20240107 その1
リリィが真っ青な顔で震えているのは、細身のドレスに体を合わせるために、容赦なくコルセットで下腹部を締め付けられているせいなのであって、婚約者であるアレンが別の女性を伴って目の前にやってきた屈辱に耐えているからではない。
(どうしよう、本格的に気分悪くなってきた……)
頭がくらくらする。急速に指先が冷えていっているのがわかる。このままだと数分後には確実に倒れる。時間が経てば慣れるかも、などと楽観視してはいけなかった。
「アレンさまとわたしは、幼い頃に結婚の約束を交わしたんです。会う度にお互いの気持ちを確認し合っているんですっ。愛し合うわたしたちを引き裂くことなんて誰にもできないわっ」
ぼやけた視界の中で、目の前の顔も名前も知らない令嬢がリリィに向かってそう言い放った。
……成程これは面倒くさい。兄が逃亡を図る訳だ。でも結局逃げ切れなかったらしく、トマスはリリィの隣で死んだ魚の目をして立っている。
「あなたはアレンさまのことを、表面だけ見てわかったつもりになっているんです。心の内の葛藤や苦悩を何一つ理解しようとしていない。アレンさまの気持ちが自分にないということに本当は気付いているんでしょう? 愛のない結婚をしたってお互い幸せになんてなれないわ。本当にアレンさまのことを想うのであれば、潔く身を引くべきです! わたし、何か間違ったこと言っています?」
何やら使命感に燃えている様子の彼女には申し訳ないのだが、リリィはちゃんとわかっている。アレンから見た目を取ったら何も残らない……と。
(……ええと、どこの、だれ?)
この国では一般的な茶色の髪と瞳をした少女だ。年齢は同じか少し下だろうか。リリアなら心当りがあるかもしれないが、引きこもりのリリィには皆目見当もつかない。
(……見た目……は、普通よね)
エミリーのような美少女ではなく、明日になったら覚えていないくらいには普通。ただ、婚約者であるリリィの目前で、アレンと相思相愛なのだと豪語するくらいだから、常識はない。
「アレンさまはとても傷つきやすく繊細な方です。ずっとおそばで見守っていたわたしだけが、本当のアレンさまの姿を知っているの。アレンさまは、王族としての責任感から、望まない政略結婚を受け入れようとしただけよ。そこに愛情など一カケラもないわ。愛してもいない人と家のために結婚させられるなんて、あまりだわ」
……いや、政略結婚ってそういうものだから。
この場の全員が心の中で彼女にそう言い返したに違いない。ただでさえ気分が悪いのに、頭痛までしてきた。
(そっちの方が立場が上なんだから、イヤならイヤって言えば済む話でしょうよ……)
そうしなかったアレンの側に問題があるのに、どうしても彼女はリリィを悪者にしたいらしい。
見ると余計に気分が悪くなりそうだったから、今まで視界に入れないでおいたのだが、こうなってくると、どういう顔をしてアレンがこの場に立っているのか確認しない訳にはいかない。
リリィは嫌々婚約者に顔を向ける。やはり……というのか、何というか、アレンの顔もリリィに負けず劣らず真っ青だった。暴走する幼馴染の姿に恐れをなして、もうどうしていいのかわからないといった様子だ。
(あーなるほど……)
リリィはすべてを察して、同時に何もかも諦めた。
今回の夢の中でのアレンは、現実世界における彼の残念な部分がより強調された性格をしているようだ。つまり、押しに弱く流されやすい。
そしてそこに、現実世界における幼い頃の自分とアレンの関係及び、アレンがエミリーに対してやらかしたことなどを加味すれば、目の前の二人の間に何があったのか簡単に推測できる。
年の離れた幼馴染から、『大きくなったら結婚して!』と迫られたアレンが、押し切られる形で頷いてしまったのがそもそもの原因に違いない。その後もずっと彼女に付き纏われ続け、『今でも私のこと好きよね! 絶対に結婚してくれるのよね!』と詰め寄られる度に、否定することができずに曖昧に笑って誤魔化し続けた結果が――これ。
「アレンさまが生涯ずっと傍にいて欲しいと思っている相手は、あなたではなくわたしなの。わたしとアレンさまは相思相愛なんです。だから、諦めてください」
それでひとまず満足したのか、彼女はようやく口を閉じた。どうだと言わんばかりに胸を張っている。そんなにこの優柔不断な顔だけ王子様が欲しいなら喜んで贈呈するから、さっさと持って帰ってほしい。一体いつまでこの笑劇に付き合わないといけないのだろう。
(……というか、ほんとに、誰?)
