127 約束された幸せ その3(*)
(*)やっぱり流血します……
――波の穏やかな夜だった。
水面を油膜で覆われた汚染された川には大小様々な古い船が放置状態でひしめいていた。その中のひとつである外輪船の甲板に据え付けられたベンチにフェリシティは座っている。川の両岸には廃材がうず高く積み上げられており、生ぬるい風が機械油の匂いを運んできていた。
ゴミの山を漁っている者たちが持つランタンの光があちらこちらで宝石のように輝いている。時折瞬いたり揺れたりする光の数をフェリシティはただぼんやりと眺めていた。
「行かなくていーのか? 時間になったら迎えに来いと命令されてるだろ?」
ノーヴェから問われたフェリシティは、瞬きを繰り返して現実に戻ってくると、膝の上に伏せておいていた銀の手鏡を手に取った。
「幽霊屋敷には行きたくないのよ。……それより、そろそろお客さんがいらっしゃる時間だわ。お出迎えしなくてはね」
気だるそうに鏡を覗き込んだフェリシティは、かつてのようにベールで顔を隠したりはしていない。鏡の中で微笑んでいるのは、茶色の髪と瞳を持つ野暮ったい田舎娘ではなかった。
日に日に瞳は緑色に近付いてゆく。髪の色もだんだん色が抜けて金色に近付いてきていた。
薄紅色のドレスも、首元を飾る煌びやかなダイヤモンドも、ありきたりな茶色の髪と瞳だった頃の自分には似合わなかった。艶やかなダークブロンドの髪とオリーブ色の瞳を、鏡で何度も何度も確認する。
今の自分は若かりし頃の母よりもずっとずっと美しい。菫色の目の従妹よりもはるかに美しい。まるで大輪のシャクヤクがゆっくりと開いてゆくかのように、日に日に美しさに磨きがかかる自分が愛おしくて仕方がない。こうして鏡を見ているだけで心が満たされてゆく。
だが、ここで満足していてはいけないのだ。今のままでは勝負にならない。欲しい物すべてを手に入れるためには、それ相応の準備というものが必要だ。
フェリシティは姿勢を正すと鏡を膝の上に戻す。そんな些細な動作ひとつ取っても優雅で美しくあらねばならない。かつての自分が手痛い敗北を喫したのは、知性や品格というものの重要性を理解しようとしていなかったからだと今ならわかる。
屈辱感に震えながら頭を垂れる者たちを見下すのは確かにとても気分がいい。
無知で幼稚で愚かで憐れな小娘は、その一時の優越感のみを貪欲に求めるあまりに自滅した。
――人々が内面に積み上げてきたものは決して奪い取ることなどできない。
そんな簡単なことが、他人から奪う事しか教えられてこなかった空っぽの娘には理解できていなかったのだ。
傍らに立っているノーヴェを見上げると、クラヴァットで首元を締め付けられるのが気になるのか、しきりに襟の合わせ目に指を差し込んでいる。
「よく似合っているわよ?」
一昔前の宮廷服のような華美な装飾が施された衣装だ。同じ服を着たウノは、フェリシティとノーヴェから少し離れた場所に立っている。青い瞳の花嫁を呪われた伯爵家まで迎えに行ったジョエルは、ノーヴェとウノにその衣装を着て迎えにくるようにと命じていた。
「せっかくなら鬘も用意すればよかったのに」
絵本の中に登場する従僕が被るような、真っ白いカールの鬘。それを被った二人の姿を想像した途端に爆発的な笑いが込み上げた。フェリシティは手鏡を押さえながら身をのけ反らせるようにして笑う。必要のない物を全部燃やし尽くしたあの日から、心の中はずっと晴れやかだ。毎日が楽しくて仕方がない。
「命令に従わないと、失敗作として売り飛ばされるぜ?」
「どうしてわたくしが誰かの命令に従わなくてはならないのかしら? わたくしはわたくしの好きなように生きる、それだけよ。何か文句があって?」
フェリシティは笑い続けながら、高らかにそう宣言する。
ノーヴェから視線を移すと、目が合った途端にウノは大袈裟な程体を震わせた。ユラルバルト伯爵家の地下室に火を放ったあの日から、彼は必要以上にフェリシティを恐れ敬うようになっている……
