134 王子様たちの大迷走 その6
今リリィの手の中にある本が免罪符だとマティアスは言った。
恐らくは、この本を手に入れた者は海に放り込まれなくて済むという話なのだろう。
オーガスタから罰を受けそうな人……となるとまず思い浮かぶのはアレンとレナードだ。
アレンはリリィという婚約者がいるにも関わらず任地で別の女性と恋仲になり、レナードの方は、借金を完済するまで出入り禁止を言い渡されているのにも関わらず、生活に困窮すると八歳年下の子供の元にお金をせびりにきた。
やらかしたことはどちらも結構最低だとは思うのだが、それが海に放り込まれる程の罪かと問われると、リリィにはよくわからない。
その辺りの決定権はオーガスタにある。仮にリリィが減刑を求めたとしても笑顔で「これでも軽い方よ?」と返されて終わりだ。
そこにこの『免罪符』なるものが登場した訳だが……
(いや、普通にどっちにも渡せないわぁ……)
リリィは目を閉じて、はは……と力なく笑う。
マティアスも言っていたが、アレンにとって、本の価値はリリィと同等ではない。『どうしても読みたいから見せて欲しい』としつこく懇願された場合、押しに弱い彼は断れずに手渡してしまうだろう。
新しいものを買い直せばいい。アレンはそう考えるはずだ。
そして、レナードは――売る。売った金は即賭博に消えるに違いない。
レナードからの贈り物を速攻売却しようとしたリリィに彼を責める権利はないのかもしれないが、粗末に扱われるとわかっていて渡せる訳がないではないか。
残念ながら、リリィの中で二人の価値は書物以下だった。腕に抱えている本と引き換えにしてまで守る価値を見出せない。
決して、海に流したいくらい恨んでいる訳ではない。ただ、何かを犠牲にしてまで助けたいと全く思えないだけで……
彼らは罰を受けるべきなのだ。身内に迷惑をかけまくっているのだから、免罪符などというもので許されてはいけない。このままだと、アレンは一生自分で何も決められない優柔不断な性格のままだし、レナードは借金まみれの生活から一生抜け出せない。
オーロラが輝く空の下で流氷と共に漂うことで、もしかしたら、彼らは人生観が一変するような気付きを得られるかもしれない。
ロバートは毎回普通に生還しているし、兄も真っ当な人間になって極寒の海から戻ってきた。オーガスタもさすがに命までは取らないだろう。
マティアスは先程炎の中に本を投げ込むという例えを出した。それをしたのが二人の内のどちらかであったとしたら、ある意味諦めはつくかもしれない。
――一生許さないけれど。
妙にすっきりした気分になって、リリィは笑顔でマティアスを見上げた。まだ声は出ないから、唇を大きくはっきりと動かして自らの意思を伝える。
「誰にも渡すつもりはない。つまり……免罪符を手に入れたければ、奪い取れと?」
確認するようにマティアスに問われたリリィは、袋の中からぎゅうっと強く本を抱きしめると不敵に笑う。
リリィは読み終えるまでこの本を手放すつもりは全くない。
読みかけの本を先に譲ってもらった訳であるから、読み終えたらお礼の言葉を添えて即返却というのが最低限の礼儀だ。奪い取りに来るというのなら、全力で抵抗してやる!
