラとジェシカとナトンは私の事をとても心配してくれました」
エミリーはジェシカに微笑みかける。ジェシカは痛みを堪えるような目をしている。いつも四人でいたのに、今は二人きりだ。
「私が十六歳の時に、フェリシティは伯爵夫人の紹介で社交界デビューすることになりました。私の両親は拝謁のための準備に奔走して……丁度その頃ですね。アレンさまに出会ったのは。私、現実に王子様って本当にいるんだなってびっくりしたんです」
馬車に詰め込まれそうになっていたエミリーを助けてくれた王子様。
『エミリー、アレンさまはあなたの運命の人よ。だって二人は本当にお似合いだわ』
アレンと出会ってから、フェリシティはエミリーに対して急に優しくなった。親身になって相談に乗ってくれるようになった。それが嬉しくてエミリーは何でもフェリシティに相談した。
戸惑いよりも、精神的に楽になったことを喜ぶ気持ちの方が強かった。気まぐれに冷たくされるのはもう耐えられない。
だから、従順に何でも言うことをきいた。
毎日手紙と贈り物を贈るようにと助言されたのでその通りにした。断られても食事や観劇に誘い続けろと命じられた。
ようやくアレンから了承の手紙をもらえた時には、フェリシティはまるで自分のことのように喜んでいたけれど……その真意は何だった?
……今思えば、すべて仕組まれていたものなのかもしれなかった。どこまでが偶然だったのかと疑い出したらきりがない。
「……悔しいです」
エミリーはぽつりと呟く。
恐らく自分の存在は常にフェリシティを苛立たせていた。
エミリーは、彼女の気に障る行動を取ったり、無自覚に相手の心を抉るような言葉を放っていたかもしれない。……ただ単純に邪魔だったかもしれない。
それはお互い様だ。結局相性が合わなかったというだけの話。
エミリーからすれば、もう二度と関わる気もない相手だ。
でも、返してもらわないといけないものがある。
このまま黙って引き下がる訳にはいかないだろう。彼女はこれからもエミリーの大切なものを奪い傷付けるつもりのようだから。……正直顔も見たくないけれど。
――大嫌い。
二度と顔を合わせることなく、お互いの人生に干渉しないのが一番良いとエミリーは思うのだけれど。向こうはそうは思っていないようだ。……本当に何から何まで彼女とは合わない。
「私の恋にフェリシティは一体どんな結末を用意していたんでしょうね。全部が彼女の思惑通りだったかもしれないと思うと、どこまで人を馬鹿にするんだと怒りが湧いてきます」
静かな怒りを言葉に込めて吐き出してゆく。耳に届く自分の声は怒っている。
怒ってもいい。怒ってもいいはずだ。もう十分我慢した。やっと解放されたと思ったのに、どうして放っておいてくれないのだろう。
頬杖をついているロバートに目をやると、ちょっと困ったように眉を寄せて、はあっと大仰にため息をついた。
「多分……向こうが思っているより、アレンさまは――どうしようもなかったんだと思う」
ロバートはそう言って、とても残念なものを見る目をアレンに向けた。
「……え?」
毒気を抜かれて、エミリーは目を瞬いた。
「向こうとしてはさ、アレンさまがエミリーさまと強引に駆け落ちするとか、婚約を白紙に戻すよう働きかけるとかさ、そういう行動に出ることを期待したんだと思う。だがなー、うちの王子様、十代はじめくらいで精神年齢止まってるから、保護者がいないと、人生を決めるような大きな決断ができないんだよなー」
アレンが気まずそうな目をして、ロバートの視線から顔を背ける。
「アレンさまにとって、キリアの三年間は、奪われた子供時代のやり直しみたいなものだった。ルークが過労死しそうになって、ダニエルの胃に穴があきそうになって、トマスさまが怒り狂っていたが……そもそも自分たちがアレンさまを甘やかした結果だから、仕方がないと彼らも無理矢理自分に言い聞かせて納得している。そうだよな?」
「何が悲しくて他人の色恋沙汰の報告書書かねばならんかったのだろうと、今でも時々思いますよ。そういう時は、ものすっごい薄いコーヒー出してやったりして気を紛らわせてますね。……あ、夕食会無事終わりましたよ。ロバートさん、アイザックさまが酒持って来いって言ってるらしいです」
絶対零度の声音そう言って、厨房から戻って来たダニエルがパイナップルの乗った皿を丁寧にテーブルに置く。華やかな香りが辺りに漂った。
「……あれ、やっぱりわざとか」
アレンがぽつりとそう言った。