身に着けているものは一級品だが、歴史ある名家の令嬢という訳でもなさそうだ。リリィだって人のことは言えないのだが、言葉遣いは滅茶苦茶だし動作は雑で全く品格を感じられない。
――まさに、こうはなりたくない見本が今目の前にいる。
音楽もやんで、ダンスホールはしんっと静まり返っていた。
リリィは招待客たちから品定めをするような目を向けられている。ここで対応を誤れば、社交界におけるリリィの評価は地に落ちる。ガルトダット伯爵家の名誉も損なわれ、没落への第一歩を踏み出すことになるだろう。
そろそろ気力を保つのも限界だった。この場で倒れて後始末を全部兄に押し付けてやろうかとも一瞬考えたのだが……
『君はお飾りの妃では納得しないだろう?』
不意にその言葉を思い出して、リリィはぐっと拳を握りしめた。
降りかかった火の粉を自らの手で払えるような人間でなければ、あの人の隣には立てない。わかっている。
それに、狼狽するばかりで何もできない「顔だけ王子様」と同じにはなりたくない。
――ここは、リリィのために誂えられた練習用の舞台だ。
大丈夫、例え大きな失敗しても目覚めれば全部忘れてしまう。そう自らに言い聞かせる。
ちらっとトマスに視線を向けると、リリィの顔つきが先ほどまでとは別人のようになっていることに気付いたらしい。「がんばれ」というように小さく頷いてくれた。
妹が何をしようとしているのか薄々察したのだろう。踵を返して歩き出す。こちらに向かって来ようとしている両親を引き留めてくれるつもりのようだ。
(……さて、どれにしようかしらね)
こういう状況になった場合どう振舞えばいいのか。それをリリィはユラルバルト伯爵家の舞踏会でルークとリリアから学んでいる。あの時妹が取った行動をそっくりそのまま真似ればいい。
一度目を閉じて、すっと息を吸う。
どうせ見世物になるのなら、期待以上のものをお見せしようではないか。お辞儀一つで格の違いを見せつけたリリアのように!
リリィの纏う雰囲気が一変したことを感じ取り、目前の令嬢が警戒心を露にする。空気が張り詰め、好奇の目を向けていた者たちが固唾をのんだ。
『ガルトダット伯爵家の舞踏会にようこそおいで下さいました。お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません。ご他言はお控えいただけますようお願いいたします』
まさかリリィの口から全く知らない異国語が出てくるとは思っていなかったのだろう。目の前の令嬢がぽかんと間抜けな顔を晒している。そして、それは彼女だけではなく、他の招待客たちも同様に……
恐らくこの会場でリリィの言っていることを理解できる者は、数人程度だ。
王族であるアレンへの敬意を表すために、ゆっくりと丁寧にお辞儀をする。あの日のリリアには到底及ばないとわかってはいるが、それでも精一杯美しく見えるように細心の注意を払う。
膝を伸ばすタイミングに合わせて、招待客の間から一人の男性がリリィに歩み寄った。
イブニングドレスコート姿のルークは優しく微笑んでいる。その顔を見ただけで緊張が薄れ、息をするのが格段に楽になった。不機嫌さを隠すことなく、どす黒い闇を巻き散らしながら登場したらどうしよう……と、少し不安だったので。
隣に並ぶと同時に、背中に手を当てられさりげなく姿勢を直される。こんな時でも容赦ない。しかし、それも恋人同士の戯れのように見えたのかもしれない。
――あちらこちらから、扇が床に落ちる音が聞こえてきた。招待客たちの驚きようは尋常ではなかった。
限界まで大きく目を見開いている人々の様子からして、この夢の中のキリアルト家は、海賊とか商人ではなくて海の向こうの国の王族だったりは……まぁ、そこはどうでもいい。今はこの場を無事に乗り切ることだけを考える。
『皆様にご紹介いたします。今この場でわたくしが一番大切に思っているのは、隣に立っていらっしゃるこの方ですわ!』
……嘘はついていない。咄嗟に考えたにしては上出来だとリリィは心の中で自賛する。
ルークは招待客を見渡して自国の言葉で何やら挨拶をしている。自己紹介は早すぎてやはり今回も聞き取れない。背中から回った手が肩に置かれ、軽く後ろに引かれた。前のめりになっているから胸を張れということのようだ。それも招待客たちの目には、ルークがリリィを自らの方に引き寄せたように見えたらしい。再びどよめきが起きる。
あれ? とリリィは内心首を傾げた。
想定していたよりも大事になっているような気がするのだが、気のせいだろうか……
『これで、アレンさまが責任取って、そちらのご令嬢と結婚なさればすべて解決ですわね。どうぞ末永くお幸せに!』
背中に冷や汗をかきながら、リリィは満面の笑顔でそう締めくくった。一瞬気分の悪さが遠ざかるくらいすっきりした。
これでめでたしめでたしのはずなのだが……アレンの幼馴染だという令嬢は、血走った目でリリィを睨みつけてくるし、アレンはアレンで、酷く裏切られ傷つけられたというような表情をしている。
(……恨まれる理由なんて、何もないわよね?)
どうして相思相愛だとかいう二人を祝福したのに、責められねばならないのだろうか。意味がわからない。
『では、皆さま心行くまで舞踏会をお楽しみください』
数歩前に出て、特訓の成果を披露するつもりで気力を振り絞って深く膝を折る。
しんっと水を打ったように会場が静まり返った。顔を上げて優雅に微笑んでみせてから、リリィはルークが差し出した腕に自らの手を添える。
あとはこの場の人間たちが我に返る前に退場するだけだ。背筋をピンと伸ばして優雅に足を運ぶ。一歩進むごとに前方の人垣が左右に割れて道ができるという謎現象が起きているのだが、それについて今は考えたくない。
最後の最後まで、誰にも何の文句を言わせない完璧な令嬢であらねばならない。あと少し、あと少し、と必死に自分に言い聞かせながら足を前に運ぶ。まるで泥の中を歩いているかのように足が重たくて仕方がない。
(こんな所で躓いているようでは、とても王宮になんて行けない)
ダンスホールを出た所で立ち止まる。パタン……と、背後でドアが閉まる音を聞いた途端に、すべての蝋燭が吹き消されたかのように、目の前が真っ暗になった。その場に蹲りそうになったリリィの体をルークが抱き上げる。
「よくがんばりましたね。あとは……適当に始末しておきますから寝ていいですよ」
(始末って……何をどう?)
薄れゆく意識の中で、ちらっとリリィはそんな事を思った。
もう少しだけ続きます。