幕間 その頃、伯爵家では…… その2
「おかあ……さ……ま?」
クインは呆然と目を見開く。廊下の突き当りで、ジャックと話し込んでいるのは、お城の舞踏会に参加しているはずのイザベラだった。
「え? まさか本当にお城の舞踏会明日だったとか……?」
「それはないよ。……でも、イブニングドレスを着ていらっしゃらないってことは、舞踏会には参加されなかったのかな……」
「いつ戻られたんでしょう。全然気付きませんでしたね」
「玄関ホールの掃除がまだ終わっていないから、使用人棟の方から入られたんだろうね」
ダニエルとエラも困惑しきっている様子だ。声が届いたのか、ジャックとイザベラは話を中断して、クインたちの方に体ごと向き直った。
「クインさま、失礼します」
一言断りを入れてからクインを抱き上げると、ダニエルは足早に二人のもとに向かう。その後をエラが小走りで追いかけてきていた。
「お出迎えありがとう。こちらはこちらで大変だったみたいね。戻ってきたら玄関ホールも大階段も水浸しでびっくりしたわ」
ゆっくり丁寧に床に降ろされたクインの目の前で、アフタヌーンドレスを着たイザベラが微笑んでいる。足あるから幽霊という訳でもなさそうだ。
どうしても信じ切れないクインは、見慣れたドレスのスカートに手を伸ばす。手触りがちゃんとあることにほっとしつつも、困り果てた顔でイザベラを見上げた。
「あの……お……かあさま……お……しろの、ぶとう、かい……」
「最低限やらなければならないことは片付けてきたから、後はトマスに任せておけば大丈夫よ。……一番つらい時にそばにいてあげられなくて、ごめんなさいね」
イザベラは大きく両手を広げて、ふわりと包み込むようにクインを抱きしめた。耳に届いた言葉の意味を理解するより先に、全身に震えがきた。せり上がってきた熱で喉が塞がれたようになってしまって、うまく声が出せなくなる。
「クインが無事で、本当によかったわ。怖い夢を見ないように、今夜は一緒のお部屋で寝ましょうね」
イザベラの声も少し震えている。そう気づいた時には、鼻の奥がつんとして、自然と涙が溢れだしていた。
「……っ」
口を開けば、『怖かった』『辛かった』そんな言葉ばかりがとめどなく溢れ出してしまいそうだ。熱の塊を必死に押し戻しながら、イザベラの背中に手をまわしてしがみつく。
ゆっくり深呼吸して、瞬きで涙を散らす。……これで、もう十分。もう大丈夫。そう自分に何度も何度も言い聞かせた。
――クインは、怪我もしていなければ、ひどい言葉をぶつけられた訳でもない。今改めて思い返しても本当に何もしていない。整えられた舞台の真ん中でただ座っていただけだ。
そもそも、ジョエルのことなど今の今まですっかり忘れ去っていた。……その後ヒューゴと色々あったせいで。
(ボクは『可哀想』なんかじゃない)
そっと体を離して、心配そうに自分を見下ろしているイザベラの顔を見つめる。
大切にされている。たくさんの愛を与えてもらっている。十分に心は満たされていたから、見てくれだけのまがい物に惑わされたりしなかった。ちゃんと幸せになる方を選べたのだと、クインは改めてそう確信する。
だから、わざわざ嫌な記憶を記憶の中から引っ張り出してきて、泣いて縋って同情を引くようなことは、絶対にしたくない!
