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16 「がんばって会いにおいで」 その12


 厨房には陽気に歌うポールの歌が響き渡っている。ご機嫌だ。母国語らしく歌詞は全くわからない。

 おばあちゃんたちの腰は確かに限界だった。もう椅子から立ち上がれない。リリアとジャックは、動けないおばあちゃんたちに代わって、厨房内を走り回っていた。呼ばれればすぐに駆け寄って、頼まれた物を取りに行く。鍋に皿、野菜、肉……。休む間もなく手と足を動かし続ける。


 リリアは黒いドレスにフリルのついた白いエプロン。そして白いキャップというメイド姿だ。

 お手伝い用に、おばあちゃんたちが若い頃に着ていたドレスを何枚か譲ってもらったのだが、中でもこの黒いドレスは一昔前に流行した襟や袖の形が可愛くて、とても気に入っている。エプロンもキャップもフリルとレースが沢山使われているから、お客様の応対をする時に着用したものだろう。


「リリアさま、そこに置いてある切り終えた野菜の入った鍋を、シェフに渡して下さい」


 使い終わった鍋を洗い場に運びながら、コナーが申し訳なさそうな声で言う。


「これですね」


 おばあちゃんが切り終えた野菜をポールの元に運ぶ。ポールはそれは嬉しそうにリリアから鍋を受け取って火にかける。かなり気分が高揚している様子だ。楽しそうで何よりだ。


「リリアさま、オーブンの中のパンの様子を確認して下さい。火傷しないで下さいね」


「はーい」


 マーガレットだった頃を知っている伯爵家の使用人たちにとって、リリアは孫だ。何の遠慮もない。あれ取ってこれ取ってそれ持ってって。座っているおばあちゃんたちの隙間を縫うようにして厨房内を駆け回る。目が回りそうだ。


「まだ焼き色ついてないです」


「リリアさま、右から三番目の小さな鍋を……」


「はぁい」


 鍋だ鍋。右から三番目の鍋。小さい鍋。


「とうとう起きたっ メイジーは?」


 慌てた様子でキースが駆け込んでくる。


「メイジーは今、ジョージおじいちゃんとチーズ取りに行ってます。……はい、おばあちゃん鍋」


「イザベラさま起こさないと。リリアも着替え……でもリリアが今抜けたら、ここ回らないよな。どうすんだこれ」


 そんな事をぶつぶつ言いながら、キースは厨房から走って出てゆく。


「お皿お願いね。棚の左端上から四段目」


「はーい。四段目四段目。この大きいのですね」


「リリアさまオーブン!」


「ああ! すぐ見てきます。パンは焼き色付いたら出して良いんですか?」


「そう、そのまま冷ましますからね。出すならあちらのテーブルの上に」


「危ないんで、私やります」


 ジャックが慌ててオーブンに駆け寄る。 


「あ、お願いします。おばあちゃん、はい、お皿」 


「リリアさま、左の棚にある一番大きな鍋お願いします」


「はーい。左の棚……一番大きな鍋」


 手を伸ばした途端、背後から伸びた手が鍋を取って、リリアに手渡す。仰向くと水色の瞳と目が合った。ルークは帰って来たばかりのようで軍服姿だ。リリアが嫌がるので、もう眼鏡をかけていない。


「あ、おかえりなさい。ありがとうございます」


 ルークに対して怒っていたことがあったような気がするのだが、忙しすぎて思い出せない。


「リリアさま、これと同じお皿をもう一枚」


 受け取った鍋をおばあちゃんの元に運ぶ。次は皿。同じ皿。どこにあったものだった? 


