17 「がんばって会いにおいで」 その13
――全員疲れていた。色々ありすぎて。
リリィが運河を流れたのは遠い昔のことのようだった。エラとナトンのことも気になる。心配だ。だが今は目の前の事をひとつずつ片付けてゆくしかない。
「ヒューゴ、こちらはエミリーさんとジェシカさん。ロバートの知り合いの娘さんで、うちに行儀見習いに来ているの」
イザベラの横に立っていた二人が、ゆっくりと丁寧にお辞儀をする。完璧だ。リリィは心の中で拍手を送る。
エミリーもジェシカも顔を上げない。お互いのために絶対に顔を見るなと言ってある。純真で可憐な美少女を目の当たりにしたヒューゴが動揺して、あの夏のピクニックの時のように、自分を制御できなくなる可能性があるからだ。何かあった時のために、二人の隣にはアレンが立っていた。
「という訳だからよろしくね……」
何か言おうとしたヒューゴを遮って、トマスが間に入った。
「黙ってていいよ。口開くと自分でも何言うかわかんないよね? リリアの時みたいに嫌われたくないよね?」
ヒューゴが気まずそうに目を逸らす。眉間に皺がないから、だいぶまともな状態には戻っているのだろう。イブニングドレスコートを着て、凛と立つ姿は貴公子然としている。
その隙に、イザベラとアレンはエミリーとジェシカを部屋の外に連れ出し、キースだけをその場に残して、全員そそくさと廊下を移動する。だんだん速足になり、その内走り出す。食堂に全員が入った途端に、トマスがドアを閉めた。
「完璧だったわ」
イザベラに褒められて、エミリーとジェシカがへなへなと座り込みそうになる。慌ててアレンとトマスが椅子を差し出した。
「こ……こわかったです……」
「頭の中真っ白でした……」
椅子に座った二人は今になって足に震えが来たようだ。確かに、思わずリリィが顔をしかめてしまうくらいにヒューゴは威圧的だった。
「結局リリアの言葉が効いてたのかしらね。ヒューゴお兄さま、最後まで大人しく黙って立っててくれたから」
廊下に響き渡った例の言葉はヒューゴにしっかり聞こえていたらしく、うまい具合に牽制になったようだ。途中で異民族だ何だ言い出さなくて本当に良かった。
「どうしてああ睨むかなぁ。本当になんで女性の前だとああなっちゃうんだろう……」
トマスがため息をつく。普通にしていれば、高潔な人という印象を周囲に与えるのに、女性を前にするとふんぞり返った偉そうな人になり下がる。そして、後でものすごく落ち込むのだ。今頃キースが慰めている。
ああ、過去の自分が再現されている。……つらい。リリィは思わずアレンに駆け寄ると、どうしましたか? と言いたげなアレンを見上げて、心の底から謝罪した。
「ごめんなさい。アレンお兄さま。私、本当に態度悪かったわ。あれはないわね。本当にあれは酷い……」
困ったような顔で微笑まれると、余計にいたたまれない。
「いえ……大丈夫ですよ? あんな感じではなかったです。今思えば可愛らし……」
「それは今大人の目線で思い返しているからよっ。ああもうほんとに嫌っ。なんであの人連れて来たのよお兄さまっ」
リリィは子供のように喚きながら、八つ当たり気味にトマスを睨みつけた。
「うん……ごめん。すっごく後悔してる。でもほら、とりあえず一つ片付いた。よかったよかった。この調子でひとつひとつ確実に終わらせてゆこう。次、夕食会ね。はい、息吸ってー吐いてー」
兄に言われるまま深呼吸するが、落ち着ける訳がない。
――仕方がないから、一緒にお茶を飲んであげるわ。感謝しなさい!
