幕間 その頃、伯爵家では……
夜食を食べ終えた頃を見計らって、クインを迎えに来たのはエラとダニエルだった。
ベリーの甘い香りがするお茶が、エラの手によって小さなカップに丁寧に注がれてゆく。鮮やかな薔薇色のお茶だ。その色と香りがクインの気持ちをふわりと浮き立たせた。
三口ほどで飲み切れる量なので、ハンドルを指でつまんで持ち上げてもそこまで重たく感じない。
甘い香りと優しい酸味が、舌に残っていたクレソンの香りを全部きれいに消し去った。傍らでお茶を飲んでいるヒューゴが、ほっとしたような顔をしている。
「クインさま、お部屋に戻ってお休みになりますか?」
エラからそう問われ、カップを置いたクインはちいさく首を横に振った。泥だらけになった屋敷の様子がどうしても気にかかるし、ヒューゴに童話を読んでもらいながらうたた寝をしたため、今はあまり眠たくないのだ。
「あの……ボク、お掃除の……お手伝いをしたい、です」
自分の気持ちを言葉にして相手に伝えるのはまだ少し怖い。でも、今日一日ヒューゴに振り回され続けたクインは、自分の意思をしっかり持つことの大切さを痛感していた。
考え方や感じ方は人それぞれだから、感性が違えば受け取り方も変わる。伝えようと一生懸命努力しても、伝わらないこともある。それを今日一日実地で学んだ。
「承知いたしました。では、ドレスから着替えて、少しだけお手伝いしていただけますか?……どうしても気になっちゃいますよね!」
エラも自分と同じように感じているのだとわかってクインは嬉しくなる。その一方で、ヒューゴはクレソン入りのスープを口に入れた時のような渋い顔になっていた。
「なら、私もクインと一緒に掃除する」
「『慣れてない人に出てこられても邪魔なだけなので、来ないでください。明日に備えてさっさと寝てください』との伝言を預かっております」
食器をワゴンに乗せる手を止めて、ダニエルが笑顔でそう言った。それが誰からの言伝なのかは聞かなくてもわかった。
「後で明日王宮に持ってゆく分の書類をお持ちしますので、確認をお願いします。早急に片付けなければならないものは、終わらせてあるそうです。期限がまだ先のものは残ってるので、ご自分でやって下さい」
「なら、クインが戻ってくるのを仕事をしながら待っている」
……ん? と、クインとエラとダニエルは揃って首を傾げた。何やらまた聞き捨てならないことを、さらっとヒューゴが言った気がしたのだ。
「……クインさま、もうここには戻ってきませんからね? そのまま自室に戻られますので」
「ここで寝ればい……」
「いやダメでしょう普通に」
ダニエルがそこまで何とか保ち続けた笑顔をすっと消して、ヒューゴの言葉を途中で遮った。
「どうしてダメなんだ?」
ヒューゴは全く意味がわからないといった表情だ。しばしの沈黙の後、エラとダニエルがくるっとヒューゴに背を向けた。
「……え? 何? ダメな理由を一から説明しろってことなのかな。どうしてこっちが間違ってるみたいな感じにされてるんだろう?」
「普通にダメですよね。……え、私たちの感覚がおかしいんですか?」
二人は体を寄せて、ぼそぼそ小声で確認し合っている。毎回そうなのだが、ヒューゴがあまりに堂々としているので、あたかもそちらが正しいかのように錯覚してしまうのだ。
「寝付くまでベッドサイドで見守るくらいはいいだろう? 一人だと怖い夢を見るかもしれないし」
エラとダニエルは、「一体何言っているんだこの人」とでも言いたげな顔で振り返り……自分の要求が通ると信じて疑っていないヒューゴをまじまじと眺めた後、揃ってへらっと力なく作り笑いを浮かべた。
「リリアさまが同じお部屋で休まれるので大丈夫ですよー」
「そうですそうです。リリアさまがご一緒なのでご心配なくー」
もう相手をするのも面倒くさいという気持ちが、棒読み口調に表れていた。
「どうしてリリアはよくて私はダメなんだ?」
リリアという名前を聞いた途端にヒューゴは露骨に顔を顰める。
なぜそこまで彼がリリアと張り合おうとするのか、クインはどうしてもわからない。
確かに、リリアはヒューゴが部屋に入れないようにドアに鍵をかけたり、足先すれすれに火かき棒を落としたりという妨害工作を行った。クレソンを大量にサンドイッチに刻んで入れたり、緑色の夜食を用意するという嫌がらせもしていた。
