20231231 その2
「……と、いう訳で、眠くなったり気が遠くなったりするのよ。図書室の幽霊さんについて考えようとすると」
夜の庭で伯爵令嬢と遭遇した園丁見習いは、幽霊という言葉を聞いた瞬間に顔色を失くした。……あ、しまった。とリリィは思った。これでもうキースは全く使い物にならない。
「知りませんよもう。夜に怖い話するのやめてください。……それより今回もまた俺、あの本図書室で探すんですかぁ? リリィお嬢さまが探した方がてっとり早い気がするんですけど」
キースは怯えた目で周囲を見回しながら、腕の付け根をさすっている。少し風が出てきたようだ。何だか首筋がひやっとする。まさか本物の幽霊が出るという訳でもないだろうが……
「前回は私も現状把握するのに苦戦して、図書室に行く時間が取れなかったのよ。だから、今回は私が探す。ただ、前回どうやってキースが鍵を手に入れて、どこに本があったのか聞いておきたかったのよね」
「あの日は半日休みだったんですよ。で、たまたま、掃除のために窓が開いてるのに気付いたんです。だから、隙を見て窓枠乗り越えて忍び込みました。昔よくリリィお嬢さまとよくかくれんぼしていたから、身を隠せそうな場所にはいくつか心当りがあったんです。掃除終わって誰もいなくなってから本を探したんですけど……すぐに見つかりましたよ。自己主張するみたいに本棚の中で光ってましたから」
震える声でキースはそう説明した。幽霊が怖いのか、或いは夜風に体が冷えたのか……確かに急に気温が下がってきたような気がする。リリィは思わず背中を丸めて胸の上で手を重ねた。
「そっか。昼間堂々とドアから入って、夜まで隠れていればいいんだわ」
「行方不明になったって大騒ぎになりますよ。……それよりリリィお嬢さま、マーガレットなんですけど、あれってぇええ?」
キースの声が最後不自然にひっくり返る。しかし自らの考えに没頭していたリリィは、特に気にすることなく、心に浮かんだままの言葉を口にした。
「何言っても無駄よ。何が何でも屋根にのぼるつもりよあの子」
「でしょうね、あの感じは」
「だからもう、ほっとくことにし……え?」
聞こえてきたのがよく知った声だったので、特に不審に思うことなくリリィは続けたのだが、途中で違和感を覚えてふと顔を上げる。
キースが零れ落ちんばかりに目を見開いてリリィの背後を見ていた。何だか……背後から冷気が漂ってきている気がする。後ろに何かいるのは間違いない。……リリィは恐る恐る振り返った。
「本当に困ったものですね」
落ち着き払った声音でそう言った男性は、いつものテールコートではなく、上質なラウンジスーツを身に纏っていた。……そして、全身からどす黒い闇と冷気を放出していた。
「図書室の鍵が必要なら、取ってきましょうか?」
「……う、うん。あれば助かるんだけど……ひょっとして盗むの?」
寒さと恐怖に身を震わせながら、リリィはやっとそれだけ言った。
「少しの間、借りるだけですよ? ……それよりリリィお嬢さま、手を抜くと変な癖がつきますからね?」
にっこり笑って斜めに見下ろされただけだ。それなのに、足がガクガクしてじっと立っているのが困難なくらい……恐ろしかった。
どうしてこんなに心臓がどきどきするのだろう。何故こんなに冷や汗がふき出してくるのだろう。どうして社交シーズン中なのにこんなに寒いんだろう。……まだ幽霊の方がマシ。
「反省しています。ごめんなさい。もうしません。心を入れ替えて明日から真面目に取り組みます」
リリィは精一杯しおらしくみえるように謝罪した。ルークの視線が外れただけで、安堵のあまりその場に座り込みそうになった。……のだが、それをやるとまた怒られそうなので、背筋を伸ばしてできるだけ遠くを見る。
「窓の鍵、開けておいてください。鍵は部屋の中に放り込んでおきますので。あと、危ないので夜には絶対に図書室に行かないで下さいね。……キース君焼き菓子食べますか?」
「食べますぅ~」
恐怖のあまり魂が抜け落ちたような状態になっていたキースは、それでもお菓子という言葉に反応して、のろのろと両手を前に差し出した。ルークはその上に丸いクッキーが詰められた小さな瓶を置く。
「……あ、ところでルーク、ここで何やってたの?」
そのまま屋敷の方に向かって歩き出しかけたルークはぴたりと足を止めて振り返り、水色の瞳を細めてとても感じよく微笑んだ。背後に、雪嵐の幻影が見えた。体感温度が一気に下がり、リリィは思わず首を竦めて腕の付け根を両手で何度もさすった。
