21 「がんばって会いにおいで」 その17
足が震えている。
リリィはヒューゴの腕を離し、俯いて体を固くしていた。
涙が溢れそうになった時、ふと思ったのだ。何で怒られてるんだろう……と。
……イラっとした。
距離が近いと言われた。ではなぜリリィがヒューゴの腕を掴んでいるかといえば、従兄がリリィの制止を聞かずに、女性たちを恫喝しようとしたからだ。そして、この腕を離せば、間違いなくヒューゴは再び彼女たちに向き直り、怒りの感情のままに怒鳴りつけるだろう。だから手を離せないだけだ。
ヒューゴが冷静になってくれれば、今すぐ離す。距離も取る。
彼は先程リリィに黙れと言ったが……まずそっちが黙れ。
ヒューゴだって、女性たちに対して貴公子としてあるまじき態度ばかり取っているではないか。
なんでこの人、いつも自分のことは完全に棚に上げてリリィとリリアに対して文句を並べ立てるのか。
彼のルークに対するあの態度が許されるなら、リリィの生活態度だって許されてしかるべきだ。
昔からこの従兄は面倒だった。初対面でリリアを引きずってルークに喧嘩を売った。子供のやったことだからと片付けるには悪質すぎた。
……でも、リリィはあの時のヒューゴ少年の気持ちが理解できる。
恐らく彼は舞い上がってしまった。一見大人しくて従順で、何でも言うことを聞いてくれそうなリリアが可愛くて。
リリアを地面に引きずった頃には、ヒューゴ少年の頭の中は真っ白で、自分が何をやっているのかわからなくなっていただろう。『どうしようどうしよう』しかなかったに違いない。ルークを叩いたのは嫉妬と八つ当たりだ。
リリィだってそうだった。物語に出てくる優しい王子様のようなアレンを目の前にすると、心臓がどきどきして、もうどうしていいのかわからなくなった。何でこんなことを言っているのだろうと思っても、口からは可愛げのない言葉が飛び出し続ける。そうやって自分が作り出してしまった場の空気に耐えられなくなって、もう寝てしまえ! とテーブルに突っ伏して意識を無理矢理遮断した。そのくり返しで……アレンに嫌われた。
記憶から抹消してしまいたいくらいの恥ずかしい思い出は、糸で繋がっているかのように、次々記憶の表面部分にのぼってくる。
意地になって、可愛げのない態度を取り続けた。こんな風にしか接することのできない自分を理解して受け入れて欲しいと心の底でずっと願っていた。
……当然受け入れてもらえなくて、勝手に自分を否定されたような気になって、クッションに顔を埋めて泣いた。
リリアが婚約者に選ばれたと言われた時に浮かんだのは、『ああ、やっぱり第一印象は覆せないのだ』という言い訳だった。挽回する努力を何もしなかったくせに、全部その一言で片づけて、すべて投げ出した。そのしわ寄せはすべてリリアの方にいった。
(何でこんなこと、今思い出さなきゃいけないのよ!)
ヒューゴが伯爵家にやって来ると、リリアはものすごく機嫌が悪いし、リリィもふさぎ込む。
……そして恐らくヒューゴもこんな筈ではなかったと落ち込んでいるに違いないのだ。
リリィもアレンと別れた後に、自己嫌悪で泣いていたからわかる。
時間が巻き戻せるなら初対面からやり直したいと何度も思った。
でも、時間が戻らないなんて誰もが知っている。迷惑をかけられた側からすれば、そんな言葉聞きたくないだろう。
いつまでこの従兄は同じ事を繰り返すのだろう。
どうせこの後我に返って、悲痛な顔で頭を抱えるくせに!
