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20240107 その3



「置いていきましょう。一人の犠牲で全員助かるわ!」


 リリィはそう言ってくるりとアレンに背中を向け歩き出そうとした……が、アレンにスカートを掴まれてつんのめった。


「へ?」

 

 咄嗟にリリィは体を支えるために両手を前に出して、手近にあったものを掴み……


「えぇぇー」


 突如右腕を掴まれたキースは、リリィの体重を支え切れずバランスを崩して大きくよろめき……


「危ない!」


 もつれあって崩れ落ちかけた二人を、駆け寄ってきたダニエルが慌てて支えた結果――誰一人その場から身動きが取れなくなった。


 自分たちが今どういう状態なのか鏡がないからよくわからない。


 左手と膝を地についているキースの右手を、リリィが両手でがっちり掴んでおり、キースを吊り上げているリリィの腰の部分を、丸太を抱えるかのようにダニエルが持ち上げていた。

 

 ――これは、どの順番で手を離すのかが結構重要かもしれない。


 そして、こんな状態であるにも関わらず、リリィのスカートはアレンにしっかり握られていた。


 全員から「何ってことするんだ!」という冷たい目を向けられたアレンは、開き直ったようににっこりと笑った。


「逃がしません」


「意味わかんないわよ。私たち関係ないじゃないっ」


 リリィはつま先だけが地面についている不安定な状態で振り返る。そんな無駄な事をしている間にも、厄介ごとはじわりじわりと東屋に迫ってきていた。


「アレンさーまー! 探しましたよ。さぁ、ダンスホールに戻って一緒に踊りましょう!」


 自称幼馴染の令嬢は、庭の植栽を容赦なく踏み荒らしながら前進を続けている。あと一分もしない内にここまで辿り着いてしまうだろう。キースはすでに幽霊を見てしまった時の顔になっていた。


「リリィさまって、私の婚約者でしたよね。……だから、関係ないことないですよね!」


 アレンの表情は何だか妙に明るかった。……良からぬことを思いついたに違いなかった。


「つまり俺は関係ないですよね。お願いですから巻き込まないで下さい。リリィお嬢さま、手、離して下さい」


 キースは涙目でリリィに懇願し、


「珍しく、まとな事を言っていらっしゃる……」


 道に落ちている虫の死骸を見るような目をして、ダニエルが感情の欠落した声でそう言った。


(私は伯爵令嬢私は伯爵令嬢私は伯爵令嬢……)


 リリィは自己暗示をかけるように心の中で唱えながら、腹の底から湧き上がる怒りのままに叫びそうなになるのをぐっと堪えていた。


「酔いがさめたのなら、さっさと行って踊ってきなさいよ! まずは自分の力で何とかしようと試みるべきなんじゃない?」


 深呼吸して気持ちを落ち着かせてからアレンを振り返り、声が大きくなりすぎないように気をつけながら早口でまくし立てる。


「とにかくスカート離して! 紳士としてあるまじき行為よこれ!」


 酔っぱらって女性のスカートを握りしめている王子様なんて絶対に嫌だ! と、心の底からリリィは思った。……使用人の腕を掴むのも伯爵令嬢としてはあるまじき行為だろうが、これは不可抗力だ!


「無理だし、いやです」


 目を吊り上げて怒っているリリィに対して、アレンは落ち着き払った声で言い切った。


(伯爵令嬢伯爵令嬢伯爵令嬢……)


 リリィは目を閉じぐっと奥歯を噛みしめて、反射的に罵倒しそうになるのを何とか堪える。


「今私が彼女を伴ってダンスホールに戻ったら、トマスさまとルークの努力が無駄になります。……というか、リリィさまが近くにいる限り、ルークとダニエルは私を見捨てられないってことに、今気が付きました」


「はっあぁぁぁぁっ?」


 怒りが頂点に達したリリィは、僅かに残っていた伯爵令嬢としての品位をかなぐり捨てて、腹の底から叫んだ。


「まさかの人質……」


 キースが茫然と呟く。


「はは……はははは……」


 リリィの頭上から押し殺した笑い声が聞こえてきた。下腹に回されたダニエルの腕が小刻みに震えている気がする……が、怖くて表情を確認する気にもなれない。楽しく笑っている訳ではないことだけは確かだ。


「やっぱり俺ここにいなくてもいいみたいなんで、リリィお嬢さま、俺の腕から手を離してちゃんと立ちませんー?」


 ダニエルの方を見ないように顔を背けながら、涙声でキースがリリィに提案し……


「いやよ。絶対に逃がさないわよ。キースこそ自分の足でちゃんと立ちなさいよ!」


 即却下されて、目から光を失った。


 やっていることはアレンと大差ないという自覚はしつつも、逃がしてなるものかとリリィは両手に力を込める。キースは精根尽き果てた様子で素直に釣り上げられていた。……結果、ダニエル一人で、二人分の体を支えている状態が続いているが、彼は喉の奥で笑っているので体力的にはまだ余裕がありそうだ。

 

