22 「がんばって会いにおいで」 その18
「……そうでしたね。あなた思い込みの激しさを甘く見ていました」
ルークが不思議な事を言っている。思い込みが激しいのはリリィお嬢さまの方だ。本人は絶対認めないだろうけれど。
そのまま手を引かれて、元のソファーに座るように促された。水の入ったコップを手渡される。料理で使った残りだろうか。贅沢にも氷の欠片が浮かんでいた。
「今日ものすごく機嫌が悪くなりましたよね。どうしてですか?」
「ヒューゴお兄さまが来て、ルークさまの悪口言ったからです」
コップを口元に運びながら、拗ねた子供のような顔をして答える。
「あんなもの悪口の内に入りません。リリィお嬢さまはわからないにしても、外を知っているあなたは違う。それが理由のすべてではないですよね」
にっこり笑ってそう返された。
「……ヒューゴお兄さま、異民族はルークさまにひっつくなって言う」
「その場合の異民族はあなたではなく私です。いつまでもお二人を子ども扱いするなということです。あなたは人の機微に聡い人だから、気付いていない筈がない。……誤魔化さずにちゃんと話してください」
「ルークさま帰って来てくれたから、もういいのです。厨房に戻らないと」
少しずつ水を飲みながら、ちらっと上目づかいでルークの表情を窺う。大丈夫。ルークは多分怒ってはいない。
水差しの横にコップを置きに行こうと立ち上がる。まだ仕事は終わっていないから、身だしなみを整えて戻らなければならない。そういえば、夕食もまだだった。一日が長い。
ルークが手を差し出すから、氷で冷やされたコップを手渡す。彼は水差しの横にコップを置いて、またソファーの前に戻って来る。左手を差し出されたから反射的に右手を乗せてしまう。氷で冷たくなった指先をあたたかな手が握る。お互い手袋をしていないから体温が直に感じられる。慣れない感覚に怯えて反射的に手を引こうとするが、当然抜けない。
「およめさんになって下さるんですよね?」
息を飲んで硬直する。じわじわと顔に熱が集まって来る。片手で口許を覆って俯く。そうしないと意味のわからない悲鳴を上げてしまいそうだ。恥ずかしくていたたまれない。もう少し他に言いようがあった気がする。およめさんって……およめさんにしてくださいって……
「よくロバートにそう言って迫ってましたよね?」
確かにロバートには何回か言った。でも、それには別の目的があったとルークだって知っている筈だ。
「あれは、だって、船に乗りたかったんですっ」
「知ってます。およめさんになれば船に乗せてやる。マストに登れるようになったら船に乗せてやる。料理洗濯掃除ができるようになったら船に乗せてやる。十七歳になったら船に乗せてやる。海賊と互角に渡り合えるようになったら船に乗せてやる……あと何かまだありましたっけ?」
「アレンさまと結婚したらお祝いに船に乗せてやる。でもこれはおじいさまに怒られたらしくて、すぐに撤回されました」
お嫁さんは無理だが、そのほかは概ね達成したと思う。まだ船には乗せてもらえていない……
「いい加減に乗せる気ないって気付きましょうか」
ぐっと言葉に詰まる。実はそんな気は少ししていた。でも、主張し続けて粘りに粘れば折れてくれるかもしれない。これからも努力し続けるつもりだ。……そろそろ手を離してもらえないだろうか。
「……海賊と互角に渡り合えるって、どんなくらいでしょう?」
「海賊もういないですから、そこは気にしなくていいです」
「じゃあ私はどうすればロバートの船に乗せてもらえるんでしょう?」
だんだん早口になっている。触れられている場所から、自分のものではない体温が血液を通して全身に広がってゆく。鼓動が早い。
「停泊している時なら乗せてくれると思いますよ。マストも登りたければどうぞ。屋敷の外壁よじ登れるあなたなら問題ないでしょうね」
「手……離して下さい」
縋るような目をして懇願してみる。
「いつも繋いでますよね」
「手袋してます」
「水仕事する時には濡れるので」
「……離して下さい~」
「嫌です」
