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135 王子様たちの逡巡 その1

 



 突然勢いよくドアが開いた。そして何者かが狭い空間に勢いよく飛び込んでくる。びくっとクインは肩を震わせ体を固くした。大きな音は怖い。


「海賊だ! おとなしくしろ!」


 脅しつける声が室内に響き渡った瞬間、驚愕のあまりクインは大きく体を震わせた。思わず背後を振り返って――そのままゆっくりと視線を下げる。

 涙で霞んでしまってぼんやりとしか見えないのだが、声の主は小柄なクインよりもさらに身長が低かった。

 パチパチと忙しなく瞬きを繰り返して涙を払う。男の子用のセーラー服を着て、お揃いの生地で作られた白い帽子を被っているが、多分女の子だ。ふわふわとした亜麻色の長い髪を三つ編みしてリボンで結んでいる。


「さわいだりあばれたりしたりしたらいのちがあぶないと……いのちがあぶない……あぶないだっけ? あれ? さわいだり、あばれたりしたりいのちが……あれ?」


 威勢が良かったのは最初だけで、言い間違いに気付いた辺りから、声はどんどん小さくなっていった。あまりに早口すぎて内容はほとんど聞き取れなかったのだが……


 ――王子様の次は海賊らしい。


 ヒューゴとリリアが海賊を倒しがっていたな……と、そんなことをクインはぼんやりと思い出す。

 この時点でクインは自分が泣いていたことなどすっかり忘れ去っていた。


「さわいだりたりあば……さわいだりあばれたりたりいのちがあぶ? ない? いのちが……あぶ……な……?」


 改めて早口言葉に挑戦するも、先ほどと同じ場所で止まってしまう。多分『命が危ない』ではなくて「命がない」だと思うのだが……今、指摘した方がいいのだろうか。

 クインが迷っている間もずっと、少女は眉間に深い皺を寄せて真剣な表情でぶつぶつと呟いていたのだが――突然黙り込んで、太ももの前辺りでぎゅっと両手を握りしめた。


「……わ……わかんなくなっちゃったぁ……」


 クインと青年を交互に見ると、彼女は唇を震わせながら泣きそうな声でそう言った。……あ、やっぱり。というような空気が室内に流れた。


「騒いだり、暴れたりしたら、命はないと思え、なんじゃないかな? もうすこしゆっくり言ってごらん?」


 青年が、優しい声で手助けすると、少女はわかったというように、ちいさく頷く。


「さわいだりしたりあばれたらいのちがあぶない……うーっ」

 

 うまくできない自分自身に対して腹が立ったのか、少女は悔しそうに顔を顰めて、大きく両手を振りながらだんっと! 片足を踏み鳴らす。そうやって瞬間的に爆発した怒りを発散させると、今度は悲しくなってしまったらしい。少女は目にいっぱい涙を溜めて俯いた。


「あんなにいっぱいれんしゅうしたのにぃぃ……」


 少女は練習の成果をどうしてもここで披露したいのだ。だから、内容の正確さよりも早口で最後まで言い切ることに重きを置いているのだろう。

 先ほど、似たようなことがあったな……とクインはちらっと思った。


「じゃあ、一緒にゆっくり練習してみようか。もう少しだけがんばれる?」


「やだっ!」


 完全に拗ねてしまった少女は、八つ当たり気味に叫ぶと。ぷいっと顔を横に背けた。


「ふうん。諦めるんだね?」


 しかし、目を細めた青年が少し意地悪な声でそう言った途端、「諦めないもん!」と、少女は怒りで頬を真っ赤にして言い返した。


「『さわいだり、あばれたり、したら、いのちは、ないとおもえ。おひめさまは、このかいぞくが、いただいた』だね。まずは、ゆっくり落ち着いて言ってごらん?」 


「……さわいだりしたり、あばれたりしたり……したら、いのちはないとおもえ。おひめさまは、このかいぞくがいただいた!」


 多少の言い間違いはあれども、言いたいことはわかる……でも、なぜ今それを彼女がここで言わなければならないのかはわからない。


「ほら、ちゃんと言えた」


 その言葉ですっかり機嫌を直した少女は、口の中で何度か練習した後、よしっとばかりに大きく頷いて、クインに向き直る。クインは背筋を伸ばして、少女としっかり目を合わせた。