「ウノ、青い瞳のお姫様に会いに行きたければ、どうぞあなた一人でお行きなさいな。あの綺麗な顔を滅茶苦茶にしてやりたくて仕方がないんでしょう?」
愛想笑いを浮かべながら、こちらの顔色を窺う卑屈さが気に入らないと思っていたから丁度いい。質の悪い使用人は必要ないのだ。連れ歩けばこちらの品位が下がってしまう。
露骨にほっとした顔をしたウノが、雑に一礼して踵を返すと片足を少し引きずるようにしながら足早に去ってゆく。タラップをおりてゆく音が聞こえなくなるのを確認してからノーヴェが呆れ果てたというようにため息をついた。
「逃げる口実与えてどうすんだよ」
「あら、あなたは逃げると決めつけるのね」
「今のあいつに幽霊屋敷に乗り込む根性なんてねーよ。シンクに泣きついて養ってもらうつもりなんじゃねーの?」
「役立たずの駄犬はいらないわ。わたくしに必要なのは忠実な下僕だけよ。いつも言っているでしょう?」
飢えを知らない閉じた世界で飼いならされていた犬が、外の世界で生きて行けるとも思えない。祈るだけでお腹がいっぱいになる訳でもなし。
「追いかけたいなら行ってもいいわよ、ノーヴェ。あの綺麗なお人形さんのこと結構気に入っていたわよねぇ。わたくしを突き飛ばしてまで顔から足を退かせる程度には。……このままだとあの綺麗な顔がウノに傷だらけにされてしまうわよ?」
フェリシティはいたずらっぽく瞳を輝かせてノーヴェを見上げる。
「商品の顔に傷をつけられる訳にはいかなかったからな」
「他の商品に対してそんな気遣いを見せたことなど一度もなかったわ。……案外本気だったのかしら?」
「さぁ、どうだろうな? ……お喋りはここまでだ。お客様がご到着されたようだぜ?」
タラップをあがってくる足音に気付いて、二人は口を噤む。
甲板に現れたのはお揃いの黒いジャケットを着た男達だった。いかにも無頼漢いった雰囲気ではないにも関わらず。船着き場をうろついているような三下とは明らかに目の鋭さが違う。フェリシティはベンチから立ち上がると、彼等の向かってゆっくりと丁寧にお辞儀をしてみせた。
「積み荷はすでに確認済みだ。すべてこちらに引き渡すと? それでそちらの要求は?」
疑り深い目でこちらを睨みつけながら、先頭に立つ初老の男が低い声でフェリシティに尋ねた。
「時間がないから腹の探り合いは遠慮したいの。わたくしたちにはもう必要がないけれど捨て方がわからない、ただそれだけ。わたくしたちが持っている聖眼教会の遺産はこれで全部よ。確認が終わったならもう行ってもいいかしら」
「帝国に目をつけられた荷物を押し付けられても困るのだがな」
「だからわたくしたちも持て余しているのだと言ったでしょう? 全部運河に投げ捨てても良かったのだけど、縄張りを荒らしたお詫びくらいにはなるかもしれないと思って声をかけさせてもらっただけ」
フェリシティは右端に立つ帽子を目深に被った男に向かって艶やかに笑う。
「まさか船着き場をうろついている男に声をかけただけで、幹部の方に御足労頂けるとは思ってなかったけれど」
その言い方が気に入らなかったらしく男たちが一気に殺気立つ。だがフェリシティが声をかけた男は「やめておけ。呪われるぞ」と喉の奥で笑って、帽子を上げた。綺麗な琥珀色の瞳が現れる。船着き場で会う以前にもどこかで見かけた事がある色だ。だが、記憶が中途半端に混ざり合っているためはっきりとは思い出せない。
「俺が何者かわかっていて狙って声をかけたくせによく言う。……あんたは『何』だ?」
「あまりに昔すぎてもう忘れてしまったわ」
「できれば、血を流さないものとは関わり合いたくないんだがな」
「ここは呪いと幽霊の国よ。夜の世界で生きようとするのなら避けては通れないのではなくて?」
立ち上がったフェリシティは男たちに向かって歩き出した。その少し後にノーヴェが続く。琥珀色の目をした男以外の全員が警戒心を露わにするのが面白くて声をあげて笑ってしまいそうになる。こちらは小娘と下僕ひとりだ。そこまでピリピリする必要もなかろうに。