ルークはきれいな笑顔でそう言った。右手はすっぽりとルークの手のひらのなかに包まれてしまう。温かい大きな手。手袋越しなら平気なのに直接体温に触れるのは怖い。剥き出しの心臓を撫ぜられているかのよう。
もう片方の指先がそっと頬に触れる。びくっと大きく体を震わせと宥めるように優しく涙を払われる。耳の中で自分の心臓の音が聞こえる。
「ちゃんと答えてくれたら、離してあげます」
「信用できません。ルークさま嘘つきだもん」
「そこはお互い様ですよね?」
「い、言いたくないぃ」
肌が敏感になっていて痛痒いような危うい感覚がある。
「嫌がることはしたくないので、早めに白状して下さいね」
ルークは目を眇めて恐ろしい事を言った。一瞬意識が遠くなりかけるが、そうそう都合よく意識は遮断されない。
「怖い?」
問われて何度も頷く。怖い。なんだかよくわからないけれどものすごく怖い。先程までとドキドキの種類が違う。確実に違う。背中に変な汗をかいている。
「ならいいです。いつまでも絶対に安全と思われてるよりはマシです。……ちゃんとお話しできますよね?」
首を横に振ってから顔を上げると、水色の瞳が思いがけず近い場所にあってたじろぐ。体を引こうとしたのにじっと見つめられただけで体が動かなくなった。追い詰められている。逃げ場のなかった昼間の恐怖を思い出し体が震える。かちゃんと鍵がかかる音が聞こえた気がした。
反射的に部屋のドアを確認してしまう。ドアは開け放たれていて、窓もあいているのに、どこにも逃げ場がない気がするのは何故だろう。右手はもう体温が馴染んでしまって違和感がない。どこまでが自分の手がわからない。
「髪……子供の頃もこれくらいでしたね。三つ編みにして水色のリボンを結んでいた」
頬に当てられていた手が離れて、髪をひと房手に取ると肩の辺りで絡まった部分を丁寧にほどいてゆく。そういえば寝る時に邪魔になるからとほどいてしまった。
今は腰に届くくらいまであるだろうか。少し伸びすぎたかもしれない、メイジーがまとめやすい長さに切ってもらわらないと……などと関係のない事を考えて気を紛らわせようとするが、指先が肩に少し触れるだけでひやりとする。
「相当なお転婆でしたよね」
「否定はしません」
ありとあらゆることはやった自覚はある。別荘では遊び相手が門衛と森番だった。伯爵家に来た当初は使用人だったから、先代がいない時は自由に外を遊び回っていた。
馬によじ登ろうとして御者とルークに止められ、木に登っておりられなくなっては園丁とルークに助け出され、使用人棟の屋根に登っては「この子をおよめさんにもらってくれるような人は現れるのかねぇ」と、おばあちゃんたちに呆れられた。
でも、リリアに名前が変わって、リリィお嬢さまの侍女になると決めた時から、ちゃんとお淑やかにすると決めた。
――伯爵家にマーガレットはいてはいけないから。
アヒルがクマになるように、全く別のものにならなければならないと思った。
「……あなたと『リリア』は、丁度コインの表と裏のような関係ですね」
ルークの言葉に首を傾げる。そうだろうか。深く考えたことはない。こうしなさい。ああしなさいと言われるままに振る舞うのは、息をするのと同じくらい簡単なことだったから。
リリィお嬢さまに言われるがまま演じていく内に、大人しく従順で物分かりの良いリリアという少女が出来上がった。……でも、『リリア』を演じながらいつも思ったのだ。
「多分、『リリア』はリリィお嬢さまが本来なるはずだった姿です。リリアはリリィお嬢さまからもらったものでできているから」
リリィお嬢さまは、自分がやりたいことしかできない可愛げのない人間だと思い込んでいるようなのだが、素直で優しくて表情豊かなとても可愛らしい人だ。一緒にいると幸せな気持ちになる。
「私が生まれたせいで伯爵家は何もかも失ったのに、リリィお嬢さまは自らの手許に残っていた僅かなものを全部、半分わけてくれました。母親も兄もお屋敷も百合の名前も。今『リリア』が持っているすべては本来はリリィお嬢さまのものです。……だから、いつか全部返さないと」
目を伏せて、ちいさな笑みを浮かべる。
「私も返却予定という訳ですか」
少し低くなったルークの声にはっと顔を上げる。ルークは困ったような顔で微笑んでいる。それに安堵して、思わず責めるような声が出た。