(ヒューゴお兄さまなんて、毎回来る度に私に『だらしがない』だの『気品がないだの』言って私をこき下ろしてるじゃないっ あの女の人の言葉よりよっぽど傷付けられてきたわよっ)
リリィの心からすっかり怯えが消え失せる。
そっちが自分の行動を棚に上げるなら、こっちだって上げてやる。
色々あってリリィも疲れていた。そして満腹だった。人は誰でも、眠いと機嫌が悪くなる。
「……ヒューゴお兄さま、私、今日運河流れて疲れているの」
自分の声とは思えない低い声が出た。
「すごく怖い目にあったの。なのにお兄さま、私を労わる気持ち皆無よね? なんで私、被害者なのに怒られたのかしら」
ゆっくりと顔を上げる。据わった目をしたリリィを見て、ヒューゴは少し狼狽えた。
「そもそも、お兄さま、何しにここに来たの? 私に追い打ちかけにきたの? そんなに私のこときらい?」
ヒューゴの青い目をまっすぐに見つめながら、一歩詰め寄る。圧されるように彼は上体を反らした。
「今回の件で、私、何か怒られなきゃならない要素あった? あったなら今教えて」
ヒューゴが気まずそうな顔つきになる。何も思いつかないに決まっている。だって今回の件はリリィには全く落ち度がないのだから。
「……も……な…………た…………と、思う」
すいっと目を逸らして、壁を見つめながらヒューゴはちいさな声で言う。そうして、ちらっと横目でリリィの様子を窺った。
「……聞こえない」
リリィはヒューゴにさらに詰め寄った。ほとんど体が密着せんばかりになり、慌ててヒューゴが後ずさり距離を取った。
「だから近いんだ。離れなさいっ」
「聞こえないのよっ。近寄って欲しくないならはっきり喋って」
リリィとヒューゴはきっちり節度ある距離を取って睨み合う。ここで目を逸らしたら負けだ。
「……収拾つかなくなるから、誰かなんとかしてー」
トマスが目を閉じたまま投げやりに言った。
「もう疲れて何もやりたくないんですよね……」
「わたくしも、なんかもうなにもかもが面倒くさいのよね」
「トマスさまが当主なんだから、何とかするべきですよねー」
キースの言葉に、トマスは目を開けて嫌そうな顔をした。
「こういう時だけ、当主扱いするのやめてくれない? ってかさ、彼女たち連れて来たアイザックさまが何とかするべきだよね」
「応接間でロバートさんと酒盛りしてます。もうすでに迷惑な酔っ払いです」
「……一体何しに来たんだろうあの人たち。……ああ、もう、しょうがないなぁ。キース馬車用意するように言ってきて」
トマスが嫌々立ち上がる。無言で睨み合っているリリィとヒューゴの間をわざと通って、震えている四人の女性の元に歩み寄るとその場に片膝をついた。
リリィとヒューゴは思わずトマスの背中を目で追う。
恐る恐る顔を上げた女性たちは、きれいな笑みを浮かべるトマスを見て安堵した様子だった。
「お嬢さんたち立てる? 妹が意地悪言ってごめんね。病弱なせいでちょっと世間知らずな所があるんだよね。お嬢さまにはあちらの椅子に座ってもらおう。……メイジー果汁絞ったものでも持ってきてあげて」
「かしこまりました」
一礼してメイジーが出ていく。侍女たちが緑の瞳の令嬢を立ち上がらせると、ヒューゴとリリィから一番遠い場所にある椅子に座らせ、涙に濡れた顔を拭いた。
「わざわざ出向いてもらったのに、申し訳ない事をしたね。もうすぐ馬車の用意ができるから、少し待っていて?」
跪いて微笑むトマスを見て。令嬢の頬が真っ赤に染まる。ヒューゴの後に人当たりの良い兄が登場すれば、当然補正がかかるだろうなとリリィは思った。声がいつもより優しげなので多分狙ってやっている。そういえば、兄は女性に大変人気があるとリリアが言っていた。
「気分は悪くない? 大丈夫?」
「だ……だいじょう……ぶですわ」
「よかった」
最上級の笑みと共にそう言って立ち上がった兄を、令嬢がぽーっとした顔で見上げる。
