幕間 その頃、伯爵家では…… その3
「あれ? 足りませんか?」
……ん? と眉根を寄せたメイジーは、頬に手をあてて深く考え込んでしまった。
「途中に息子がひとつ足りない?」
「あら?」
イザベラとダニエルは顔を見合わせると、それぞれが指を折りながら、「兄、父、幼馴染、叔母……」と声に出して確認し始める。三人は彼女が何を言ったのか理解しているようだ。
「あー幼馴染の後の息子が抜けてますね」
一番最初に正解にたどり着いたのはダニエルだった。メイジーとイザベラが「ああ!」と大きく頷く。
「わたくしの兄の父の幼馴染の息子の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子の……娘?」
「そこ、どうして普通に『わたくしの父の幼馴染の息子』じゃダメなんですか?」
ダニエルが尋ねた途端、イザベラの目が据わった。
「わたくしの『おとうさま』はライリーさまただ一人です! この先どんな苦難が待ち受けているとしても、ライリーさまを『おとうさま』と呼べるこの立場を他の誰にも譲るつもりはありません!」
気迫が陽炎となり、足元からゆらりゆらりと立ち昇る幻覚が見えるかのようだ。恐れをなしたジャックとエラがさりげなく後退る。
「……そうですね。色々ありましたもんね。兄の父でいいと思います」
ダニエルの笑顔の一言により、『兄の父』の採用は決まった。
「ということで、『わたくしの兄の父の幼馴染の息子の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子の息子の娘さん』これで大丈夫かしら?」
クインを除いた六人は思い思いの場所を見つめながら、眉間に皺を寄せてしばらく考え込んでいたが、やがて全員が納得したように頷いた。
「ではそういうことにしましょう。特定されるのは困るけれど、全部が嘘という訳にもいかないのよね……」
ほっとした顔でイザベラが最終決定を下し、それにより緑の瞳の少女は『イザベラの兄の父の幼馴染の息子の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子の息子の娘』ということになった。
――つまり、知人の娘さん。ということになるのだろうか。
彼女は異国の言葉でメイジーに話しかけていたけれど、こちらの会話内容はすべて理解している様子だった。つまり、この国の言葉を聞き取ることはできるけれど、話すことはできない。普通に考えればそういうことになる。
クインの視線に気付いた少女は、目を細めて思わせぶりに笑う。
その大人びた表情を目にした途端に、ぞくりと背筋が寒くなった。クインは握りしめた手を胸に押し当てる。
蔑むような眼差しと、含みのある嫌な笑い方、彼女はどことなく『お嬢さま』に似ていた。
心臓が嫌な感じで走り出した。強く握りしめた手の中に汗をかいている。
……どうしてだろう。怖い。足がガタガタと震えはじめてしまう。
頬に引かれた赤い線。蹴り飛ばされて転がったバケツ。床に広がってゆく水たまりにうつる人影。
「あんたたちも、いい夢がみられただろう? そろそろ現実に戻る時間だ」
夢の終わりを告げた声――
顔色を失ったクインを見て、緑の目の少女は非常に満足げな表情になる。
彼女はメイジーの手を離すと、何も言わずに踵を返して階段を駆けおりて行ってしまった、苦笑を浮かべながらメイジーがその後をゆっくりと追いかけてゆく。
「メイジー、クインの洋服を用意して、わたくしの部屋まで持ってきてくれるかしら」
イザベラに声をかけられたメイジーは、踊り場で一旦足を止め、体ごと振り返った。
「承知いたしました。……差し出がましいことを申しますが、キース坊ちゃんのことを皆様にお話されておいた方がいいのではありませんか」
「ああそうだったわね。やっぱりキースがいないと色々困ることが多いから、入れ替えようという話になりました。もう少ししたら戻って来られると思うわ」
「あ、キースさん帰ってきてくれるんですね、助かります!」
エラが無邪気に喜んでいる横で、ダニエルが露骨に警戒した顔になった。
「キースと入れ替えるって、誰をですか?」
しんっと廊下に沈黙が落ちる。イザベラは曖昧に笑って目を泳がせた。