――笑ってごらん。
穏やかな声が耳の中でそっと囁く。その声に導かれるようにしっかりと顔を上げる。
「おかあさま、おかえりなさい。ボク、ちゃんとお留守番、できましたよ!」
満面の笑みを浮かべながら誇らしげにそう言ったクインを見て、イザベラは胸を突かれたように息を飲む。唇を震わせて、何か言いかけてやめて、というのをしばらく繰り返した後、目の端に涙を浮かべて笑み崩れた。
「……よくがんばりました。……ふふふっ。水色のドレスがとても良く似合っているわ。お部屋でじっくり見せてくれる?」
「はい、おかあさま!」
ドレス姿を褒めてもらえたことが嬉しくて、嫌なことなど頭の中から一瞬にして吹き飛んでしまった。クインの明るく弾んだ声が、湿っぽかったその場の空気を一変させる。
「その感じだと、ヒューゴはちゃんと、クインに『似合ってる』って言えたのね?」
確信に満ちた声で尋ねられて、クインは一瞬にして真っ赤に染まった頬を両手で隠すと、小さく頷いた。
「たくさんわがままを言って、クインを困らせたでしょう、あの子」
クインはもう一度小さく頷く。
イザベラは何でもお見通しのようだ。据わった目をして大きく頷いているエラとダニエルに気付くと、少し考え込んだ後に、ふふっといたずらっぽく笑った。
「そうね……せっかくドレスを着ているのだから、着替える前に少しだけダンスの練習をしてみましょうか。クインはヒューゴと踊りたい? それともわたくしと踊ってくれる?」
「おかあさまと、踊りたい、です!」
クインはきらきらと目を輝かせて、もう一度ぎゅーっとイザベラにしがみついた。ヒューゴには申し訳ないが、クインはちいさな子供なので、まだまだ母親に甘えたいのだ。
「ということで、ジャック、この子はわたくしの部屋で預かるとヒューゴに伝えて……………欲しいと、後で優秀な執事さんにお願いしておいてくれる?」
イザベラは途中でジャックに頼むのを諦めた。指名された時点で顔を引きつらせていたジャックは、優秀な執事さんという言葉を聞いた途端に、露骨にほっとした顔になっていた。
「さりげなくも容赦なく引き離す辺りがさすがです。イザベラさま」
ダニエルがそう言った隣で、エラが祈りの形に両手を組んで尊敬の眼差しを向けている。
「やっぱりキースがいないと、色々困ることが多いわね。……クイン、どうしたの?」
片手を頬にあてて悩まし気にため息をついたイザベラは、もじもじしているクインに気付いて声をかけた。
「おかあさま、あの……えっと……ボク、寝る前に、ヒューゴさまに、おやすみなさいを言いに、行きたいです。…………お約束、しました」
それだけはちゃんとしておかないと、ヒューゴは朝まで眠らずにクインを待ち続けてしまうような気がする。弟が兄に就寝の挨拶をするというのは別におかしなことではないと思うのだけれど、言っているうちにどんどん恥ずかしくなって、クインはどきどきと早鐘を打ち始めた心臓をの辺りを両手で押さえた。どうしよう。やっぱりヒューゴの事を考えると心臓が飛び出しそうになってしまう。
「そう。なら向こうを呼びつけましょうね。入室は認められません。ジャック、それも優秀な執事さんにお願いしておいてくれる?」
「承知いたしました」
これで大丈夫、と、クインがほっと安堵の息をついた時だ。
――階下からとととっと軽やかに階段を駆けあがってくる足音が聞こえてきた。
踊り場に現れたのは、すとんとした白いワンピースを着た小柄な少女だった。彼女はそのまま勢いよく階段をのぼり切ると、体当たりをするようにイザベラの背中にしがみつく。そして、興味津々と言った感じでクインをじーっと観察しはじめた。
ふわふわと大きくカールした柔らかそうな茶色の髪。長い前髪に半分隠れてしまっているが、瞳の色は明るい緑色だ。今のクインと並ぶと同い年くらいに見えるだろうから……十二歳か十三歳くらいだろうか。
不躾な視線を向けられることに居心地の悪さを感じて、クインがうろうろと視線を彷徨わせていると、少女は突然踵を返して一気に階段を駆け下りていってしまう。一体何だったんだろうと、クインはパチパチと目を瞬いた。
「……え? ちょ、ちょーっと待ってください。頭の中を整理したいので、ちょっとだけ、時間を下さい」
狼狽しきったダニエルが、片手で顔を隠しながらそう言って、近くの壁に肘をついて額を押し付けた。相当混乱しているようだ。壁に向かって何やらぶつぶつ呟いている。
