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20 「がんばって会いにおいで」 その16


 リリィお嬢さまがルークを半ば引きずるようして食堂から連れ出すと、リリアは恐る恐る顔から手を離す。真っ赤な頬に手を当てて、しばらく落ち着きなく瞳を揺らしていた。

 自分は一体、何を言ったんだろう。思い出そうとすると……意識が遠くなる。


「……忘れて下さい。お願いします」


 そろそろと首を動かして、茫然とした顔でエミリーとジェシカを見上げる。


「え…と、はい」


 曖昧に微笑んで二人は頷いた。


「……は、恥ずかしい……」


 両手で心臓を押さえながら、ぎゅっと一度固く目を閉じる。顔に再び熱が集まって来る。鼓動が早い。


「……リリアさま大丈夫ですか?」


「……このまま消えてしまいたい……」


 ジェシカの問い掛けに、俯いたままちいさな声で答えるのが精一杯だ。


「お、夕食会参加組は行ったか。じゃあ、こっちも飯にするぞ……って、リリアさまどうした?」


 皿覆いを乗せた盆を持って食堂に入って来たロバートは、エミリーたちの前で俯いて震えているリリアを見て、にやっと笑う。そして、立ち尽くしていた一同を見渡した。


「面白いもん見えたろ?」


「……えっと……面白いというか……」


 リリアはエミリーを涙目で見上げ、何も言わないで欲しいと訴える。エミリーが両手で口を押えて何度も頷いてくれた。


「ゆ……夕食会の準備、手伝って来ます」


 厨房は今本当に忙しい。手伝いに戻らなくては。多分、向こうに戻れば忙しさで全部忘れられる筈だ。今は忘れなければ。忘れなければ……


「お仕事……してきます」


「転ぶなよー」


 背後からロバートの声がした。


「リリアさま、前見て前っ」


 食堂に入って来たダニエルが、見事な運動神経で下を見たまま速足で歩くリリアを避けた。アレンと同じ儀礼服姿だ。

 夕食会には高位の貴族が来ている。ダニエルとアレンが夕食会に参加することないが、廊下ですれ違った際に見咎められないようにということだろう。ロバートもテールコートを着ている。


「すみませんっ」


 ダニエルが持つ皿覆いが乗ったお盆を見た瞬間に、リリアの意識は切り替わった。


「料理の方は? 間に合っていますか?」


「正直ギリギリですね。……あ、リリアさま、その姿で絶対に廊下に出ないでほしいとキリアルトさんが言っていましたよ」


 リリアはメイド姿の自分を見下ろした。さすがに外部の人間に見られる訳にはいかない。食堂は厨房と中で繋がっているから廊下に出る必要はないが、気を付けるにこしたことはない。


「わかりました」


 足早に厨房に戻り、熱気の中に突入する。公爵家から来たキッチンメイドたちがきびきびと働いている。ポールの歌が響き渡る。おばあちゃんたちの姿がない。コナーが半泣きの目でリリアを手招いている。


「リリアさま、すみませんこっちです」


「おばあちゃんたちは?」


「隣の部屋でデザートとアイスクリーム作ってもらってます。リリアさまはこっちで盛り付けの手伝いお願いします。本当にすみません」


 公爵家からお手伝いの人が来ても、結局リリアも主力であることには違いないようだった。手を洗って慌てて調理台の端に駆け寄る。


「これ、ソースを直接食材にはかけないで下さい。そういう趣向なんだそうです」


 何故? と思ったが、疑問を抱いている余裕はなさそうだ。コナーに言われるがままに、皿に絵を描くようにソースを落とす。その横にコナーが料理を配置してゆく。

 目の回るような忙しさだ。夕食会用に同じ皿を八つずつ作る。エミリーたちの分の料理は大皿のまま皿覆いが乗せられ、ダニエルによって食堂に運ばれてゆく。


「ワイングラス足りなくなりそう。洗うから木のバケツにお湯入れて。どんだけ飲む気だあの人たち」


 キースがワイングラスを両手に持って駆け込んでくる。


「服が濡れるからダメですよ。やっておくので料理運んで下さい」


 リリアが目も上げずにそう答えた。


「洗い場まで運んどく。割るなよ」


「割りませんよ。これ終わったらやります」


「ねぇ、あと何品?」


「聞くと心折れますよ」


 キースが半笑いで尋ねると、コナーが手を動かしながら真顔で答えた。


「じゃあいいー。聞かないー」


 リリアが完成させた皿を引っ掴むと、キースは足早に去って行った。

 次の料理はまだ完成していないようだ。キッチンメイドたちの間をすり抜けて洗い場に向かう。コックが座って魚の下処理をしていた。彼女はリリアの姿を見て目を輝かせる。……なんだかとても嫌な予感がした。


