128 今夜はお城の舞踏会 その10
ビーアトリス妃が立ち上がるのに合わせてリリィも立ち上がる。
会場が大混乱に陥っている中、国王の挨拶が始まったのだ。壁際に控えていた事務官たちがあたふたと動き回っているから、場の雰囲気を整えるための急な変更のようだ。……今年のお城の舞踏会は、彼等の中で最悪の舞踏会として語り継がれてゆくことになるのかもしれない。
いきなり始まった君主の挨拶を無視する訳にもいかず、会場内の人間全員が姿勢を正して観覧席に注目する。要約すると、戦争のない平和な一年であることを願うというような内容だった。異様な空気をものともせず、穏やかな口調で挨拶を終えた国王にリリィは素直に尊敬の眼差しを向ける。
挨拶が終わると同時に割れんばかりの拍手が巻き起り、それで混乱は一旦おさまったように見えた。
今夜はお城の舞踏会なのだ。ダンスホールの片隅で美男美女の品評会が行われ、鳥が乱入して飛び回り、どこぞの令嬢が観覧席に突撃して拘束され、呪われた伯爵が奇行に走ったりしていたが、そんな些末なことにいつまでも気を取られていてはいけない。
……とはいえ、この場にいる各国の外交使節が自国にどのような報告をするのか非常に気になるところではある。果たしてこの国の威信は保たれるのであろうか。
(まぁ、悪い事は全部ガルトダットの呪いのせいにされるんでしょうけど……)
リリィは内心ため息をつく。こうなったのもトマスがキースに突然求婚したせいだ。リリィは兄のやらかした事に対する責任を取る必要がある……のかもしれない。そんなのばっかりだとうんざりしてくる。
鳴り止まない拍手の中、第三王子とサミュエルがゆったりとした足取りで階段をおりてゆく。
詰め物をされている第一王子と、瞼の上に絵が描かれている第四王子は観覧席に残っていた。……彼らは最初から踊る気などさらさらない。
この時を待っていたというように歓声が上がり、若い娘を連れた貴族たちが我先にと階段前に殺到する。ダンスホールにおりた背の低い第三王子とその護衛は……あっという間に埋もれて見えなくなった。
サミュエルもぎらついた目をした令嬢たちに取り囲まれている。彼はゴミを見るような冷ややかな目を彼女たちに向けているのだが、そんなもので怯む相手ではなかった。
――普通の令嬢というものは存外逞しいものなのだとリリィは学んだ。
彼はこれから獲物を見つけた肉食獣のような令嬢たちと順番に踊らなければならないのだ。兄の分まで……
サミュエルが大好きだという「ちいさくてまるくてかわいい」に該当するような女性は、とてもあの猛獣たちの中には入っていけないだろうな……と、リリィは思った。
「ハーヴェイ殿下が退出されますので、その後に続いて下さい」
カラムが少しだけ身を屈めてリリィの耳元で囁く。第一王子がクリストファーに支えられながら、よろよろとドアに向かって歩き出す。目立たず抜け出すなら今が絶好の機会だ。
リリィは踵を返したタイミングでちらりと第四王子の様子を確認する。エドワードは椅子に座り直し、心配でたまらないといった表情でサミュエルを見つめていた。
視線に気付いたエドワードは、胃の辺りをさすりながらも「心配しないで」というように儚く笑う。ちっとも大丈夫そうには見えなかった。王族というのは本当に大変なお仕事だ。
(やっぱり、運河流れる方が楽なのかも)
改めてそんな風に考えながら、第一王子の後に続いて廊下に出た途端――
リリィはいきなり横からドンっと突き飛ばされた。
(……え?)
肩を押したのは第一王子だ。大きくよろめいた体を受け止めたクリストファーは、リリィを自らの背中と壁の間に隠す。
第一王子は、廊下に出ようとしていたカラムの前に腕を突き出してその場に留まらせると、あちらを見ろと言うように小さく首を振った。視線を追って顔を横に向けたカラムは、見たことがないくらい険しい表情になる。
「今すぐに道を開けなさい。わたくしはこの国の王妃なのですよ」
リリィの耳に届いたのは、掠れ切ったしゃがれ声だった。声の主を確認しようとしたが、クリストファーが視界を塞ぐように立ちはだかっているため何も見えない。かろうじてちらっと見えたのは、純白のドレスと、骨と青白い血管が目立つ老いた腕だった。
スカートの裾と胸元にバラの花が飾られたドレスは、ユラルバルト伯爵家の舞踏会でリリアが着ていたものとよく似ていた。もしあの声の主がリリィの想像している通りの人であるのならば、彼女はとうに六十歳を超えている。デビュタントが着るようなドレスが似合っているとはとても思えない。……何故誰も止めなかったのだろうか。
(……あ、必死に止めてるわね、今)
道を開けろと彼女は騒いでいる様子なのだから、観覧席に入れないようこの場に引き留められているのだ。離宮に幽閉されているはずの妃が、デビュタント姿で乱入したりすれば、今夜の舞踏会は滅茶苦茶だ。場は凍り付き、国の威信は失墜する。鳥を飛び回らせたり、呪われた伯爵がいきなり求婚した程度のことで誤魔化せるようなものではない。
クリストファーが相手を刺激しないようにそろりそろりと横歩きし始める。それに合わせて、リリィが歩き出そうとしたその時だ。
「……不快な匂いがしますね。そこに……ガルトダット家の娘がいますね?」
それは、まさに童話に出てくる魔女のような禍々しい声だった。ほとんど目は見えていないとのことだが、気配でわかるというのだろうか。その言葉はまっすぐにリリィに向かって放たれていた。
「誤魔化しても無駄です。……悪しき魔女め!」
(いや絶対に魔女はそっち!)