 少女は頬に残っていた涙の筋を手の甲で拭ってから、すうっと大きく息を吸った。


「騒いだり、暴れたりしたら、命はあ……命はないと思え、お姫様はこの海賊がいただいたぁ!」


 途中つっかえそうになりながらも何とか最後まで言い切り、少女は拳を天井に向かって突き上げた。ついにやり切った! というような満足げな表情だ。はらはらしながら見守っていたクインは、ほっと胸を撫でおろした。


「はい、よくできました。……ところで、海賊のお嬢さん? 僕たちはこれからどこに連れて行かれるのかな?」


「ゴールを目指して次のマスに進むの。ここがスタートなんだって」


 拳を下ろした少女は、一仕事終えて気が抜けたのか、ふわあっと大きな欠伸をしてから眠そうな声で答えた。青年は眉を潜めて「……違うゲームに変わってないか?」と訝し気に呟く。


「チェスはつまらないからやめたんだって。……あ、そうだ。おじさま、鍵あげる。あとこれも一緒に渡しておいてねって頼まれた」


 少女は青年の隣に腰を下ろすと、ポケットから鍵と四つ折りになったメモを取り出す。


「鍵はもう外れているから、いらないかな」


 青年はそう言いながらも少女が差し出されたメモと一緒に鍵を受け取って右手に握る。特に何かをした様子はないのに、手枷はひとりでに外れて彼の膝の上に落ちた……が、クインにはそれよりもっと気になることがあった。


(……おじさま?)


 あまりジロジロ見ては失礼とわかっているが、クインは思わず小さなメモを開いている青年を凝視してしまう。多分……十代。少年と青年の狭間というような外見だ。


 ユラルバルト伯爵家の舞踏会で『グレイス』が会った時には、彼は周囲から『殿下』と呼ばれていた。

 ずっと田舎で暮らしていたグレイスでも、黒い髪と緑の目の組み合わせがこの国の王族の証であることはさすがに知っている。

 おじさまと呼ぶことを許されているのだから、少女もまたクインから声をかけることが許されないくらいの高貴な存在なのだろう。


 自由になった手でメモを開いて目を通した青年は、頭痛を堪えるような顔つきになってため息をついている。……やはり『おじさま』と呼ばれるような年齢には見えない。……聞き間違えたのだろうか。


「お姫様、急に袋被せられて怖かったよね、ごめんなさい。でも、これが『海賊の流儀』ってやつなの」


 突然声をかけられて、クインははっと我に返る。


「儀式の手順で、お姫様は袋に詰めないといけないの。だから船に乗るまでもうちょっと我慢してね。でも、心配しなくて大丈夫。ヒューゴお兄さまが絶対に助けに来てくれるからね! 地図の謎を解いて、おそいかかってくる海賊をやっつけて、宝物を手に入れて、二人はオーロラの下で結婚式を挙げるんだよ!」


 少女は両手を胸の前で組んで、キラキラと目を輝かせながらそう言った。物語が壮大すぎて理解が追い付かない……が。


 ――絶対大丈夫ではない。それだけはわかる。


 今日一日だけで、クインは何回『心配いらない』『大丈夫』という言葉を耳にしただろう。確かにどこも怪我はしていないのだから嘘ではないのかもしれない……が、怖い思いは沢山した。 

 二度と思い出したくないくらい恐ろしい目にあった!


 申し訳ないが、その「大丈夫」という言葉は全く信用できなかった。


 クインは顔色を悪くしながら、袋の中で胸に手をあてる。心臓の音がどんどん早くなっている。

 袋を被せられて攫われた時より、今の方がずっと怖い。


 海賊を倒したがっている人間は、クインの身近に二人いた……気がした。






 美しく整えられた庭園の中を馬車は駆け抜けてゆく。首を捻って流れる景色の方に視線を向けながら、一体何しに来たんだろう。ふとリリィは思った。


 舞踏会に来てみたら王子様はサボって不在だった。そして今現在、他国の王子様によって国外に連れ出されそうになっている。


 リリィは未だマティアスの膝の上で抱きかかえられていた。椅子から転がり落ちると危ないからという理由なのだと理解はしているが、心が落ち着かない。

 ちょどリリィの爪先の前に、ブランケットぐるぐる巻き状態のキースの肩がある。彼は目を瞑って彫像のように動かない。つんつんと軽く蹴飛ばしてみると瞼を半分ほど持ち上げて非常に迷惑そうな顔を向けてきた。寝ている訳ではなかったらしい。