「リリアさま、ソース用の牡蠣の殻剥くの手伝って欲しいんですけど。グローブとナイフそこ」


「……先にワイングラス洗わせて下さい」


 山積みされている殻付きの牡蠣からリリアは思わず目を逸らした。




 体が重い。疲れた足を引きずるようにしてリリアは使用人棟に向かっていた。エプロンが汚れたので、自分の部屋に戻って新しいのに変えないといけない。


 夕食会は特に大きな問題が起こることなく無事に終了した。洗い物も大方片付けた。あとは応接間で酒盛りをしている人たちが酔い潰れれば全部終わりだと、キースが言っていた。

 今の内に少し体を休めておくようにと厨房を追い出されたのだ。


 容赦なくこき使われた。牡蠣は……もうしばらく見たくない。ほとんど一人で全部剥いた。

 気温の差で、耳がポーンとしている。熱気が籠った厨房にいたせいで、汗が引いて少し肌寒い。

 目の前に、昔リリアが掃き清めていた階段が聳え立っている。あんなに段数多かっただろうか……のぼるのがものすごく面倒臭い。一番下の段に座って、手すりに凭れる。


 マーガレットが階段掃除をしている間、リリィお嬢さまはこうやって座って本を読んでいた。もう眠い。そのまま目を閉じる。

 少し……ほんの少し休んだら階段をのぼるから……そんな事を考えていると、ふわりと体が持ち上げられた。いつもより高い体温を感じる。あたたかい。なんだか安心してしまって、リリアは体の力を抜いてしまう。……良かった。階段を自分の足でのぼらなくて済んだ。


「……眠いです。でも着替えなくちゃ。お部屋に戻って着替えて……少し休んだらお手伝いに戻らないと……でも、もう牡蠣は見たくない……」


 そのままどこかに運ばれる。ソファーの上に降ろされてゆっくり目を開ける。ああ、自分の部屋かと思う。本当に眠い。でもこのまま寝るとピンが頭に刺さる。キャップを外して、髪を留めているピンを外す。肩に髪が落ちる。濡れたエプロンも外してソファーの背もたれにかける。


「おやすみなさい」


 三人掛けのソファーの上で丸くなる。


「リリアさま?」


 遠くで声がする。……起さないで欲しい。今はすごく眠いから。むずがるようにリリアは首を横に振った。


「ここがいい」


「一時間後には起こしますよ?」


 小さく頷くと、頭を撫ぜられて額にキスが落とされる。


「……おやすみ」


 ルークの声も眠たそうだ。甘くて優しい。そっとブランケットをかけてくれる。幸せだなとふふっと笑う。だから全部後回し。……本当にもう牡蠣は見たくないのだ。

 




 空は晴れているのに遠くで雷が鳴っている。ここからは色々なものが見える。灰色の街並みの上に圧し掛かる黒い雲の中に細い光が走る。ああ綺麗だなと思う。もうすぐ雷はこちらに近付いてくるのだろう。ゆっくりと立ち上がる。

 薄青い空に白い三日月が浮かんでいる。手を伸ばせば届くだろうか。両手を横に広げて、屋根の上を歩く。滑り落ちたら怪我では済まないだろうなとは思う。……そんなへまはしないけれど。口元に笑みが浮かぶ。ざあっと木々が揺れて風が舞い上がる。結んでいない髪がふわりと宙に舞う。このまままっすぐ進めば、使用人棟の屋根に飛び移れるだろうか。


「リリアさまっ」


 背後から焦った声が風に運ばれてくるけれど振り返らない。

 屋根の縁から地上覗く。もう少し先に行けば、三階の客間のベランダの屋根に降りられそうだ。


「危ないからやめて下さいっ」


 リリアが何をやろうとしているのか気付いたルークが慌てて叫ぶ。屋根の縁ギリギリに立つ。このまま空が飛べそうだなと思う。生暖かい風が頬に当たる。きっともうすぐ雨が降るのだ。雷が近付いてきている。遠くの空が一瞬光る。それに気を取られた瞬間に屋根の縁から引き離される。