「クインは隣の部屋のベッドを使えばいい。私はこっちの部屋のソファで寝る。部屋が別ならいいんだろう?」
――でも、今ならわかる。あれくらいしないと、ヒューゴは止められないのだと。
「全っ然話が通じない人っているんですねー」
「けっこういる。少なくとも身近にもう一人いる」
蓄積されていた疲労感が一気に襲い掛かってきたらしく、二人の声には全く力がなかった。
「もう私たちじゃ何ともならないんで、リリアさま呼んできましょう」
「余計にややこしくなるだけな気がするから、呼びたくない……」
声を落とす配慮をする気も失せたらしい。二人は完全に投げやりになっていた。
いろいろあって全員疲れ果てている。まだ掃除も終わっていないし余計な気力をここで使いたくないのだ。
「クインは私の弟ということになっているはずだ。だから何も問題ないはずだ!」
ヒューゴは突然立ち上がると、椅子に座っていたクインを抱き上げてぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめた。のろのろとクインは顔を上げて青い瞳を見上げる。
ヒューゴの中でクインの年齢と性別は、状況に応じて流動的に変化し続けるようだった。
「私はクインともう少し一緒にいたい」
ヒューゴは力強くそう宣言した。室内の空気が明らかに重くなった。
「……最初に宣言したもの勝ちみたいになってますけど、そんなルールないですよね?」
「あの自信がどこから湧いて出てくるのか、本当に謎」
「明日からあまり一緒にいられないから、今日はずっと一緒にいる!」
「……子供の言う台詞ですよね、あれ」
「昔、妹が同じこと言ってた。五歳くらいだったかな」
「えっと……ええと……」
じわじわと頬が熱を持ってゆく。クインはオロオロと視線を彷徨させた。どうしよう。ヒューゴの気持ちはとても嬉しい。嬉しいのだけれど……。
「……お掃除をしに、行きたいです」
今更なのだが、やはり眠りに落ちるまでずっと見守られるのは恥ずかしいため、できれば遠慮しておきたい。
「うん。クインがそうしたいなら、そうすればいい。私も一緒に行く。掃除くらい私だってできる」
――気付けば話は最初に戻っていた。
ある意味ヒューゴの主張は終始一貫していた。全く揺らぐことはなかった。
「え……ええっと……」
「慣れてない人に出てこられても邪魔なだけなので、来ないでください。明日に備えてさっさと寝てください」
エラとダニエルが声を揃えてそう言った。何を言っても無駄だとわかっていても、無茶な要求を阻止するための努力は一通りした。と、いう事実は必要なのだ。
この時点でクインは改めて気付いてしまった。
例えそれが相手を思いやっての行動だとしても、『考え方感じ方は人それぞれ』だから、色々間違ってしまうことだってあるだろう。
結局、それを許せるかどうかは――相手によるのだ。
正直言って、クインはヒューゴが何を考えているのか全くわからない。次に何を言い出すか予想もつかない。でもそれに驚きを感じながらも不快な気持ちにならないのは、彼がクインが『嫌だ』と言ったら、その言葉を受け止めて一度立ち止まってくれるから……なのだが、その後に提案される代替え案も、やはり『何かちがう……』というものが多い。
突飛な言動の数々を思い返しても、全く嫌な気分になることはないのだから――単純に、クインはヒューゴの事が好きなのだ。
わき上がった衝動のままに、小さな子供になったつもりでぎゅうっとクインはヒューゴの首にしがみついてみる。
このままでは延々とこの部屋から出してもらえない。だから、ヒューゴの先ほどの言葉を利用することにする。
「……え?」
驚いて固まったヒューゴの目をまっすぐに見つめて、クインは意を決して口を開いた。
「えっと、あの……、おそうじがおわったら……その……ボク、あの、だいすきなおにいさまに、お、おやすみさない、を、いいに……もどって、きます。……だか、ら……おきて、ボクのこと……まっていて、くれ……ます……か?」
心臓がどきどきと走り始める。頬に熱が集まってくる。きっと先ほどのハーブティーのように、クインの顔は真っ赤になっている。