「リリアさま、上から四段目、左です。今は動かないで下さい。後ろを鉄板持ったジャックが通ります」


 棚の前でおろおろしていると、シェフの傍らに立っていたルークからすぐに指示が飛ぶ。


「あ、ルークさん。帰ってこれたんですね。ヒューゴさま起きちゃったんですよ。どうしましょう?」


 戻って来たキースが、ルークを見た瞬間に泣き笑いの表情になった。


「キース君、メモできるような紙ありますか? 大きめのものが良いです」


 ルークがポールに彼の母国語で何やら質問をしている。リリィならわかるのだろうが、早すぎてリリアには全く聞き取れない。ルークは厨房の入り口付近に移動すると、キースから受け取った紙を壁に押し付けて、なにやら色々書き込んでいた。


「これメニューです。四十分後には始められるそうです。必要なワインをメモしておきましたから、ジョージさんに渡してください」


「うわぁ……品数増えてる」


 手渡されたメニュー表を見てキースが泣き言を言う。ポールは絶好調だ。再び伸びやかな声で楽し気に歌い始める。


「リルド侯爵家から人を借りました。もうすぐ到着します。それまであと少しだけこの人数でがんばって下さい。着替えてきます」


 ルークはそう言い終わるとすぐに厨房から出て行った。キースがその後を追いかけてゆく。


「ああ、ルークさま来たらもう大丈夫だねぇ」


 座って焼き串を回していたコックがほっとしたように言う。厨房内の張り詰めていた空気が緩む。


「さあ、腰が痛いけど、あとひとがんばりしようかね!」


  コックの一言で、おばあちゃんたちの手がてきぱきと動き始める。ポールは気分良さそうに歌い続けている。


「リリア、もうすぐダニエル来るらしいから、来たら交代してエミリーさんの部屋に行って挨拶の仕方教えて来てくれって。教えたら戻って来てここ手伝ってて大丈夫だってさ」


 キースが入り口から顔を覗かせてそれだけ告げると、またすぐにどこかに行ってしまった。


「わかりまし……た?」


 リリアは首を傾げる。つまり、自分は夕食会に出なくて良いと、そういうことなのだろうか。まぁいいやとリリアは思った。考えている間に手を動かさなければ。リリアは中途半端に止まっていた茹で卵の殻をむく作業に戻る。


「遅くなってすみません。手伝います。何しましょう? あ、リリアさま……かわいい」


 軍服からシャツとベストに着替えてきたダニエルが、腕を捲りながら駆け込んでくる。そして、メイド姿のリリアをまじまじと見た。


「そうでしょうそうでしょう。かわいいでしょう。私の若い頃にそっくり!」


 コックが機嫌よさげにそう言うと、おばあちゃんたちから笑い声が起こった。 


「あ、じゃあ卵の殻を向いて下さい。私エミリーさまの所に行ってきます。すぐ戻ります」


 リリアは茹で卵の入った鍋をダニエルに渡すと、手を洗って厨房を出る。


 使用人階段を使って二階に上がる。この姿でヒューゴに会う訳にはいかないので、廊下の先の様子を窺う。部屋の前の棚は動いていないようだ。そのままエミリーの滞在している部屋の前で待っていると、大階段を上がって来たエミリーは、メイド姿のリリアを見て驚いたようだった。


「……え、リリアさまその恰好……」


「どうですか、似合いますか? 今はキッチンメイドです。厨房が全く手が足りてないんです。……お部屋に入っても?」


 ジェシカがドアを開けると、エミリーがどうぞと室内に招き入れてくれた。


「とても可愛らしいです」


「ありがとうございます。とても気に入っているのです。私が生まれるずーっと前に流行した型なのだそうです」


 ちいさい子供がするようにエプロンを持ってリリアがくるっと回ってみせる。ふわりとドレスの裾が広がり、エミリーとジェシカは目を細めて笑う。すっかりいつもの調子を取り戻したリリアを見て安心した様子だ。


「では、挨拶の方法を説明しますね。すみません、ちょっとばたばたしているので、一方的に喋りますね」


 そう断ってから、二人が緊張しないように穏やかな笑みを浮かべた。


「おかあさまが一緒の筈ですので、紹介されたらお辞儀してくださいね。声は出さなくて大丈夫。相手に何か言われても、おかあさまかキースが上手く答えてくれます。立ち位置もお母様が手で示してくれるので大丈夫です。名前を呼ばれたら、その場でお辞儀。やってみてください」


