20240313
「子供は夜更かししないほうがいいと思うけど?」
懐かしい声を聞いた気がして、眠い目をこすりながら体を起こす。辺りは真っ暗だ。
今はいつでここはどこだかわからない。リリィは、ゆっくりと視線を巡らせる。寝ぼけているせいか、すべてのものが巨大に見えた。まるで巨人の国に迷い込んでしまったかのようだ。書棚はあんなに高かっただろうか。天井もいつもより遠いような……
長い長い夢をみていたような気がする。夢の中でリリィは図書室に行きたいと強く強く願っていた。
開け放たれた窓から風が入ってきて、カーテンを大きく揺らしている。風の中に濡れた土の匂いを感じだ。あんなによく晴れていたのにおかしいな……と、リリィは内心首を傾げる。それも夢の中の話だったのかもしれない。
子供部屋のベッドで眠っていたはずなのに、目が覚めると違う場所にいる。時々そういうことがある。今もどうして自分がここにいるのかわからない。夢の中で図書室に行きたいと強く願っていたからだろうか……?
傍らのテーブルの上の燭台が灯されて、壁に白い光の円を描いた。明るさに目が眩まなかったのは、図書室の幽霊がリリィの顔に直接光が当たらないように間に立って遮ってくれていたからだ。
幽霊はいつも通り、フード付きのローブで姿を隠している。フードが少し濡れているから、やっぱり弱い雨が降っているのかもしれない。
「ゆうれいさんだってこどもでしょう?」
「僕は幽霊だから夜が活動時間。でも君は違う」
リリィはぷうっと頬を膨らませる。『ちがう』と言われたことが面白くない。リリィは図書室の幽霊と『おなじ』になりたかっただけなのに。『ちがう』から一緒にいられない。『おなじ』ならきっとずっと一緒にいられる。幼いリリィは本気でそう信じていた。
「じゃあ、リリィもゆうれいになる」
「幽霊になったら、お菓子食べられなくなるけど、いいの?」
図書室の幽霊とお菓子を心の中で天秤にかけてみる。天秤はゆらゆら揺れるばかりで定まらない。
「いじわる」
結局決められず、リリィは拗ねてぷうっと頬を膨らませた。
「意地悪で言っているんじゃないよ。……僕は君に夜にしか生きられない幽霊になってほしくない。だから、幽霊になったらもう一緒に遊んであげない」
厳しい言葉を使いつつも、声はいつもよりずっとずっと優しかった。リリィより少し大きな手が伸びてきて、そっと頭を撫ぜてくれる。
「じゃあ……ゆうれいになるのやめるぅ……」
遊んでもらえないなら、幽霊になる意味がない。
リリィは毎日でも図書室の幽霊に会いたいのに、会えるのは月に二度程度だ。……相手は幽霊だから。
「だからあそんで!」
ぱっと顔を上げて懇願すると、幽霊は大きく図書室を見渡してため息をついた。
「僕はここに本を読みに来ているんだけど」
「このあいだの。おはなしのつづき、よんで?」
リリィは両手を膝の上で握りしめて、じいっと図書室の幽霊を見つめる。『このあいだ』はもう三週間以上前だ。読みかけの物語の内容もぼんやりとしか覚えていない。
「わがままだねぇ」
ため息をつきながらも、幽霊は書棚に向かうと迷うことなく一冊の本を手に持って戻ってきた。リリィはぱあっと笑顔になる。口では何と言っていても、すぐに見つけられる場所にしまってあったに違いない。次にリリィに会った時にすぐに取り出せるように。
図書室の幽霊に対してだけは、リリィは安心してわがままが言える。狭いこの図書室という空間の中で完結するような願いならば、何でも叶えてくれるから。
自分自身のことよりも、いつだってリリィを優先してくれる。本を読んでいる途中でも、書き物をしている最中でも、リリィが呼びかけると必ず手を止めて話を聞いてくれる。……非常に迷惑そうではあるけれども。
昼間の世界ではリリィはひとりぼっちだ。でも図書室の幽霊はリリィから片時も目を離さずにずっと見守ってくれる。『今は忙しいから』と後回しにされて忘れ去られてしまうようなこともない。
だから……さみしくない。
リリィの隣に腰を下ろして、図書室の幽霊は本を膝の上に置く。ぎゅうっと腕にしがみついて本の表紙を覗き込んだリリィは、あれ? と、パチパチと瞬きをした。膝の上にあるのは黒い表紙の古めかしい本だ。前回ここで会った時に読んでもらった童話集は、違う色だった気がするのだが……
「本開けないんだけど」
文句は言うけれど、手を離すように言われたことは一度もない。だから安心してリリィは幽霊に甘えられる。ローブに頬をこすりつけると、いつもとてもいいにおいがする。
「昼間に何かあったの?」
利き手ではないせいか、本の頁を捲る手の動きが少しぎこちない。
「おひるねからおきたらだぁれもいなかったの。いつもいっしょのゆうれいさんもおへんじしてくれなかったの。さみしかった……」
一瞬幽霊の手が止まる。不意に訪れた沈黙の中で、リリィは一人ぼっちで目覚めた時のことを思い出していた。大声で呼んでも誰も返事をしてくれない……。みんな忙しいから、リリィのそばにはいてくれない。