反射的にリリィは心の中で強く言い返していた。……声が出なくて本当に良かった。
「逃げようとしても無駄です。そこにいるのはわかっている。誰か、誰でもいい。その忌まわしき魔女をこの場で断罪しなさい!」
興奮して声がどんどん大きくなり言葉が乱暴になってゆく。廊下にいる人間は誰一人として言葉を発しない。一方的にまくし立てる老いた女性の声に混ざって、獣の唸り声が聞こえてくる。カラムがクリストファーの前に立つと、威嚇する唸り声は一層激しくなった。
「何をしているのです。王妃であるこのわたくしの命令しているのだ。さっさと魔女を捕らえ……」
「お久しぶりですわね、ルイーザさま。随分と侘しいお姿におなりになって……ふふっ。おいたわしい」
笑い交じりの可愛らしい声が老女の声を遮る。リリィの勘違いでなければその声は天井裏から降ってきていた。おっとりした口調で挑発しているのは……間違いなくオーガスタだ。しかし姿は見えない。
ルイーザ妃の意識が逸れたのを見計らって、クリストファーがリリィを抱き上げて走り出す。
「待ちなさい! 犬を放て! 絶対に逃がしてはならん。忌まわしい魔女をこの場で必ず仕留めよ!」
(はぁ?)
リリィは思わず耳を疑った。自称王妃様は、気に入らない人間がいると王宮内で猟犬をけしかけるようだ。何その暴君! と、思わず心の中で叫ぶ。
鎖が床に落とされる音と共に、犬の唸り声が大きくなった。正直見たくもないのだが、クリストファーに運ばれているリリィには、彼の肩越しに背後の様子がしっかり見えてしまった。
猟犬たちはルイーザ妃の命令を完全に無視して、集団でカラムを取り囲んでいた。……あれは絶対に深い因縁があるとみた。
「騎士の皆様は手を出してはいけませんよ。面倒な事になりますから。生贄は一人で十分。残りの皆様は壁際までおさがり下さい……邪魔です」
再び天井から緊張感に欠けたオーガスタの声が降ってくる。
(いや……お姉さま、言い方がちょっと……)
リリィは思わず心のなかでそう返した。……この場に暴君はもう一人いた。
廊下に並んで壁を作ろうとしていた護衛騎士たちが道を開けると、ピィッという甲高い指笛の音が響き渡った。バサッという羽音がリリィの耳に届き、茶色い翼が視界を横切る。こんな狭い場所を猛禽類が飛んでゆく。しかも一羽だけではない。
リリィがその姿を追うように振り返ると、クリストファーが向かう先に異国人の男性がひとりで立っているのが見えた。鷹はまっすぐ真横に伸ばされた腕に舞い降りる。本当によく訓練されているなぁとリリィは感心してしまう。
今の所、猟犬が追いかけてくるような様子はない。リリィの心にはまだ余裕があった。カラムのことは……心配しなくても大丈夫だろう。ルークに「やりにくい」とまで言わしめた人物が、そう簡単にやられる訳がない。
異国人の男が大きく腕を振りかぶり鷹が飛び立つ。ダンスホールを鳥が飛び回っている時にも思ったのだが、鳥は何も気にせずそこら中に糞を落とす生き物のはずだ。大丈夫なのだろうか。
(精一杯おめかしして舞踏会にやって来たのに、頭の上に糞が落ちてきたとか悲しすぎるわね……)
被害はなかったのだろうか……ぼんやりとそんな事を考えながら、鷹の行方を目で追う。
犬は本能的に動くものを追いかける。飛び回る鳥のせいで猟犬たちは狙いを定められない。鷹たちは交互に急降下しては爪や嘴で猟犬たちに攻撃を加えている。
ここは王宮のはずだ。どうして犬が駆け回り鳥が飛び回っているのだろう。
……意味が分からない。
お城に連れて来られてこき使われ、人質だからもう帰れないと言われ、痺れ薬を飲まされた挙句人違いで襲われた。……ついでに、兄がキースに求婚した。
――そして今、リリィは猟犬から逃げている。
全くもって意味が分からない。
全部夢だと言われた方がまだ納得できる。
息を切らして走っていたクリストファーは、廊下を二回ほど曲がったところでリリィを床に下ろした。地に足が着いた、と思ったら、今度は頭から袋状のものを被せられて目の前が真っ暗になる。