 リリアの前で、エミリーとジェシカが順番に膝を折る。ふらつくことなく背も美しく伸びている。相当練習したのだろう。


「お二人とも完璧です。これで文句をいうのなら、それは相手からの言いがかりです」


「ありがとうございます。リリアさまがそう言って下さるなら自信を持てます」


 エミリーとジェシカが顔を見合わせて頷き合った。


「相手について、どの程度聞いていますか?」


「フェレンドルト家のお孫さんで、ちょっと錯乱気味で何を言いだすかわからない……?」


 ふむ、とリリアは頷いた。つまり名前も何も教えていない訳か。うっかり間違えると面倒なことになるからということだろう。知らなければ呼び間違えようもない。


「……少し補足します。相手は女性恐怖症気味で、特に若い女性には高圧的に接してきます。慣れていないせいでどうしていいのかわからないだけです。気にしなくて良いです。いい年して可哀想な人だなくらいに思ってください」


 笑顔で辛辣な事をいうリリアに、エミリーが驚いた顔をする。


「……リリアさま、ひょっとして」


「大っきらいです」


 真顔になったリリアはきっぱりと断言した。


「……リリアさまでも、そういう相手がいるんですね」


「リリアさまに大きらいとまで言われるって……なんか、可哀想な方ですね」


 エミリーとジェシカは心底意外だという顔をしていた。


「ああ、でも、そうですね……『仕方がないので挨拶くらいしてやる』くらいの強い気持ちでいかないと、雰囲気にのまれてしまうかもしれません。相手は生まれながらの貴族なので」


 リリアは唇に人差し指を当てて少し考え込んだ。今は完璧だが、気圧されると動けない可能性がある。


 ノックの音がする。ジェシカが扉を開けると。廊下にルークとキースが立っていた。


「大丈夫そうですか?」


 ルークはテールコートに着替えている。


「丁度良い所に! ルークさまで予行練習しておきましょう。エミリーさまとジェシカさんは私の後ろで見ていて下さいね。お辞儀をする必要はないです。多分体、動かないと思います」


 ルークとリリアは開いた扉の中と外で向き合うように立つ。エミリーとジェシカはリリアの背に庇われるような位置に立った。


「では、ルークさま、私を威圧して下さい。エミリーさんたちのためです。雰囲気に慣れておかないと、足が竦んで動けないかもしれません」


「……仕方ないですね。後で落ち込むのはやめて下さいね」


 ルークは気が進まない様子だが、他に人がいないのだから彼に頼むしかない。


「落ち込みません。……でも、エミリーさんたちが怖がらない程度でお願いします」


 リリアが目を合わせて微笑むのを確認すると、すっとルークが目を伏せる。

 目を上げた瞬間、優し気だった彼の雰囲気が変わる。ルークの存在感が一気に増す。空気が張り詰める。跪き頭を地に付けろと強要するような圧力がリリアの全身にかかった。何かに伸しかかられているように体が重い。肌がピリピリとする。

 何の感情も浮かんでいない冷たい瞳に、高い場所から見下ろされている。傲慢さを感じられないのは、彼にリリアを貶めて嘲笑しようとする意図が全くないからだろう。気高く絶対的な存在としてただ静かに目の前にいる。つまらない物を催し物を見るような目だ。おまえには何の価値もないのだと水色の瞳がリリアに告げている。

 ルークは手加減してくれている。それでも……やはり畏縮した体が固くなる。息が詰まる。


 リリアはドレスのスカートを持ち、背筋を伸ばしたまま膝を曲げ上体を落とす。そのまま地面に膝を付かせようとする圧に逆らい体を持ち上げる。目を上げどうだとばかりに笑って見せる。水色の瞳から冷たさが消える。泣きたいくらいほっとする。ほんの一瞬の出来事の筈なのに。とても長い時間だったような気がした。


「最後少しふらつきましたね。気を抜くからです。一瞬表情に出ましたよ」


 彼は優しく微笑むが、指導は相変わらず厳しい。


「意地悪ですっ」


 リリアは拗ねて顔を背けた。やっぱり見抜かれた。足を戻す時に靴先がほんの少し引っかかったのだ。絶対にルーク以外には気付かれていない。厨房を走り回って少し疲れているのだ。……言い訳だけれども。