「一応忠告しておいてやるが、その『呪い』は致死量の毒だ。碌な死に方はできないぞ」
すれ違いざま、男は琥珀色の瞳を眇めて軽い口調でそう言った。
「あら随分ね。わたくしはかわいそうな境遇の心優しく健気な娘が、王子様と結婚して幸せになれるように、一生懸命お手伝いしてあげているだけなのに」
護衛たちが威圧するように睨みつけてくるが、いちいち気にしない。一挙一動見逃すまいとする視線の中を堂々と歩き続ける。
「ではごきげんよう」
ゆっくりと振り返った瞬間、バンっという鼓膜が破れそうな凄まじい音と悲鳴が響き渡った。ゴミの山の上で揺れていた火が一斉に遠ざかってゆく。ゴミ漁りをしていた者たちが厄介ごとの気配を察して逃げ出したのだ。
「やめておけと言ったはずだがな」
火薬と血の匂いが混ざり合う中で、琥珀色の目をした男は、ピストルの暴発で自らの足を撃ち抜いてしまった若い手下を見下ろし冷たく告げた。
「他の皆様にお怪我はございませんこと? 王都内への銃火器の持ち込みは禁じられておりますわよ? 『静けさを好む幽霊』による暴発事故が後を絶ちませんもの。……これに懲りたら、血を流さないものを相手にするときは十分ご注意なさいませ」
機嫌良く歌い上げるようにそれだけ言うと、フェリシティはノーヴェに手を差し出し、もう片方の手でドレスのスカートを持ち上げてから錆びたタラップをゆっくりとおりてゆく。
地面に降り立ってもまだ揺れているような感覚が残っていた。
突如響き渡った銃声と悲鳴に恐れをなして皆逃げ帰ったらしく、辺りは静まり返っている。これなら追いはぎに警戒する必要もなさそうだ。ドレスの裾が汚れるのにも頓着せずに、月明かりに照らされた荒れた道をノーヴェと二人で歩く。この先にある廃屋に馬車が隠してある。……もしウノが馬車を奪って逃げてしまったのなら、王都の中心部まで歩いて戻らないといけないのだが。
「ねぇ……本当は、隙を見て何もかもすべてジョエルから掠め取るつもりだったでしょう? わかっているのよ?」
フェリシティは声を潜めてノーヴェの耳元で囁く。甘く媚びる声の響きに自分自身で満足していると。肯定も否定もしないまま褐色の肌の男は喉の奥で笑った。
「世間知らずのお嬢さまが一晩で化けたもんだな」
「あら、こんなわたくしはお気に召さない? それとも怒っているのかしら? 勝手に何もかも全部取引材料にしてしまったこと」
「帝国も本格的に動きはじめたし丁度潮時だったんじゃねーの? 縄張りを荒らされた奴らの報復を恐れてビクビクしてるよりゃずっとマシだ。あんたにしてやられたと気付いて悔しがるジョエルの姿を見られないことだけが残念だがな」
「ふふっ、青い目のお人形さんより、わたくしの方がよっぽどいい女でしょう? だから私に従いなさい? 必ずあなたを幸せにしてあげる」
「あんたが欲しいのは俺の持つ技術だけだろう?」
そっけなく返した男のクラヴァットと掴んで引き寄せると、フェリシティは相手の目をまっすぐに覗き込んで微笑んだ。
「そうね。あなたがやり方を覚えたのなら、もうあの男はいらない」
目ざとく用心深かった『神様』と違って、王族として大した苦労も知らずに今日まで生きてきたジョエルは、自分が周囲の者たちより遥かに秀でた人間だと信じ込まされていた。
幼い頃から今日まで耳障りのいい言葉だけを与えられ続けたために、彼の自己評価は異常に高い。それはつまり、自分を取り巻く人々を正当に評価できず見くびっているということでもあった。
理想の姿をした青い目のお人形を見つけ出したジョエルは、彼女を自分好みの完璧な『クラーラ』に仕上げることに夢中になった。やがて、グレイス以外の人形にかける時間と手間を惜しむようになったジョエルは、フェリシティを含めた他の人形たちの管理を徐々にノーヴェに任せるようになる。
