幕間 その頃、伯爵家では…… その4
頭を冷やす。というのは、気持ちを落ち着かせるという比喩だろうか、それとも、言葉そのままで、水か何かで頭を冷やすということだったのだろうか……
そんな事をぼんやりと考えながらひたすら手を動かす。
ドレスから着替えて男の子の姿に戻ったクインは、大階段の前に用意してもらった椅子に座って、両手を広げたくらいの大きさの金色の額縁を磨いていた。ダニエルとエラは雑巾で大階段の中程辺りで手すりを拭いている。
クインもそちら手伝いたいと申し出たのだが、まだ階段が完全に乾ききっていないため、滑ると危ないからという理由で、許可してもらえなかったのだ。
食堂前の廊下の辺りでドタバタと大勢の人間が忙しなく動き回っている。
グレイスを奪還するためにこの屋敷を訪れ、泥水の中に落とされていた『王子様』たちが手伝いを申し出てくれたため、館内の掃除は夜明け前に終われそうだ。
「皆さんありがとうございまぁす。あともう少しですよー。ヘイゼルと一緒に、最後までがんばりましょうー! ご褒美もちゃーんと用意しているので、お・た・の・し・み・にっ!」
ヘイゼルの声に続いて、うおぉぉぉっという野太い歓声が響き渡る。何かの競技会でも行われているかのような異様な盛り上がり方だ。熱気がここまで伝わってくる。クインが座っている位置からは、丁度壁に阻まれて様子を見ることができないのだが……本当に、一体何が行われているのだろう。
「男って……」
呆れと疲労が混ざり合った声が上から降ってきた。クインは体を捻るようにして大階段を見上げる。エラが大階段の手すりに両肘を乗せて、気怠そうな表情でどこか遠くを見つめていた。
「性別はあまり関係ないと思う。アレンさま目掛けて突進してくる女性たちも、あんな感じだから」
その少し上の段に立っているダニエルが手を止めて、空っぽの瞳で力なく笑った。疲労が限界に達しているのか、一気に老け込んだように見える。クインがイザベラとダンスの練習をしている間になにかあったのかもしれない。
「あーそれは……はい。ダニエルさんも大変ですね……」
「もう本当に嫌だ……あんなどうしようもない人のために、限りある人生が無駄に消費されてゆく……」
「ご心労お察しいたします。元気出してください……」
「……むり。……もうつかれた。誰か代わってほしい……」
両手で手すりを握ったままその場にしゃがみ込み、左右の手の間にこつんと額をぶつけて呟く。
「あー、ダニエルさん、こっちに向かって手を振ってる人がいますよー。呼ばれてるんじゃないですかぁ?」
まるで台本に書いてある台詞を読んでいるような調子でエラが言った。
「あー……うん。何か用事があるみたいだから行ってくるよ……行きたくないなぁ……」
額を手すりにつけたまま同じく棒読み口調でそう返すと、ダニエルは億劫そうに立ち上がって階段をおりはじめる。
「クインさま、疲れたら休憩してくださいね」
椅子に座っているクインの前まで来て一礼してから去ってゆく。人生に絶望した老人のような目をしていても、気遣いと礼儀を忘れない本当に人間性の高い人だと思う。……アレンに対しては常に辛辣な態度を取っているけれど。
「ダニエルさん、おつかれですねぇ……」
「はい……」
少し遅れて階段を降りてきたエラが、丁度クインの背後で足を止めて、手すりに凭れて身を乗り出した。足を引きずるようにしてふらふら歩いている背中を、階段の上と下から二人で見送る。
ダニエルの姿が壁に隠れて見えなくなると、クインは背後を振り返って少し高い位置にあるエラの顔を見上げた。
額縁を磨き終わったら終わったら次は何をしましょうか。そう質問しようとクインが口を開いたタイミングで、ノックもなしに玄関のドアが開く。
隙間から顔を覗かせたのは、『イザベラの兄の父の幼馴染の息子の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子の息子の娘さん』だという緑色の瞳の少女だった。
彼女は玄関ホール内を大きく見渡してから、エラとクインに向かってにっこりと笑いかける。そして、彼女はドアを大きく開け放ったまま、踵を返して走り去ってしまったのだ。まるでエラとクインに追いかけて来いとでもいうように。
「……え?」
クインは額縁を手に持ったまま思わず腰を浮かせた。
「ええー? 外は危ないですよっ」
階段をおりてきたエラが、雑巾を握りしめたままドアに駆け寄ってゆく。
「エラさん、外に出てはダメです!」
考えるより先に叫んでいた。そのまま外に飛び出そうとしていたエラは、クインの制止の声を聞いて、はっとした顔になり足を止めた。
屋敷の外には出ないこと。不測の事態が起こった場合は、自分で何とかしようとせずに、速やかにダニエルに伝えること。その二つだけは絶対に守ってほしいとトマスから強く言い聞かされている。
ドアの外には侵入者を撃退するための仕掛けが至る所に施されている。追いかけっこをするには危険すぎるのだ。