再び階段をのぼる足音が聞こえてくる。少女はメイジーと手を繋いで、今度はゆっくりとした足取りで二階に戻ってきた。
「メイジーさんのお孫さんでしたか。ジャックさんって、ご結婚されていらっしゃったんですね!」
エラが明るい声でそう言った途端に、焦ったようにジャックが首を横に振った。
「してません」
「…………え? 隠し子なんですか?」
「違います」
「……あ、なんかすみません」
がっくりと肩を落としたジャックは深く傷ついた様子だが、口元に手をあてて素直に謝ったエラに悪意は全くなさそうだった。もしかしたら彼女の中にはまだ少し暗示の影響が残っていて、気持ちが大きくなっているのかもしれなかった。……それか、本人が自己申告していたように、元々そういう性格なのかもしれない。
状況が混迷する兆しを見せる中、冷静さを取り戻したダニエルが、いかにも恐る恐るといった感じでイザベラを振り返った。
「えっと、ですね。そちらの大変可愛らしい、お……嬢さん……? は、一体どなた様……」
「わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子さんの息子さんの娘さん」
イザベラは一度もつかえることなく一息で言い切った後、満足そうに微笑んだ。練習を重ねてきた早口言葉を、無事この場で披露できた達成感を味わっているようにも見えた。
クインはぽかんとした顔でイザベラを見上げる。兄の父の幼馴染という辺りまでは理解できたが、その後がよくわからなかった……
「……すみません。イザベラさま、もう一度お願いします」
どうやらエラも最後まで聞き取れなかったようだ。今度は一言一句聞き漏らすまいと、クインはぐっと胸の前で両手を握りしめて意識を耳に集中させる。
「わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子さんの娘さん」
「さっきと違います」
すかさずダニエルがげんなりとした顔で指摘すると、イザベラが中空を見つめて口の中で何やら呟きながら、指を折り始めた。
「わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子さんの……息子さんの娘さん?」
「……結局、どっちなんですか?」
「わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子さんの息子さん、の、娘さんよ」
自分自身に言い聞かせるように、イザベラはもう一度繰り返した。
「いや、要するにそれって……」
「ダニエル、あのね、あくまで『わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の前の旦那さんとの間にできた息子さんのさらに息子さんの娘さん』なのよ」
「……『兄の父』って、イザベラ様って異父兄弟いらっしゃいましたっけ?」
「この世のどこかに一人くらいいるかもしれないわね」
「誤解を招きかねない表現だと思うのですが」
「母はそういう細かいことは全く気にしない人だったから大丈夫よ」
イザベラは昔を懐かしむよう顔をして、窓から見える星空を見上げた。
「……ご存命ですよね。どうなっても知りませんよ?」
ダニエルがイザベラとそんな会話を交わしている間もずっと、
「兄、父、幼馴染。叔母、の、前の旦那さん。兄、父。幼馴染。叔母、の、前の旦那さん……」
エラは壁を見つめながら繰り返している。
イザベラの兄というのは、ヒューゴの父親にあたる人なのだろうか。クインにはよくわからない。とりあえず『兄の父の幼馴染』の時点で、メイジーと手を繋いでいる少女はイザベラの血縁者ではないということになる。
「……あ!」
突然、わかった! というようにエラが、顔を輝かせた。
「イザベラさま、つまりそれって……」
「エラさん。『わたくしの兄の父の幼馴染の叔母の死別した旦那さんとの間にできた息子さんのさらに息子さんの娘さん』なの」
「……はいぃ」
イザベラの笑顔の圧に屈したエラが、コクコクと頷く。
メイジーと手を繋いでいる女の子に関して深く追求してはいけないということは、クインにも理解できた。
一言も発することなく様子を見ていた少女が、メイジーを見上げて何事かを告げる。
それは――この国の言葉ではなかった。
遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。