「こんな感じで、相手はこちらより優位に立とうとして威圧してきます」


 そのままリリアは振り返る。やはりエミリーとジェシカは顔色を失くしている。


「大丈夫です。今のに比べたら全く大したことありません。所詮相手は小物です」


「……リリアさま?」


 ルークが、牽制するように名前を呼ぶ。


「女性に対してどう接して良いのかわからないからと、とりあえず高圧的な態度を取って言うことをきかせて喜ぶような、子供っぽい本当にどうしようもない人です」


 リリアは今度は廊下に向かって声を張る。ルークの背後で立って待っていたキースが顔を引きつらせる。


「……リリアさま、廊下に響かせるように言うのはやめて下さい。後でお話があります」


「大きらいです。謝らないです」


 ルークをまっすぐに見るリリアの目は完全に据わっていた。


「…………もういいですそれで」


 ルークは諦めたように言った。勝った! とリリアは思った。ルークの背後で、キースが額を押さえてため息をついていた。


「あ、ルークさまもう行ってください。忙しいのにありがとうございました。私は厨房に戻ります」


 そう言って、リリアはさっさとドアを閉めた。


「勝ちました!」


 リリアがそれはそれは嬉しそうに振り返って、エミリーたちに笑いかける。背後の二人はちょっと目を丸くして驚いた表情をした後、リリアにつられるように笑顔になった。 


「リリアさまは、いつも大人っぽくて落ち着いていらっしゃるのに、今はとても可愛らしいですね」


「……服のせいですかね?」


 リリアはエプロンのフリルを直しながら首を傾げた。先程まで厨房で走り回って、おばあちゃんたちに孫扱いされていたから、伯爵令嬢を装うのが難しいのだ。


「おかあさまが一緒なので何の心配もいりません。自信もって下さいね……では、キッチンメイドは厨房に戻りますね。すぐにメイジーが来ます」





 リリアの声は居間にまで聞こえた。トマスが頭を抱えている。


「今の聞こえたよね。多分」


「聞こえるように言ってるんだから、当然聞こえるわよね。一階まで響いてるんだから」


 リリィは呆れ顔でそう返す。


「よかった……ルーク帰って来て。いないときに二人が顔合わせてたらと思うと、本当に恐ろしい……」


「これ幸いと、一発ぐらい殴ったと思うわ。あの子」


 リリィは天井を見上げて力なく笑った。


「どんどん暴力的になってないか? ルークがいいなら、いいけどさ」


「……よくないですよ。でも今は時間がないのでその話はいいです。夕食会について説明しますね」


 居間に入ってきたルークが力なくそう言った。

 全員とても疲れているのに、これから夕食会だ。ルークが目を上げて、真剣な顔でリリィに尋ねた。


「リリィお嬢さま、王宮行きたいですか?」


「ちょっと待って。何の話?」


 トマスが焦ったような声を出す。


「この食事会、リリアさまはデビュー前の病弱な次女ということで参加されません。もし、リリィお嬢さまが、ヒューゴさまに文句を言わさずこの夕食会を乗り切ることができれば、ご褒美として私が王宮に連れて行って差し上げます。勿論ガルトダット家長女リリィとして行きます。図書室に用事ができたんですよ」


 思いがけない提案にリリィの背筋が伸びる。トマスは考え込むような表情になったが、リリィの判断を待つことにしたようだ。大事な話とはこれなのだろう。


「病弱な娘二人は夕食会に参加しないということにもできます。どうしますか?」


「ここで躓くようなら、王宮にはとても行けない?」


「当然そうです。でも、ほんの少しだけ、リリィさまに有利になるようにはします。会話は大陸共通語で行います」


「……え、それってルークに有利なだけじゃないか」


 ただでさえ面倒な夕食会がさらに面倒なことになると、トマスが怯えた目をした。


「そうでもしないと、ものすごく細かい事言い出しそうですからね、ヒューゴさま。共通語は外交には必須です。文句は言わせません。将来宰相職に就く予定の方ですからね、話せて当然ですよね」