投薬及び睡眠暗示の重ねがけがノーヴェに任された辺りから『失敗作』が増えたのだが、ジョエルは、『人形』が売れて金が入ってくるならそれでよしと考えているようだった。悪意を刷り込むことができなかった『失敗作』であったとしても、『商品』として売り出すには何ら問題がなかったからだ。若くて従順で自分の元から逃げ出さなければそれで充分だと顧客たちは考えていた。
結局――ジョエルは他者を侮りすぎていたのだ。神様から引き継いだ知識や理論は、特別に選ばれた優秀な自分以外には理解できないし習得することも不可能なものなのだと固く信じ込んでいた。
ノーヴェは抜け目ない男だ。彼はずっと物陰に潜んで盗み見ていた。ジョエルが娘たちをチェスの駒に変えてゆくその工程を。
「青い目の王子様よりも水色の目の王子様よりも、ずっとずっとあなたの方がいい男よ。わたくしはあなたが欲しい」
瞳を潤ませて、フェリシティは艶やかな声にさらに熱を込めた。
「あなたとなら一緒に地獄に落ちてもわたくしは構わな……」
囁く声が途中で遮られる。唇が離れてからノーヴェはにやっといつものように嫌味っぽく笑った。
「この先あんたは、何人の男に同じ台詞を吐くんだろうな」
「わたくしにとってはあなたが一番よ 信じてくれなくてもいいけれど」
「忠実な下僕としてだろう?」
「あら、よくわかっているじゃない」
くすくすと楽し気に笑うフェリシティを見つめながら、彼は、やれやれと肩をすくめてみせた。どうやら一緒に地獄に堕ちてくれる覚悟はできているらしい。
「……で、あんたがあんなに拘ってた水色の瞳の王子様はどうすんだよ?」
「きれいなお人形さんを集める前に、まずはお人形さんを入れる新しいガラスケースから用意しないといけないわね」
フェリシティは思わせぶりにふふっと笑ってから星空に向かって大きく手を伸ばす。
――さぁ、仕切り直しだ。
法廷弁護士であるバートン卿は、仕事を終えて帰宅する途中、道路の脇で蹲って泣いている若い貴族令嬢に遭遇した。
勿論最初にその令嬢の存在に気付いたのは御者だった。
馬車を道の脇に停め、まず御者が彼女の様子を見に行った。バートン卿が馬車の中で待っていると、しばらくしてから戻って来た御者は、令嬢は余程怖い目に遭ったのか怯えて泣くばかりで会話にならないのだと説明した。
「ご令嬢が着ているドレスも身に着けている宝石もかなりの高級品のように見えます。今夜は王宮の舞踏会がありますから、それに向かう途中で何らかの事件か事故に巻き込まれたのかもしれません。どうなさいますか?」
窓のカーテンを捲って外の様子を確認する。ドレス姿の若い女性が、街灯の台座に凭れかかるようにして座っているのが見えた。
「そうだね、とりあえず、話を聞いてみようか」
御者がドアを開けて、バートン卿が馬車の中から姿を現わすと、令嬢はびくうっと体を震わせてからいかにも恐る恐るといった感じで顔を上げた。そして、糸が切れた操り人形のように地面に倒れ伏してしまった。
御者が慌てて駆け寄り肩を揺すってみるが、女性はすっかり気を失っておりしばらく目覚めそうにない
これは困ったことになったと、バートン卿は思わず夜空を仰いだ。
街灯の灯りの下で改めてよく見てみれば、彼女の身に着けているドレスも宝石も確かに一級品だった。御者の言う通り、どこかの貴族の娘が事件か事故に巻き込まれたのかもしれない。
悩んだ末に、バートン卿は、この憐れな令嬢を馬車に乗せて屋敷に連れ帰ることにした。詐欺師や犯罪者だという可能性が絶対ないとも言い切れないが……夜道に女性をひとりで放置して帰る訳にもいかなかったのだ。
明日彼女が目を覚ましたら事情を聞いて、屋敷まで送り届けよう。
それほど面倒な事にはならないだろうと、バートン卿は比較的事態を楽観視していたのだ。……この時までは。
「あの……わたくしはいったい誰なのでしょうか? わたくし、自分のことを何も……何も思い出せないのです」
翌朝目を覚ました彼女は、事件か事故に巻き込まれたショックからか、すべての記憶を失っていた。