――すっと胸が冷える。
リリィから表情が消えたことに気付いた図書室の幽霊は、自由になる方の手でリリィの鼻を軽くつまんでひっぱった。
「いたい~」
はっと我に返ったリリィが文句を言うと、鼻をつまんでいた指先が離れる。同じ手でリリィの頭を撫ぜてから、幽霊は再び本のページをめくり始めた。
何となくおもしろくない気持ちになったリリィは、頭に被っているフードを外そうと伸びあがる様にして手を伸ばす。
もう少しで掴めるというところで、すっと幽霊は姿勢を正してしまうから、リリィの小さな手は宙を切った。リリィは恨みがましい目で幽霊を見上げる。
「僕は幽霊だから正体を暴かれたら消えてしまうよって、いつも言ってるよね? それでもいいならフード外していいよ。……ただし怖くて泣いても知らないからね?」
図書室の幽霊は思わせぶりにふふっと笑う。リリィは頬を膨らませたまま、ゆるゆると首を横に振った。別にフードの中が見たいという訳ではないのだ。骨だけだったりしたらきっと怖くて泣いてしまう。
「リリィはゆうれいさんとずっといっしょがいいなぁ。ゆうれいさんといっしょならさみしくないから」
「僕は幽霊だからいつ消えるかわからない。だからずっと一緒には…………」
幽霊は言いかけた言葉を止めて、静かに首を横に振る。
「……おかしいな。栞を挟んでおいたはずなんだけれど見つからない。どこまで読んだんだったか……」
そして、膝の上の本に視線を落として、頁を数枚めくったり戻したりをくり返しはじめる。左上に日付のようなものが書いてあるのが見える……つい最近同じものを見た気がするのに思い出せない。次第にリリィの視界は紗がかかったようにぼんやりとしはじめる。猛烈な眠気に襲われて、目を開けていられない。生あくびを繰り返しながら、リリィは図書室の幽霊の腕に顔をこすりつける。布が擦れると香りが強くなる。
――これは何の香りだっただろう。
「リリィお嬢さま、廊下に本落としませんでしたか?」
ノックの音がして、ルークの声が聞こえてきた。リリィ顔を上げて瞬きを繰り返す。長い夢から醒めた後のように頭がぼーっとしていた。
部屋に入ってきたルークが手に持っていたのは、緑色の表紙の古い本だった。表紙の色が黒ではないことに事に心の底から安堵する。……でもその理由がわからない。
丁度同じタイミングで水差しを運んできたキースが顔を強張らせている。後ろから覗き込むようにしてルークが手に持っている本のタイトルを確認すると、彼もまたほっとしたような表情を浮かべた。
「……あ、童話集ですね……よかった。あれ? よかったって……何でだろう……」
どうしてそんな風に感じたのか自分自身でもよくわからないらしく、しきりに首を捻っている。
室内に何やら妙な空気が流れた。何か大切な用事を忘れてしまっている時のような、微かな胸騒ぎを感じている。早く思い出さないといけないような気がするし、でも、それほどのことでもなかったようにも思われる。
そもそもリリィは外に出ない。出掛ける予定も人と会う約束もない。すべての行動はこの幽霊屋敷の中のみで完結してしまうのだ。それに、リリィが忘れてしまって誰かに迷惑がかかるようなことは、ルークが代わりに覚えておいてくれているはずだから問題ない。まぁいっか。とリリィは結論付けた。
「図書室から持ってくる時に落としたのかも。ありがとうルーク」
差し出された本を受け取って、パラパラめくってみる。キースの言う通り、共通語で書かれた古い童話集だ。この本を教科書にして共通語の勉強をしたから、中身はほとんど暗記している。
本を閉じてタイトルを指先でなぞる。
何度も何度も読み聞かせてくれた声は……もう思い出せない。
けれど、相手は幽霊だ。十年以上経つし、そろそろ復活しているかもしれない。
最近ずっと夜更かししていなかった、久しぶりにルークの目を盗んで夜中の図書室に忍び込んでみようか。……声をかけてみて返事がないなら、そのまま戻ってこればいい。
ふふっとちいさく笑っているリリィを見て、何やら良からぬことを考えていると察したらしく、キースがやれやれとばかりにため息をついていた。
狙われているのは自分ではなく隣を走っている男だ。
より正確に言えば彼が持っている黒い表紙の古い写本。
これ、一緒に逃げる必要ないんじゃなかろうか……と、パトリックはふと気付いてしまった。
どうしてこんなのに付き合って一緒に走っているのだろう。
時折思い出したかのようにナイフが背後から飛んでくる。狙いが正確すぎてパトリックにはかすりもしないが。相手が狙いをこちらに定めれば、パトリックの人生はあっさり終わる。隣を走っている男のように飛んでくるナイフを器用に避けて走るなんて芸当は絶対にできない。見世物にしたらお金が取れそうだ。
「しっつこいな…………と、あぶねぇ」
レナードが体を捻るようにして上体を傾けた途端に、前方の木の幹に投げナイフが突き刺さった。それを片手で抜き取って背後を振り返り投げ返す。……何故応戦する!