リリィは兄からヒューゴに目を移し。二人を見比べてわざとらしくため息をついてやる。従兄の顔が引きつった。ついでに肩も竦めてやればよかった。
「もうすぐ飲み物が来るからね」
「……トマスさまは、噂通りお優しいですね」
ぽつり……と令嬢の口からそんな言葉が落ちる。
「どうだろう? 自分ではわからないな。でも、ヒューゴで怯えていたら、殿下は無理じゃないかなぁ……もっと怖いよ? 結局、アーサー殿下に逆らえなくて、来たくもないのにここに来たんでしょう? あの方は短気で癇癪持ちだからね」
「私は……でも……父がどうしてもと……」
躊躇うように彼女は俯いてちいさな声で呟く。
「その目の色だからね。祝福持ちも大変だね?」
はっと顔を上げて、彼女はとても驚いた顔をして小さく震えはじめた。優しく労わるような目をした兄を見つめたまま。
(ああ……そうか、祝福持ちか)
リリィはまじまじと彼女の横顔を見る。
緑色の目をした少女は祝福持ちと呼ばれる。真実かどうかはわからないが、緑の瞳の娘からのみ、『王家の色』を持つ子供が生まれてくると言われているからだ。……そんな訳はないだろうとリリィは密かに思っているが、そこは闇の中だ。
『エメラルドグリーンの瞳のふくよかな国王』と『緑色の瞳をした王妃』。
これももう今更変えることができない伝統なのだろう。だから、貴族たちは緑の目の娘を持とうと躍起になる。
かつてはそれこそ海外から攫ってくるなんてことが横行したらしい。遠縁の娘だなんだと誤魔化して、王家に嫁がせようとしたのだ。そこから純血主義が叫ばれるようになり……呪いのガルトダット伯爵家が一気に力を持つことになった。どれだけ異民族の血が入っても、茶色の目と髪とよく似た顔が生まれる呪いの家。色々誤魔化すためにさぞかし便利に使われたことだろう。
そうか。祝福持ちの彼女は生まれた時から王家に嫁ぐことが決まっているのか……。きっと、幼い頃からそう言い聞かされてきた。それ以外の道を示されることもなかった。
リリィは、たまたま好きになった人が王族だったというだけだ。自分の生い立ちに不満はない。かなり好き勝手やらせてもらってきた。確かに伯爵家は没落していたけれど、間違いなくあの緑色の目の女性より自由だった。
彼女のいう『みんな』とは、一体誰だったのだろう。もしかしたらリリィが想像していたより少ない数なのかもしれない。
「穏やかな気質なのは四番目かな。でも……まだ外見が子供だからね」
「私が並び立ったら母と子にしか見えません。……私だけがどんどん先に年を取るなんて耐えられません」
彼女の声が暗く沈んでゆく。確か第四王子は二十歳過ぎなのだが、外見年齢は十歳前後の子供なのだ。リリィも肖像画で見た。
(ころころとした大変可愛らしい……お子さんだったなぁ)
自分だけが先に年を取る。王宮で会った男性も、実年齢よりずっとずっと若く見えた。アーサーもそうだ。外見年齢だけならリリィとあまり変わらない。そうか。自分が先に老いてゆくのか。いつか親子のように見える日がくるのかもしれない。
(……まぁ、今考えるような話でもないか)
この先一緒にいられるかは、これからのがんばりにかかっている。ダメだった場合もう一生接点を持つこともない。気にするだけ無駄だ。
でも、王族に嫁ぐために磨き上げられた美しい彼女はきっと、自分が先に老いることが我慢ならないのだろう。それをここで思わず吐露してしまうくらいには。
「それ気にし出したら王族には嫁げないよ? ……後ろのお嬢さんたちもお家の人には内緒にしてあげてね。色々あって、ちょっと気持ちが弱くなっているだけだと思うから。……そうだね、うちの呪いのせいってことにでもしておいて。お願いできる?」
トマスが背後で不安そうな顔をしている侍女たちに微笑みかけた。彼女たちの頬も赤く染まる。あれは補正。あれは補正。とリリィは自らに言い聞かせた。
(まぁ、私のためにやってくれているんだろうけど)
……なんかすごく嫌だ。あんな兄。
「お待たせいたしました。……馬車の用意もできたようですよ」