全く可愛げのない幼い声が頭の中で響く。腰に手をあててふんぞり返っていた幼い少女と、額に手を当てため息をついていたルークと、困ったように笑うリリア。そして……言葉を失っているアレン。
「もういやっ。本当に恥ずかしいっ。消え去りたいっ。何様なの私……」
リリィは顔を両手で覆って叫びながらしゃがみ込んでしまう。アレンが焦ったようにリリィの前に膝をついた。
「落ち着いて下さい。……忘れます。全部忘れますから」
「ほんとう?」
迷子の子供にでもなったような気分で、アレンを見上げる。アレンが真剣な顔で深く頷く。
「はいはい、良かったね。ほらほらリリィ立って。せっかくのドレスの裾が皺になるよ。アレンがああ言ってるんだから、今は忘れなさい。……夕食会で失敗するよ」
トマスに腕を引っ張られて立ち上がる。そのままアレンから引き離され、リリィはエミリーたちの座る椅子の前に連れて来られた。リリィが過去の恥ずかしい自分を思い出して大声を出して走り回りたいような衝動を堪えている間にも、イザベラとエミリーたちの会話は続いていた。
「ふたりはここでゆっくり夕食を食べて、今日はもう休みなさいね。色々ありすぎて訳がわからないと思うのだけれど……」
「かえって色々考えなくてすんで良かったんです。明日から落ち込んでご迷惑をかけることになると思うのですけど……今夜はよく眠れそうです」
「迷惑なんて思う訳がないでしょう?」
イザベラがそう言って、しゃがみこんでエミリーとジェシカの手を取った。
「明日は一緒に朝ご飯食べましょうね。……アレン、ふたりのことを頼んだわよ。ロバート呼んでおいたから、その内ふらっと現れると思うわ」
イザベラが立ち上がって、柔らかく微笑んだ。
「え?」
最後の一言を聞いて、トマスが顔色を変える。
「……ナトンさんの話を聞きたいなら聞けばいいし、今日は無理ならやめておいてもいい。話題には事欠かない人だから」
「ちょっと待って下さい。ロバート呼んだんですか?」
焦ったように言うトマスの言葉はきれいに無視される。
「ロバートの話は、そこら辺の冒険小説よりずっと面白いわよ。サメの餌にされそうになったり、生贄にされかけたり、無理矢理結婚させられそうになったり……」
「リリィ、まずい」
イザベラに相手にされなかった兄が、リリィを振り返った。リリィはエミリーたちと話している母の袖をちょんちょんと引っ張る。イザベラは立ち上がって娘の方を見た。
「ねぇねぇ、おかあさま、本当にロバート、呼んだの?」
「ええ、そろそろ着くころじゃないかしらね」
「なんで、なんで、ロバート呼んだんですかっ。せっかく引き離しといたのにっ」
トマスがイザベラに詰め寄る。イザベラはそこでようやく、しまった! という顔になった。
「……エミリーさんたちが、アレンと三人で食事って気詰まりかなって思ったの。そこまで頭回らなかったのよ。そうよね、そうだったわ。最近離れてたから……すっかり忘れてたわね……」
イザベラが気まずそうにすいっと視線を窓の外に逃がす。外はもうすっかり夜だ。
「……何か問題でも?」
エミリーが不思議そうに尋ねる。リリィは額に手を当てて、ちいさくため息をついた。
「……あのね、基本的にルークって落ち着いてて、理性的な人なんだけど、ロバートに対する時だけちょっと人が変わるのよ」
「仲が良くないのですか?」
「ロバートは早くにご両親をなくしたルークにとっては、兄……というか父親代わりだったから、そういう訳ではないの。……ただ、リリアがものすごくロバートに懐いていて、昔からよくロバートのおよめ……」
トマスが慌てた様子で唇に人差し指を当てる。リリィもしまったという顔をした。それでエミリーたちも大体の事情は察したようだ。しんっとした沈黙が食堂に落ちる。
ノックの音が響き渡った。全員恐る恐るという感じで、ドアを見る。
食堂に入ってきたルークは、それは綺麗な作り笑いを浮かべていた。落ち着いた様子でトマスの目の前までやってくる。
「そろそろ始めましょうか。公爵家からの応援も到着していますし、お客様は客間の方へご案内しました。居間の方も見てきましたが、ヒューゴさまも落ち着いていらっしゃいました」
何だろう、ルークの背後に深い闇が渦巻いているような幻影が見える。立っていた全員がルークから距離を取る。
「…………ところで、何でロバートまで一緒に来てるんでしょうね?」
誰に言うともなしに告げられた言葉に、全員が思わず体を後ろに引いた。
「さあ夕食会行きましょう、夕食会。さっさと片付けましょう。はい、今すぐ切り替えましょうね、ルークさん、目が怖いなぁ」
キースが食堂に駆け込んでくると、ひきつった笑みを浮かべながらそう言った。ヒューゴを慰めルークを宥め、キースも相当忙しい。