「アレンさーま! 随分探しましたよ?」 


 ざっと草を踏み分ける音がして、朗らかに歌うような声がすぐ背後から聞こえてきた。

 間に合わなかった……と、リリィは目を閉じて全身の力を抜いた。キースの腕がするりと手の中から抜け落ち、「ええーっ」という情けない悲鳴と地面に重いものが落ちたような音が聞こえた気がした。……片手と膝は地面についた状態だったから大怪我を負うようなことはあるまい。


 ダニエルがゆっくりとリリィを地面に下ろす。しっかりと自分の足で立ってから、リリィはとうとうこの場に辿り着いてしまった令嬢に向かって頭を下げた。


「ところで、その人たちは……」


「私は酔い覚ましのお水をお届けしたキッチンメイドです! 地面に倒れているのが給仕で、黒い服を着ているのは御者です! 酔ってこちらで休憩されていた王子様にお水をお届けしました! では我々はこれにて失礼いたします! どうぞお二人でごゆるりとお過ごしくださいっ」


 顔を上げることなく、地面に向かって大声で捲し立てる。


「お嬢さま、冷たい飲み物などいかがですか? 今から取りに行ってまいりますので」


 愛想笑いを浮かべながら、地面から体を起こしたキースが後を続ける。


「今はいらない。……ん? あなた……どこかで……」


 何かに気付いたらしき令嬢が、リリィの正面に回り込んで顔を確認しようと覗き込んでくる。リリィは不自然にならない程度に少しだけ顔を背けた。しかし、その行動でかえって怪しまれてしまったのか、「んん?」と、彼女はしゃがみ込んで下からリリィの顔を確認しようとしはじめた。


 筋違いを起こしそうになり顔を上げると……ずっとリリィを見ていたらしいアレンと目が合った。


 その瞬間、嫌な予感が悪寒のように背中を駆け下りた。気付けばリリィはダニエルを壁にするようにして身を隠し、どんっ! と、目の前にあった背中を両手でアレンの方に押し出していた。


「私が心から愛しているのはあなたです。どうか私と結婚してください」



 ――こうして、不幸な事故は起きてしまったのだった。





 この世界のリリィはアレンの婚約者だ。つまり、アレンがリリィに求婚することに問題はない。……ただ動機があまりに不純だった。


 断言する。あの求婚の言葉の中には愛情などひとかけらも込められていなかった。


「落ち着いてダニエル。押し付けてごめんなさい。私が悪かったわ。だからお願い踏まないで。全部お酒のせいだからっ」


「ダニエル落ち着け。相手は酔っ払いだから。血が出たら止まらなくなるからーっ」


 しかし、二人の言葉にダニエルが心動かされた様子は全く見られなかった。虚ろな目をして何やらぶつぶつ口の中で呟いている。


「毎回毎回やってること最低すぎるだろうばかなのかな頭の中空っぽなのかな本当に消えてくれないかな今すぐに目の前から消えてくれないかな何で俺夢の中でまでこんなのの面倒みさせられてるんだろうふざけんな消えてくれ……」


 園丁の手によって綺麗に整えられたはずの花壇は踏み荒らされて、見るも無残な状態になり果てた。ダニエルに背中を踏まれている王子様はピクリとも動かない。東屋から投げ捨てられて花壇の真ん中に落ちた時にはまだ少しは動いていた。害虫を駆除する目をしたダニエルに背中を踏みつけられてから動かなくなった。


 リリィとキースは、左右の腕にしがみついて両側から説得を試みていた。……が、もう何を言ってもダニエルの耳には届かないような気もしている。

 一応手加減しているようだし、血だまりもできていないから大丈夫だろう。レナードはこういう状態でも毎回ちゃんと生きていた。


 アレンを迎えに来た自称幼馴染令嬢は、東屋の柱に凭れるように座り込んだ状態で、声を殺して泣いている。アレンが花壇の中に放り込まれるのを目の当たりにした段階で、ショックのあまり腰が抜けてしまったのだ。


 すぐ目の前で、好意を寄せている相手が黒ずくめの男に投げ飛ばされ容赦なく踏みにじられているのだ。『王子様が暗殺された』と錯覚しても不思議はない。恐怖のあまり声も出なくなるのも無理はなかった


 ……成程、これが普通。と、リリィは納得した。


 同じ光景を見たリリィがいたって冷静でいられたのは、単純に……見慣れていたからだ。


『大丈夫。多少しなびていても、しばらく水につけておけばちゃんと元に戻ります』


 レナードの背中に靴の踵をグリグリとめり込ませながら、オーガスタはいつも素敵な笑顔でそう言っていた。だから、アレンも水につけておけばその内元に戻るはずだ。


「キース、屋敷に戻ってルーク探してきて」


 今のこの状況を他の招待客に目撃される訳にはいかない。柱の陰で怯えている彼女のように、アレンが暗殺されたと勘違いしてしまう可能性がある。


 ――そうなれば、ユラルバルト伯爵家が没落する原因となった、あの悪夢の舞踏会の完全再現になってしまう!


