129 王子様たちの大迷走 その1
リリィとキースから憐れみを込めた視線を向けられたトマスが、この場で一番不幸な人間だと決定された、まさにその時だった。
中庭に面した回廊を、数名の事務官たちが、何やら早口でまくしたてながら走り去っていった。
彼等の様子から何かを察したようで、マティアスが眉をひそめる。トマスとアレンも表情を引き締めて、回廊の方に体ごと向き直った。
リリィは、同じく全く状況を理解できていない様子のキースと目を合わせる。風に乗って音楽が流れてくるから、今も舞踏会は続いている。悲鳴や怒号も聞こえてこない。
だが、三人は何か緊急の事態が起こったのだと確信している様子だ。建物の中からの物音に意識を傾けている。
事務官たちの姿が見えなくなってすぐに、回廊の左手側からカラムが姿を現わした。軍服に目立つ汚れがいくつかあるが、怪我をしたような様子はないし、頭の上に鳥の糞も落ちてはいない。リリィはほっと安堵の息をついた。
一直線にこちらに向かって歩いてくるカラムは笑顔を浮かべていた。しかしよく見ると目は全く笑っていなかった。
「うわー。あれって予告もなく切りつけてくる時の顔だよね……」
「相当イライラされてますね……」
トマスとアレンがこそこそ話している声が耳に届く。
カラムは怒らせると笑いながら切り付けてくる人のようだ。きっと、場を弁えずにアーサーに抱き着いたとかう令嬢の額をサクッと切った時も笑顔だったに違いない。……猟犬も怖いがカラムも怖い。
「何事だ?」
馬車の近くまで来て深く一礼したカラムに、マティアスが誤魔化しは許さないというような威圧的な態度で尋ねる。流石の風格だなとリリィは圧倒されてしまった。帝国の皇子様もまた、ただ穏やかに笑っているだけの人ではないのだ。
「犬が人を噛んで逃げました。捕り物が終わるまで、しばらくこの場で待機をお願いします」
「……ああ、そういうことか」
マティアスは鷹揚に頷いていたのだが、リリィには意味が分からない。ルイーザ妃が廊下に放った猟犬に、誰かが噛まれて怪我をしたということなのだろうが……。
(でも、それだけではないわよね)
そんな単純な話ではなさそうだ。カラムの報告を聞いた途端にトマスとアレンがあからさまに顔色を変えたから。……二人には、何か思い当たることがあるのだ。
ちらっとキースの様子を窺うと、彼はリリィと同じく、どうしてトマスたちがそういう反応をしたのかわからないという顔をしている。視線に気付いたキースは「俺は何も知りませんよ」というように小さく首を横に振った。「私も何も知らない」と伝えるためにリリィも同じ動作を返しておく。
二人が揃ってトマスに顔を向けると、兄は困ったように笑って、夜空を仰いだ。
「……うん。リリィが犬に追いかけられなくてホントに良かったよ。名目上の飼い主サマの命令に従ったためしがないんだけどさ」
明らかに、話をすり替えて誤魔化そうとしている。
「犬があの方を主と認めていないだけで、非常によく訓練されていますよ。真っ先に私を狙いましたからね。アーサー殿下と私の匂いを覚えさせられているのでしょう」
リリィとキースが不満を顔に出すと、笑顔のままのカラムが非常に怖い事をさらりと言ってのけた。
……それで猟犬たちは、カラムに狙いを定めたのかとリリィは納得する。
「わざわざ犬連れで舞踏会にやって来る意味がわかんないよねぇ」
「王宮で暮していた頃も、常に犬を連れていましたよ。普段は狭い檻に閉じ込めておいて、自分勝手な都合で口輪をつけて連れ回すんです。犬たちは外に出られたことに興奮して、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ回っていました。そうやって、怯える人々を眺めて虚栄心を満たしてきた訳です。今となっては、もうそうすることでしか影響力を誇示できないという証明でしかないのですが。……『侘しい姿』とはよく言ったものだ」
カラムが一際低い声で付け加えた。抑えきれない怒りの感情が、言葉の端々から滲み出ていた。
(まさに恐怖政治……)
リリィの眉間に深い皺が寄る。
気に入らない者や邪魔な者たちを容赦なく排除し、ルイーザ妃は王宮で働く人々を恐怖で支配していたと、そういうことなのだ。
猟犬たちは、リリィを追いかけようとはしなかったが、それでも、「犬を放て!」という老女の叫び声を思い出すだけで背筋が寒くなる。
その声が日常的に響き渡っていた時代があったのだ。
王宮で働く者たちは、ルイーザ妃の不興を買わぬように、日々神経を尖らせていたに違いない。