「……言語変えるか」
言葉が荒れだすと危険だ。
「お願いやめて」
トマスが情けない声でそう言った時、大変可愛らしいメイドが、お客さんと連れ立って楽しそうに食堂に入って来た。キースが無言で妹に駆け寄ると、ロバートの隣で微笑む妹の肩を持って無理矢理引き離す。そして、意味がわからないという顔をしているリリアをどんっとばかりにルークの方に突き飛ばした。大きくよろめいたリリアをルークが抱き留めるのを確認した後、ぐいぐいロバートの背中を押して食堂から連れ出す。
「ロバートさん、厨房の方でお話が。……嫌がらせですか嫌がらせなんですね。いい笑顔ですねー。楽しそうですねー。腹立つな」
「ヒューゴさま来てるって聞いたからな。本っ当に面白いよなあの二人」
そんな声が廊下から聞こえて来た。楽し気なロバートの笑い声も聞こえる。また余計な事を! と、リリィは拳を握りしめた。
「ルークさま、手土産にロバートがおいしそうな……」
リリアがロバートを呼び捨てにした瞬間、室温が下がった気がした。
「リリア、ちょっと黙ってなさい」
何やら嬉しそうにルークに言おうとしたリリアを黙らせる。
「ルーク、さぁ夕食会行くわよ。私の人生がかかってるのよ。ちゃんとして! リリア、あなたルークが大好きよね。ロバートより好きよねっ。一番大好きよね」
「え?」
ルークに抱きしめられているリリアが顔だけリリィに向ける。
「え? じゃないの。はい、なの。リリアはルークが一番大好きよね? ロバートじゃなくてルークのおよめさんになるわよね? ……ルーク聞いて。私はロバートよりルークが好きよ。ええ大好きよ」
リリィは少し俯いて「覚えてなさいよ、ロバート」と床に向かって呟く。
あまりに切羽詰まったリリィの様子を見て、リリアは戸惑いながらもルークを見上げる。ちらっと横目でリリィを見てから、もう一度ルークを見上げて、一瞬考え込む。
「……えっと、私もちいさい頃からルークお兄さまが一番だいすきですよ?」
ルークを見上げたリリアはにっこり微笑んでそう言った。あざとく可愛らしく首を傾げるが、あまりにも相手の反応がないため、さすがに傷付いたらしく、ちょっと涙目になる。
いつもはこれでいけるのに今日はダメだ。……確かに、ルークはかなりイライラしていると先程自己申告していた。
妹が助けを求めるようにちらっとリリィを見る。やれ、とばかりにリリィは視線を強めた。リリアはしばらく視線を彷徨わせた後、ぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めたように小さく息を吐く。真っ赤になって何度か口ごもった後。か細い声で、
「私はルークさまとずっとずっと一緒にいます。あの……だいすきです。なので、えっと……あの……お……およめさんに……して下さ……い」
一生懸命たどたどしくそれだけ言うと。衆人環境の中、恥も外聞なくぎゅーっとばかりにルークにしがみ付いた。リリアは顔を真っ赤にして震えながら必死に羞恥に耐えていた。気持ちはわかる。さっき自分も同じ気分を味わった。
ルークから噴き出していたどす黒い何かが少し弱まる。
……よし、持ち直した。
「そういう訳で行くわよルーク。今すぐリリアを離しなさい。お客さまを待たせるのは良くないわよね。言語変えたいなら変えなさい。何にでも対応してみせるわよ!」
自棄になったようにリリィはそう宣言し、リリアをルークから引っ剥がすと、エミリーを手招いた。慌てて立ち上がったエミリーとジェシカに、両手で顔を覆って震えているリリアを託し、ルークの腕を引っ張り無理矢理食堂から連れ出す。
廊下に出たところで、ルークが立ち止まった。今思い出したというように口を開く。
「……あ、言い忘れていましたが、三人程お客様がいらしてますので、夕食会の人数は計八人です」
は? というように、トマスとリリィはルークを見上げた。彼は氷のような目をして二人を見下ろしていた。夕食会に向けて、完全に意識を切り替えたようだ。
「ヒューゴに自分を認めさせたいのでしょう? この勝負、ルークがあなたに有利な条件を揃えてくれているわ。普通にやれば負けることはないから、がんばってみなさい?」
社交用の顔になったイザベラは、嫣然と微笑んだ。なんだかとても嫌な予感がして、リリィはトマスと顔を見合わせた。トマスも眉間に皺を寄せている。
ガルトダット伯爵家の当主は兄なのに……やはり今回もないがしろにされていた。
「会話に困るようなら、最近読んだ本について聞いてみて下さい」
リリィの手をそっと外しながら、一瞬だけルークは優しい目をした。
「……では、ご案内いたします」
冷たい声でそう告げてから、ルークは先に立って歩き出す。手助けできるのはここまでなのだと、線を引かれた気がした。