「……いじわるですっ」
「はいはい。……本当にここまで長かったんで、この程度は許されると思うんですけど。……およめさんになって下さるんでしょう?」
「ならないっ。ルークさまなんて、リリィお嬢さまと結婚すればいいんですっ」
そう言い放ってしまってから、可愛げのない台詞に急に怖くなって、再び俯いて唇を噛む。
居間で同じ言葉を言った時と今とでは状況が違う。何であんな事を言ってしまったんだろうと今更後悔する。場の空気を変えるための言葉なら他にも色々用意できたはずなのに。後でちゃんとイザベラとトマスには謝らないといけない。きっと呆れ顔で許してくれるけれど。
「そんなことにはなりませんから安心して下さい」
冷静な声が頭の上から落ちて来る。宥めるように優しく頭を撫ぜられる。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉をつぶやいて、俯いたまま体を離そうとするが、上手くいかない。手が握られたままだからか。そろそろ中途半端に腕を上げているのが辛い気がするので離してもらいないだろうか。もうだいぶ慣れたので許して欲しい。手を引き抜こうとするがやはり外れない。
ルークが仕方がないなという顔をして手を離してくれる。……が、今度は腕の中に閉じ込められた。
「……で、話を戻しますが、どうして今日不機嫌だったんですか?」
残念ながらまだ終わらないらしい。
今日のルークは怒っていないのに怖いし、いつにも増して意地悪だ。そろそろ元に戻ってくれないだろうか。
「……だって私、約束通り屋根登らなかったのに……」
本当に言いたくないのだ。きっと彼は自分を責める。気付かれないようにしないといけないのだが、上手く誤魔化せる自信はない。
「屋根に登るのは危ないので本当にやめて下さいね」
「登らないって約束した日から、一度も登っていません。木登りもしていません」
「……また随分昔の話ですね。私が入隊した頃でしたか。もう五年以上前ですよね。宿舎に帰ろうとしたら屋根に逃げられて、結局雨が降って寄宿舎に帰れなくなって、無断外泊でものすごく面倒なことに……」
優しく頭を撫ぜていた手が止まる。ルークも怒られたのか。それは大変申し訳ない事をした。
「私、ちゃんと約束守っていますよ?」
あの日から、約束通り、リリアとして立派な貴族の令嬢になるために精一杯がんばった。
(まただ……)
胸が痛い。思わず顔をしかめる。
マーガレットは庶子で、伯爵家が没落した原因で、だからこの伯爵家にいてはならない存在で。リリィお嬢さまが分けてくれた半分でできているリリアは、何もかも諦めてしまった彼女の代わりに、彼女が本来手にする筈だったものを集めてまとめて返さないといけなくて……だから……
だんだん指先から冷えてゆくから、慌ててルークにしがみ付く。この人に手が届けばそれで不安は消える。心臓の音を聞いていると安心する。ここにいてもいいのだと。
一瞬目を瞠ったルークは少し体を離した。怖いくらい真剣な目で見つめられる。
「追いかけてほしかった?」
からかう響きは全くなく、真摯にそう尋ねられた。
かぁっと頬が赤くなった。改めて声に出して言われると……幼稚すぎて恥ずかしい。
「どうせ子供っぽい理由ですっ」
「……子供」
茫然とした顔をして独り言のようにそう言うと、片手で顔を覆って、そのまま目を閉じて何か考え込むようにそのままルークは動かなくなってしまう。
「……ルークさま?」
あまりに動かないので、心配になって、目の前にあった袖をくいくいと引っ張る。のろのろと瞼が開くからほっとする。
「そういうことか……」
そう言って彼は自嘲するように笑った。
「雨が降りそうで、遠くで雷が鳴っていて……あなたは本当に楽しそうに踊るみたいに屋根の上を歩いていた。私が呼んでも気付かないふりをして、三階のベランダの屋根に飛び移ろうとしましたよね。心臓が止まるかと思ったんです。あなたが屋根から飛び降りようとした時。……私も相当頭に血が上っていた。だから売り言葉に買い言葉になって、何を言ったのかはっきり覚えていないんです」