(なんでー)
訳も分からないまま担架のようなものに乗せられ運ばれ、混乱している内に丁寧にどこかに下ろされた。
袋の両脇が下に向かって引っ張られると、最初から穴が開いていたようで、リリィの頭だけが袋の外に出る。
目の前には、ブランケットでぐるぐる巻きにされた上に布で口を塞がれた状態のキースがいた。……何だか既視感を覚える姿ではあった。
鬘を被ったままのキースは袋から頭だけ出ている状態のリリィを見て、非常に面倒くさそうにため息をついた。……その反応を見た途端に、リリィの心の中から恐怖はすっかり消え失せた。
――人間は、自分より不幸な人間を見ると安心する生き物なのだ。
改めて周囲を見渡す。中庭のような場所で、リリィとキースは屋根なしの馬車に乗せられていた。キースの隣では、見たことのない軍服を着たいかにも身分が高そうな男性が本を読んでいる。リリィの興味は瞬時にその本のタイトルに移った。帝国で人気のシリーズものの冒険小説だ。しかも……
(まさか、まだ世に出ていない最新刊?)
リリィは椅子から転がり落ちんばかりに前のめりになって、背表紙のタイトルを凝視する。視線に気付いた男性が本から顔を上げる。黒い髪に青い瞳をした大人の男性だ。年はロバートやウォルターと同じくらいだろうか。
「そんなに気になるなら、先に読むといい」
男はそう言いながら本を閉じると、表紙を上にしてリリィの膝の上に置いてくれる。
言葉は丁寧だし偉ぶる様子は全くない。読書を邪魔したのに嫌な顔をすることなく、まだ読んでいる途中なのにお先にどうぞと貸してくれる……
なんて素敵な人だろう! お城の舞踏会にはちゃんと本物の王子様が用意されていたのだ!
ぱああああっとリリィは顔を輝かせると、狭い袋の中でごそごそ手を動かして貸してもらった本をしっかりと自分の方へと引き寄せた。
「リリィさまっ」
今一番聞きたくない声に名前を呼ばれたので、いやいやリリィは後ろを振り返る。アレンがこちらに向かって駆け寄ってくるのが見える。その後ろにトマスの姿もあった。
「職権乱用で一足先に手に入れた新刊本を他にもいくつか持ってきている。だから私と一緒においで?」
斜め前方からそう声をかけられたリリィは、兄とアレンの存在をあっさり記憶から排除すると、声の主に向き直ってしっかりと頷いた。一瞬にして恋に落ちたかのように、頬は赤く染まり潤んだ目はキラキラと輝いていた。
「リリィさまっ」
アレンが非難の声をあげているが知った事ではない。もう何でもいいから早くこの本を読ませろ! リリィの頭の中にはもうそれしかなかった。
「……あー、これもうダメだね」
締まりのない顔で本の表紙をじぃぃぃぃっとひたすら見つめているリリィに向かって、トマスは諦めきった声でそう言った。彼は妹の性格をよくわかっていた。
「鈴蘭のお姫様とその従者を取り戻したければ、我々を追いかけてくるといい。『免罪符』は彼女が持っているその本だ」
「非常に楽しそうですね、マティアス殿下」
トマスの不躾な言葉にも気分を害する様子もなく、リリィの斜め前に座る男性は余裕ある表情でゆるく首を傾げて微笑んだ。
帝国の何番目かの皇子様がそんなような名前だった気がするが、今はどうでもいい。早く貸してもらった本が読みたい。新刊が発売されるのは三年振りなのだ。まだ馬車は動かないのなら少し読んでもいいだろうか。
「君の妹とは一度ゆっくり話がしてみたいと思っていた。ウォルターが本気で邪魔をしてくるから、今まで会えなかった」
「初耳ですね。……で、何故キースまで連れて行く必要が?」
「たまにはやる気を出せという伝言を預かっている。もし君が彼を奪い返せなかったら、フランシスが従者としてもらい受ける約束になっているそうだ。……がんばっておよめさんを取り戻すことだ」
「あーもう……」
兄は顔を両手で覆ってその場に崩れ落ちた。芋虫状態のキースとリリィは揃って兄に憐みの視線を向けた。
――不幸の押し付け合いはまだ続いていた。