「あーあ、つかまっちゃいました」


 背中から倒れ込みながら、ふふっとリリアはちいさく笑う。


「使用人棟の屋根に逃げればよかった」


 背中から強く抱きしめられる。無事を確認するように。


「……雨が降る前に降りますよ」


 感情をすべて押し殺した冷たい声でルークが言う。


「ルークお兄さま、お月様がきれいですよ。だからもう少しここにいるの」


 白い月に向かって手を伸ばす。その手も掴まれるから、仰向いて無言で抗議する。眼鏡が邪魔だなと思う。


「雷が鳴っています。部屋に戻りましょう」


「いや」


「リリア!」


 強く名前を呼ばれて、肩を震わせる。


「雨も雷もまだずっと遠いから大丈夫ですよ?」


 顔を戻して、見える限り遠くに視線を投げる。黒い雲は先程より近付いてきている気がする。灰色の空が光る。「きれいですねぇ」のんびりとした声で言うと、拘束する力が強くなった。


「中でも見えます。……一体どうやって登ったんですか」


 わきあがる感情を必死に抑え込もうとしているような、掠れた声だ。感情のままに怒鳴りつけたいのだろうなと思う。でもそうすると……リリアが過去を思い出してしまうから。ルークは絶対二人に対して声を荒らげたりしない。


「言うと対策を取られるから言いません」


 この辺りの空はまだ青いのに頭の上に雫が落ちる。乾いた屋根を雨が叩く音。天気雨だ。


「雨……」


 嬉しそうに笑うリリアをルークは強引に抱き上げる。三階の客間のバルコニーに梯子が立てかけられている。園丁が心配そうな顔で、屋根を見上げていた。


「おろします」


 ルークが声をかけると、園丁が梯子を押さえる。渋々リリアは梯子を下りた。雨が強くなってきている。そのまま逃げようとしたのに、園丁に捕まってしまった。


「おじいちゃん離して」


「ルークさまがおりてきたらな。まったく……寿命が縮む」


 園丁は呆れ顔だ。


「長生きしてね」


「それはリリアさま次第だなぁ……本当に屋根はやめてくれ」


 園丁は梯子を片手で押さえながら、片腕をリリアの腹部に回して逃げられないように拘束している。


「ルークさま、御者が馬車の準備をしていたけど、どうします?」


「……雨が降って来たので、今日戻るのは諦めます」


 梯子を下りたルークが、すべて感情を消した顔で答える。その途端嬉しそうな顔つきになったリリアを見て園丁は苦笑した。三人で室内に入ると、彼はリリアを離してルークの方に背中を押す。


「リリアさまの祈りが天に通じたな。……御者には私から伝えておくよ」


「すみません。お願いします」


 ルークは長いため息をついた。その肩を軽く叩いてから、梯子を持って園丁は部屋を出て行ってしまう。彼にとってはルークも孫だ。


 左手を差し出されるから躊躇いなくリリアはその手を取る。ルークはベランダへ続く窓の鍵をかけてしまう。


「追いかけっこはおしまいです。部屋に戻りますよ。髪が濡れています。本当にどうやって屋根に上がったんですか?」


 眼鏡越しに水色の瞳がまっすぐにリリアを見つめている。


「ベランダの手すりに上って、隣の階段の窓枠に足をかけると、外壁のレリーフ……」


「二度とやらないと今ここで約束して下さい」


 リリアが最後まで言う前に、右手で肩を掴まれる。痛みに顔をしかめると力が緩んだ。ルークは怖いくらい真剣な目をしていた。やっぱり壁をよじのぼるのはよくないようだ。外からは見えない場所なので、外の人間に見られる心配はないのに。