そう言って、痛みを堪えるような顔をする。……やはり気付かれた。
「……いつまでも子供みたいな事をするなと。多分、そんなようなことを私はあなたに言った。だから、ですか」
そんな辛そうな顔を見たくなくて俯く。「こうなるから言いたくなかったんです」と呟いた言葉が、拗ねたような響きになってしまったのは許して欲しい。
ルークに子供みたいな事をするなと言われたあの日、自分を否定された気がして……盛大に拗ねた。
じゃあ、ずっと『リリア』でいればいいんでしょう? そんな風に思って意地になってしまったのだ。その頃からルークも忙しくなって、年に数度くらいしか会えなくなったことも悪い方に作用した。
完璧な令嬢になれば、絶対に伯爵家やリリィお嬢さまの役にも立てる。リリィお嬢さまがやりたくないことはリリアが引き受ければいい。もともとリリアはリリィお嬢さまの一部なのだから。そう自分に言い聞かせて全部正当化してしまった。
――得体の知れない女優の娘は、他人になり切るなんて簡単だった。
そうして気付いたら、伯爵家にはリリィという名前の長女が二人いるという事態に陥っていた。
「謝らないで下さいね。結局私は自分に自信がなくて、都合の良い言い訳にして逃げただけです。リリアでいると、何も考える必要がなくて楽だったんです。でもやっぱり私とリリアは性格が全然違うから無理があって……どこか遠くに行きたいな、船に乗って逃げちゃいたいなって、心のどこかでずーっと思ってたんです」
……落ち着いてちゃんと話せていることに、自分自身で驚く。
例の婚約者騒動が終わってからしばらくは、罪悪感と後悔に苛まれて本当にどうしていいのかわからず、ただ昔のようにルークにくっついていることしかできなかった。従順で大人しい少女を装っている内に、もうすっかり自分を見失ってしまっていたのだ。
ちいさな子供の頃のようにルークと一緒に厨房を手伝ったり、庭の手入れをしたり、掃除をしたりして過ごして、今の自分の形を少しずつ確認していった。
一カ月間かけて、この先自分が自分として生きてゆくのに必要のないものを捨てて、手放したものをもう一度拾い集めて、やっと一人で立てるようになったのに……
今日、一番会いたくない人が、伯爵家に現れてしまった。
「ヒューゴお兄さまは、私に『従順で大人しいリリア』であるように強要してくる人です。だから、ちょっとまた迷子になってしまいました。……不機嫌だったのはそのせいです」
そろそろと目を上げる。ルークはまだ悲しそうな目をしている。だから、精一杯の笑顔を作る。
「……お仕事に戻りましょう。厨房の方がどうなっているのか気になります。お腹も空いてきました。ルークさまは部屋の外へ出て下さい。ここ、私の部屋です」
「違いますからね」
ルークは小さくため息をつく。多分、色々言いたいことはあるのに、我慢してくれている。
「……あのね、もう、本当に大丈夫なんです。だから、ちゃんと名前を呼んで? 逃げたりしないから」
袖を掴んで、精一杯背伸びをして水色の目を覗き込んでお願いしてみる。ルークは少し驚いたような顔をした。
「……リリア」
ふわっといつものように優しく微笑んで、名前を呼んでもらえるのが嬉しくて、
「はい。何ですか?」
そう返事をしながら、自然と笑顔になる。
ちょっと特殊な生まれ方をしたガルトダット家の次女は、日々淑女を目指してがんばってはいるけれど、本当は使用人として働いている方が性に合っている。甘えん坊の末っ子で、周囲の人が言うには根に持つ性格らしい。最近少々暴力的になっていると兄たちに心配されている。……負けず嫌いで、ルークの言うことしか聞かない。
顔は似ていても、天真爛漫で可愛らしいの長女のリリィとは全然違う。……頑固で扱いにくい少女なのだ。
「髪をまとめたら、まず夕食をもらいに行きましょうか」
「残り物でも豪華ですよね! 楽しみです。スープがとても美味しいってメイジーが言っていたんですよ。残っていると良いですね。……はい、ルークさま外!」
ルークを部屋の外に追い出して、引き出しから櫛を取り出す。キースもだいぶ疲れているだろうから交代しないと。……まだまだ今日は終わらない。