「そういうことなので、黒の女王の機嫌をこれ以上損ねないよう、二人ともよく考えて行動することだ」
マティアスは楽し気に笑った後、回廊の方へと視線を流した。はっと顔を上げて、リリィは馬車から身を乗り出すようにして目を凝らす。
いつの間にか廊下の柱に並ぶようにしてウォルターが立っていた。軽い運動をした後のように髪は乱れ、上着を脱いで腕まくりをしている。その隣には人生に疲れ果てた様子の母方の祖父の姿もあった。
そして、恐らく柱の陰にもう一人。
合わせる顔がないのか、それとも金を返せと言われるのが嫌なのか……
そういうところが、いかにも彼らしいなと思う。会わないと決めたら会わない。妙なところで潔癖なのだ。ぐだぐだな生き方をしているくせに。
他人から押し付けられたルールは平気で破るくせに、自分で定めたルールは己の誇りにかけて守る。自由気ままに生きているように見えて実はそうでもない。あれだけ頭がいいのだから、楽に生きる方法などいくらでも思いつくだろうに、人と同じことをするのは自尊心が許さない……
ルークは目的のためなら手段を選ばない人なのだが、レナードは目的を達成するよりも『手段』にとことん拘る。
――結果、無駄の多い人生を送ることになっている。
「……リリィさま」
反射的に呼ばれたほうへ顔を向ける。アレンが少し厳しい顔でじっとリリィを見つめていた。目が合うと彼は表情を緩める。そのまましばらく待ってみたが次の言葉を発するような様子はない。
何だったんだろうと首を傾げつつ、ちらっと回廊の方を一瞥すると、
「リリィさま」
再び名前を呼ばれた。リリィはあわてて視線を戻して「何?」と目で問うが、アレンは少し不機嫌そうな顔でリリィを見つめるばかりで何も言わない。
(だから、何なのよっ)
リリィの眉間に皺が寄る。言いたいことがあるのなら言えばいい。『察しろ!』と言わんばかりの態度にイラっとする。
「リリィさま!」
視線を外そうとすると、責めるような声で名前を呼ばれる。こっちもこっちで相当面倒くさい。
カラムが呆れ果てた顔で二人のやり取りを眺めている。
(どうしろとっ)
馬車の中と外とで睨み合いになったところで、横から伸びてきた手がひょいっと袋詰めのリリィを持ち上げ、膝の上に横向きに座らせた。
(……え?)
至近距離でマティアスと目が合ったリリィは、ガチガチに固まってしまう。
「やっぱり私と一緒においで?」
甘く誘いかける声が耳に届いた途端に頬が真っ赤に染まった。リリィは動かせる範囲で懸命に首を横に振る。からかわれているだけだとわかっている。しかし、人慣れしていない引きこもりなので、こういう場合どう対処すればいいのか全くわからないのだ。
全身からどっと汗が噴き出す。袋の中は熱がこもって暑い。次第に頭がくらくらしてくる。
「リリィさまっ」
名前を呼ばれても、今のリリィには、そちらに意識を向ける余裕がない。
「危ないからじっとしていなさい。じきに馬車が動く」
(ええーっ)
金属のボタンが頬に当たっている。自分が今どういう状態なのか考えたくない。背中に回った腕がしっかりと支えてくれているため安定感はあるのだが、できれば今すぐおろしてほしい。
「では、お嬢さま、部屋を整えてお帰りをお待ちしておりますので。……あ、エメラルドのネックレスは王子妃の証みたいなものなので、どこかに落として来ないで下さいね。まぁ袋の中に入っている限りは大丈夫だと思いますが」
馬車に歩み寄ってきたカラムの言葉を聞いた瞬間、リリィの顔から一気に血の気が引いた。首飾りを最初に見た時に、何となくそんな気がしていた。そんな大切なものなら今すぐ返すから、馬車を動かさないでほしい。
「このままマティアス殿下と駆け落ちみたいな話になると、国際問題に発展するので、がんばって帰ってきてください」
がんばらないと帰って来られないというのはどういう状況なのだろうか。
「その辺りは、フランシスが何とでもするから気にしなくていい。キースと一緒に私の国で暮らそう」
リリィの顔を覗き込んだマティアスが、しっかりと目を合わせて微笑む。ひゅっとリリィの喉が鳴った。隣で気配を殺していたキースがびくうっと体を大きく震わせる。
「お嬢さま、サミュエル殿下も義理の姉とのピクニックを楽しみされていますよ? お約束されましたよね」
……まだなってないし、自分から約束した覚えもない!
「リリィさまって私の婚約者でしたよね?」
ここにきて、今まで黙っていたアレンが余計な口を挟んだ。……この男は鏡の間で「結婚できない」と面と向かってリリィに告げたことを覚えているのだろうか。
でも確かにアレンが疑問に思うのも理解できる。その辺りがどうなっているのかはっきりしないのだ。
――とりあえず議会が承認しているのはリリアとルークの結婚で、結婚式は来年の春……
そこまで考えたリリィは、ある可能性に気付いて愕然とした。
(……あ、でも、そこにどんな名前が書いてあるのかわからないんだわ!)
