133 王子様たちの大迷走 その5
ヒューゴは無職になっても全く気にしない。と、いうより、貴族は有閑階級なので、働いてお金を稼ぐのは……実は本来あるべき姿ではない。
フェレンドルト家は、身も蓋もない言い方をしてしまうと……青い目の男の子さえ生まれてこれば上流階級に踏みとどまれる一族なのだ。ヒューゴが無職になっても何の影響もない。
ただ……そうなると、ヒューゴは日がな一日やることがない……というか、やれることが、ない。
何を口走るかわかったものではないから社交の場にも連れてゆけないし、政治を語らせれば他人の意見に耳を傾けず、声高に己の正義を振りかざして場をしらけさせるに決まっている。親しい友人なるものが……いるようにも思えない。ついでに女性恐怖症。
こんな面倒な人を、外に出せるわけがない。
無職となったヒューゴは、間違いなくガルトダット伯爵家の屋敷に居座り続ける。
そして、リリアとヒューゴの間で、クインを巡る争いが勃発する……
「断固阻止!」
兄の瞳に突如輝きが戻った。
「リリィ、キース。お兄さまがんばるよ。うちの平和を妨げるものは速やかに排除するから安心して」
あのダメな兄が……何もかも全部ルークに押し付けてサボろうとする兄が、今は非常に頼もしく見える。さりげなくヒューゴを排除するとか言っている気がするが、そこは気にしないことにする。
「犬は必ず僕が捕まえる。何が何でもハーヴェイ殿下には王様になってもらって、一生王宮でヒューゴの面倒みてもらう。飼い主には最後まで飼い犬の面倒をみる責任がある!」
リリィとキースはぼんやりとした瞳で意欲に燃えるトマスを見上げた。ここまでやる気を出している兄を見るのは何年振りだろうか。手が自由に動いたならば拍手を送っていたのに残念だ。……ヒューゴと犬が混ざっているような気がするが、声も出ないことだしわざわざ指摘する必要もないだろう。
「キース、安全な所で待っていて。必ず迎えに行くから。僕が必ずハーヴェイ殿下の野望を打ち砕く。そうしたら、結婚式を挙げようね!」
きらきらと輝く笑顔でトマスが言い切った途端――キースの目が死んだ。
どうやら兄はヒューゴを無職にしないために、第一王子の前に立ちはだかるつもりのようだ。……そして、本気で女装したキースをお嫁さんに仕立て上げるつもりだった。
「という訳で、まずは情報収集からなんだけど……ねぇ」
兄は未だ暗い目をしているアレンに視線を移すと、一気に間合いを詰めて心臓の位置にナイフの柄を押しあてた。
「一回死んだよ、アレン。隙だらけだ」
すうっとトマスが目を細めて好戦的に笑う。アレンは驚愕に見開かれた目を伏せ、悔しそうに唇を噛んだ。
「トマスさまもですけどね」
兄の首筋には鞘に入ったままの剣が押し付けられている。
「さぁ、どうだろうねー?」
トマスが思わせぶりにふっと笑ってからナイフを内ポケットに戻し、カラムも剣を戻した。すべてが一瞬の間の出来事だった。リリィは目の前で何が起きたのかよくわからないままだ。
「そんな訳でお互い一回死んだ身だから、生まれ変わったつもりでがんばればいいんじゃない? 間違いなくこれが最後のチャンスだ。ぐだぐだ悩んでいたって答えなんて出ないよ。欲しいと思うのなら手を伸ばしてみればいい。……そう簡単には渡さないけどね」
腰に手をあててアレンを挑発したかと思えば、すぐに普段通りの穏やかな表情に戻ってリリィとキースを振り返る。
「じゃ、お兄さま行ってくるからねー。ふたりともいい子にしてるんだよー。キース、あとで迎えに行くから! リリィは、ルーク以外にその『免罪符』を手渡せる人がいるのかどうか、よーく考えてごらん。……では、先生、二人をよろしくお願いしまーす」
そう言い残して、トマスは回廊とは逆方向に向かって走り出した。向かい側でキースが何やらもごもご叫んでいる。……残念ながらウエディングドレスを着たそうには見えなかった。
トマスが何故マティアスを「先生」と呼んだのかわからないリリィは、斜め前に座る帝国の皇子様に目で問いかける。
「私は、フランシスの伝手をたどって一時期この国に隠れ住んでいたことがあった。……あの三人には本当に手を焼かされた」
その言葉を素直にそのまま取れば、この国に隠れていたマティアスは、自らの身分を隠して寄宿学校で教師をしていたということになる。『あの三人』の残り二人は、トマスと同室だったヒューゴとニールのことだろう。マティアスはどこか懐かしそうに微笑んでいるから、思い出すのも嫌な過去の思い出という訳でもなさそうだ。
(そうなると、あの頃のお兄さまを知ってるってことよね……)
リリィは思わず遠い目になった。
誰しも、思い出した瞬間に恥ずかしさのあまりその場で膝から崩れ落ちたくなってしまうような、恥ずかしい記憶をひとつやふたつ持っている。トマスにとってそれは、寄宿学校で『調子に乗っていた自分』のはずだ。
ヒューゴのお供として無理やり寄宿学校に送り込まれた兄は、わかりやすく不満を表に出した。周囲の人間に対して大変反抗的な態度を取り、素行の悪いレナードの真似をするようになってしまったのだ。
一方ヒューゴは自分本位な言動で周囲に敵ばかり作っていた。兄は従兄を守るという大義名分を掲げて、難癖付けてくる相手に喧嘩を吹っかけて回っていたらしい。要するに、血の気に任せてやりたい放題やったのだ。その内にちょっとやりすぎて……停学処分になった。
