20240107 その2
すみません……終わりませんでした。
ゆっくりと瞼を持ち上げて周囲を見渡す。最近ようやく見慣れてきた豪華な自室のベッドでリリィは横向きに寝かされていた。背中がスース―するから、ドレスの背中は全開でコルセットも緩められているようだ。髪も解かれてゆるく三つ編みにされている。
「あー、起きましたー? 大丈夫ですかぁ?」
ベッドサイドの用意された椅子に座っていたキースが、生気のない声でそう言った。茶色の髪の鬘を被りメイド服を着せられていた。……全く違和感がないことを憐れむべきなのか一瞬迷った。
「……ごめんキース、私のせいで」
すっと視線を逸らして沈痛な面持ちでそう声をかけると、キースは力なくへらっと笑った。
「謝られると余計に辛いんですけどー。でも、夢なんでどうでもいいですー。起きたなら、俺着替えてもいいですかぁ」
「その前にコルセット外すの手伝って」
「えー俺ぇ?」
「他に誰がいるのよ」
ベッドからゆっくりと起き上がって、端に腰かける。どのくらいの間眠っていたかはわからないが体調はすっかり回復していた。めまいがするということもない。
「いいですけどねー、別に……」
キースは慣れた様子で紐を緩めてゆく。現実世界では老眼のおばあちゃんたちがこういった細かい作業をやりたがらないので、キースがリリィの着替えの手伝いに駆り出されることが多いのだ。
鎧のようなコルセットが外され、リリィは解放感からため息をついた。
「はい、これ着といてください」
肩にぱさっとかけられたのは、キースが着ていたらしき黒いワンピースだった。すぐに脱げるように服の上から羽織っているだけで、背中のボタンをはめていなかったようだ。
確かに、メイド姿ならコソコソ屋敷内を動き回っていてもそれほど目立たない。誰かに見咎められたらマーガレットのふりをして誤魔化すこともできる。
「着替えたら私、図書室行きたいんだけど。舞踏会始まる前に扉の鍵開けといたのよね」
ゆっくりと立ち上がって、ベッドの上にワンピースを広げる。キースも背中合わせ状態でコートを羽織っているのだろう。袖に腕を通す音が聞こえてくる。
「『図書室の幽霊さん』はここの世界には存在しないってルークさん言ってましたよ。このお屋敷、幽霊出ないみたいです。確かに、全然話聞かないですよね……」
ワンピースのスカート部分を持ち上げた状態で、リリィは動けなくなってしまう。ずきりと胸の奥が軋んだ。
「……そっか。そうなんだ」
声が思いがけず湿っぽくなっていることに気付いて焦った。でも、この世界に図書室の幽霊が存在したとしても、その幽霊はリリィと過ごした時間の記憶を持っていないのだから……これでいいのかもしれない。そう自らに言い聞かせて、勢いよくワンピースを頭から被る。
「……俺、着替え終わりましたけど、背中のボタン留めましょうか?」
「うん、おねがい」
慌てて両腕を袖を通して努めて明るい声で返事をする。「失礼します」と言ってキースが背中に並ぶボタンを留めてゆく。……そして、しんみりとした声で言った。
「このワンピースって、現実のリリィお嬢さまのサイズに合わせてルークさん用意したんですね……」
……背中の布が余っていると言いたいらしい。『図書室の幽霊』がいないことに落胆しているリリィの気を逸らそうとしたのかもしれないが、その言葉はぐっさりと胸に刺さった。なけなしの乙女心は深く傷ついた。
「明らかに夢の中の私の方が体重軽いわね。かなり美容にも気を使っているみたいだし、今日のこの舞踏会を楽しみにしていたかもしれない……」
胸の痛みに耐えつつ、リリィはコルセットを身に着けていなくてもしっかりとくびれている自分の下腹に目を向けた。この世界のリリィは、流行に敏感で美意識が高い。もしかしたら、このドレスを着て婚約者の王子様と踊る日を心待ちにしていたのかもしれない。
音楽が聞こえてくるからまだ舞踏会は続いているのだが……会場に戻ろうにも自慢のドレスはすでに皺だらけだし、丁寧にコテで巻いて結い上げられていた髪も解けてしまった。
見栄を張って限界までコルセットを締め付けないと身が入らないドレスを用意するからこういうことになったので、諦めてもらうしかない。……あの騒動のせいで、招待客たちはリリィの着ていたドレスの色すら覚えていないだろうし。
「そういえば、ルークはどこにいるの? 始末するとか何とか言ってたけど」
「会場戻って、トマスさまと一緒に後始末してます。例のアレは、予定されていたお芝居ってことにして誤魔化すみたいですよ。伯爵家の娘が外国語が話せるって知らしめるために行われた余興って感じですかね」
「確かに、全部が全部用意された台詞だったって言われた方が。まだ納得できる」
言っていることは支離滅裂だったが、あの自信はいったいどこから来たものだったのだろう。
わたし何か間違ったこといってます? とまで言い切っていたなと、リリィは遠い目になった。……だが、どんな顔をしていたのかすでに思い出せない。ドレスの色もあやふやだ。
