20240401
野良猫が駆け抜けてゆく路地裏への入り口で、ひっくり返した木箱を椅子代わりに、屋台で買ったコーヒーをちびちび舐めるように飲んでいる。ゴミ溜めと化した事務所では落ち着いて休憩もできない。
呼売商人のシーラが駆け寄ってきて、背中に背負っていた何かよくわからない野菜の入った籠をおろし、「荷物見といて」と言い置いて去っていった。
同時に目を上げたレナードとパトリックは、無言のまま顔を戻して薄くて不味いコーヒーを一口すする。
無理に飲む必要など全くないのだが、相手が全部飲み干すなら自分も負けていられないというような意地の張り合いになっていた。……マーガレットが淹れてくれたまともなコーヒーの味がすでに思い出せない。
二人の元に戻ってきたシーラは、厚かましくもレナードとパトリックの間に体を捻じ込むようにし腰を下ろし、目を閉じてくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
彼女は所長とは長い付き合いの情報屋だ。浅黒い肌をした異国人の女性で、毎回どこで聞きつけてくるのか、探偵社に厄介ごとが持ち込まれるとふらっと訪ねてくる。
「そのコーヒー本物?」
「ほぼチコリ」
レナードが目も合わせずにそう返し、パトリックも正面を向いたまま大きく頷いた。
コーヒー豆の値段が高騰しているため、代用コーヒーを出す店が増えているのだ。
「やっぱり!」
げらげら笑っているシーラを横目に、レナードとパトリックはコーヒーをまた一口喉の奥に流し込む。きっと。元からコーヒーとはこういう味のものだったのだ。黒くて苦いのだから、これはコーヒーなのだ。
――全く美味しく感じられないのはマーガレットに会えないせい。一度に二口飲む気になれないのもマーガレットに会えないせい。
必死に己にそう言い聞かせるが、不味いものはどうしたって不味い。これは一体何の罪に対する罰なのかと、本気で神様に問いたい気分だ。
「なんかさぁ、珍しいお客が来てたって聞いたよ? なに? ねぇなに? 浮気調査?」
少し声を抑えたシーラが、興味津々といった顔でレナードとパトリックを交互に見た。パトリックはさっと顔を背けると、口元を片手で隠す。それこそ、一度口を開いてしまったら何を喋らされるかわかったものではない。
「残念ながら違う。黒い写本絡み」
カップの中に入りそうになった前髪を面倒くさそうに払い除けながらレナードが不機嫌極まりない声で答えた。
「黒い写本?」
思いがけない言葉を聞いたというように、シーラが大きく目を見開いた。いちいち動作が大げさなのも、気分よく相手を喋らせて情報を引き出す技術なのかもしれない。
「へぇ、ひっさしぶりに聞いた。一時期流行ったよね」
「……え、……田舎者のシーラでも知ってるの?」
パトリックが、知ったかぶりしているだけじゃないの? と言いたげな視線を向けると、シーラはすっと真顔になった。
「アンタってさ、純朴そうな顔して平気で貶めるようなこと言うよね」
パトリックはさりげなく視線を逸らして、顔を背けたままカップを唇にあてる。貶めるつもりはなく事実を言ったまで。そう心の中で弁明しておく。……小心者なので。
「アタシが王都に出てきた頃には流行は終わってたんだけど、在庫処理みたいな感じで露店で投げ売りされてた。だから知ってるってだけ。丁度今のアンタと同じくらいの年の頃だね」
「……十五年くらい前?」
失礼にならないように配慮したつもりだったが、シーラがひくっと頬を引きつらせた。
「十年だよ! 失礼な!」
色々納得しかねるが、パトリックは素直に「ふーん」と頷いておいた。遥か遠くからならば、本人の言う通り三十台半ばの女性行商人に見えなくもないだろう。
「計算が合わねーんだけど。アレが爆発的に流行したのって確か……」
レナードの言葉を、シーラはわざとらしい連続咳払いでかき消した。
「……で、結局何なの? その黒い写本って」
「あっきれたぁ。アンタ自分も知らないくせに、よく人のこと田舎者とか言ったね」
シーラは信じられない! とでも言いたげに、まじまじととパトリックの全身を眺めはじめる。やられたことをそのままやり返されただけだが、純朴な青年の心は深く傷ついた。