そんな毎日を過ごしていれば、どんどん心はすり減り、感覚も麻痺してくる。誰かが襲われていても、ああ自分でなくて良かったというような……
リリィにも似たような経験があるから……何となく、わかる。
壁に叩きつけられる鞭の音が聞こえてくると、ああまたかと、ベッドに潜り込んでクッションで耳を押さえた。マーガレットはどこかに隠れる事ができただろうかと心配する気持ちは確かにあったけれど、自分を守るだけで精一杯だった。妹には大人がついているから絶対に大丈夫。無理矢理自分を納得させて、目を閉じて耳を塞いだ。
そうやって言い訳し続けることにも疲れてくると、心が凍り付いたように何も感じなくなった。
銀の髪の王子様が妹の前に現れるまで、リリィは本当にマーガレットのために何もできなかった。怯えて泣いている妹の近くに行ってあげないといけないと思うのに、どうしても行動に移すことができなかった。
――そんな自分が、嫌いだった。
当時の王宮で暮らしている人も、きっとリリィと同じだったのだ。
怯える事に疲れ果てていた。恐怖の日々はこの先も当たり前に続く。明日は今日の続きでしかなく、何も変わらない。
我慢するしかないのだと、何もかも諦めた。
物言わぬ影にでもなったようなつもりで、目をつけられないように息を殺して……
何を見ても、何を聞いても、もう心は何も感じない。
(例えば、小さな男の子がどれだけ酷い目にあっていたとしても……自分には関係ないと、見て見ぬふりをしてしまうような……)
「……リリィさま、泣かないで下さい。昔のことですから、もう忘れました。でも、ありがとうございます」
アレンに指摘されて初めて、リリィはアレンを見つめながら泣いていたことに気付いた。これではまるでアレンために泣いたようになっているが……実際は少し違う。これは、そんな綺麗な涙ではない。
「それより……暑くないですか?」
滲んだ視界の中で、アレンはとても感じよく笑って、リリィを気遣う。何だか少し嬉しそうな様子だ。
(……うん。これは間違いなく勘違いをしている)
リリィは気まずさを感じて、曖昧な笑顔を浮かべて目を逸らした。
訂正しようにも喋れないからどうしようもない。それに、リリィが涙を流すのを見て、アレンが少しでも救われたような気持ちになったのだとしたら……このままそっとしておいた方がいいのかもしれないとも思う。
真実を告げて落ち込まれると困る。この件に関してはこれ以上触れないでおこうとリリィは決めた。この世は思い込みと勘違いで回っているのだ。……たぶん。
(……確かに暑い。けど、綿入りの服を着ていた人はもっと暑かったわよね)
そんな事を考えて無理矢理気持ちを切り替えていると、とてもいい香りがするハンカチが頬にあてられた。大きな手がそっと押さえるように涙を布に吸わせてゆく。涙を拭いたハンカチはきれいに畳まれてリリィの膝の上に置かれた。
その瞬間に、嫌な思い出はきれいさっぱり頭の中から消え失せた。
――本物の王子様だ! 完全無欠の王子様は物語の中だけの存在ではなかったのだ!
リリィの頭の中は一面のお花畑になった。最大限の感謝を込めて、キラキラと輝く瞳で涙を拭いてくれたマティアスをじーっと見つめる。
「リリィさまっ」
咎めるような声でアレンが名前を呼んでくるが、今は、本物の王子様と出会えた喜びに打ち震えているので、邪魔をしないでもらいたい。
とりあえず、このハンカチは一生の宝物にする!
「そんな心配しなくても大丈夫だって、アレン。うちの妹たち、呆れるくらい一途だから。そう簡単に心変わりしません」
トマスが「あーもー、ほんとめんどくさいなー」などと呟いている。目の前ではブランケットでぐるぐる巻きのキースが目を閉じてうんうんと大きく頷いていた。
「私は個人的な趣味で出版社を経営していてね、これから人気の出そうな作家も何人か抱えている。私のおよめさんになって一緒に帝国に来れば、誰よりも早く新作を読むことができる。どうする?」
突然マティアスからそんな提案されたリリィは、目をパチパチさせた後、しっかりと首を横に振った。相手が本気で言っている訳ではないことはわかっているし、断ったからといって、突如態度を変えるような人ではないという確信もあった。
「私は、一顧だに値しないか」
そう言ってマティアスは楽し気に声をあげて笑う。やはり気を悪くしたような様子もない。
「少し出遅れた訳だ。ウォルターの妨害が功を奏したということか」
「まぁ……普通に考えて、勝負になりませんからねぇ」
カラムが遠い夜空を見つめながらそんな事を言っていた。