「誰かしらねぇ。……クインと一緒に部屋に戻るわ。あ、エラさん、お水をもらってきてくれるかしら?」
「はい、すぐにお持ちします! メイジーさん待ってください、一緒に行きましょう!」
「……え、どうして誤魔化すんですか。一体いつ何処で誰と交換なんですかっ?」
「その内にわかるわ。……ジャックも自分の仕事に戻っていいわよ。優秀な執事さんへの伝言お願いね」
イザベラに答える気がないと察したダニエルは、沈痛な表情で肩を落とした。
「みぎ、ひだり、くるっと回って、みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、くるっと回る」
棚や暖炉、テーブルやタンスの上。置ける場所にはすべて花瓶が置かれている。たくさんの花で飾られたイザベラの私室はとても華やかだ。
「みぎ、ひだり、くるっと回って、みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、くるっと回る」
両手を持ってもらって、ゆっくりした動きに合わせて足を動かす。持ち上げられた右手の間を通り抜けるようにターンをして、再び向かい合い、右、左と簡単なステップを繰り返す。
体を動かしていると、余計な事を考えなくて済む。だから今は足を止めたくない。この時間がずっと続けばいいのにとさえ思う。
気持ちが不安定になっている。何か悪いことが起こる予感がする。
こうなってしまったのは間違いなく、使用人階段前で出会った緑色の瞳をした少女の影響だ。
直接危害を加えられた訳でも、暴言を吐かれたという訳でもない。ただ、笑い方が二度と会いたくない相手にそっくりだったという、それだけのこと。
本当にそれだけのことなのに、重しを抱えて底なし沼に沈んでいっているような気分を味わわされている。
持ち上げた腕の下をくぐる度、憎々し気に睨みつけてくる少女の面影が、脳裏にちらつくのだ。ずっと忘れたままでいたいのに。
「……はい、上手にできました。疲れてしまうといけないから、今日はここまでにしましょうか」
イザベラが足を止めてそう言った途端に、クインは思わず小さな子供のように「おかあさま、あともう一回だけ」と、離れてゆこうとする手を慌てて掴んで、小さな子供のようにねだってしまった。自分の声が耳に届いた瞬間、はっと我に返る。
「あ、あの……わ……わがままを言って、しまって……ごめ……」
反射的に口をついて出た言葉は途中で途切れる。イザベラがとても幸せそうな顔をしてクインを見つめていることに気付いたから。その表情を見ればイザベラが迷惑だと感じていないことは明らかだ。ならば、クインが今ここで謝罪の言葉を口にするのはおかしい。
もうずっと長い間、不幸せになることを周囲から強く望まれていた。だから、不幸そうな顔をする癖がついてしまっているのかもしれない。無意識の内に相手に阿ったり、卑屈な態度を取ってしまう。
自分を守るためにはどうしてもそうする必要があった。でも、今は違う。
求められてもいないのに過剰に気を使ってしまうのは、悪く思われたくないからだ。相手のためではなく全部自分のため……
「ボク、ちゃんと踊れるように、なりたいです」
「あら、クインはヒューゴと踊りたいのね?」
「…………へ?」
いたって軽い口調でイザベラにそう返されて、クインは上ずった声を出したきり、その場でかたまってしまう。急激に頬に熱が集まってくる。もやもやと考えていたことは、一瞬にしてどこかに飛んでいってしまった。
「心配しなくても大丈夫。もう何も怖いことは起こらないわ」
床に両ひざをついてクインと目の高さを合わせたイザベラは、両手を肩の高さまで持ち上げてにっこりと笑う。
「……クインの身には」
さりげなく付け加えられた一言に不穏なものを感じて、クインはびくっと肩を震わせた。何だろう、その言い方だと、クイン以外の誰かに何か怖いことが起こるように聞こえるのだが……
「……おかあ……さま?」
恐る恐る尋ねると、イザベラはとても素敵な笑顔で「大丈夫よ」と繰り返した。
「体を鍛えるより先に、他人にお世話してもらうことを至極当然と思い込んでいる、思い上がった態度を何とかしないといけないと思うの。いい機会だから、ちょーっと塩水で頭を冷やしてきてもらいましょうね」