寄宿学校生活ですっかり性格がひねくれてしまった兄は、強制的にオーガスタもとに送られた。
『あなたたちが悪い影響を与えたせいでトマスがこうなったのよね? どう責任を取るつもりなのかしら?』
夢にまで出てきそうな黒い笑顔でオーガスタはそう言い放ち、キリアルト兄弟及びルークは謎の連帯責任で罰を受けた。
――流氷の漂う海は冷たかったとロバートは言っていた。
極寒の海に放り込まれて頭が冷えたおかげかどうかはわからないが、兄の性格は数週間で矯正された。……ただ、一度ついてしまったサボり癖は治らなかった。
「ハーヴェイ殿下と犬のことは全部トマスさまにお任せしておけば大丈夫でしょう。持ち前の社交力を発揮して、第一王子を幽霊にすることなく片付けて下さいますよ。普段からもう少しやる気を出していただけるとこちらとしても助かるんですけどね」
リリィの兄は、逃げ足が速い上に、色々誤魔化すのが上手い。カラムが大丈夫だというのならば、きっとそうなのだ。しかし、第一王子を幽霊にすることなく、ルイーザ妃を粛清することなど果たしてできるものなのだろうか……
それぞれの利害と思惑が複雑に絡まり合って、足の引っ張り合いになっている。
そんな中、第三王子のはかりごとは、人数をちゃんと確認しなかったせいで失敗に終わった。そこは間違いない。
――そして、ここからまた何かが始まろうとしている。
マティアスとカラムは、その開始の合図を待っている。
今しっかりと胸に抱えている本。マティアスはこれが『免罪符』だとこの場の全員に宣言した。そして、この『免罪符』を誰になら渡せるのか考えておけと兄はリリィに言った。
今のところリリィはこの『免罪符』を絶対に手放す気はない。まだ読んでいないし、何よりこの本は借りたものだ。
リリィはマティアスを見上げて、『又貸しは絶対にダメですよね?』と唇で尋ねる。帝国の皇子様は教師としての顔で優しく微笑んだ。
「その質問にはあまり意味がない。免罪符が『借りた本』である意味はそこにあるのだから。……もう一人の姫君にとっての免罪符が別のものだったように」
そして、彼はリリィが理解しているのか確認するように。しっかりと目を合わせた。
――借りた本を誰かに貸す。或いは、紛失する。ずさんに管理して汚す、破損させる。
そういう事を、深く考えることなく簡単にやってしまえる人もいるだろう。でもリリィにはできない。
それはリリィの中では『『絶対してはいけない』ことだからだ。
そんなことで? と笑う人もいるかもしれない。でも、リリィの中では、それは『人の物を盗む』こと同等か、それ以上に重い罪なのだ。
「例えば、極寒の部屋の中にひとり取り残されて、もう燃やせるものがこの手の中の本しかないとなった時、鈴蘭の姫君は……それでも迷うだろう?」
そう問われて、青い瞳を見つめながらリリィはしっかりと頷く。
マティアスの言うように、リリィは迷いながら自問するだろう。この本より自分の命の方が果たして価値があるものなのか……と。例えバカバカしいと笑われても、簡単に割り切ることなどできない。
「その部屋に自分以外に誰かがいたとして、その誰かが無理やり本を奪い取って炎の中に投げ込んだとしたら……」
ただの例え話だとわかっているのに、リリィの眉間に深い皺が寄り、無意識に本を持つ手に力が籠った。
「それによって命が助かったとしても……鈴蘭の姫君は恐らく納得できないだろう。でも、その気持ちをそこにいる彼は理解できない」
視線をアレンに移動させた直後、マティアスの声が他の人に向けられていたものより冷ややかになったことにリリィは気付いた。必死に抑えようとしても抑えきれない嫌悪感が滲み出している。そんな風に感じられた。
「寄り添うことができない、というのが正しいのかもしれない。共感できない。と言い換えることもできるか。……そういう意味でも、免罪符は『本』でなければならなかった」
アレンにとって本の価値はリリィと同じではない。そういう意味でマティアスが言ったとも取れるのだが、何かもっと含みがあるような気もする。
(アレンお兄さま間違いなく嫌われてるわね。……何かやったのかしら?)
マティアスの怒りを買うような事をアレンがしたのだとしても、無自覚だった可能性が高いから厄介なのだ。ルークに聞けば大体のところはわかるのだろうが、今彼はここにいない。
「その本を何のためらいもなく手渡せる存在を、鈴蘭の姫君は、すぐに思い浮かべることができるだろう?」
その言葉を耳にした途端に……リリィはすっと胸が冷えるような感覚を味わった。びくっと怯えた目になったリリィに向かって、マティアスはちいさく頷く。
頭が一気に冷えて目の奥に鈍い痛みが生まれた。
失恋した日の気持ちが胸に戻ってきたようで息がうまくできない。だから、無理やり唇の両端を上に引き上げて、瞬きを繰り返す。
――それは違うと思うな。君は妹に譲ってあげたんだよね?
アーサーの言葉が耳に蘇ると、ますます胸が苦しくなった。
(そっか、ルークだったらわかってくれるって、何の疑いもなく信じられるんだわ……私)
リリィは目を伏せて苦く笑う。
今手の中にある本を、リリィはルークになら何のためらいもなく渡せる。それは、彼が丁寧に扱ってすぐに返してくれるとわかっているからだ。
この本を炎の中に放り込んだのがルークなら、もうそうするしかなかったのだとリリィは納得する。傷ついたりはしない。