今はまだ、誰が誰にでもなり得る状況だ。そして、逃亡中の犬を誰が捕まえるかで、どの王子が生き残るかが決まる。
(幽霊は結婚できない……)
第二王子がリリィとの結婚を回避するために幽霊になる可能性も、ゼロではないのだ。……そんなことをされたらさすがに立ち直れない。
「鈴蘭の姫君を取り戻したいのなら、免罪符を手に入れることだ。ただし一度失った信頼を回復するのは容易いことではない」
打って変わった冷ややかな声で、マティアスが言い放つ。……一体アレンは何をした。
わからないことが多すぎて、もう泣きたい。というか、早く帰って自室で寝たい。
しかし、そんなリリィの切なる願いは当然叶えられるはずもなく――馬車はゆっくりと走り出した。
どこに向かうのか皆目見当つかないが、目的地がガルトダット伯爵家ではないことだけは確かだった。
「行ったな……」
フェレンドルト公爵がぽつりと呟くと、ウォルターは不機嫌さを隠そうともしないで、柱に凭れかかって腕組みをした。足元に解かれた縄が無造作に投げ捨てられている。
「……とりあえず廊下を掃除せんとなぁ」
いつから王宮は動物園になったんだとぼやきながら、老公爵は大きなため息をついた。
「昔から閣下はルークとレナードに甘すぎ……」
不満そうな顔でウォルターがそう言った途端に、
「おまえたちが厳しすぎるんだろうがっ」
公爵は被せ気味に言い返した。しばし沈黙が辺りを支配した。
「これで気が済んだろう。おまえもそろそろ本気で結婚を考え……」
そう言いかけたところで、ウォルターからじろっと睨まれた公爵は一旦言葉を止めた。
「……幽霊とは結婚できんぞ?」
先ほどよりも幾分遠慮がちな声だ。しかし、そこまで言ってから何かに気付いたらしく、いきなり顔を上げてウォルターに詰め寄った。
「まさかおまえまでキースと結婚したいとか言い出すつもりじゃないだろうな!」
こういう思い込みの激しいところは子孫に脈々と受け継がれているなとウォルターは思った。
「言いませんよさすがに。性格が全然違いますから」
ウォルターが苦笑してそう返した瞬間に、何故か公爵の顔から血の気が引いた。
「おまえまさかリリアと結婚したいとか……」
「随分お疲れのようですね。少しお休みになられてはいかがですか?」
最後まで言わせることなく、にーっこりと笑って医者としての顔で進言しておく。
「……否定せんのか」
フェレンドルト公爵は、皺の奥の目を限界まで見開いてよろよろと後退りし始めた。どうやら、色々ありすぎて、物事を悪い方にしか捉えられなくなっているらしい。
「顔が全然違いますからとでも言っとけば納得するんですか? 露骨にほっとしないでくれませんかね。年が離れすぎているでしょう? 妹……というより、娘みたいなものですよ」
「……まぁ、そうだなぁ。娘……だなぁ……うん……」
胸をさすりながら、ぶつぶつと口の中で呟いている公爵を見下ろして、ウォルターはやれやれと肩を竦めた。心臓に負担がかかるような想像をするのはやめてほしい。
再び柱に凭れ掛かって目を閉じる。
老公爵が心配する気持ちもわからなくもないのだ。たった一度の恋がウォルターの人生を一変させたことを彼は知っているから。
『十年経ったら、一番綺麗だった頃の姿を君に見せてあげる。せいぜい、釣り合うくらいのいい男になって待っていなさい?』
息をするのも苦しかった頃に、とても美しいひとに恋をした。
あの人が一番大切にしていたものを守れる人間になりたくて、死んだほうがマシだと思えるような治療の日々を乗り越えて、医者を目指した。
胸の奥で極星のように輝き続けていた約束が、今夜果たされた。そういうことなのかもしれない。
――ウォルターが知らない、最も輝いていた頃の彼女の姿がそこにはあった。