「……で、結局誰なのよ、あれ」
くるっと振り返るとキースは見慣れたテールコート姿だった。鬘も外しているが、これなら屋敷内にいても急遽給仕役として駆り出されたということで誤魔化せるだろう。
「俺が知る訳ないじゃないですか」
……そりゃそうだ。とリリィは思った。それにそこまで彼女に興味がある訳でもないのだ。余興の芝居のために用意された女優。もうそれでいい。
「しっかし……似合わないですねー」
白いエプロンを差し出したキースが、黒いワンピース姿のリリィをまじまじと眺めて感想を述べた。冗談を言っている目ではなかった。……リリィの乙女心はさらに傷ついた。
ぷうっと頬を膨らませて、エプロンをキースの手からひったくり、ぽいっとベッドの上に投げ捨てる。気分が悪いからエプロンつけたくない。
「似合わないんじゃなくて、リリアの印象が強いだけでしょう!」
「えー……何でこんな偉そうなメイドが出来上がるんだろう……?」
腰に手を当てて怒っているリリィを眺めながら、キースはぼそぼそ失礼なことを言っている。
「じゃあ着替えるから後ろのボタン外して!」
すっかり気分を害してふんっとばかりに背中を向けると、パサッという乾いた音がして、頭からエプロンを被せられた。腰の位置で紐をリボン結びをしてから、くるっと肩を持って回される。
リリィの両肩を持ったまま出来栄えを確認したキースは、非常に苦いものを食べたような表情になった。ナイトテーブルに置かれたキャップを一瞥してため息をつく。
「……やめときましょう。変な気起こされても困るんで」
キースは再びリリィを回転させて腰で結んだリボンを解いてしまうと、さっさとエプロンを外して畳み始めた。意味が分からない。リリィは半目を閉じてじっとりとキースを睨みつける。
「だから、そんな偉そうなメイドいませんてー」
キースはリリィの視線から逃れようと上半身を捻り、小さなテーブルの上のガラス皿を指さした。
「外したピンはそこにまとめて入れてありますから。髪は自力で何とかまとめておいてくださいね。俺、ちょっと部屋の外見てきます。ルークさんからリリィお嬢さまが大丈夫そうなら、一緒にアレンさま回収しておいて欲しいって言われてるんで」
……ん? とリリィは眉根を寄せた。……今、アレンを回収するとかキースは言わなかっただろうか。
「……はぁ? ちょっと待って。え? あれ、ひょっとしてアレンお兄さまだったの?」
まさに本日一番の衝撃だった。驚きのあまり声が裏返った。
「どっからどう見たって、ルークさんが育て上げたダメ人間でしょう。あれは」
言われてみれば、面倒ごとからひたすら目を逸らし続けるという点において兄とそっくりだった。死んだ魚の目をしてぼんやりしていたか、青ざめてただ震えていたかの違いだけ……
「現実世界では、もうちょっとだけまともじゃない?」
気まずさを感じてもぞもぞ口の中で言い訳してみる。そこに気付けなかったのは体調が悪かったせいだ。きっとそうに違いない。それか、幼馴染だという令嬢から突き付けられた筋違いの要求に困惑していたせい……
「ルークさんとダニエルが傍にいないとあんな感じですよ、なーんにも自分で決められませんよ、あのひと」
つまりは、最近ずっと伯爵家にダニエルとルークがいたから、それでアレンが比較的まともに見えていただけ。ということのようだった。
「……え? じゃあ、今回何人この夢の中にいるのよ。前回は私とキースとトマスお兄さまだけだったわよね? まさか、帰る時全員一緒にいないと帰れないとか、置いていかれちゃったら、一生夢から覚めないとか……」
さあっとリリィの顔から血の気が引いた。想像力を働かせれば働かせるほど、どんどん悪い方へと……
「怖い事言うのやめてくださいよ。前回みたいに本の頁に触れさえすれば帰れるだろうってルークさん言ってましたから、多分大丈夫ですよ」
「それ、何の根拠もないわよね」
リリィは胡乱な目をキースに向けた。しばし室内に沈黙が落ちた。
「……だ、大丈夫ですよ。ルークさんがぜーんぶ何とかしてくれますってー」
引きつった笑みを浮かべつつ、キースがことさら明るい声でそう言い切った。
「そっか、そうよね。ルークが全部何とかしてくれるわよねー」
リリィも笑顔で同意して、二人は顔を見合わせて頷き合った。
ガルトダット家の人間全員が面倒ごとからひたすら目を背け続けるという癖がついたのは間違いなくルークのせいだ。だから、今回もルークが全部何とかするべきなのだ。
……そうだそうに違いない。次行こう、次。
東屋にいたダニエルは、見慣れた白い軍服姿ではなく、闇夜に溶け込みそうな飾り気の全くない黒い服を着ていた。……まさに王子様の命を狙っている暗殺者のようないで立ちだった。
リリアがこの世界にいるのだから、護衛である彼がいてもおかしくないなと、リリィは無理やり自分を納得させた。ブレアもどこかにいるのかもしれない。