「いや無理ですよ。こんなところに女性二人だけ置いてなんていけませんて」


 泣きながらそう言ったキースは使用人の鑑だ。でも、ここでダニエルの腕にしがみついていても状況は好転しない。


「いいから、大丈夫だから! 私この格好でダンスホールに戻るわけにはいかないのよっ」


「いや絶対無理ですって、俺だってこんな顔じゃ中に入れてもらえませんよ」


「そんなこと言っている場合じゃないでしょう! 強行突破しなさいよ」


「だから無理ですってーっ」


「やる前から諦めないでよ」


「じゃあリリィお嬢さま行って下さいよ」


「無理っ!」


「やる前から諦めるなって、今言ったじゃないですかぁ」


「どうしたって無理なものは無理―っ!」


 会話がどんどんおかしな方に向かってゆく。現実逃避しはじめたリリィとキースが中身のない言い争いをしていると、屋敷の方から今度は知っている人の声が聞こえてきた。


「こちらです、お急ぎください。東屋の方ですっ」


 リリィとキースは声のした方に期待に満ちた目を向ける。イブニングドレスコートを着たブレアが、トマスを連れてこちらに向かってくるのが見えた。


 ――コレじゃない。


 期待した分裏切られたショックは大きかった。リリィとキースは露骨にがっかりした顔になり、息を切らした状態で東屋に辿り着いたトマスの眉間に深い皺が寄った。


「あのさぁ……」


 それだけ言って呼吸を整えているトマスの前では、「消えろとにかく消えろ今すぐ消えろ」とダニエルがアレンの背中に足を乗せたまま呪詛を浴びせかけている。……怖い。


「……まぁいいや。……で、一応聞くけど、何があったの?」


 げんなりした顔でトマスが尋ねた途端に、ダニエルがぴたっと動作を止めた。……何だろう。頭上から無言の圧力のようなものをひしひしと感じる。リリィとキースはその謎の力に押し退けられたかのように、左右に顔を背け合った。


「お、俺たちは何も見てないし、聞いていません! 全部きれいさっぱり忘れましたぁ! もういやだーっ」


 キースが大粒の涙を地面に落としながら精一杯の声で叫んだ。


「わ、私も何も覚えていないわよっ」


 続けてリリィも負けじと声を張った。


「あと、そこで座っているあなた! あなたも何も見てないし聞いてないし全部忘れたわよね! そうよね! なーんにも覚えてないわよね!」


 突然呼びかけられた彼女は、髪を振り乱して睨みつけてくるリリィを見た瞬間に、ひいっと身をのけぞらせ、それしかできない人形のようにコクコク何度も頷いた。今にも気絶しそうなくらい顔が真っ青だった。彼女からしてみれば、『今ここで見たことを他に漏らしたら、命の保証はないぞ』と脅迫されたようなものだったろう。


「ほらっ、誰も見てないわ。だから、何がどうしてこうなったのか、ぜんっぜんわからないっ!」


 自棄になってリリィは、この世の理を説くかのように声を張った。言い切ってしまうと、まるで本当にそうであったように錯覚してしまうから不思議だ。そう自分たちは何も見ていない、リリィがアレンから逃げたせいでダニエルが……いや、何も見ていない。


「……あーうん」


 トマスは手を腰に当てて夜空を見上げると、はあああっと、魂が抜け落ちそうな深いため息をついた。


「しょうがないなぁ……、キースとリリィはダニエルから手を持ったまま一歩後ろに下がりましょう。後ろ見ながらゆっくりね。転ばないように気を付けるんだよ? ブレアはそっちの子のことお願いね」


 声をかけられたブレアはひとつ頷いて東屋の壁に凭れ掛かっている令嬢に駆け寄ると、「失礼いたしますお嬢さま。恐ろしい思いをされましたね。もう大丈夫ですよ」と声をかけてから、手に持っていたブランケットを空気を包み込むように大きく広げて、彼女の頭からふわりと被せた。トマスと一緒にこちらに向かってくると時には何も持っていなかったはずだ、一体どこから取り出したのだろう……と、リリィは疑問に思った。


「二人とも一歩下がったね。そうしたらダニエルから手を離して目を閉じましょう。……はい、みんなで心を落ち着けるために深呼吸するよー。息を吸って―。吐いて―。もう一度吸って―」


 トマスの間延びした声に合わせて、素直に目を閉じて大きく息を吸う。その最中に、「ぐっ」という布越しのくぐもった声がして、どさっという不穏な音が聞こえてきた。驚いて思わず目を開けると、アレンの上に折り重なるように倒れかけたダニエルを、ルークとブレアが前後から支えていた。

 リリィとキースが目を閉じて深呼吸している間に、二人が何かやったらしかった。ブレアの足がアレンの背中に乗っているのは……わざとかもしれない。


「アレン様は残念ながら普通に寝てるだけです。すり傷程度ですね。ダニエルの方がちょっと……うん……しばらく療養が必要かな?」


「力加減が上手くいかないんですよね。手加減はしたつもりだったのですが……」


 ルークが難しい顔をして何やら怖いことを言っている。


 ――平然としているこの人たちが、結局一番怖い。と、リリィとキースは心の底から思った。



次がエピローグです。

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