137 王子様たちの逡巡 その3
「……え? お姫様大丈夫?」
顔色を失ったクインを心配そうに少女が見つめてくる。辛うじて「大丈夫、です」と答えたクインの横では、イザベラが難しい顔をして考え込んでいた。
「ヒューゴに関しては、北の海で泳ぎの特訓をするだけだと聞いていたのよね。ウォルターも一緒だし、そのくらいなら大したことないと思ったのだけれど……」
そこで一旦言葉を切ると、片手を頬にあてて、ほうっと悩まし気なため息をつく。
「そうね………ヒューゴが船酔いすることをすっかり忘れていたわね……」
……違う。問題はそこではない。
クインは袋の中の両手をぎゅっと胸の前で握って、真っ青な顔で何度も首を横に振る。
ダンスの練習の後にイザベラは、塩水で頭を冷やしてきてもらいましょうと言っていたが、泳ぎの特訓をするにせよ、頭を冷やすにせよ、オーロラが輝く北の海である必要は全くないはずだ。
「でも、大丈夫よ! クイン」
イザベラはクインの両肩に手を置いて、心の中の不安を振り払おうとするように、きっぱりと笑顔で言い切った。表情から翳りが消えて再び瞳にきらめく宝石のような輝きが戻ってゆく……
「ヒューゴには医者であるウォルターがついているし、お城の舞踏会に行っている人たちのことは優秀な執事さんが全部まとめて何とかしてくれます。わたくしたちは余計なことは考えずに思う存分船旅を楽しみましょうね」
清々しいまでにきっぱりと言い切ったイザベラを、クインは呆然と見つめた。それでいいのだろうかという疑問が胸の中で渦を巻いているが、久しぶりの旅行に胸を高鳴らせている様子のイザベラを前にすると、楽しい気分に水を差すのは申し訳ない気がして何も言えなくなってしまう。……どうしよう。
「大丈夫! 旅行から戻ってくる頃には、泥だらけになった屋敷も穴だらけになった庭もすべて全部元通りになっているわ!」
……その大丈夫という言葉が、一番不安。
今日一日色々あったせいで、クインは気付いてしまった。
ガルトダット伯爵家の人々の『大丈夫』をそのまま鵜呑みにしてはいけない。頭に『きっと』をつけるくらいで丁度いいのだと。
以前、壁に激突したヒューゴの様子を見に行ったリリアが言っていたではないか。『普通に動いていましたから、大丈夫です』と。つまり、ガルトダット伯爵家における『大丈夫』か『大丈夫でないか』の基準はそこなのだ。
壁に頭をぶつけても、普通に動いていれば大丈夫。
多少怪我しても、普通に動いていれば大丈夫。
極寒の海に放り込まれても、普通に動いていれば大丈夫。心配いらない気にしない。
それこそ色々積み重なったものがあってそうなったのかもしれないが、伯爵家に来て間もないクインにはその基準を受け入れられない。いずれ慣れるのだとしても、今は無理。
しかも、ここでの『大丈夫』は、世間一般でいう『きっと大丈夫』に相当する……
――最早、何を信じていいのかさっぱりわからない。
もやもやとした渦が胸の中で大きく育って苦しいのに、一点の曇りもない笑顔を前にすると、喉が塞がれたように声が出てこない。どうしようどうしよう。と頭の中はそれだけだ。
「海賊を倒すと言っても、あくまで形式上のことだからそれほど心配する必要はないよ。泳ぎの練習には医者が付き合うしね」
……つまり、海賊と戦うのは形式上のものかもしれないが、医者がついていないと危険な場所で泳ぎの特訓は強行されるのだ。
クインはエメラルドグリーンの瞳を見つめながら、静かに首を横に振った。不敬だと咎められても文句は言えない態度を取っている自覚はある。しかし、ここで素直に「はい」と頷けば、確実にヒューゴは船酔い状態で極寒の海に放り込まれてしまう!