「大丈夫ですよ。捕まるところは沢山あるので、落ちたりなんてしない」


「自己過信はやめて下さい。落ちたら怪我では済まない」


「次からはちゃんと梯子でのぼります」


 仕方がないのでリリアは妥協案を提示した。高い場所は好きだ。息が楽にできる気がするから。流れてゆく雲を見ていると、嫌なことも全部忘れられる。


「今後絶対に屋根にのぼらないで下さい。木登りも禁止です」


「いやです。マストに登れそうなら船に乗せてやってもいいってロバートは言ってたから、練習しないと」


 ふわりと笑って、リリアは窓の外に視線を逃がす。窓の外が暗くなっている。間もなく白い三日月は厚い雲の向こう側に隠れてしまうだろう。雷の音が近付いてきている。


「それに、普通に逃げたらルークお兄さまにすぐに捕まってしまいます」


「ベランダを飛び移ったり、外壁をのぼったりするなら、もう絶対に追いかけません。いつまでも小さな子供の頃のような事をされては困ります」


 一息に言い切ったルークの目が冷たくて、リリアは悲しくなる。


「……わかりました。もうしません」


 しゅんと肩を落として、目を閉じて小さく息を吐く。体を引くと肩から手が離れる。繋いだ手も離れる。胸が痛くてうまく息ができない。


「もう木登りもしないし、屋根にものぼりません。ご迷惑をかけないようにします。ヒューゴお兄さまの言うように立派な令嬢になります……」


 伸ばそうとしていた手をルークは躊躇うように止める。白い軍服はきらい。眼鏡もきらい。大好きな人を別の人にしてしまう。


「ずっと雨が降ればいいのに。そうしたらルークお兄さま帰らないでしょう? 御者が濡れるからって」


 窓の外は気付けば灰色で、叩きつけるような激しい雨が降っている。


 ――ずっと、ずーっと雨が降っていればいいのに。


 窓の外を見ながら、祈るようにそう思った。


 目を開けると視界が滲んでいる。

 体を起こすと、ぽろぽろと涙が頬を零れ落ちた。どうして悲しいのだろう。胸が痛くて苦しい。昔の夢を見ていた気がする。

 ぼーっと座っていると、ノックの音と共に扉が開いた。


「……ああ、起きたんですね? 部屋に戻って着替えますか?」


「私の部屋、ここです」


 涙を拭って、ぼんやりと答える。水差しを持って部屋に入って来たルークは洗面器に水を移していたが、リリアの言葉に引っかかりを感じたのか、手を止めて振り返った。


「違いますからね。寝ぼけてますか?」


「ここですよ?」


 リリアは水色の瞳を見ながら首を傾げる。


「リリアさまのお部屋はリリィお嬢さまのお隣ですよね?」


「あそこは寝るための部屋です。ここが私の部屋です。ここは空がきれいに見えるから好きです」


 ここは昔四人部屋だったから、四人分のベッドが置いてある。

 ルークが寝ているベッド以外は床板が剥き出しで物置状態になっていた。一ヶ月振りくらいに入るが、ルークが戻って来てから物がだいぶ増えたなという印象だ。


「……ちょっと待ってくださいね。主たる所有者はご自分であるという認識ですか?」


 水差しを置いて、ルークがソファーに歩み寄る。


「違います。でも、私の部屋ですよ?」


 二人はしばらく黙って見つめ合った。


「私があなたの部屋を不当に占拠していると?」


「違います。ここはルークさまのお部屋です。……でも、私の部屋でもありますよね? 私の物が置いてあるから」


 一番窓に近いベッドの上には、昔ロバートにもらったぬいぐるみや本などリリアの私物が置いてある。リリィの私物も多少ある。幼い頃二人はここに入り浸っていたからだ。


「子供の頃のものばかりですよね? 昔から置きっぱなしですよね。物置替わりに置いているだけですよね?」


 確かに、寝起きするのはリリィの隣の部屋なので、普段着るドレスなどは全部そちらに置いてある。物置といえば確かにそうだ。でも、ルークは半年に一度くらいしか帰ってこなかったから、たまに時間が空いた時などに、風を通すついでに、本を読んだり、ソファーで昼寝をしたりはしていた。だからリリアにしてみれば、ここは自分の部屋という認識だ。

 不思議そうな顔で見上げてくるリリアを見て、ルークは少し考え込んだ。


「……いつから?」


「小さい頃から」


 当然のようにそう答える。

 まだ先代が生きていた頃から、ルークにはこの部屋が与えられていた。先代がおかしな行動を取り始めると、階段で本を読んでいたリリィと掃除をしていたマーガレットは、ルークによってこの部屋に隠されたのだ。

 マーガレットがリリアと名前を変えた後も、幼い二人は当然のようにここに遊びに来ていた。先程までリリアが眠っていたソファーは元々幼い二人の少女のためのものだった。今はリリアの昼寝用のソファーだ。


「……ここ一か月間、どうしていたんですか? 私が不在の時は鍵をかけてあったはずですが」


「エミリーさんたちがいたのでメイド服着る機会なかったし、大したものは置いていないので特に問題はなかったですよ? でも、替えのエプロンとかはこっちに置いてあるので」


 そう言って、リリアはソファーから立ちあがると、私物が置いてあるベッドの横にある、()()()タンスの引き出しを開けて白いエプロンを取り出す。


「ほら、だからここ、私の部屋ですよ」


 そう言って、リリアはにっこり笑った。


「……リリアさま」


 ルークはリリアの目の前まで歩いて来ると、彼女の両肩に手を置いて真顔で言った。


「この手の認識の相違が大量にある気がします」

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