「鈴蘭の姫君も疲れたろう。少し眠るといい」


 ……最近、目が覚めると状況が悪化していることが多いから寝たくない。リリィはゆるゆると首を横に振った。それに、眠るくらいなら早く本を読みたいのだ。


「黒の女王は開始早々チェスに興味を失ってしまったらしい。駒を一つ減らして、賽を振って遊ぶことにしたようだ。しばらくはマスに沿っての移動が続く」


 何が言いたいのかよくわからないが、オーガスタはチェスがあまり好きではなかったから飽きたというのならそうなのだ。彼女は『運』という要素が勝負の結果に大きく反映するようなゲームを好む。レナードとは真逆だ。賭博師なんてものをやっているが、彼は運に左右されるゲームは好きではない。……運に見放された人生を送っているから。


 巨大な門を出ると、道の先に待機していた黒塗りの箱馬車が並走して走り始める。次の角を曲がると別の馬車が後ろにつく。次の角を曲がるともう一台馬車が現れ、前を走り始めた。道が細くなるれば並走している馬車は後ろに下がる。ぴったりとカーテンが閉められているから中に乗っている人物たちの姿を見ることはできない。


 車輪の音と蹄の音が耳に心地いい。眠りたくはないのに、疲れているため瞼が重くなってゆく。でも、起きていないとどこに連れて行かれるかわからない。

 気付けばキースはマティアスに凭れ掛かってぐっすり眠っている。王子様は特に気にする様子もない。サミュエルの騒動の時も思ったが、器の大きな人だ。……本当にアレンは一体何をやらかしたのだろう。


 本に関わる何か、というところまではリリィにも簡単に予想がつく。


『ああ、でも、君がハーヴェイを激怒させた出来事とこれとは話が別だからね。逃げずに自分の口からきちんとリリィに話しておいた方がいいとは思うよ? いつかは彼女の耳に入るだろうから』


 第一王子が深夜に街屋敷に訪ねて来た時、アーサーがそんな事を言っていたから間違いない。

 読書家であるマティアスとハーヴェイを激怒させ、リリィには言えないようなことを、アレンは過去にやっているのだ。


(それこそ、希少本を暖炉に放り込んだ。とかなのかしらね……)


 ――深く考えずにやりそう。しかも、それほど悪いことをしたとも思ってなさそう。


 リリィは内心ため息をつく。やってしまったものはしょうがないが、想像するだけでも嫌な気分になる。黒いもやもやとしたものが胸の中に広がって心臓を圧迫する。そんな感じだ。

 知ってしまったら……相手を見る目が変わるとまではいかないにせよ、事ある毎に嫌悪感がふっと湧きあがって、嫌味を言わずにはいられない。そんな気がする。

 それはまさにマティアスと同じ状態だ。そして、アーサーもまた同じものを胸の奥底に隠しているのだろう。それが何かのきっかけでふっと浮上してきて出てきたのがあの台詞なのだ。……つまり、あれは最大級の嫌味。


(……成程、それで免罪符かぁ)


 リリィは胸の中のもやもやを吐き出すために、長いため息をついた。


(アレンお兄さまは……多分、言えないわね……)


 波風が立つのを恐れるあまり、有耶無耶なままやり過ごそうとする。

 あの婚約者騒動の時もそうだったのだ。言い方は悪いが、彼が誰にでもいい顔をしたせいで、国王まで巻き込んだ大ごとに発展した。

 人間そう簡単に変われない。そして……


 ――リリィはやっぱり、今のアレンに、この『免罪符』を渡すことはできない。

 許せるかと聞かれたら、わからない。としか答えようがない。


 難しい顔をしてぎゅうっと本を抱きしめたリリィに気付いたマティアスが、まるで幼い子供を慰めるようにリリィの頭を撫ぜる。

 

「駒が十五個すべて自陣に揃わないと、ゴールすることはできない。起きたら帝国だったということはないから、安心していい」


 その言葉にふっと肩の力が抜け落ちる。途端に抗いがたい眠気が一気に襲い掛かってきた。


「ばっく……ぎゃもん?」


 薬の効果が弱まってきたのか、掠れた声が唇から零れ落ちる。


「そう、昔ふたりでよく遊んだと聞いた。君は計算が得意で、やり方を教えたらすぐに二桁の乗法や除法まで習得してしまったらしいね。とても驚いたと言っていた」


(賽を振って、出た目の数だけ駒を半時計周りに動かす……)