エルナセット領から王都に連れてこられた時、クインはひどい馬車酔いを経験しているから、その辛さは理解できるつもりだ。あんな状態で泳げる訳がない。
「お姫様、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。大怪我しないように、ヒューゴお兄さまに対しては武器の使用は一切禁止するって母さま言ってたし」
クインとイザベラの間にちょこんと座っている海賊の少女は、一生懸命クインの不安を取り除こうとしてくれているつもりなのだと思う。その気持ちは大変ありがたいのだが、追加説明されればされるほど不安が大きく膨れ上がってゆくのは何故なのか。
武器の使用が認められている儀式とはどういうものなのだろう。そして。怪我と大怪我の境目とは一体どのあたりなのだろうか。クインの予想を大きくこえて危険なものであるような気がしてならない……
「君が納得できないなら、言い方を変えようか。あの夜と同じだよ。――君は、抵抗できないように拘束されて無理矢理馬車に詰め込まれ、ガルトダット伯爵家から誘拐された。つまり、不可抗力だね。それなら受け入れられる?」
エメラルドグリーンの瞳がゆっくりと細められる。あくまで軽い口調なのに、一瞬背筋がひやりとした。確かに彼の言う通り、今のこの状況は――クインが自分の父親を見捨てて一人で逃げ出した夜に酷似している。
あの時は確かに、不可抗力だった。ブランケットでぐるぐる巻きにされて、ろくに抵抗もできずに無理やり連れ去られた。
グレイスが罪の意識に苛まれないように、目の前の人がそういう筋書きを用意してくれた。目を閉じて耳を塞いで成り行きに身を任せたのは、本当にそうするしかなかったから。
(でも、今は違う)
ここで何か行動しなければ、また勝手に全部決められてしまう。
この屋敷に辿り着いた日からずっと、クインはまだ言葉を上手に言葉を話せない幼児のように甘やかされている。人参が入っていなかったスープのように不要なものはすべて取り除かれて、必要なものだけが与えられている。
それはとても幸せなことなのだけれど……
――クインは知りたいのだ。自分が本当は何が好きで、何がやりたくて、何ができるのかを。
『いいよ、ゆっくりじっくり考えて? それで、心が決まったら、クインはどうしたいのか言ってごらん? 大丈夫、僕たちは君の願いを叶えるためにここにいるんだから』
優しい声が胸の中に響くと気持ちがふっと楽になった。
目を閉じてひとつ深呼吸をして、胸に差した暗い影を追い払う。今のクインは従順で無気力な『お人形さん』ではないし、呪いをかけられた可哀想なお姫様でもない。
――きれいに整えられた舞台の上に案内されて、訳も分からずに求められる役割を演じるだけの自分では、いたくない。
目を開けて顔を上げる。あの夜に黒い軍服を着てクインの目の前に立っていた人は、穏やかな表情でクインの言葉を待っていてくれている。
ここにいる人たちは、クインを絶対に傷つけたりはしない。失敗しても大丈夫。早口言葉のように何度だってやり直せる。そう自分に言い聞かせてからすっと息を吸う。
「ボクは、ヒューゴさまが危険な目にあうのは、いやです。海賊と戦ってほしくない。頭を冷やすのも、泳ぎの特訓をするのも、北の海じゃなくてもいいと、思います。――それに、まともな王子様、いらないです」
クインの話を聞き終えた青年は、「まともな王子様?」と怪訝そうな顔でダニエルに尋ねた。
「正真正銘本物の青い瞳の王子様のことじゃないですか? 暗示の効果がなくなっているのか確認するのに丁度いいみたいなこと言ってましたね、そういえば」
例えそういう意図があったとしても、いらないものはいらない。
「王子様、いらないです」
拗ねた声でクインが繰り返すと、青年とイザベラは顔を見合わせ、塩気の足りない料理を食べた時のような、何とも言えない微妙な表情になった。
「あーうん。そうだね。……王子様と一緒になっても何もいいことないからやめといた方がいいよ」
「そうねぇ。王子様は色々めんど……難しいわね。苦労するのが目に見えているし」
実感の籠った声でそんなことを言った後、二人揃って重いため息をつく。
「イザベラさま、今面倒くさいとか言おうとしませんでした?」
「気のせいよダニエル。……でも、王子様じゃなくても面倒なことになったのよ」
「あ、終わりましょうこの話」
イザベラの眉間に皺が寄ったことに気付いたダニエルは、さっさと話を切り上げた。