 ルークは笑顔だが、目が笑っていない気がする。ルークがこう言うということは、ヒューゴはあまり共通語が得意ではないのかもしれない。


「……ルーク、ちょっとイライラしてない?」


「色々ありすぎて、結構イライラしてますね。誰かに八つ当たりしたい気分です。別の言語でいきます? リリィお嬢さま、好きなの選んで構いませんよ」


「お願いやめて」


 トマスが体を震わせた。


『さて、どうします?』


 共通語で短く尋ねられ、リリアは頷く。


『やる』


 大陸共通語なら問題ない。ひきこもりのリリィは、本を読むためだけにルークから様々な国の言語を教えてもらっている。共通語に関しては母国語と同程度に話せる。……自信はある。


「えーやるのー?」


「たまには使わないと、忘れるわよ、お兄さま?」


『では、お二人とも着替えて来て下さい。リリィお嬢さまの着替えはリリアさまとメイジーが担当します。トマスさまはキースと一緒に部屋に戻り、イブニングドレスコートに着替えて下さい。着替えたら居間にお願いしますね』


「もうすでに嫌だ」


 トマスが怯えた目をして、キースに助けを求めた。


『では参りましょうか』


 キースに流暢な共通語でそう言われたトマスは、涙目になる。


「大丈夫ですよ。危なそうなら通訳してあげますから。……サボるからですよ?」


『サボるからです』


 伯爵家の子供たちに共通語を叩きこんだ男は水色の目を眇める。


 メイジーに付き添われて居間に入ってきたイザベラは、ルークに夕食会の趣旨を説明されると、「あら、おもしろそうね」と、顔を輝かせた。トマスの肩が、がっくりと下がる。


『わたくしも、リリィを審査すれば良いのかしら?』


 イザベラはトマスと違い、大変乗り気のようだった。


『お願いいたします』


『おかあさま、私がんばる。絶対にヒューゴお兄さまの鼻をあかしてやるわ!』


 リリアは俄然やる気になっていた。

 ヒューゴは伯爵家を訪れる度に「はしたない、伯爵令嬢としてみっともない、自立しろ」とリリィとリリアに言い続けて来た。

 特にリリィには「いつまでもあの異民族にくっついているから、こんな自堕落な生活を送るようになった」だの「あの異民族のせいで楽な方に流れて、伯爵令嬢として最低限の教養も身についていない」だの好き勝手言って、リリィだけでなくルークも一緒に貶めた。


 リリィはいつも、高圧的な態度の従兄に怯えているだけで、何も言い返せなかった。「ヒューゴお兄さま大っきらい」とリリアが言い放って、リリィを引っ張って部屋から連れ出してくれるまで、ソファーに座って俯いて震えていた。


 ルークは伯爵家の子供たちを甘やかしてばかりいた訳ではない。幼い子供たちに基本的な礼儀作法や勉強を教えたのはルークだ。彼を見て手本として育ったから、伯爵家の子供たちの立ち居振る舞いは美しい。

 リリィに卓越した計算能力があるのに気付いて、商人が学ぶような簿記の基本を教えてくれたのも、外国語も教えてくれたのもルークだ。それらはすべて、ヒューゴの思い描く『伯爵令嬢』には必要のない知識だったかもしれない。でも、リリィは学びたかった。伯爵家の財政を立て直そうしている兄やルークの手伝いがしたかった。沢山の本を読んで様々な知識を手に入れたかった。

 王宮で「聡い子だ」と褒められた時、応接間でアーサーが同じ言葉をくれた時、リリィはとても嬉しかった。自分がとても誇らしかった。

 ヒューゴによって否定され続けて来た自分が、ようやく認めてもらえた気がしたから。


 ダンスやマナーは疎かになったけれど、それは今必死に挽回している最中だ。

 ルークに教えてもらったことは何一つ無駄ではなかったのだと、証明してみせようではないか。


『絶対に、絶対に文句ひとつ言わせるものですか! 必ず見返してやるわ』


 珍しく闘争心を露わにする娘に向かって、イザベラはにっこりと笑いかけた。


『そうね、がんばってみなさい』


「いや、趣旨が変わってない? ねえ、おかしくない?」


 トマスの意見はきれいさっぱり無視された。

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