 ぼんやりした頭に、長細い三角形が描かれた盤面が思い浮かんだ。幼い頃よく遊んだボードゲームだ。リリィはそのゲームで遊びながら、数字の数え方や計算の方法を覚えていった。


 カラカラという音は蹄の音なのだろうか? それとも車輪が回る音? 或いは……


「ゲームでも、相手の出方を見ないと判断できないだろう?」  


 カップの中で賽がぶつかってカラカラという音を立てている。誰かがカップを振っている。



 ――リリィはその音がとても好きだった。







 眠い目をこすりながらゆっくりと体を起こすと、「そのまま寝ていていいよ」とそっけない声が上から降ってきた。その瞬間に眠気は一気に吹き飛ぶ。ぱっちりと目を開けて嬉しそうに笑ったリリィを見て、図書室の幽霊は諦めたようにため息をつくと、読んでいた本を開いた状態で傍らに置いた。


「ゆうれいさん、ゲームのつづき!」


 深夜に似つかわしくない元気いっぱいの声でリリィがそう言うと、幽霊は黙って目の前のテーブルを指さす。そこにはちゃんとゲーム盤が広げて用意されていたからリリィは嬉しくてたまらなくなる。

 一カ月前に遊んだ時には途中でリリィが眠くなってしまったから、次会った時にはゲームの続きをする約束をしていた。「寝ていていい」などと言いながらも、リリィが目を覚ましたら前回の続きがすぐ遊べるように、駒を並べて準備万端で待っていてくれたのだ。


 図書室の幽霊はどれだけ時間が経っていても、リリィとの約束を覚えていてくれる。


 だから彼と一緒にいる時は、リリィは自分がちゃんと『ここにいる』のだと実感できるのだ。

 この屋敷の使用人たちは、忙しいとすぐにリリィから頼まれたことを忘れてしまう。決して悪意があってそうしている訳ではない。皆、気持ちに余裕がないため、そこまで気が回らないのだ。

 母は醜聞にまみれた伯爵家を守るために作り笑いを浮かべて必死に社交をこなし、兄は何かにとりつかれたかのように勉強ばかりしている。使用人の数はどんどん減ってゆく。残った者たちの仕事の負担は増える一方だ。


 幼いリリィがいくら声をはり上げて大声で泣いても誰にも気付いてもらえない。いや、聞こえてはいるかもしれない。でも、全員が全員、手が空いているものが対応するだろうと今自分がやらなければならないことを優先させてしまう。

 忘れた方は忘れたことすら覚えていない。でも、忘れられた方はいつまでも覚えている。


 リリィはどんどん自分が透明になってゆくような気がするのだ。その内空気に溶けるように姿が消え失せて、声だけになって……


 ――幽霊はそうやって生まれるものなのかもしれない。


 図書室の幽霊はフード付きのローブですっぽり全身を隠した、リリィより少し大きい子供の幽霊だ。彼は滅多に現れないのだが……目覚めたら図書室の幽霊を寝具代わりにしていたことは過去にもあった。

 リリィは大変寝相が悪く、毎晩のようにベッドから転がり落ちてそのまま部屋の外まで転がって行ってしまう。床に落ちて寝ているリリィを誰が回収したかよって、起きた時にいる場所が決まる。母の部屋だったり兄の部屋だったり、使用人の誰かの部屋だったりする。


 今夜は図書室の幽霊がリリィを拾ったようだ。


 ランプの明かりに照らされたテーブルの上に、古い木製の遊戯盤が開いた状態で置かれている。図書室の隅で埃を被っていたゲーム盤を見つけたのはリリィだ。遊び方を教えてくれたのは図書室の幽霊で、このゲームで遊ぶために必要な計算のやり方も、彼から教えてもらった。サイコロを二個振って、出た目の数だけ駒を半時計周りに動かしゴールを目指す。十五個の駒すべてを先にゴールさせた方が勝ちだ。

 本来は向き合って座って遊ぶゲームなのだが、対戦相手である図書室の幽霊は、リリィの隣に座って、ソファーの座面に置いた異国語で書かれた本の頁をめくっている。つまり、彼は外国語の本を読みつつ盤面を逆向きに見ながらリリィのゲームに付き合っている。