「おとなしく、捕まって、しまえっ」
息が切れているせいでうまく喋れない。ついでに後ろを振り返る余裕もない。相手がナイフに当たって追跡を諦めたということはなさそうだ。酒浸りの不摂生な生活しているのに、どうして隣の男は平然と走っているのだろうか。納得がいかない。
「というか、大人しく、渡せよ、その写本っ。それでっ、解決、するんだろ」
「これ手放すと今回の仕事の報酬出ないがいいのか?」
……よくない。でも追跡者はレナードが隠し持っている本を取り返すまで諦めてくれそうにない。横からかすめ取ったのはこっちだ。だからナイフが飛んできても文句は言えない。
「酒代のツケが溜まってんだよな」
「野垂れっ、死んでっ、しまえーっ」
パトリックは腹の底から叫んだ。
ことの起こりは土砂降りの月曜日だった。
その日は、窓から見える空もパトリックの心もどんよりと灰色だった。
「しばらく実家に戻るんだと」
夫婦喧嘩か! と目を輝かせたパトリックに虫けらを見るような目を向けながら、「親戚が遊びに来るらしい。で、一週間休み」と、レナードが大変面倒くさそうに続けた。パトリックの目から一瞬にして光が失われた。
心の癒しであるマーガレットのいない事務所は、放置されただ朽ちてゆくのを待つ廃屋のようだった。それは比喩などではなく、あっという間に……探偵社はゴミ溜まりと化してしまった。
レナードは片付けない男だ。物も人間関係も痴情のもつれからくるあれやこれやも。
脱いだら脱ぎっぱなし、出したら出しっぱなし、落としたら落としっぱなし。でも本人はどこに何を置いたのかちゃんと覚えている。だから散らかしているのではなく、広げているという認識らしい。……多分どこに何があるかわからないのが、『散らかっている状態』であり。どこに何があるのか把握している状態が『広げている状態』だと彼は言いたいのだろう。
パトリックも所長も整理整頓は得意ではない。だからレナードに対してそれほど強く注意できないのだ。片付けなければと思うけれど、どこから手を付けていいのかまったくわからない。
それ以前に、使ったら元の場所に戻す。たったそれだけのことが、全員できない。だから事務所はどんどん荒れてゆく……
事務所のドアを開ける度に、言葉を失う。
結局、毎日毎日マーガレットが掃除をしてくれていたから事務所内の秩序は保たれ続けていたのだ。
改めて彼女は自分の人生に必要な存在なのだと、パトリックは痛感したのだった。……とりあえず、離婚してほしい。理由は何でもいいから離婚してほしい。
依頼人が来た時に入ってもらう場所もない……というか、この状態を目にした依頼者は即座に廃業したと判断して回れ右して帰る。仕方がないので、ドアから入ってすぐの場所に応接セットを移動させた。奥の惨状が依頼人の目に入らないように衝立で隠すことになった。
床がほとんど見えないくらい散らかっていたため、応接セットの移動は困難を極めた。数歩進むごとに行く手を阻まれる。ゴールはすぐ前に見えているのに全然たどり着けない。パトリックと所長が悪銭苦闘して椅子やらテーブルやら運んでいる間、二日酔いのレナードは机に突っ伏してうめき声をあげていた。
注意するマーガレットがいないので、これ幸いと彼は不摂生極まりない生活をしている。……それでも美形は美形だった。腹が立つ。
半日ほどかかってすべての作業を終え、ドアの前に立って衝立の隙間から奥の様子が見えないかどうか確認していた時――来客を告げるベルが鳴った。
依頼者は、流行に疎いパトリックですら名前を聞いたことがあるような有名人だった。そして、依頼内容は所長指名の不倫調査依頼ではなかった。
本来ならレナードが対応すべきだったのだが、人前に出せる状態ではない。仕方ないので所長とパトリックが並んで話を聞いた。
「……『黒い写本』か……厄介だな……」
テーブルに突っ伏しながらも一応漏れ聞こえてくる声は拾っていたらしい。依頼人が帰った後、パトリックが衝立をどかして奥を見ると、レナードは椅子に凭れて天井を仰いでいた。
「向こうが提示してきた報酬の桁がおかしいよね……やっぱりヤバいやつなの? 写本って何」
ずらした衝立を元の位置に戻しながら尋ねると、レナードは憐れみを込めた目でパトリックを見つめた。
「あー……おまえ田舎者だから知らねーか」
その通りだが言い方やら表情やらがむかつく。ひくっとパトリックは口元を引きつらせた。