「うん、そこは気にしなくていいよ。嫌なら無理に会う必要もない。暗示が消えたか確認したいだけなら、王子様である必要全くないからね。……他にまだ何かある?」
クインは袋の中で胸に手をあてて少し考えてから、静かに首を横に振る。胸の中のもやもやはすべて吐き出されたようで、今はとてもすっきりした気分だ。結局のところ、王子様を一方的に押し付けられることに嫌気がさしていて、誰かに文句を言いたかっただけなのかもしれない。
泥まみれの王子様も青い瞳の王子様も正真正銘本物の王子様も本当にもういらないのだ。
「そっか……ないのかぁ……」
「そうなのね……もうないのね……ないのね……」
「それで全部なんですね……他にないんですね……」
力なく呟いて顔を見合わせた三人は、『なんか変な顔』をしていた。どうしてそんな反応が返ってくるのかわからずクインが戸惑っていると、くいくいと、再び袋の端を引っ張られる。
クインと目が合うのを待ち構えていた海賊の少女は、頬を真っ赤に染めながら嬉しそうに笑った。
「よかったぁ。お姫様はヒューゴお兄さまと結婚するのは嫌じゃない……ん……」
慌ててイザベラが少女の口を塞ぐが間に合わない。青年は、あーあと言いたげな顔で目を閉じ、ダニエルは気まずそうにばっと顔を横に向けた。
その反応を目の当たりにしたクインは妙に冷静になり――次の瞬間、ぼんっと音がしそうな勢いで真っ赤になった。
全員そこに気付いてはいたけれど、クインに気を使って指摘しないでおいてくれたのだろう。『なんか変な顔』になっていたのはそのせい……
一気に体温が上昇して汗が噴き出す。気を抜くと意味のわからない言葉を叫んでしまいそうだ。胸の中で心臓が飛び出しそうなくらい暴れている。
「い……いやじゃないです。きらいじゃないです」
ここにヒューゴはいないのに、気付けばクインはか細い声で言い訳のように呟いていた。自分でも気付かぬうちに、何度も繰り返したその言葉はいつしかクインの口癖になっていた……
「お姫さま、あのね、わたしは、お姫様とヒューゴお兄さまはとってもおにあいだと思うよ!」
無邪気な声が耳に届いた途端、もうこれ以上赤くなることはないと思っていた頬がさらに熱を持つ。
真っ赤な顔を両手で隠したいのに、袋の中の手は中途半端にしか動かない。のぼせた時のようにめまいする。世界がぐるぐる回り始める……
「ねぇダニエル、わたくし前々から思っていたのだけど、わたくしの兄の父が、邪な魔術に手を染めて、その影響がクインに出ているなんてことは……ないわよね?」
少女たちが微笑ましいやり取りをしている隣では、イザベラが身を乗り出すようにして、今まで心の奥底に隠し続けてきた疑念をダニエルに小声で打ち明けていた。
「だって、相手はあのヒューゴなのよ? 絶対におかしいわよ。しかも金の髪と青い瞳って、さすがにちょっと出来すぎだわ。暗示の効果と魔術の影響でこうなったと言われた方がまだ納得できる……」
「その兄の父って言い方、やっぱりよくないと思いますよ」
ダニエルは見事な作り笑顔を浮かべて論点をすり替えた。
「まぁ、疑いたくなる気持ちはわからなくもないけどね……」
目を閉じたままアーサーが横から口を挟む。寝ていたところを中途半端に起こされた王子様は、実は相当機嫌が悪かった。抑えきれないどす黒い闇が肩先からゆらゆらと陽炎のように立ち昇っている。ダニエルは恐れ戦いてそっと目を逸らした。
「一度祓魔師にみてもらった方がいいのかしら……」
口元を片手で隠しながらイザベラが神妙な表情で呟いている。声に出すことで魔術の影響であるとの確信を得てしまったらしい……が、根拠も証拠も何もない。
「丁度離宮で合流する予定なんで、みてもらえばいいんじゃないですか?」
「魔術の影響があると言われても、ないと言われても、結局悩むことになると思うんだけど?」
冷めた口調でアーサーがそう返すと、イザベラは雷に打たれたかのように体をふるわせ、身体を二つ折りにして両手で顔を覆った。
「魔術の影響じゃなかったらどうましょう……」
「………………え、そっちなんですか?」
数秒間の沈黙の後、ダニエルが驚きの声をあげる。
「ヒューゴはまだまともな方だと思うけどね」
「誰と比較したんですか」
「……さぁ、誰だろう?」
短気で癇癪持ちの王子様は、薄目を開けて嘲るように笑った。
――馬車は次のマスである大聖堂に向かってひたすら走り続けている。