138 王子様たちの逡巡 その4
馬車が停止する。隣に座る青年から一瞥されたダニエルがいかにも渋々といった様子でドアを開けた。
二人とも周囲を警戒している様子はない。危険はないということだろうか。
――街灯にぼんやりと照らされた石畳の道の向こう側に、巨大な鉄製の柵が聳え立っていた。
ため息をついて馬車をおりたダニエルは、道を半分程横断した辺りで引き返してくると、「残念ながら門、閉まってます。門番の姿もありません」と、全くやる気が感じられない声で報告する。さもあらん。と言いたげな顔で青年とイザベラが頷いた。クインに凭れ掛かった海賊の少女は眠たくなってきたのか、しきりに欠伸をしている。
「夜だしね」
「開いているわけがないわよね」
「結婚許可書を手に入れるまで、ここから先には進めません。メモにそう書いてありました。……どうします?」
「門が閉まってるなら大聖堂も登記所も閉まってるだろうし、中の人もう寝てるだろうし無理なんじゃないかな?」
ダニエルよりさらにやる気の感じられない声で黒髪の青年がそう返すと、
「結婚許可書って、結婚予定の二人が揃ってないと手に入らないものだったと思うのだけれど……」
イザベラが頬に片手をあてて、困惑しきった表情で横から口を挟む。
「誰と誰の結婚許可書をもらってこいという話なのかしらね?」
「クインさまとヒューゴさまですかね?」
全員の視線がクインに集まる。海賊の少女以外の全員が今回もやはり『なんか変な顔』をしていた。
「だったらヒューゴを一緒に連れてこないと意味がないわよ?」
「……だ、そうですけど、どうします?」
「どうしますって、結婚許可書もらうまで動けないなら、盗んででも手に入れるしかないよね。ダニエルさっさと行っておいで」
青年は腕組みをして壁に寄りかかると、我関せずといった表情で目を閉じてしまった。
「……盗んで来いと?」
「僕に盗みに行けとでも?」
「門乗り越えて、中の人起こして対応してもらうって方法もあると思うんですよね」
「そう思うなら行っておいで」
青年は薄目を開けて、とても感じよく微笑んでみせた。物語の中に登場する理想の王子様のように。
「暗殺疑われるので絶対に嫌です。わかりやすい見た目をしている王子様が行ってきてくださ……」
「馬車か近付いて来るみたいだけど?」
再び目を閉じた青年が一段低い声で呟く。何か音がする……そうクインが気付いた数秒後には、ダニエルの背後をけたたましい音を立てながら黒塗りの箱馬車が猛スピードで駆け抜けていった。
「ここで待ち合わせだったようだね。……門、開くんじゃない?」
暴走気味だった馬車は少し離れた場所で停車したようだ。辺りに静けさが戻ってくる。
「……もしヒューゴさまが乗ってたら、あそこまで乱暴な走り方はできませんよね」
馬車が走り去った方向に、ダニエルが生ぬるい視線を向けた。
「三日は寝込むだろうね」
「成人の儀どころの話ではなくなるわね」
青年とイザベラの声をかき消すように、金属が軋む音が聞こえはじめる。誰かが門を開けているのだ。
「そうなると……門の中に入れたとしても、結婚許可書はもらえないですね」
諦めきった表情でダニエルは馬車に乗り込みドアを閉めた。ゆっくりと走り出した馬車は左折した後再び停止する。ノックの音がして今度は外側からドアが開いた。クインの肩にもたれてうとうとしていた少女が、目を擦りながら体を起こす。
「ここで一旦降りていただきます。こちらの馬車は囮としてこのまま出発します。追っ手が迫っておりますので、どうかお急ぎください」
声を潜めて早口でそう言ったのは、鏡の間で見事な歌劇を演じていた女性……ではなく、全く同じドレスを着た全くの別人だった。彼女よりずっと背が高く声も低い。女装した男性ということで間違いなさそうだ。
急かされるまま、ドアに近い位置に座った順に馬車をおりる。袋詰め状態で身動きの取れないクインは、黒髪の青年にひょいっと持ち上げられ、ドアの外で待っていたダニエルに、積み荷のように手渡された。
ダニエルに抱えられたまま、首を動かせる範囲で周りを見渡す。等間隔で柱が並ぶ列柱廊が巨大な広場を取り囲んでいた。……ここが大聖堂なのだろうか。柱の感じからして随分昔につくられた建造物のようだ。
クインのすぐ目の前に、全く同じ外観の箱馬車が三台並んで停車している。夜闇の中では、馬の毛色もはっきりとはわからない。一斉に並んで走り出したらきっとあっという間に見分けがつかなくなるだろう。
外の空気に触れてすっかり目が覚めたのか、海賊の少女は「んーっ」と大きく伸びをしている。
柱の陰に身を隠すようにしながら、イザベラは外套と帽子を脱いで、イブニングドレス姿の男性に手渡していた。
「持ち手に赤いリボンがついているトランク以外、中身は全部不用品よ」
「承知いたしました。お預かりいたします。このまま左手側にお進みください。三つ目部屋で司教さまがお待ちです」
受け取った外套をさっと羽織り帽子を深めに被ると、彼は慌ただしく真ん中の馬車に乗り込んだ。三台の馬車は同時に走り出し、まるで競争しているかのように追い抜いたり追い抜かれたりを繰り返し始める。そして、門の外に出たところで、左右と正面に別れて走り去った。
左右正面、どの方向に向かった馬車にイザベラに扮した男性が乗っているのか……目で追うことを早々に諦めたクインには、さっぱりわからなかった。