自分で言うと決めた言葉なのに、いざ声に出してみたら恥ずかしくてたまらなくなってしまった。言い終えてから気付いたのだが、シーツに潜っていた時くらいに顔が近い。青い瞳の中に映る自分の姿がが見えるような距離だ。
……でも、ヒューゴがどんな表情をしているのかはっきりと見えなくて、かえって良かったのかもしれない。
クインはもうどうにでもなれとばかりに目を閉じて、もう一度ぎゅっとヒューゴの首にしがみついた。逆上せてしまった時のように頭がふわふわする。
「……と、いう訳で納得しました? 納得しましたね? かわいいご令弟様が就寝の挨拶にいらっしゃるまで、お仕事しといてください。……さ、クインさま行きましょう」
ヒューゴの腕からひったくるようにしてクインを受け取ると、ダニエルはそのまますたすたとドアに向かって歩き出した。同時に、背後でドサッと重いカバンが床に落ちたような音が……
「え? えええええー? ちょっとヒューゴさま、大丈夫ですか? 気を確かに持ってください。ここで座り込まないで。椅子、まず椅子に座りましょう? 椅子、椅子、椅子はこっちです」
エラの焦った声が室内に響き渡る。
ダニエルは小走りでクインを部屋の外に連れ出すと扉を閉めた。
「後はエラに任せておけば大丈夫ですよ。行きましょう。リリアさまがお待ちです」
「……はい」
廊下で床におろされたクインは、背後が気になりつつも、ゆっくりと歩き出す。ゴンッという音はしていなかったのできっと大丈夫なのだ。……ヒューゴには申し訳ないが、恥ずかしすぎて部屋には戻れない。
背後で扉が開いて、食器を乗せたワゴンを引いたエラだけが廊下に出てくる。
「ワゴンはこのまま廊下に置かせていただきます。クインさまのお着替えが終わってから回収しに参りますね」
彼女はしっかりと扉を閉めた後、廊下に置かれたままになっている古い家具の横にワゴンを並べた。
「お怪我などはされていませんでしたよー。いきなり床に座り込むから、びっくりしました! でもまぁ、気持ちはわからなくもないですねぇ。クインさま大変かわいかったですー。目の保養でしたぁ」
足取りも軽やかに二人に追い付いてきたエラは……にやにやしていた。一度引きかけた熱が再び頬に集まってくる。クインは両手を頬に当てて俯いた。どうしよう足が前に進まない。
「……あれくらいやらないと、離してもらえなかったと思いますよ」
ダニエルに慰められて、クインは泣きそうな顔で小さく頷く。そう言ってもらえるなら、がんばった甲斐があったというものだ。
「滅茶苦茶かわいかったですよぅ。クインさまの完全勝利ですよ。もうひと仕事がんばれそう! いいもの見させてもらえましたねー、ダニエルさん」
エラの声はウキウキと弾んでいた。今にも踊り出しそうなくらい楽しそうだった。
「完全……勝利……ですか?」
「そうです。クインさまの作戦勝ちです! これからもこの調子で、ヒューゴさまを手のひらの上でころころーころころー転がしていきましょう!」
ころころーころころーと歌うように言ったエラの明るい声が、クインの頭の中でぐるぐる回り始める。
「そうですね。クインさまがヒューゴさまを振り回す方が、平和だと思いますよ。……常識の範囲内なので」
ダニエルは床にしゃがんでクインと目を合わせると、背後を気にしながら、やっと聞き取れるくらいの小声でそう言った。
「だって、別におかしなことはしていないでしょう? ヒューゴさまの言うように、十歳の小さな子供なら……ね?」
「そうですよぅ。今日一日ヒューゴさまのわがままに振り回されっぱなしだったのですから、これくらいは『かわいい仕返し』です」
靴を投げつけた時にリリアが使っていた言葉を持ち出して、エラがいたずらっぽく笑う。
「かわいい……しかえし」
クインが口の中でつぶやく。心の中でその言葉を繰り返すうちに、いつしか、恥ずかしいという気持ちは消えて、自分の行動に対する自信が生まれていた。
「あ、でも、靴を投げるのはかわいい仕返しとは言えませんからね。クインさまは絶対にやらないでください」
ダニエルに念押しされたクインが、神妙な顔で頷いた時だ。
「――え? あれ? 大階段のところにいらっしゃるのって……ええ?」
何かを見つけたらしいエラが、突然素っ頓狂な声をあげた。