「…………何でもないです。ごめん引き留めて。鍵、お願いします」
愛想笑いを浮かべながらリリィは後退った。二歩下がってもまだ寒かったので、もう一歩下がって、再び前を向いて歩き出したルークを見送った。
そして、姿が完全に見えなくなってさらに十秒数えた後、リリィは真顔でキースに向き直り、きっぱりと言った。
「ほっとこう!」
キースは、クッキーの入った瓶を受け取った姿勢のまま泣いていた。
――あの二人には今後一切関わらないでおこう。
その日、リリィとキースは固く心に誓ったのだった。
絶対にどこかから見張られている。被害妄想かもしれないが……時折刺すような視線を感じる。真面目に礼儀作法の授業を受けると言ってしまった以上、もう手を抜くことは許されない。休憩時間と就寝次回以外、人目がある場所では全く気を抜けない。アレンに付き纏われているのと大差ない状況だ。図書室の幽霊に会いに行くどころの話ではない。
『危ないので夜には絶対に図書室に行かないで下さいね』
あの警告を無視する勇気はさすがにない。……妹よ、今やるべきことは壁をよじ登ることではないと早く気付け。リリィは心の中で念じ続けているのだが、妹に伝わった様子はない。マーガレットは相変わらず、屋敷の外壁ばかり眺めている。
図書室の鍵は翌朝、いかにも窓から投げ込まれたという感じで、ベッドの脇に落ちていた。でも、それを使う機会がついぞ訪れない。
「もうほんとにやだ……」
ベッドにうつ伏せで突っ伏して、リリィは思わず泣き言を漏らした。こうなってしまった以上、夜更かしをしても許される日を狙うしかない。
もうすぐ、伯爵家で舞踏会が開かれるらしいのだ。その最中になら一時的に抜け出して図書室に向かうことができるかもしれない。ただ、舞踏会には間違いなく婚約者のアレンが来る……
「会いたくない……関わり合いたくない……」
もう嫌だ、何もかも嫌だ。本当に嫌だ。この夢から醒めるためにも図書室に行きたいのに、現状身動きが全く取れない。
いっそ駆け落ちしたとかいうヒューゴのところに逃げたい。ヒューゴはどこの世界であろうとどんな環境であろうと、己を貫き通しているに違いない……
「あーもう……」
八つ当たり気味に枕を拳で何度も叩く。ルークが見張っている限り、どうしたってこの屋敷からは逃げられないのだ。現実ではアレンに、夢のなかではルークに監視されている。寝ても覚めても自由がない。どうしてこんな目にあわねばならないのだろうか。全くもって納得がいかない。
――結局鍵は手元にあれども夜部屋から出ることは叶わず、悶々と日々を過ごしている内に気付けば舞踏会当日となっていた。
朝から最悪な気分だったが、それを表に出すわけにもいかない。
用意されていたドレスは、現実の伯爵家ではとても用意できないような豪華なものだった。王都で一番の人気を誇る工房のものらしい。侍女たちがほめそやしていた……ドレスを。
リリィはほろ苦い気分で、幾重にもフリルを重ねられたスカート部分を見下ろす。恐ろしく手が込んだドレスであることは一目でわかる。しかし……流行のドレスを着たとしても、きらびやかな宝石で身を飾っても、リリィでは無理なのだ。エミリーくらいの美少女でもなければとても釣り合わない。
正直に言って、アレンの隣に立ちたくない。憐れみと蔑みの視線を向けられることはまず間違いない。想像するだけで胃がキリキリしてくるのだ。
コルセットを容赦なく締め付けられているせいもあって、本当に気分が悪い。何とかして逃げ出せないものかとそればかりずっと考えている。
日はとうに沈んだのに、屋敷の中は昼間のように明るい。招待客たちも街屋敷に集まってきているようだ。遠くから楽器の音も聞こえてきている。
喉が渇いたと言って侍女に飲み物を取りに行かせ、ようやく一人になることに成功したリリィは、図書室の鍵を持って部屋を抜け出した。
周囲を警戒しつつ使用人階段へ向かう途中、廊下の窓からこっそり逃亡しようとしている兄と遭遇する。
「あーリリィもリリィかぁ……うん……がんばれ。面倒なことになる前にお兄さまはキース連れて逃げます」
特に驚く様子もなくゴミを見る目を向ける妹に、トマスは言いたいことだけ言って去っていった。兄の中身は今回もダメな兄だった。
「無駄なことを……」
リリィは思わず口に出してそう言った。どうせすぐにルークに捕まって強制送還されることになるに違いない。……逃げられる訳がないのだ。この屋敷から。
もう少しだけ続きます。