「田舎者が田舎者に対して田舎者と言って何が悪いっ」
パトリックが拗ねたように呟くと、シーラはニヤニヤ笑いながらポンっと肩を叩いた。
「はいはい。アンタもアタシも田舎者。ついでに、この辺歩いてるの全員出稼ぎにきた田舎者。そっかぁ、そういうのが気になるお年頃だよね。……でもアンダがモテないのは田舎者だからじゃない。そこ全く関係ないからね!」
「……ひどい」
パトリックは膝の上に置いたカップの飲み口に額をつけるように項垂れた。そこまで言わなくてもいいのに……と、肩を震わせる。
「ほらぁ、アンタってものすごく打たれ弱いんだから、誰彼構わず喧嘩売るのはやめときなさいよ?」
近所の子供に注意しているような口調だった。……何だか余計に悲しくなった。
「凡人が理解できるように色々考えて説明するのめんどくせぇから、シーラ、ヒマならこの田舎者の凡人に、黒い写本について説明してやって」
今度はパトリックがひくっと頬をひきつらせた。この男は人を不快な気分にさせる天才だ。心の底からそう思う。何か言い返してやろうと思ったのだが『モテない』と面と向かって言われた時点で、パトリックの心は完全に折れていた。
「ああどーせ田舎生まれの凡人には、都会生まれの天才の考える事なんて全く理解できませんよー」
いじけた目をして口の中で呟くので精一杯だ。口では勝てない。腕力でも勝てない。頭脳でも外見でも勝てない。……つらい。
二人はほぼ同時に顔を背け合い、そのまま手に持ったカップを持ち上げて口元に運ぶ。そして、カップの中身を一口飲んで揃って顔を顰めた。
「……アンタたち一体なんなの。なに? メグがいないのがそんなに寂しいの?」
呆れ声でシーラがそう言った瞬間、パトリックの目から涙が溢れ出した。
「……え? ちょっとアンタほんと大丈夫?」
口では心配しているような言葉をかけつつ、シーラは上半身をのけぞらせるようにして身を引いている。……ひどい。
改めて思う。マーガレットがいないと生きていけない。彼女のいない日々なんてもうあと一日だって耐えられない! ……でも、彼女は人妻。
「今すぐ離婚して僕と再婚してほしい……」
震える声で思いの丈をぶちまける。切なさに胸がはち切れそうだ。ああどうしたらこの一途な愛をマーガレットに届けることができるのだろうか!
パトリックはカップを両手で包み込むように持つと、祈りを捧げる時のように目を閉じて天を仰いだ。
体の中に留まり切れないマーガレットへの愛が、涙となって頬を伝い落ちてゆく。今まさに自分の心がこの美しい愛によって浄化されてゆく……
閉じた瞼の裏に浮かんだのは、淡いピンク色のワンピース姿で微笑むマーガレットだった。真っ白なエプロンをつけてボンネットを被っている。まさに若奥様といったいで立ちだ。「リックさん、会えなくて寂しかったです。でも、これからはずっとずっと一緒ですよ!」頬を赤らめ瞳を潤ませながらマーガレットはそう言うと、両手を広げてパトリックに向かって駆け寄って――
「妄想するのは自由だけど、ここ、一応外だからさ」
体をくねらせて、不気味な笑い声をあげ始めていたパトリックは、その言葉ではっと我に返った。丁度足元をすり抜けていこうとしていた野良猫が、侮蔑の目を向けてから走り去った。気のせいかもしれないが心は抉られた。
……今すぐマーガレットに会いたい。優しい笑顔と思いやりに満ちた眼差しに癒されたい。
カップの飲み口に額をこすりつけながら、遅れてやってきた羞恥心に必死に耐える。
「そろそろまともな味のコーヒーが飲みてぇ」
恥ずかしさに悶えているパトリックを横目に見ながら、レナードは憂鬱そうに呟いた。……あっちはあっちで、不摂生がたたって体が悲鳴を上げているのだ。
「アンタたちって、メグが傍にいないと、ホントにただのクズだねぇ」
そう言いながら立ち上がったシーラは、キャンディ・スミス探偵社の事務所が入っているボロアパートの方角を目で指した。
「お客さんみたいだよ」
そして、野菜の入った籠を背負いながらにやりと笑った。
「呪われた伯爵サマのお出ましだ」
ギリギリになってしまって申し訳ございません。しかも短いです……本当にすみません。