「不許可。……犯罪です」
簡素で清潔な室内には、部屋の中には合計四脚の木の椅子と、正方形の小さなテーブルがひとつ置かれているだけだ。
雪のように白い髪と、柘榴のシロップのような赤い目をした司教は、慈悲深い微笑みと共に耳に心地いい柔らかな声で言い切った。祭服が汚れることも厭わず、クインの前に両ひざをつくと、それはもう麗しく微笑んだ。
「お嬢さん、もう少し心と体が大人になってからおいで」
袋の中で手を祈りの形に組んだまま、クインはのぼせ上ったかのようにその場でぽーっと立ち尽くしてしまう。
「はい、じゃあ、ダニエルにつかまってくれるかな? それで、目とお口しっかりを閉じておこうね? 今から下に落ちるからね。落下まで五秒。ご……よん……」
「はああ? ちょっと待って下さい」
ダニエルが焦った様子で、クインを横抱きに抱え上げる。クインは訳も分からないまま、言われるままにダニエルの首にしがみついて目を閉じた。五秒しか与えられていないため、考えている時間はない。
「さん……に……いち……ゼロ!」
バンっという音がして床が消え去る。予告通り体が落下しはじめる。すうっとおへその下辺りが冷えた。
「え、ええええ、クイン?」
頭上からイザベラの声が振ってくる。何が起こったのか理解する前に、軽い衝撃と共に体が宙に浮き上がる。そしてまたすぐに落下……
ああこれは、幼い頃ベッドで飛び跳ねて遊んだ時の感覚に似ているなとクインはぼんやりと思った。
「クインさま、クインさまっ」
肩を揺すられて、ゆっくりと目を開ける。気が付けばクインは宙に張られたネットの上でダニエルを下敷きにして横向きに寝転がっていた。どうやらしばらくの間茫然自失状態になっていたらしい。
「大丈夫ですかっ。どこか変にひねったりはしていませんかっ」
身を挺してクインを庇ったダニエルが焦った様子で身を起こす。彼の首にしがみついたままのクインの体も当然一緒に起き上がることになる。
「だ、だだだだだ大丈夫クインっ」
「おひめさまっ、おひめさまーっ」
頭上に開いた四角い穴から、海賊の少女とイザベラが身を乗り出して必死に呼びかけているが、クインは返事ができるような状態ではなかった。頭の中は真っ白だ。のろのろと顔を仰向けにしてイザベラたちを見上げることしかできない……
「お姫様、今助けに行くから待ってて!」
「危ないから飛び降りるのはダメよ!」
穴から飛び降りようとする海賊の少女を、イザベラが抱きしめて必死に止めている。
「怪我をするような高さじゃないから大丈夫。ちょっとびっくりしたかもしれないけど、予告もしておいたからね」
おっとりとした口調でそう言った赤い目の司教は全く悪びれる様子がない。確かに落ちると予告されはしたが、それで心の準備がしっかりできたかと言われると、そういうことは全くなかった……心臓が止まるかと思った! 今更ながらに全身に震えがくる。
「……大丈夫か大丈夫じゃないかは、落とした側ではなく、落とされた側が決めることだと思うのですが」
それはまさに地の底から響いてくるような声だった。クインはのろのろと視線を横に動かす。俯いているため表情は見えないが、片膝を立てて座っている青年の周囲だけが一際暗い。まさに闇が凝縮されているような感じだ。
ダニエルがひいっというような微かな悲鳴をあげて、慌てて顔を背ける。
「私に対する嫌がらせなら、私一人落とせば済む話ですよね?」
「楽しんでもらいたかったんだけなんだけどね」
「いきなり落とされて楽しいって言った人間いましたか?」
「私はすごく楽しかったから、みんなにも楽しんでほしいと思ったんだ」
「ちいさな女の子怖がらせて楽しいですか?」
「君だって、ちいさな女の子毎回泣かしているよね……楽しい?」
しゃがんで床に開いた穴を覗き込みながら、司教はにーっこりと笑いかけた。
「…………さむっ」
ダニエルが思わずといった感じで呟いて、身を震わせる。季節外れの冷たい風が首筋に触れた気がして、クインも思わず身を竦めた。
「君たちには不評だったけれど、次々お客さん来るみたいだから、どんどん落として反応を確かめてみるよ。一人くらいは心から楽しんでくれるかもしれない」
「結婚許可書取りに来て穴に落とされるって、意味がわかりません!」
「なかなか面白かったでしょう?」
「いいえ、全く!」
「その言い方、キースにそっくりだね。大丈夫。二回目はきっと楽しめると思うよ」
高い場所にいる司教はくすくすと肩を揺らして楽しそうに笑っている。
「……え、次もまた落とされるんですか?」
ダニエルの顔からすべての表情が抜け落ちる。司教は微笑みを浮かべているだけで何も答えない。
カタカタカタ……と、歯車が軋みながら回る音がしはじめる。穴の両脇に垂れ下がって揺れていた床板が、両開きの窓の戸が閉まるかのようにゆっくりと持ち上がってゆくのが確認できた。
「クインーっ」
「おひめさまーっ」
どんどん縦長になってゆく穴の向こう側から、悲鳴のような声が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと待ってください、せめて、次落とされないためにどうすればいいのか教えてくださいよ」
必死の形相でダニエルが上に向かって問いかける。しかし――
「落としたいから、教えない」
僅かな隙間から返って来たのは、あまりにも無情な一言だった。