「どこにも姿がありません。ダニエルさん呼んできます!」
ドアの内部から外の様子を確認したエラは、そう言い残して走り去る。
――そうして、がらんとした玄関ホールにはクインが一人きりで取り残された。
食堂の方から声は聞こえてくるのだが、ここには誰もいない。
まるでインクの染みのように、不安が一気に心の中に広がってゆく。
『いい夢がみられただろう? そろそろ現実に戻る時間だ』
ノーヴェの声が、頭の中でぐるぐると回り始める。あのドアの向こうに誰か潜んでいるかもしれない。『グレイス』を連れ戻すために屋敷を訪れた誰かが。
一度そんな風に考えてしまったらもう、不安で怖くて、大きく開かれたままの玄関のドアから目が離せなくなってしまった。
従兄の幻がドアから顔を覗かせる。その姿が鞭を振り上げる奥様に変わり、さらにお嬢さまへと変化する。
『私なのよ。おまえじゃなくて私なの。エルナセッド子爵の一人娘は私! 私なのにっ』
怒りで目をぎらつかせながら、声の限りに叫ぶ少女の顔半分に今度は布がかかる。
『諦めなさい? 弁えて多くを望まず、旦那さまに感謝をしてひっそりと生きて行くといいわ。それがおまえが幸せになる唯一の方法なのよ?』
尊大な態度でそう告げる女性の背後では、ノーヴェがニヤニヤ笑っている。
『……へえ、そういう顔もできんだな』
全身が竦み上がる。想像しただけでうまく息が吸えなくなってしまう。
もし本当に彼らの内の誰かが、ドアの前に現れたのなら。何の抵抗もできないまま腕を掴まれ口をふさがれ、クインはあっという間に屋敷の外に連れ出されてしまうことだろう。悲鳴をあげることすらできないままに。
今、ここには誰もいない。誰もクインを助けてくれない。
こわい、こわい、こわい……
全身が冷え切って、恐怖で歯の根が合わない程の震えが止まらない。
手に持っていたはずの額縁が、派手な音を立てて床に倒れる。
クインは背中を丸めて、両手を祈りの形に組みながらぎゅうっと目を閉じた。
「半分正解。つまり半分不正解です。お姫様は絶対に一人になってはいけません。こんな風に簡単に攫われてしまいますから」
誰もいない筈の背後から、突然可愛らしい声が聞こえてきた。頭の上でばさりと大きな布がはためくような音がして、目の前が真っ暗になる。
暗闇の中でぐるっと世界が回った。袋詰めにされたクインを、誰かが軽々と抱き上げたのだ。助けを呼ばなければと思うのに、恐怖のあまり体は硬直してしまって、声は出ないし指一本動かせない。ああやっぱり、と、涙がぶわっと両目に溢れる。
「もう一度、誘拐された時点からやり直しましょうね」
布越しに聞こえてきた声は思いのほか優しかったため、少しだけクインは冷静さを取り戻した。
「愛らしいお姫様のために、もう少しまともな王子様を、こちらでご用意いたしました」
今日一日、飽きるほど耳にした『王子様』という言葉に、クインの心は猛反発した。
「間に合ってます。いらないです」
恐怖のあまりボロボロ涙を流しながらも、袋の中で必死に首を横に振る。
「色々見てから決めることも大切ですよ。年は離れていますけど、ちゃんと青い目をしていますから大丈夫です。しかも正真正銘本物の王子様です」
「必要ないです!」
泣きながら、クインは必死に声を絞り出した。
「では参りましょう」
しかし、当然ながらクインの意思が尊重されることはなく、袋詰めにされたまま担架のようなものに乗せられ運ばれ、最後もう一度持ち上げられて、椅子のようなものに座らされた。
袋には最初から穴が開いていたようで、両脇が下方向に引っ張られると、頭だけが袋の外に出る。
視界が明るくなると同時に、パタン……と、ドアが閉まる音が響いた。
どうやら馬車の中のような狭い空間に、クインは閉じ込められたようだった。
「大丈夫かな? 一人で座れる?」
正面から聞こえてきたのは、少し眠たそうな、こもったような声だった。
クインは一旦泣くのをやめて、ぱちぱちと目を瞬いて涙を散らす。
「久しぶりだね。元気そうで安心した」
そう言って柔和な表情でほほ笑んだ青年の顔には、見覚えがあった。
知っている人が目の前にいる。そう思った瞬間に気が緩んで、ぐにゃりと視界が歪む。手首に木製の手枷がはめられているから、彼は――クインを攫ってここに閉じ込めた側の人間ではないのだ。
「そうだよね。怖かったよね。ごめんね。今回はさらに強引だったよね」
優しく慰めの言葉をかけられた途端に、クインの中で抑えに抑え込まれていた感情が大爆発を起こした。
「……ふ、ふぇ……ふぇぇぇ……」
「…………うん。泣くよね、やっぱり」
泣きじゃくるクインを見て、困りきった顔でため息をついたその人は、『イザベラの兄の父の幼馴染の息子の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子の息子の娘さん』だという少女と、同じ瞳の色をしていた。