「いい年した大人が何やってんですか、ふざけんな!」
ダニエルは、東屋で酔いつぶれている王子様を容赦なく罵倒していた。……でも多分、アレンが両手で包み込むように持っている水の入ったグラスはダニエルが用意したものなのだ。
「だって、ルークもダニエルもいないし……」
背を丸めて小さくなっているアレンは顔が真っ赤だ。そして、いつの間にやら顎に青あざを作っている。どこでどうぶつけるとああなるんだろう……と、リリィは内心首を傾げた。
「ルークもダニエルもいないし、リリィさまは生ゴミを見る目を向けてくるし……どうしていいのかわからなかったんだ」
「で、酒に逃げたと。最っ低ですね。ついでにリリアさまにちょっかい出して何したかったんですか」
「……かなり酔っていたから、自分が何をしたのかよく覚えていない」
アレンがぼそっと呟いた途端に、ダニエルとリリィとキースの目は点になった。
「記憶失くすまで飲むってバカですか……バカですね。バカでしたねそういえばっ」
ダニエルは俯いて握りしめた利き手の拳を反対側の手で掴みながら、腕をぶるぶる震わせていた。……二の腕の筋肉を鍛えようという訳ではないのだろう。リリィとキースは二人からさりげなく距離を取った。
「一発殴っちゃったら、抑えが効かなくなりそうなんでしょうねー」
「ボッコボコにしちゃいそうなのね……」
顔を正面に向けたままリリィとキースは言葉を交わした。
伯爵家の舞踏会に行った王子様が満身創痍でお城に戻ってきた。などという噂が立つのは困るので、ダニエルには何とか堪えてもらいたい。
「ルークもダニエルも忙しいとか言って、私のことはずっと放置したくせに、リリィさまたちの面倒はみてるし……」
ふいっと拗ねたように顔を背ける。……キースの言う通り、アレンはルークとダニエルがいないと何もできないダメ人間だった。
「……運河に投げ捨ててきていいですか?」
とてもいい笑顔でダニエルがリリィに尋ねた。
「できれば明日まで我慢してほしい……」
申し訳なさを感じつつも、伯爵家の舞踏会に行った王子様が行方不明になったという噂が立つのも……大変困る。
「リリィさまも、私のことあっさり見捨てましたよね……」
思い出した! というように、突然アレンがじっとりとした目をリリィに向けた。ずっと忘れていてくれてよかったのに、とリリィは深い深い溜め息をついた。
「何で私が恨みがましい目で見られないといけないのよ。自分のことなんだからアレンお兄さまが自分で何とかするべきよ。彼女、お兄さまの幼馴染なんでしょう?」
「彼女、本当に私の幼馴染なんですか?」
うんざりした顔で問い返されても、そんな事はリリィにだってわからない。幼馴染と言うには年が離れすぎている気もするが……
「知らないわよ。本人がそう言ってたんだからそうなんじゃないの?」
「何か勝手に記憶喪失みたいな扱いになっていたんで、よくわからないんですよね……」
「いや……ちょっとはそこは自分で探ってみようとかしなさいよ!」
「ずっと部屋に幽閉状態だったんです! 幼馴染だという彼女も、身の回りの世話をする乳母だったという老女も、こうなる前の私のことを尋ねても『思い出さなくていい』と言うばかりで、何も教えてくれなかったんですよっ」
ムッと眉を寄せて、アレンがリリィに言い返した。
混乱を避けるために王子様が記憶喪失であることを隠そうとした……そういうことだろうか。よくわからない。
「とにかく『全部私たちに任せておけば大丈夫!』の一点張りでした。全然話が通じない人っているんですね」
――おまえが言うな! と、この場の全員が心の底から思った。
「ダニエルもルークも、様子見に来ただけで、忙しいから自力で何とかしろって言い残して、すぐにどこかに行ってしまうし」
……それはさっきも聞いた。アレンはそこが一番不満だったらしい。
「一応心配して様子見に来てもらえたなら、それでいいじゃない……」
少し眠って回復したと思ったのにまた頭が痛くなってきた。ずっと監視されているよりはマシだとリリィは思うのだが、アレンは違うのだ。とにかく構ってほしいし構いたい。根本的にこの部分が相容れない。
「じゃあ、ダニエルとルークはアレンお兄さまほったらかしにして何してたの? そもそも何であんなにルーク機嫌悪いの? あれってリリアのせいばっかじゃないわよね?」
「体が思うように動かなくてイライラされてるんですよ。体重とか筋肉のつき方が違うので手加減ができないみたいでし…………?」
中途半端に言葉を止めたダニエルが屋敷の方へ顔を向ける。つられるように首を動かしたリリィとキースとアレンは……ほぼ同時に顔をひきつらせた。
「アレンさーまー! そこにいらっしゃったのですねー」
花壇を踏み荒らしながら最短距離で東屋に向かって来るのは……間違いなくアレンの幼馴染を自称する令嬢だった。
――厄介ごとが、大きく手を振りながら近付いてきていた。