 子供の姿をしていても、彼は大変博識だった。何でも知っているし、どんな文字で書かれた本も読んでしまう。


 カラカラ……とカップの中でサイコロが小気味よい音を立てている。リリィはその音がとても好きだ。自分ではまだうまく鳴らせないから、サイコロをカップの中で振るところまでは図書室の幽霊にお願いしている。

 幽霊からカップを受け取ってそっと傾ける。二つのサイコロが盤上を転がってゆく。


「四と五だね」


「足すと九」


 自信満々に答えたリリィは、前のめりになってゲーム盤全体を見渡す。数を数えながら盤面を指で指して、十五個ある自分の駒の内、どれをどこに動かすか考える。二つ以上駒を置いて『壁』を作るのか、或いは自陣を目指して先に進むのか、それとも独りぼっちの駒に攻撃を仕掛けるのか……でも、盤面に独りぼっちの黒の駒はいないから、攻撃することはできない。


 悩んだ末、リリィは駒を五マス動かしてみる。


「それはあまりいい手とは言えないよ? 次に僕が三と五を出せば、今君がひとりぼっちにした白の駒を攻撃できるよね?」


「でないかもしれないもん」


 リリィはぶうっと頬を膨らませてみせた。賽の目を狙って出すことは不可能だ。他の目が出る確率の方が高いのだと、リリィはちゃんと理解している。三と五が出なければ、駒は攻撃されることはない。だから大丈夫。


「もし、出てしまったら、君は踊り続けることになるけどいいの?」


 少し意地悪な声で言われただけで、リリィはすぐに自信を無くしてうろうろと視線を彷徨わせた。

 駒はひとりぼっちになると攻撃されて、盤面から弾き出されてしまう。戻れるかどうかは賽の目次第だ。二つ以上相手の駒がある場所には自分の駒を置けない。対戦相手が『壁』を作って戻れないように妨害している場合は『壁』がなくなるまで何もできない。それを『踊る(ダンス)』というのだ。


「一番いい手はそれじゃないよ。もう少し考えてごらん?」


 いかに無駄な動きをしないかが勝つために重要……らしい。リリィが素直に駒を元の位置に戻すのを横目で確認すると、図書室の幽霊は読みかけの本に意識を向けてしまう。


「わかんないぃ……」


 リリィは泣きそうな声でそう言って、腕にしがみついて甘えてみる。


「ひとつずつ動かしてみるといいよ。……夜に泣くと目が腫れるから泣かないの。こするのもダメ。しょうがないな、お膝においで」


 そっけなくそう言いつつも、彼は結局また本を閉じて姿勢を正す。ぱあっと顔を輝かせて膝に上に座ったリリィを抱え込むように腕を伸ばして白の駒の上に指を置いた。

 目深に被ったフードの隙間から見える髪が、光に透けてとても綺麗だ。触ると嫌がられるので、ただ見ているだけ。


「これとこれは動かせない。で、ここの『壁』はまだ崩さない方がいい……」


「じゃあ、これをここ。こっちもここにおいて『壁』をつくる!」


 二つの駒を動かしてリリィが「これでいい?」と振り返ると、フードの奥で微かに笑う気配があった。


「正解。君はやっぱり賢いね」


 頭を撫ぜてもらえると、誇らしい気持になる。褒められたことが嬉しくてたまらなかったリリィは、すぐ横にあった腕にすりすりと頬をこすりつけた。ふわっと花の香りが立つ。


「いいにおいー」


「はいはい。暴れるならおりてね」


 膝からおろされそうになったリリィは、させまいと図書室の幽霊の腕にぎゅうっとしがみいた。


「やっぱりりりぃもゆうれいになる! ゆうれいさんとずーっといっしょにいる!」


「いつも言ってるけど、僕は君に夜にしか生きられない幽霊になってほしくない。だから、幽霊になったらもう一緒に遊んであげない」


 ため息とともにそう言って、彼はカップの中にサイコロを落とす。 

 図書室の幽霊の手の中で、カップの中のサイコロがカラカラと音を立てている。





 ……違う、これは蹄の音と馬車の車輪が回る音だ


 彼はもういない。

 願いごとと引き換えに、リリィが跡形もなく消してしまった。

 流星が雨のように降り注ぐ夜に――




 遅くなってしまって、本当に申し訳ございませんでした。

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