メイジーがちいさな足つきグラスをお盆に乗せて持って戻って来る。華やかな香りがした。シロップ漬けの果物の果汁を炭酸水で割ったものだろう。果物もキリアから届いたものだ。
緑の目の令嬢は一口飲んで、「おいしい……」と呟く。
「ん、顔色も戻ったね。気を付けて帰ってね。……ここで見たのは全部呪いが見せた幻だよ? 誰にも言わないで? 僕も今日ここであなたに会った事は誰にも言わない。放蕩伯爵の息子と話したなんて、あなたの汚点になってしまうから」
彼女が飲み終わったグラスをそっと受け取ると、彼女の緑色の目をまっすぐに見つめて、トマスは目を細めて微笑んだ。はい……と、彼女はどことなく夢を見ているような様子で頷く。背後の侍女たちも頷く。兄は強引に幕引きを図っていた。……それこそ結婚詐欺師ができそうだった。
すっとトマスが手を差し出すと、彼女は頬を染めて恥ずかしそうにその手を取る。彼女の中で、今夜のことは美しい思い出となったに違いない。
(便利な言葉ね、放蕩伯爵の息子……)
……兄は多分、とても残酷なことをしている。
彼女はトマスに唆されて、気付かないふりをしていた不安を言葉にしてしまった。
トマスはそのまま彼女をエスコートして居間を出てゆく。侍女たちがその後に続く。あとは全員馬車に詰め込めんでしまえば終わりだ。
確かにトマスの社交の腕は見事だった。成程こうやってすべてうやむやにしていくのか。……お嫁さんが来ない訳だ。
全員で目の前を通り過ぎてゆく兄たちを見送る。ドアが閉まる。たっぷり十秒数えてから、ドアを見つめたままリリィは言った。
「……だから、誰?」
誰も答えを返してくれなかった。
しばらくして戻って来たトマスはいつものダメな兄に戻っていた。
「ちゃんと仕事した。これで文句ないよね。疲れた。もうやだ。もう寝る。応接間の方はルークに何とかしてもらう」
居間の扉付近の壁にだらしなく凭れている。本当に同一人物かと思うほどの豹変ぶりだ。
「応接間どうなっているの?」
イザベラが尋ねると、トマスはげんなりした顔つきになった。
「……ものすごく楽しそうでしたよ。もうダメだあの酔っ払いたち。多分一晩中飲むんじゃないですか? 例のお嬢さんは帰ってもらったと報告はしておきました。アイザックさまたち存在すら忘れてたみたいですよ。本当に何しに来たんだろう」
「……寝るわ。うるさそうだから離れた部屋使おうかしら」
イザベラはすっと立ち上がった。そしてメイジーを伴って居間から出ていく。
「僕も寝る。リリィは応接間に近付いちゃダメだからね。という訳でお疲れさま。ヒューゴは参加してきたら? 飲んで騒げば気晴らしになるよ、きっと」
壁から体を離すと、ひらひら手を振って去ってしまう。
「リリィも早く寝るんだよ」
そう言われた途端に、リリィは立っているのも辛い程の眠気に襲われた。
誘拐されて運河を流れたし、被害者なのにヒューゴには怒られた。エラとナトンはいなくなってエミリーは落ち込むし、意味の分からない夕食会で言語能力限界に挑戦させられるし、初対面の相手に喧嘩を売られて買ってみたら面倒なことになった。そしてヒューゴと睨み合った。
「もうやだ。もう疲れた。私も眠い」
ふわぁと生あくびをし始めたリリィを見て、ヒューゴはぎょっとした顔になる。居間にはもう二人しか残っていない。
「おい」
「そういえば、私病弱だった。……疲れた。寝る」
そうだったそうだった思い出した。ガルトダット家の双子は病弱なのだ。瞼が重い。くらっと体が大きく傾いだ。
「立ったまま寝るなっ」
焦ったようにヒューゴがリリィの背中を支える。足にもう力が入らない。あれだけ離れろ離れろと言っていたのに、青い瞳が随分近くにあるなぁと思う。こうしてみると結構綺麗なのに勿体ない。
「リリィ? おい、大丈夫か? おいっ」
意識が急速に眠りに引き込まれる。ヒューゴの声が遠い。あ、なんか久しぶりだなこの感覚。そんな事を思ったのが最後。一瞬にして目の前が真っ暗になった。